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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)
Verse 4-14
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その日からまた一切、ぱたりとバスカヴィルの夢はなくなった。しかし、大戦中に見たあの悪夢の後とは違う印象が、零の胸の中には燻っていた。その胸中の塊を、言語に変える事はなかった。時にその夢を思い出して、そして刻一刻と日々は過ぎた。夏が終わると、秋が来た。秋が終わって、冬が来た。毎日を実践と勉学に費やし、贅沢な海外の季節感を感じる間もなく、二月がもうすぐ目の前にあった。
「零のダンスの相手かあ。」
一月の末、珍しくマナーハウスにフィリップ二世がやってきた。いつものライダージャケットとは打って変わって、黒いスラックスに黒いふともも上までのジャケット、アイスブルーのスカーフにフルール・ド・リスがあしらわれた銀のブローチといったフォーマルな出で立ちであった。
「決めろって言われたけど、流石に適任がいなくて……。」
「零は誰と踊りたいんだ? ジークフリートか?」
零は光沢のあるオレンジを基調としたヴィクトリア後期のデイドレスであった。髪は、ほぼ同色のオレンジのバラと黄色のコスモスが彩っている。
「あ、当たり障りのない人……。」
「そう来たか。」
灰皿にシガレットを押し付けて、フィリップ二世は、はは、と笑った。男ならば大胆に、しかし女性であれば控えめに。慣れない性別で大業を扱うのは身の破滅に繋がると零は考えているのだろう。
「そうだなぁ。お前にジャンは背が高すぎるし、俺は社交界に出入りし過ぎてるし……。ま、俺のほうでも探してみるさ。」
「な、なんかありがとう……。」
立ち上がったフィリップは、ぴったりとした黒いレザー製手袋を嵌めた手をひらひらと振りながら零に背を向けた。真鍮の素っ気ないドアノブに手をかけて、扉を開ける。そうして思い出したように振り向いたフィリップ二世の顔は、どこか同情的だった。
「……おっさんは、嫌なんだろ?」
「いやじゃ……ないけど。でもきっと、ルプレヒトは……。」
立ち上がっていた零が俯くと、フィリップも滑らかなうなじに手をやった。
「そうだな。……そうだよな、悪い。」
静かな革靴の足音と共に、扉がゆっくりと閉まった。
* * *
たまたま通りかかった扉の向こうから、かちゃ、と陶器が静かにぶつかる音がした。零がひょっこりとその隙間から顔を出すと、エリーザベトが机に広げられたティーセットを念入りに眺めていた。
「そんなところで見ていらっしゃらないで、座ってご覧になっては如何?」
びくりと肩をはねさせると、零はデイドレスの裾を上げて早足でエリーザベトの座る椅子の斜め後ろへ向かった。黒い帯の周りには、レース細工のような金箔の模様。その下には、春を彷彿とさせる色とりどりの大輪の花が描かれていた。
「えっと……。」
「コウルドン。一九〇〇年製のものですよ。」
隣の席を勧められ、零は促されるままに天鵞絨の貼られたダイニングチェアに腰を落ち着けた。
「どうして広げているんですか?」
「点検です。二月に入ってからの私の恒例行事。毎日三セット、剥げや欠けなどがないか確かめていますの。この取っ手の名称は、もう習いましたか?」
先程まで眺めていたティーカップをソーサーの上に戻し、エリーザベトはそれを零の方へ寄せて寄越した。
「えーっと……。ブロークンループ。」
大抵のティーカップでよく見るハンドルの形、零は取り敢えずそう覚えていた。
「きちんと復習しているようですね。」
「ありがとう……御座います。」
仕事の時の酷く生真面目な表情をしていたエリーザベトの表情から、ふわりと花が開くように微笑みが溢れた。
「ここでの生活ももう少しですね。名残り惜しい事もありますが……何か聞き忘れた事はありませんか?」
次は砂糖壺だ。金色の小さなハンドルを摘んで、エリーザベトは中を覗いた。
「……皇妃陛下は、俺の事をどう思ってらっしゃるのですか。」
驚いたようにエリーザベトは零の方を振り向いて目を見張った。
「私ですか? ……何故そのような事を?」
「[シシャ]達が、俺の事をどう思ってるのか気になっているので。……ご気分を害したのであれば謝ります。」
持ち上げていた砂糖壺を音もなくゆっくりと机に置いて、エリーザベトは筋の通った美しい鼻からため息を吐いた。
「そうですね……まだ貴方を知らなかった時は特になんとも思ってはいませんでした。」
窓から見える雪景色の庭を遠い目で見つめて、エリーザベトは眉を下げる。
「ですが貴方を批判的に見ている者は多くいます。私はまだいい方ですのよ、なんにせマリア・テレジア陛下から貴方についてたまに耳に挟みましたから。しかし、貴方と全く接点のなかった……特に王族には貴方の事をよく思わない方々が沢山いらっしゃいます。この世界の[シシャ]、その大多数が、貴方が姿を消してから天界に来た人々です。」
唾を飲み込んで、零は目の前に並んでいるティーセットに視線を落とした。
「零、ここは貴方の世界、貴方の国家、貴方が支配すべき場所です。貴方は、貴方が皆の為になると思う事をすればよいのです。ですから、胸を張りなさい。常に、いかなる時も。それが――」
少しだけ息を吸って、エリーザベトは見上げた零の瞳をまっすぐに見つめた。
「それが。君主の妃であった私から出来る、たった一つの助言です。」
* * *
家に帰って、フィリップ二世が最初に鉢合わせたのは淡い茶色の青年だった。そして、フィリップ二世は、しめた、と思った。当たり障りのない相手、それにぴったりの人物だ。
「よお、元気してるか?」
「えぇまあ、おかげ様で。」
久志はその日、カペー王朝の諸王が第十セフィラの拠点としているカフェで期間限定で働いていた。[シシャ]へ顔を広くする為に、というフィリップ二世の取り計らいである。
「今回はどちらに行かれてたんですか?」
「ん? あぁ、オーストリアのほうにちょっとな。それで……咲口、ちょっと相談があるんだがいいか?」
パリは既に夜だった。釣り下がる電飾と共に輝く夜空の星々の下で、ワインの程良く回ったフランス人達は狭い路地に響き渡る声でお喋りを楽しんでいる。
「相談……ですか。乗るだけ乗りますよ。」
久志は明日使う食材の入った段ボールを机に置いて、空いている椅子に座った。フィリップ二世もまた、その向かいに腰掛ける。
「お前、流石にヴィーナー・オーパンバルは知ってるよな。」
「えぇまあ……、数度行った事もありますが。それが?」
視界に入りかけていた小麦粉の袋を横に押しやって、久志は木製の使い古した机の上に身を乗り出した。真っ直ぐに見つめてくる淡いブラウンの瞳から流れるように視線を逸らして、フィリップ二世は咥えていたシガレットを摘んで口から外した。
「今度零がそれに出るんだが、まだ相手が決まってなくてな。当たり障りのない奴をご所望だ。で、どうだ?」
「どうだ? って……まさか僕に本気で相手役をさせるつもりなんですか?」
その通りだ、と言わんばかりにフィリップ二世は椅子にふんぞり返った。
「本気で言ってますか?」
「本気だよ何度も聞くなうるせぇな。」
久志は長く重いため息を履いて俯き、眉間にしわを寄せながら天井を見上げた。とんでもない大役である。
「なに、練習する時間なら幾らでもあるんだぜ?」
「そ、そういう問題では……。まず、長らく社交界から離れていたので上手く踊れるかどうか……。」
戸惑う久志を、フィリップ二世はなにを思っているのか酷く真面目な表情で見つめていた。指の中でシガレットをくるくると回しながら、再び机の上に乗り出す。
「いいか、俺が当たれる節ではお前以外に適任はいない。当たり障りのない相手って事は、ジークフリートなんかじゃいけねぇって事だ。社交界にそれなりに知見があり場慣れしていて、零とはそれなりに仲が良くしかし友人以上の発展は絶対に見込めない。」
ぴったりだろ、と眉を上げて両腕を開いたフィリップ二世に、久志は鼻の下を撫でながら唸った。
「任務だと思えばいいんでしょうかね。」
「そんなところだ。で、そうと決まればお前も礼服を色々調達しないとな。」
* * *
「零のダンスの相手かあ。」
一月の末、珍しくマナーハウスにフィリップ二世がやってきた。いつものライダージャケットとは打って変わって、黒いスラックスに黒いふともも上までのジャケット、アイスブルーのスカーフにフルール・ド・リスがあしらわれた銀のブローチといったフォーマルな出で立ちであった。
「決めろって言われたけど、流石に適任がいなくて……。」
「零は誰と踊りたいんだ? ジークフリートか?」
零は光沢のあるオレンジを基調としたヴィクトリア後期のデイドレスであった。髪は、ほぼ同色のオレンジのバラと黄色のコスモスが彩っている。
「あ、当たり障りのない人……。」
「そう来たか。」
灰皿にシガレットを押し付けて、フィリップ二世は、はは、と笑った。男ならば大胆に、しかし女性であれば控えめに。慣れない性別で大業を扱うのは身の破滅に繋がると零は考えているのだろう。
「そうだなぁ。お前にジャンは背が高すぎるし、俺は社交界に出入りし過ぎてるし……。ま、俺のほうでも探してみるさ。」
「な、なんかありがとう……。」
立ち上がったフィリップは、ぴったりとした黒いレザー製手袋を嵌めた手をひらひらと振りながら零に背を向けた。真鍮の素っ気ないドアノブに手をかけて、扉を開ける。そうして思い出したように振り向いたフィリップ二世の顔は、どこか同情的だった。
「……おっさんは、嫌なんだろ?」
「いやじゃ……ないけど。でもきっと、ルプレヒトは……。」
立ち上がっていた零が俯くと、フィリップも滑らかなうなじに手をやった。
「そうだな。……そうだよな、悪い。」
静かな革靴の足音と共に、扉がゆっくりと閉まった。
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たまたま通りかかった扉の向こうから、かちゃ、と陶器が静かにぶつかる音がした。零がひょっこりとその隙間から顔を出すと、エリーザベトが机に広げられたティーセットを念入りに眺めていた。
「そんなところで見ていらっしゃらないで、座ってご覧になっては如何?」
びくりと肩をはねさせると、零はデイドレスの裾を上げて早足でエリーザベトの座る椅子の斜め後ろへ向かった。黒い帯の周りには、レース細工のような金箔の模様。その下には、春を彷彿とさせる色とりどりの大輪の花が描かれていた。
「えっと……。」
「コウルドン。一九〇〇年製のものですよ。」
隣の席を勧められ、零は促されるままに天鵞絨の貼られたダイニングチェアに腰を落ち着けた。
「どうして広げているんですか?」
「点検です。二月に入ってからの私の恒例行事。毎日三セット、剥げや欠けなどがないか確かめていますの。この取っ手の名称は、もう習いましたか?」
先程まで眺めていたティーカップをソーサーの上に戻し、エリーザベトはそれを零の方へ寄せて寄越した。
「えーっと……。ブロークンループ。」
大抵のティーカップでよく見るハンドルの形、零は取り敢えずそう覚えていた。
「きちんと復習しているようですね。」
「ありがとう……御座います。」
仕事の時の酷く生真面目な表情をしていたエリーザベトの表情から、ふわりと花が開くように微笑みが溢れた。
「ここでの生活ももう少しですね。名残り惜しい事もありますが……何か聞き忘れた事はありませんか?」
次は砂糖壺だ。金色の小さなハンドルを摘んで、エリーザベトは中を覗いた。
「……皇妃陛下は、俺の事をどう思ってらっしゃるのですか。」
驚いたようにエリーザベトは零の方を振り向いて目を見張った。
「私ですか? ……何故そのような事を?」
「[シシャ]達が、俺の事をどう思ってるのか気になっているので。……ご気分を害したのであれば謝ります。」
持ち上げていた砂糖壺を音もなくゆっくりと机に置いて、エリーザベトは筋の通った美しい鼻からため息を吐いた。
「そうですね……まだ貴方を知らなかった時は特になんとも思ってはいませんでした。」
窓から見える雪景色の庭を遠い目で見つめて、エリーザベトは眉を下げる。
「ですが貴方を批判的に見ている者は多くいます。私はまだいい方ですのよ、なんにせマリア・テレジア陛下から貴方についてたまに耳に挟みましたから。しかし、貴方と全く接点のなかった……特に王族には貴方の事をよく思わない方々が沢山いらっしゃいます。この世界の[シシャ]、その大多数が、貴方が姿を消してから天界に来た人々です。」
唾を飲み込んで、零は目の前に並んでいるティーセットに視線を落とした。
「零、ここは貴方の世界、貴方の国家、貴方が支配すべき場所です。貴方は、貴方が皆の為になると思う事をすればよいのです。ですから、胸を張りなさい。常に、いかなる時も。それが――」
少しだけ息を吸って、エリーザベトは見上げた零の瞳をまっすぐに見つめた。
「それが。君主の妃であった私から出来る、たった一つの助言です。」
* * *
家に帰って、フィリップ二世が最初に鉢合わせたのは淡い茶色の青年だった。そして、フィリップ二世は、しめた、と思った。当たり障りのない相手、それにぴったりの人物だ。
「よお、元気してるか?」
「えぇまあ、おかげ様で。」
久志はその日、カペー王朝の諸王が第十セフィラの拠点としているカフェで期間限定で働いていた。[シシャ]へ顔を広くする為に、というフィリップ二世の取り計らいである。
「今回はどちらに行かれてたんですか?」
「ん? あぁ、オーストリアのほうにちょっとな。それで……咲口、ちょっと相談があるんだがいいか?」
パリは既に夜だった。釣り下がる電飾と共に輝く夜空の星々の下で、ワインの程良く回ったフランス人達は狭い路地に響き渡る声でお喋りを楽しんでいる。
「相談……ですか。乗るだけ乗りますよ。」
久志は明日使う食材の入った段ボールを机に置いて、空いている椅子に座った。フィリップ二世もまた、その向かいに腰掛ける。
「お前、流石にヴィーナー・オーパンバルは知ってるよな。」
「えぇまあ……、数度行った事もありますが。それが?」
視界に入りかけていた小麦粉の袋を横に押しやって、久志は木製の使い古した机の上に身を乗り出した。真っ直ぐに見つめてくる淡いブラウンの瞳から流れるように視線を逸らして、フィリップ二世は咥えていたシガレットを摘んで口から外した。
「今度零がそれに出るんだが、まだ相手が決まってなくてな。当たり障りのない奴をご所望だ。で、どうだ?」
「どうだ? って……まさか僕に本気で相手役をさせるつもりなんですか?」
その通りだ、と言わんばかりにフィリップ二世は椅子にふんぞり返った。
「本気で言ってますか?」
「本気だよ何度も聞くなうるせぇな。」
久志は長く重いため息を履いて俯き、眉間にしわを寄せながら天井を見上げた。とんでもない大役である。
「なに、練習する時間なら幾らでもあるんだぜ?」
「そ、そういう問題では……。まず、長らく社交界から離れていたので上手く踊れるかどうか……。」
戸惑う久志を、フィリップ二世はなにを思っているのか酷く真面目な表情で見つめていた。指の中でシガレットをくるくると回しながら、再び机の上に乗り出す。
「いいか、俺が当たれる節ではお前以外に適任はいない。当たり障りのない相手って事は、ジークフリートなんかじゃいけねぇって事だ。社交界にそれなりに知見があり場慣れしていて、零とはそれなりに仲が良くしかし友人以上の発展は絶対に見込めない。」
ぴったりだろ、と眉を上げて両腕を開いたフィリップ二世に、久志は鼻の下を撫でながら唸った。
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