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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)
Verse 4-1
年の瀬を越して三ヶ日を終えた数日後。日本のとある大学病院で、アルフレッドの一仕事が終わりを告げようとしていた。
(えーっと、男の子で……名前は零で……。体重が……。)
雪が降る事もなく例年にしては少し暖かい正月後の冬の日であった。カルテと走り書きの報告書を睨みながら、万年筆で必要事項を書いていく。
「アルフレッドさん、零君はどうしましょうか。」
「個室で。」
万が一の事を考えて、取り違えがないように、とアルフレッドはやってきた看護師にそう伝えた。小走りで駆けていった看護師を見届けると、アルフレッドは一つ息を吐いた。
(どうなる事やら。)
落ち着いた橙色の髪を三度ほど梳いて、止まっていた万年筆を再び紙上に走らせ始めた。
* * *
お昼、継子に抱えられて帰ってきたとある一人の赤ん坊を、居候していた博人と勇斗は興味津々に覗き込んだ。
「こんな間近で赤ちゃん見るの初めてかも……。」
継子が布団の上にその赤ん坊を乗せると、縁側で三色団子を頬張っていた史興も部屋の中を覗いてくる。博人はふっくらとした頰を何度かつついては、わあ、と感動の声を上げていた。
「すべすべのふわふわ!」
「継子さん、お茶をどうぞ。」
継子がいない間、悠樹邸の台所は久志と博人に任されていた。久志は継子の前に湯呑みとお盆を差し出すと、布団の上で眠っている赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「零君にも生前はこんな時期があったんですね。」
「今もその時期すよ先輩……。」
起きないように、しかし初めて近くで見る赤子に胸を踊らせる四人を、継子は微笑ましく見つめる。ともかく一番はしゃいでいるのは博人に間違いなかった。飽きる事なく頰をつつく彼に、史興は、そろそろやめろ、と手をどけさせた。
「継子さん、以前より随分とお元気でいらっしゃって良かったです。」
「五人も産めばねぇ。」
声を上げて笑う継子に、久志も恥ずかしそうにはにかんだ。零の出産は、[使徒]である史興達の転生による出産と同過程であった。それにより、[使徒]と同程度の力量で臨めたのだ。
「最初の頃は一体本当に成功するのか緊張してしまって疲れ果てたけれど……、君達がちゃんと産まれてくるのが分かっていたから、零には安心して臨めたんだよ。四人のおかげだねぇ。」
「継子さんの為になれたなら本望ですよ!」
うんうん、と頷く三人に、継子は顔を綻ばせた。
その日夕食当番だった博人は、豪勢に鍋料理にしたいところを抑えて鯛のホイル焼きを作っていた。[シシャ]の体に肉体的疲労などないが、鍋料理はやはりがやがやして精神的に疲れてしまう。産後の継子に出すには少し気が引けた。
「零君を他の家に、ですか。」
オーブンにホイル焼きを人数分突っ込んで箸の準備をしていた博人は、居間から聞こえた言葉をいぶかしみながら暖簾を上げた。
「博人、お前はどこがいいと思う。」
「へ、俺ですか?」
部屋には悠樹邸にいた全員が集まっていた。そして、いつの間にお邪魔していたのか理恵もまた居間で茶を啜っていた。
「このままこの屋敷に零を置いておくのは危ない。理恵とアルフレッドはそう考えている。」
その意見には博人も賛成だった。なにより、悠樹邸は敵方に場所を知られる可能性が高い家の一つである。それならば、零に害が及ぶ事がないとは決して言い切れない。
「今すぐに、ではないわ。零が立てるようになって、ある程度言葉で意思疎通出来るようになってからで構わないの。都合が良い事に、零は以前の記憶を全て存続して生まれてきた。発音が出来るようになれば条件はクリアよ。」
博人は零が寝ているだろう部屋を振り返り、そして少し辛そうな顔で卓袱台の前まで歩いていった。
「心苦しくはありますけど、でも零さんの為にそうするしかないんですよね……。」
「そうね。……今のところはフィリップとジャンがいるカペーの屋敷、リチャードが一人で滞在しているロンドン郊外の家、もしくはロマノフ邸か……他に心当たりがあったら教えてほしいのよ。」
手に持っていたお盆を卓袱台において、博人は親指と人差し指を顔の輪郭に添わせた。
「そうですね。ジャンさんとフィリップさんがいるのは凄く心強いですが零さんがフランス自体にあまりに縁がなさそうですし……その中ならリチャードさんとロマノフ邸を推しますね。ロマノフ邸は特に、この間の事もあって零さんと関係が親密になってますから。」
六人の長いため息が居間を満たした。ただ清張だけは、じっと自分の湯呑みを見続けたまま微動だにしない。
「清張……?」
継子に恐る恐る呼びかけられ、清張は遅れて大きなため息を吐き出した。
「運があれば……とは思ったが、あまりに賭けが過ぎるとも思った。」
顔を上げて、清張は一度ちらりと久志の方向を見た。その視線の意が介せずに、久志は片眉を上げる。
「灯台下暗し、だ。」
小さく呟いた清張は、しかし自分の胸中に浮かんだ案を振り払うように頭を振った。
* * *
理恵が言ったように、零は他の幼児よりも欲求の説明が的確だった。四つ這いで歩ける事もあって、ミルクが欲しい時はそこまで行って指を差し、トイレが必要な時は扉を軽く叩いて主張してきた。目についた物をなんでもかんでも口に含む事もなく、食事も荒らす事もなく、唯一の心配事と言えば距離を測りかねて縁側から転落する事くらいだった。
「子供ってすぐ大きくなりますね。」
その年、零は壁を伝いながら立てるようになった。勇斗と庭園に出て遊んでいる零の姿を見ながら、博人は感慨深く呟いた。
「僕らにもあんな事あったんだなあって……。」
「俺と久志が会ったのはもっと成長してからだったし、あまりあの年の頃はお互いに知らないな。」
虎屋の羊羹を口に放り込んで、史興は後ろに両腕をついた。ここ数年、特に[シシャ]の視点において世の中は穏やかであった。大きな諍いもなく、敵味方ともにお互い様子見の時期であった。
「このまま世界が穏やかに過ぎればいいのにとは思うけど……、零さんがあの姿な時点でそんなわけないしね。」
憂いげにため息を吐き出して、久志は目を閉じた。薄茶の睫毛が、春の日に当たる。
「いつか穏やかになるさ。」
その為に自分達は、例え小さくても歩みを止めていないのだ。史興は空を見上げた。蝶が二匹、翅を翻して互いを追っている。
清張と継子は、アルフレッドと向き合って座っていた。
「定期検診ももう大丈夫でしょう。万が一を考えて長い間診てきましたが、体の異常は一切ありません。長らくお手数をおかけしました。」
「いえいえ、自分の体ですから。きちんと診てもらうのが一番だと思ってますよ。」
今までの無理をし過ぎる患者達を思い出しながら、アルフレッドは苦笑して、ありがとう御座います、と呟いた。
「それで、今日の本件は零の引取先なんですけど。……悠樹、候補は絞れた?」
「屋敷で話し合った結果、一番賛成意見があったのはロマノフ邸、次にリチャードの家だ。」
候補先を頷きながら聴きつつ、アルフレッドは机の上に置いてあった一枚の華々しい封筒を手に取った。春らしい薄桃色の便箋には、優雅で軽やかな筆記体があった。
「フェリクス……ユスポフ?」
「ロマノフ邸からの提案も兼ねて、零をもう一度あそこで引き取れないか、と申し出があったんだ。なに、ロマノフ邸に引き取ってもらうのと殆ど一緒だ。でも、堅苦しい皇族の屋敷にいるより、ユスポフ公の下のほうが零には良いと思う。」
封筒を受け取って、アルフレッドが丁寧に切り開いた封筒の頭を開く。便箋を引っ張り出すと、覗いてきた継子の方向へ少し手を寄せた。
『拝啓、アルフレッド・オードリー様、及び悠樹ご夫妻。ご無沙汰しております。既に日本では桜が満開の時期でしょうか。ロシアでも、雪解けの音色が聞こえてきました。さて、今回はロマノフ邸の主人である皇帝ニコライ二世陛下から勅命を賜りまして、悠樹零さんの引取先の候補をロマノフ邸からユスポフ邸に変更頂きたくお手紙を書きました。かねてより、零さんとは親しく交流させて頂きました。是非ともまた我が屋敷に来て頂けると嬉しい限りです。それでは、取り急ぎ失礼致します。フェリクス・フェリクソヴィチ・ユスポフ。』
* * *
(えーっと、男の子で……名前は零で……。体重が……。)
雪が降る事もなく例年にしては少し暖かい正月後の冬の日であった。カルテと走り書きの報告書を睨みながら、万年筆で必要事項を書いていく。
「アルフレッドさん、零君はどうしましょうか。」
「個室で。」
万が一の事を考えて、取り違えがないように、とアルフレッドはやってきた看護師にそう伝えた。小走りで駆けていった看護師を見届けると、アルフレッドは一つ息を吐いた。
(どうなる事やら。)
落ち着いた橙色の髪を三度ほど梳いて、止まっていた万年筆を再び紙上に走らせ始めた。
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お昼、継子に抱えられて帰ってきたとある一人の赤ん坊を、居候していた博人と勇斗は興味津々に覗き込んだ。
「こんな間近で赤ちゃん見るの初めてかも……。」
継子が布団の上にその赤ん坊を乗せると、縁側で三色団子を頬張っていた史興も部屋の中を覗いてくる。博人はふっくらとした頰を何度かつついては、わあ、と感動の声を上げていた。
「すべすべのふわふわ!」
「継子さん、お茶をどうぞ。」
継子がいない間、悠樹邸の台所は久志と博人に任されていた。久志は継子の前に湯呑みとお盆を差し出すと、布団の上で眠っている赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「零君にも生前はこんな時期があったんですね。」
「今もその時期すよ先輩……。」
起きないように、しかし初めて近くで見る赤子に胸を踊らせる四人を、継子は微笑ましく見つめる。ともかく一番はしゃいでいるのは博人に間違いなかった。飽きる事なく頰をつつく彼に、史興は、そろそろやめろ、と手をどけさせた。
「継子さん、以前より随分とお元気でいらっしゃって良かったです。」
「五人も産めばねぇ。」
声を上げて笑う継子に、久志も恥ずかしそうにはにかんだ。零の出産は、[使徒]である史興達の転生による出産と同過程であった。それにより、[使徒]と同程度の力量で臨めたのだ。
「最初の頃は一体本当に成功するのか緊張してしまって疲れ果てたけれど……、君達がちゃんと産まれてくるのが分かっていたから、零には安心して臨めたんだよ。四人のおかげだねぇ。」
「継子さんの為になれたなら本望ですよ!」
うんうん、と頷く三人に、継子は顔を綻ばせた。
その日夕食当番だった博人は、豪勢に鍋料理にしたいところを抑えて鯛のホイル焼きを作っていた。[シシャ]の体に肉体的疲労などないが、鍋料理はやはりがやがやして精神的に疲れてしまう。産後の継子に出すには少し気が引けた。
「零君を他の家に、ですか。」
オーブンにホイル焼きを人数分突っ込んで箸の準備をしていた博人は、居間から聞こえた言葉をいぶかしみながら暖簾を上げた。
「博人、お前はどこがいいと思う。」
「へ、俺ですか?」
部屋には悠樹邸にいた全員が集まっていた。そして、いつの間にお邪魔していたのか理恵もまた居間で茶を啜っていた。
「このままこの屋敷に零を置いておくのは危ない。理恵とアルフレッドはそう考えている。」
その意見には博人も賛成だった。なにより、悠樹邸は敵方に場所を知られる可能性が高い家の一つである。それならば、零に害が及ぶ事がないとは決して言い切れない。
「今すぐに、ではないわ。零が立てるようになって、ある程度言葉で意思疎通出来るようになってからで構わないの。都合が良い事に、零は以前の記憶を全て存続して生まれてきた。発音が出来るようになれば条件はクリアよ。」
博人は零が寝ているだろう部屋を振り返り、そして少し辛そうな顔で卓袱台の前まで歩いていった。
「心苦しくはありますけど、でも零さんの為にそうするしかないんですよね……。」
「そうね。……今のところはフィリップとジャンがいるカペーの屋敷、リチャードが一人で滞在しているロンドン郊外の家、もしくはロマノフ邸か……他に心当たりがあったら教えてほしいのよ。」
手に持っていたお盆を卓袱台において、博人は親指と人差し指を顔の輪郭に添わせた。
「そうですね。ジャンさんとフィリップさんがいるのは凄く心強いですが零さんがフランス自体にあまりに縁がなさそうですし……その中ならリチャードさんとロマノフ邸を推しますね。ロマノフ邸は特に、この間の事もあって零さんと関係が親密になってますから。」
六人の長いため息が居間を満たした。ただ清張だけは、じっと自分の湯呑みを見続けたまま微動だにしない。
「清張……?」
継子に恐る恐る呼びかけられ、清張は遅れて大きなため息を吐き出した。
「運があれば……とは思ったが、あまりに賭けが過ぎるとも思った。」
顔を上げて、清張は一度ちらりと久志の方向を見た。その視線の意が介せずに、久志は片眉を上げる。
「灯台下暗し、だ。」
小さく呟いた清張は、しかし自分の胸中に浮かんだ案を振り払うように頭を振った。
* * *
理恵が言ったように、零は他の幼児よりも欲求の説明が的確だった。四つ這いで歩ける事もあって、ミルクが欲しい時はそこまで行って指を差し、トイレが必要な時は扉を軽く叩いて主張してきた。目についた物をなんでもかんでも口に含む事もなく、食事も荒らす事もなく、唯一の心配事と言えば距離を測りかねて縁側から転落する事くらいだった。
「子供ってすぐ大きくなりますね。」
その年、零は壁を伝いながら立てるようになった。勇斗と庭園に出て遊んでいる零の姿を見ながら、博人は感慨深く呟いた。
「僕らにもあんな事あったんだなあって……。」
「俺と久志が会ったのはもっと成長してからだったし、あまりあの年の頃はお互いに知らないな。」
虎屋の羊羹を口に放り込んで、史興は後ろに両腕をついた。ここ数年、特に[シシャ]の視点において世の中は穏やかであった。大きな諍いもなく、敵味方ともにお互い様子見の時期であった。
「このまま世界が穏やかに過ぎればいいのにとは思うけど……、零さんがあの姿な時点でそんなわけないしね。」
憂いげにため息を吐き出して、久志は目を閉じた。薄茶の睫毛が、春の日に当たる。
「いつか穏やかになるさ。」
その為に自分達は、例え小さくても歩みを止めていないのだ。史興は空を見上げた。蝶が二匹、翅を翻して互いを追っている。
清張と継子は、アルフレッドと向き合って座っていた。
「定期検診ももう大丈夫でしょう。万が一を考えて長い間診てきましたが、体の異常は一切ありません。長らくお手数をおかけしました。」
「いえいえ、自分の体ですから。きちんと診てもらうのが一番だと思ってますよ。」
今までの無理をし過ぎる患者達を思い出しながら、アルフレッドは苦笑して、ありがとう御座います、と呟いた。
「それで、今日の本件は零の引取先なんですけど。……悠樹、候補は絞れた?」
「屋敷で話し合った結果、一番賛成意見があったのはロマノフ邸、次にリチャードの家だ。」
候補先を頷きながら聴きつつ、アルフレッドは机の上に置いてあった一枚の華々しい封筒を手に取った。春らしい薄桃色の便箋には、優雅で軽やかな筆記体があった。
「フェリクス……ユスポフ?」
「ロマノフ邸からの提案も兼ねて、零をもう一度あそこで引き取れないか、と申し出があったんだ。なに、ロマノフ邸に引き取ってもらうのと殆ど一緒だ。でも、堅苦しい皇族の屋敷にいるより、ユスポフ公の下のほうが零には良いと思う。」
封筒を受け取って、アルフレッドが丁寧に切り開いた封筒の頭を開く。便箋を引っ張り出すと、覗いてきた継子の方向へ少し手を寄せた。
『拝啓、アルフレッド・オードリー様、及び悠樹ご夫妻。ご無沙汰しております。既に日本では桜が満開の時期でしょうか。ロシアでも、雪解けの音色が聞こえてきました。さて、今回はロマノフ邸の主人である皇帝ニコライ二世陛下から勅命を賜りまして、悠樹零さんの引取先の候補をロマノフ邸からユスポフ邸に変更頂きたくお手紙を書きました。かねてより、零さんとは親しく交流させて頂きました。是非ともまた我が屋敷に来て頂けると嬉しい限りです。それでは、取り急ぎ失礼致します。フェリクス・フェリクソヴィチ・ユスポフ。』
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