神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 2-14

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 その年の初夏は例年より暑さが影を潜め、風にざわめく青い木々の葉の音もどことなく春の涼しさを思い起こさせた。大型連休二日目、零は朝食を終えると大欠伸で湖のほとりへ向かって歩いていった。ふと自分が歩いてきた方向を振り返る。先まで零は、現日本国首相が所有する別荘の一つにて、緊張でカチコチになりながら朝食をとっていた。

「母さん。」

 控えめにフリルのあしらわれた小さなベージュの日傘には、写実的な蝶や蜂が鮮やかに描かれている。振り返った継子の肩越しには、まだ波立っていない美しい鏡面の湖が夏の晴天を映し出している。

「紅茶は飲み終わった?」

「はい。」

 夏が始まったとはいえ、軽井沢ともなると朝は半袖では少し肌寒い気がした。紺色のサマージャケットを羽織っていた零は、湖をぐるりと散歩しようとした母と肩を並べる。

「初めての学校はどうだい?」

「楽しいですよ、それなりに。」

 塩沢湖には既にヨットが浮かんでいた。富裕層の嗜みスポーツである。

「ついこの間はカリグラフィーを習ってきました。」

 筆を持つ手の形で、宙に流れるようになにかを書く仕草をする。

「模様も書けるんだってねぇ。上手く書けたかい?」

「まあ書道よりは。」

 何気ない親子の会話だった。こうして母親と話すのは一体いつぶりだろう、と零は目を細める。刹那、背中に重い衝動と重量がのしかかってきた。

「零ーっ!」

「待っちょ、落ち――」

 膝丈のフレアスカートが見えたと思えば、零の体が鏡を波立たせた。うつ伏せで頭から塩沢湖の淡水をかぶる。

「……置いていく貴方が悪いのよ。」

「それはもうちょっとシリアスな場面で聞きたい。」

 背中から降りる理恵へ、小蝿でも払うかのように手を動かし零は、まあまあ、とあまり感情のこもっていない焦りの声をあげる継子の手を借りて立ち上がる。

(干そう……。)

 水を吸って海藻のようにすっかり重くなった髪の毛を上げて、零はびしょ濡れになった紺色のジャケットを伸ばした。

「着替え手伝うわ。」

「そうしてくれると嬉しい……。」

 日傘を閉じて、継子は零の濡れた顔を拭う。

「お母様も来ますか?」

「いえいえ。理恵ちゃんがいるなら大丈夫だろうから、私はもう少し散歩していくよ。」

 邪魔しては悪い、とばかりに、継子は手を降ってそのまま浅葱色の太鼓結びの帯を見せて歩いていってしまった。



 理恵が来た最たる理由は、彼女も零について軽井沢に行きたがったから。第二の理由は、彼の護衛であった。

「なんか勘違いしてねえか母さん。」

 そして表向きの理由が、零のフィアンセだから、であった。

「さあ、してないと思うわよ。」

 薄手のカーディガンの下でサーモンピンクのシフォン生地が揺れる。赤いエナメルのパンプスで芝生をかき分けながら、理恵は悠樹家が借りた別荘まで零を連れていく。坂を登りつつ、零は上のジャケットを脱いだ。下に来ていた半袖の黒いシャツもすっかり濡れて肌にくっついてくる。

「ここから別荘までは少し遠くないか……?」

「あら、じゃああそこの客間借りる?」

 示されたのは湖のすぐ近くに建つ角燈館という洋館であった。せめて史興の車で、と理恵の言葉に眉を寄せる。零が手を出すと、理恵もポーチに入れていた携帯電話を取り出した。あまり人目につかないように、と近くの雑木林へ道を外れた瞬間。

「零君?」

 零が携帯電話を操作していた手を、理恵は慌てもせずに握って隠した。名前を呼ばれて、零は顔を上げた。金糸の混じった白銀の髪が、朝のそよ風になびく。

「……綾子先輩?」

「知り合い?」

 入学式以来、何度か綾子に会ったが、それは基本登下校時や学内であってこのような私的な場所で会うのは初めてだった。確か最後に会ったのは上期の期末試験の下校時だった。

「あぁ、同じ学校の。」

 紹介されると、綾子は二人に歩み寄ってくる。理恵は隠したまま零から携帯を受け取って素早く袖下に隠す。

「初めまして、東條綾子です。」

 差し出された手を一瞥して、理恵も微笑む。

「初めまして、零の婚約者の早乙女理恵です。」

(またそうやってプライド高そうな苗字を選ぶ……。)

 握手を交わす女性二人に若干胃をキリキリさせながら、零は湖を振り返った。継子の姿はもう見えない。

「ところで、どうしてそんなびしょ濡れに……?」

 黒いシャツが張り付いているのに気付き、綾子は零の乾き始めた髪に触れる。

「さっき足が滑って湖に落ちたんですよ~。風邪ひいてしまうんで一旦別荘に帰ろうかと思いまして。」

 張り合うように腕に絡みついてくる理恵に死んだ目になりながら、零は先程行こうとした雑木林を見つめる。綾子は零が来た湖から少しずれた方向を指差す。

「あの、もしよろしければ私の借りている別荘を使いますか? 兄は今外出中ですので、客間も空いてますし。理恵さんもご一緒に。」

 零と理恵は顔を見合わせた。



 綾子についていくと、まさに理恵が指差した洋館、角燈館が目の前に現れた。赤く落ち着いた煉瓦造りの洋館は、基本大人数用に貸し出されるものだが、話によると綾子は兄と二人きりでこの別荘を借りているようだった。

(一体どこの令嬢よ……!)

(さぁ……。)

 一瞬足を止めて洋館を上から下、右から左まで眺め回すと、二人は鍵を開ける綾子の元へ早足で歩いていく。そんな疑問を掘り起こす二人とて、現在借りている別荘は旧軽井沢にある由緒正しい洋館である。多くの国内海外含めて、多くの政府要人や著名人が使って来た建築物が並んでおり、軽井沢駅にもアクセスしやすい場所だった。

「さあどうぞ。バスタオルを持ってきますから、少し待ってて下さいね。」

 開けたままの扉を受け渡され、零は玄関に入って扉を閉じる。がっしりと抱えられて離さない腕を振ると、理恵はしぶしぶと腕を解いた。シャツの袖がいやに生温い。綾子がバスルームに向かったのを見届けて、零はシャツの襟を緩める。

「まさかこんなところで会えるとは思ってませんでした。零君はどうしてここに?」

「父の付き合いで……。綾子先輩こそ、ここ一つ貸し切るって結構しますよね?」

 ふかふかのバスタオルを受け取って、零首を拭う。

「えぇまあ、私も兄の付き合いで来ただけなんです……けど。お洋服、どうしましょうか?」

 流石に親しくない女子の前でやさい体を晒け出すのも気が引けるらしく、零はワイシャツのボタンに指をかけたまま止まっている。

「えっと……電話貸して貰えますか?」
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