神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 4-18

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 澄んだ濃紺の空に、金銀と輝く星々が散りばめられていた。口を開けば白い吐息が宙へ消えていく。ルプレヒトが用意してくれた私服、赤いウールのタートルネックに黒いジャケット、スキニーに黒いヒールの低いブーツへ着替えて、零はその空を見上げながらルプレヒトが淹れた魔法瓶のコーヒーを後部座席で飲んでいた。到着したのはだだっ広い平原だ。草は放置されたままで、今の零の腰の高さくらいまで伸びたものもある。

「……髪。」

 ルプレヒトもまた、燕尾服から黒いタートルネックと紺色のジャケット、臙脂のスラックスへ着替えて革製のロングコートを羽織っていた。

「鋏ある?」

「ない。」

 しょげたように口を尖らす、化粧も落としきった零は、ウェーブがかった長い黒髪をつまみ、邪魔くさそうに頭を振って払った。

「……が、作ろうと思えばある。」

 そう言って手を上げれば、ルプレヒトの影から一瞬で黒い鋏が生成された。零は心底嬉しそうに笑った。久し振りに見た零の明るい顔に、ルプレヒトは喉に言葉がつっかかる。

「切るのか? 本当に。」

「だって邪魔だ。」

 やれやれと頭を振って、ルプレヒトはトランクからキャンプ用の折り畳み椅子と、大きめの切れ端を引っ張り出した。零を座らせて、首周りから肩にかけて布を巻き、その実に手入れの行き届いた髪の毛に鋏を入れる。ふわり、ふわりと一束が草の上に落ちていく。

「ルプレヒト。」

 ただ黙々と髪の毛は切られていく。零の髪の毛は背中を殆ど覆っていたので、随分と長い時間がかかる。

「まだ、俺への秘密は話してくれない?」

 鋏を動かす手が止まった。肩に落ちていた髪の毛が払われる。

「どうして堕天したのかとか。」

 再び開いた鋏が、少しだけ零のうなじに触れた。

「どうして、俺と別れようとしてるのか……とか。」

 ルプレヒトは手をはたいて纏わりつく零の黒い髪を地面に払った。ざっくりと形は整えたから、もう少し見栄えを良くしなくてはいけない。

「話すつもりは微塵もない。」

 それは断固とした意志の表明だった。

「お前だけじゃない。他のだれにも、今俺がやっていることについてだれかに話す事は一切ない。」

 再び、リズミカルに鋏の刃と刃が擦れる音がする。ルプレヒトは目を細めた。

「もし全てを話す時が来たとすれば……。」

 不器用ではないが、ルプレヒトはきちんとヘアカットを勉強しているわけではない。だから、ある程度整った所で、もう切るのはやめた。あとは、リーズになりゴーレムになりやってもらえばいい話だ。

「それは、俺が口にしていない全てが明るみになった時だけだ。」

 肩に置かれた手に触れて、零は振り返った。ガーネットのような瞳が、月明かりに僅か輝く。

「その可能性は……あるのか?」

 顔つきは少し女性らしい。しかし、すっかり髪の短くなった零は、男の時の零そのままの姿だった。

「ないとは言い切れない。」

 零の手の下から自らの手をどけて、ルプレヒトは首周りの布を取り払った。

「まだ帰るつもりはないのか?」

「も、もうちょっと!……せ、せめて朝五時まで!」

 ルプレヒトは袖を人差し指でどけて腕時計を見た。まだ午前二時半である。

「せめてオーパンバルが終わる前には帰れ。午前四時、長くても半だ。」

 口うるさいルプレヒトに零は半眼になって頬を膨らませた。椅子を揺らされて慌てて立ち上がると、ルプレヒトは布と椅子をトランクへ仕舞いに行った。零は少し身震いして後部座席へ滑り込んだ。まだ魔法瓶に入ったコーヒーは沢山残っている。

「一つ聞いていいか。」

 ルプレヒトは一度運転席でエンジンをかけて暖房を入れると、反対側から後部座席に乗り込んだ。

「なぜ俺と一緒にいようと思った。」

 フロントガラスの向こうに見えるウィーン中心部のかすかな輝きに目を見張りながら、零はコーヒーを一口飲んだ。聞こえていなかったのかと思って、ルプレヒトは横を向く。

「なんでだろうね。」

 あまり唇を動かさずに零は呟いた。瞬きが妙に少ない。

「……俺も一つ聞いていい?」

 ルプレヒトも魔法瓶を手にとって、新品の紙コップにそれを注いだ。

「……バスカヴィルの事、どう思ってた?」

 紙コップが魔法瓶に僅かに当たった。口を閉ざしたまま、魔法瓶を閉める。色々逡巡して、漸く絞り出した言葉は素っ気なかった。

「あの男は普通じゃない。」

 そう言ってもう一度自分の気持ちに向き合って見たが、ルプレヒトにはやはり答えは見出せなかった。バスカヴィルをどう思っていたか、果たしてまずそこに気持ちというものが介在していたかさえ謎であった。

「分かんないや。」

 まるでルプレヒトの胸中を代弁するような言葉だったが、唯一違ったのは声の振動だった。

「泣いてるのか?」

 前をただただ呆然と見つめる零の頬に、月明かりに反射した輝きが伝った。

「お前は……なにも悪くない。全て俺が始めた事だ。」

 涙の後をなぞって、ルプレヒトはそれを拭った。

「だからお前を巻き込みたくない。俺が一人でケリをつける。」

 手の甲で零の頬を撫でると、彼はゆっくりとルプレヒトの方向へ首を回してその瞳を見返した。

「一人で、抱え込まなくていいのに……。」

「時間と機会をくれ。やり直せるだけの。」

 結んでいた唇が震え、零の堪えていた涙が止めどなく溢れた。

「もう無理だよ。俺はジークと一緒になって……バスカヴィルとも寝て、もうお前になんの顔向けも出来ない……ただの成り行き任せの馬鹿野郎だ……!」

「それも、全部俺のせいだ。」

 零は呻きながらルプレヒトの胸にしがみついた。どうしようもなく自分がドのつく阿呆にしか思えなかった。どこかで間違えた事は確かだったが、果たしてどれが間違いだったのか皆目見当もつかない。

「ルプレヒトは……。俺の事、まだ好きなのか……?」

「お前が想っていなくとも、俺はお前を想っている。」

 身勝手とは分かっていても、零は思わずルプレヒトの顔を見上げて睨みつけてしまった。

「お前本気で言ってんのか!? 俺は浮気してるんだぞ!」

「バスカヴィルの事か? ならあいつの事は浮気じゃない。レイプの後のストックホルム症候群の上、帝國限りのご縁だ。ジークの事を言っているなら……あいつに関しては俺が唆した。」

 バスカヴィルの件はともかく、零はジークフリートに関して瞠目した。目を見開いて、ルプレヒトの意地悪そうな微笑みをただ見上げ続ける。

「唆……した?」

「そうだ。悪夢の後の日、どうして俺がお前と寝てやらないのか詰め寄ってきた。だから言ってやった。そんなに心配ならお前が寝たらどうだ、と。」

 なにが起きたか分からない子猫のように、零はじりじりと俯いていった。

「じゃ、じゃあ俺がジークフリートと寝てるのはお前の計算の内なわけ……? ズルくないか、そういうの……。」

「詫びが必要か?」

 俯いた零の輪郭をなぞり顔を上げさせ、ルプレヒトは目を細めてさも面白げに笑って見せた。零といえばカンカンに怒っているというよりは、完全に拗ねていた。

「詫、詫、詫び……。詫び……して。」

 唇の位置が元に戻る。零の言葉が上手く聞き取れずに、ルプレヒトは片眉を上げた。突然零が自分の腿の上で膝立ちになったかと思えば、するりと眼帯の紐に指を通した。

「[シシャ]なのに、治さないのか?」

「その気はない。」

 紐を解けば、琥珀色へすっかり落ちた瞳と、縦に入った傷痕が露わになった。零を銃撃から庇った時に受けた傷だ。視力を失う事はなかったものの、もう使い物にならないほどの弱視へ陥ってしまった。

「俺の為に傷つくの、好きなの?」

「俺に首を絞められて悦ぶマゾヒストに言われたくはないな。」

 両手で零の頭を掴み、その赤い唇を奪った。零は抵抗もせずに受け入れて、その場にぺったりと座り込みながら必死にルプレヒトの唇を求める。その薄い唇の感触が懐かしかった。ルプレヒトに押し倒されて、零はその筋張った脇腹に柔らかい太腿を擦り寄せた。



 四時半、零は後部座席から出て、荷物を手に草原に立った。

「ありがとう。歩いて帰るから。」

「本当に送らなくていいのか。」

 車の天井に手をついて、ルプレヒトはやはりいつもの仏頂面でそう声をかけた。零は頷く、少しだけ晴れ晴れとした顔だった。

「送ったら、きっとルプレヒトが叱られるから……。早くドイツに帰りたいんだろ?」

 ルプレヒトは少しばかり考えて、頷いた。叱られるのも嫌だし、ドイツへ帰るのが遅くなるのも嫌だった。しかしそれ以上に、自分がまた零に僅かな期待を寄せてしまいそうになるのが怖かった。そして、零も同じ気持ちだった。二人はまた別の道を行かなくてはいけない。目指す場所さえ、交わったとしても同じではないのだ。

「じゃあまた。……全部終わった時に、話を聞かせてくれ。」

「……あぁ。」

 ルプレヒトの男らしい手に触れて、零は微笑んだ。Y字の分かれ道を、零のほうが僅かに先に進み始めた。
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