神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 4-16

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 午後十時をいくらか過ぎた頃、ボックス席にとある二つの影があった。

「あ、あれ先輩かな?」

「あーそれっぽい。」

 若者らしいうなじを覆う黒髪を整えて燕尾服を纏った青年が一人。もう一人は、緩くカールをかけた黒い髪に、真紅のチャイニーズドレスを纏った影。

「そうだ、隣が零さんすね。」

 にしし、と博人は嬉しそうに隣の女性、の格好をした勇斗に笑ってみせた。デビュタント達の列が終わってバレエ団やオペラ座の歌手による余興が披露される中、二人は零の隣に立っていた一人の子女にも目を向けた。

「で、あれがアナスタシア殿下?」

「お相手はだれすかねぇ……分からんすわ。」

 博人の膝の上に置いてあったオペラグラスをするりと頂いて、勇斗は小指を僅かに立てながらじっと参加者の面々を眺め回った。

「よっ、零は見つかったか?」

「あそこら辺にいますよ。」

 背後のカーテンを開けて、暗がりから現れたのはフィリップ二世だった。いつも中央で分けている艶やかな黒髪はしっかりと全て後ろに撫でつけていて、いつもよりも少しお硬い印象を受けた。

「へぇ、リーズも随分綺麗に仕立て上げたもんだ。いや地がいいんだろうな。」

 内ポケットから取り出したオペラグラスの外はエメラルドを削って作られた実に美しい一品だった。それをぽん、と斜め後ろに突っ立っていた人物に渡し、フィリップ二世はバレエ団の演目を間近に眺める一人の子女を指差した。

「ほらあそこだ。」

「ん。」

 フィリップ二世が斜め後ろに右半身を引くと、人物もまた眉を寄せながら椅子の向こうから身を乗り出した。

「わあ、綺麗なオペラグラスっすねぇ。」

「お前女装してその言葉遣いどうにかなんねぇの?」

 金の前髪を少し雑にあげたジークフリートは、どこかいつもの誠実な雰囲気に雄々しさが混じっていた。

「咲口をセレクトしたのはお前か?」

「勿論。気に入らなかったか?」

 オペラグラスをフィリップ二世に押し付けて、ジークフリートは素っ気なく、別に、と呟いて続けた。

「お前にしては珍しく当たり障りのなさそうな人選だったから。」

「依頼主にそう頼まれたんでな。」

 怪訝そうに片眉を上げてじろりとジークフリートはフィリップ二世に視線をやったが、彼はものの見事にその視線をかわしてみせた。

「つかぬ事お伺いするがマドモアゼル竹伊は何故女装を?」

「あっははあ。女装自体は好きなんですよこいつ。」

 勇斗が真っ赤なシャネルのルージュでなぞった唇を開く前に、博人がその腕を肘でつついて見せた。

「女に見られるのは好きじゃないんすけどね。専ら中華でスパイをやってたんですがその殆どを女装でこなしてたんすよ。」

 黒いサテンのアームロングの先をいじくりながら、勇斗は自分が持っていた金箔を散りばめた黒い漆塗りのオペラグラスを博人に返した。

「故にアジアの細君などと呼ばれた事も。」

 その仰々しい異名に、フィリップ二世は両眉を上げてかすかに口笛を吹いた。

「コードネームは?」

「ファム・ファタール、もしくは傾国の美女とも。望もうとも望まぬとも男を破滅に導く女です。」

 大層なコードネームだ、とジークフリートは両手を体の前で組み直した。

「お、そろそろデビュタント達のダンスが始まるか?」

 向かい側のボックス席の一点をじっと見つめていたジークフリートは、フィリップ二世の声ですぐに下のホールへ視線を向けた。

「陛下はこの後踊られるので?」

「いーや、俺も忙しいんでな。ジークフリートは最後のドナウのコンマスをやるそうだ。流石だろ?」

 興奮気味の感心する声を上げながら、博人は手に持っていたワイングラスを一気にあおる。フィリップ二世も思い出したように入り口近くの小さなテーブルに置いていたグラスを手にとって、その人差し指で二人を指した。

「お前らは踊るのか?」

「いや、俺達はここにいますよ。零さんと先輩の護衛みたいなものなので。」

 ワインで口を湿らせて、フィリップ二世は、ご苦労な事で、と苦笑した。

 * * *

 二月という冬の時期の最中、二百に近い男女がワルツを踊ればたちまちオペラ座は熱気に包まれた。零は白いシルクのイヴニングドレスの裾を翻しながら、オペラ座の中にセットされた休憩所へと急いでいた。至る所に散らばる白い薔薇になど目もくれず、辺りを気にしながら一室の扉を音もなく開く。

「おっいいタイミングだな。」

「誰にもバレてないよな?」

 ティアラをかなぐり捨てる零を実に愉快そうに眺めながら、フィリップ二世はソファーにかけて用意していた別のイヴニングドレスをはたいた。

「型紙は殆どそれと同じだが露出するのは腕半分だけだ。リーズが超特急で用意してくれたんだぜ? 感謝しろよ。」

「そりゃするとも。」

 花嫁とも見紛う純白のイヴニングドレスさえ床に放り捨てて、零は黒髪を撫でながら乱れた場所がないか確認する。ワインレッド色の天鵞絨で仕立てられたエンパイアラインのドレスのウエストに腕を通して持ち上げると、フィリップ二世はもう片方の腕で見事に純白のほうのイヴニングドレスをソファーに型崩れもなく投げかけてみせた。

「後ろ向け、やってやるよ。」

 シニョンにされていた長い黒髪を解き、赤いドレスには似合わないダイアモンドのネックレスを外す。代わりに、鏡台に置いてあった箱の蓋を開ければ、黒真珠とルビーのチョーカーが姿を現した。

「リーズは凄いな。白でも暗い赤でも似合う化粧が出来るなんて。」

「映画界では引っ張りだこのメイキストだ、そりゃ当然だろうな。」

 零が腕を通すと、フィリップ二世はその背中のチャックとフックを手際よく閉めた。伸縮性のある天鵞絨を纏えば、零の美しいウエストの滑らかなラインがあらわになった。

「はあ、早く男に戻りたい。」

「んだよもったいねぇな。否定はしないけどよ。」

 今の零はとても美人だ。しかし、女性の彼が最大級で魅力的かと問われればフィリップ二世はNonと答えるだろう。彼は男だからこそ恰好良く、可愛いのだ。

「ほら、これ仮面な。」

 目元だけを覆う仮面だった。黒と赤、そして少し彩度の強い金が縁をレースのように縁取っていた。

「なにからなにまですまないな。」

「ここ数ヶ月のご褒美だと思っとけ。」

 にかっと笑って、フィリップ二世はその背中を叩いた。その姿であればもう今宵のデビュタントとは思われまい。その背中を見送って、フィリップ二世はドレスの後始末にかかった。



 ゴーレムの運転する車でホーフブルク宮殿へ。リーズが配り歩く用に貰っていた招待状の一枚を黒いマフから取り出すと、案内係は少しの手荷物検査の後ですんなりと零を通した。彼はホーフブルク宮を知っている。行った事もあるし、中を見て回った事もある。しかしもう随分と遠い、遥かなる記憶の彼方であった。

(相変わらず広いなここは……。)

 その記憶をなぞるように、天井や柱を見て回る。仮面をつけている女性達の間をゆっくりと縫って歩きながら、零は狭い視界でリーズの姿を探した。別に落ち合う約束は取り付けていない。ただ、この仮面舞踏会への道を用意してくれたお礼が言えれば、とだけ思っていた。

(まだ来てない可能性もあるしな。)

 ワルツの音色がすぐ隣から聞こえてくる。どうやら最も盛況を極めた時間は通り過ぎたらしく、ピアノの軽快な三拍子が流れていた。ダンスシューズから履き替えたワインレッドのヒールで慎重に歩きながら、ダンスホールに顔を覗かせた。

「おや、こんな所にいたのかい。」

 目の前を燕尾服が塞いだ。言葉とは裏腹に確信を持ったような低い声音だった。見上げれば見覚えのある顔が黒一色の仮面の向こうでにっこりと微笑んでいる。胸につかれた零の赤い天鵞絨を纏った手を恭しく取って、その手の甲に男は唇を落とす。

「一曲、踊りませんか?」

 そのマゼンダの蛇瞳を捉えた瞬間、零はなにも考える事が出来なかった。いや、考えていなかった。まるで意思を持ったマリオネットのように、腰に回された腕が押すがままに歩いていく。音楽が次の旋律へ変わる準備をしている間に、男はそのワインレッドのドレスを纏った子女を連れだってダンスホールへ進んだ。否や、ホールが少し不気味にざわつく。その黒々と流れる長髪とすらりと伸びた長身、男性的な体の持ち主などこの世に二人といまい。あの方は、もしや、などの囁きと呟きが至る所であったが、零の耳には入らなかった。ハチャトゥリャンの組曲”Маскарад”、重く怪しい前奏から、男は床を舐めるようなステップを踏み始める。ずしりとした一拍目を繰り返すたびに、零の強張っていた体が段々と腕に傾いてくる。ワルツのステップで、まるでタンゴの雰囲気を帯びていた。赤い天鵞絨の指と指の間から、男の白い手袋を纏った手が割って入ってきた。僅かに零は息を漏らした。曲が終わると共に、身体の力がするりと抜けていく。それを周囲に気取られぬように、男はその腰を抱えたままダンスホールから姿を消した。
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