神秘学メンズラブシリーズ”nihil”

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第三巻『その痩躯から 死が分たれる その時まで。』(RoGD Ch.4)

Verse 4-22

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 湖を暫く歩くと、草原が見えた。それは零の顎の下くらいまで草が伸びた非常に乱雑な原っぱで、逸叡はその獣道を慣れたように歩き始めた。草の向こうに見えるのは、燃え上がる夕方の橙色に煌々と包まれた温泉旅館のような建物だった。

「すっげ……なにあれ。」

「あれがわいらの住んでる建物や。[妖界]の中心部、あの周りに屋台沢山出す時もあるで。」

 原っぱを歩くと、平らな地面に出た。建物の周囲は幅の広い掘が囲んでおり、朱色に彩られた橋がいくつかかけられている。

『お帰りなさいませ逸叡様。』

「これ暖かくして持ってきてもろてええ?」

 狩衣を着て、なにか幾何学的な模様の描かれた紙を顔に垂らしている式神のようなゴーレムは、逸叡から紙袋を貰い受けると一度会釈した。そして弾幕のような煙を伴って紙製の鳥に変化するやいなや、紙袋を足に引っ掛けて上の階へ飛び立った。

「わいの部屋は最上階や、行こか。」



 金の草木と雲を表す幾何学模様が金箔で押された漆のエレベータードアが開くと、何人かの[妖魔]が一回のホールへ降りていった。まさにホテルの待合室と見紛う、赤いカーペットの敷かれた玄関ホールであった。レセプションカウンターはないが、その代わりに物珍しい光景が広がっていた。

「なんでこんなに子供が……?」

「神隠し、うちのが皆一定期間もろてくるんや。」

 昼間のような明るさの下で笑顔で駆け回る日本の、大体小学生から高校生くらいの年頃の子供達が、玄関ホールだけでなく至る所で[妖魔]と一緒に遊んでいた。

「そういえば神隠しって何をしてるんだ……?まさか気に入った子を一方的にとか?」

「んなわけあるかいな。」

 エレベーターに入って、逸叡はナンバーボタンを押した。外から見れば十階程度の高さの建物だが、実際中にはもっと多くの階層があった。

「虐待されとったり、捨てられたりする子供を一時的に……せやな、親から見れば半ば強引に連れてくるんや。子供らには許可取っとるさかい。」

 上がっている間、エレベーターは酷く静かだった。故に、到着を告げる高いベルの音一つがとても大きく思えた。

「それで……返すのはどういう基準なんだ?」

「せやなあ、まあ大抵は親御が神社やら寺やらに返して下さいと頼み込んでくるとこやけど。それがなかったらまあ……そら心優しいくて財力もある[人間]の近くやら、警察署の前やらに置いておくしかあらへんわな。」

 エレベーターからは真っ直ぐに、吹き抜け部分にかけられた橋が最奥の部屋に伸びていた。どうやらそこが逸叡の部屋らしい。

「あらま、来客がおるなあ。まあ入とったらええで。聞いて損はないやろ。」

 淡い水彩のような色で菖蒲の描かれた襖をがらりと開けると、逸叡が言ったように既に来客があった。

「お待ちしておりました逸叡様……そちらは。」

「見たら分かるやろ。」

 零は後ろ手に襖を閉めると、きょとんした顔で、いつの時代かの日本陸軍の軍服を着込んだ男の背中を見下ろした。

「えぇまあ存じ上げてはおります。ではなく、何故ここに?」

「まあそれは話したら長ぁくなるさかい、先にそっちの要件話してもろか。」

 逸叡は部屋の奥においてあった京紫色のちりめん細工で出来た座布団に向かって、どっかりと胡座をかく為に座った瞬間にいつもの白の狩衣姿に戻った。

「矢桐。」

「はっ。先日報告した事柄についての仔細で御座います。」

 顔を上げたその男の名前を、零は知っていた。第二次世界大戦で清張の上司を務めていた男である。脇息に肘をついていた逸叡は紙の扇子をパチンと鳴らした。

「その顔は、始末はつかんかったんやな。」

「気性が以前と比べて見違える程違いまして……弱るまで待って頂きませんと。」

 逸叡は、細い目から覗く金色に輝く瞳で、一度ちらりと零に視線をやった。

「ほんなら仕方あらへん、また後程。して、他には?」

「は。これは速報ですが、土方から反体制側に動きが見られたと。」

 ばきっと小さな音が響いた。零は矢桐から視線を逸らして、逸叡が扇子を握っていた手を見つめる。

「随分速いなぁ……気付かれたんか。」

「そこまではなんとも。ですが、勘付いている可能性があるのは確かです。」

 脇の襖から入ってきた式神風のゴーレムが、お盆にお茶とお好み鯛焼きを持って零の隣に座った。それを前に置いて、残りの二つを持って逸叡の斜め後ろに控える。

「……グリゴーリーには報告するさかい。下がってええ。」

「は、失礼致しました。」

 深々と頭を下げて、矢桐は逸叡に背を向けないようにすり足で後ずさった。部屋の前にゴーレムが控えていたらしく、矢桐が外に出る絶妙なタイミングで襖が開いた。再びその山梔子の絵が描かれた襖が閉じられると、逸叡は一息吐いて斜め後ろの零に向き直った。

「と、まあこっちもこっちで忙しいんや。……さっさっ、冷たくならんうちに食べよか。」

 袂を押さえて、逸叡は目の前に置かれたお好み鯛焼きに手を出した。零もまた、先の話の内容を頭の中で整理しながら鯛焼きを手に取った。

「あんさんに話したい事は沢山あるんやけどなあ、まずどっから手をつけていいもんかわいも分からんのや……。」

 脇息に肘をついたまま、逸叡は綺麗に整えられた七三の茶髪をかいた。骨ばった手に、更に骨が浮き上がる。

「お前は中立派だと聞いたが。」

「せやな、表向きは中立派や。……どこでだれがなにを聞いとるか分からんさかい。障子に目あり壁に耳ありや。」

 鯛焼きを頭から頬張って、逸叡は湯呑みに手をかけた。

「せやけどアーサーのやり方はわいは好かんし、この世界はええとこや。」

 なにも考えていないような顔で鯛焼きを永遠と噛んでいる零に、逸叡は呟きを付け足した。

「わいから見れば、アーサーも本心ではないと見えるしなぁ。」

 かりかりに焼かれた尾っぽを飲み込むと、零は茶を飲んで一息ついた。

「そんな急いで食べんでも――」

「アーサーを、殺したくはないんだ。」

 湯呑みの縁をなぞっていた逸叡の細い指が動きを止めた。

「出来れば話して解決したい。それが出来ないなら……力づくでも言う事を聞かせようとは思ってる。」

 逸叡はなにも言わなかった。いつもの剽軽な笑みも消えて、今はただただ、普通の表情で零を見ている。その沈黙が少し耳に刺さって、零は苦笑した。

「やっぱ俺って甘ちゃんだよな。」

 手に温度が移ったせいか、湯呑みは少しだけ温くなっていた。玉露入りの緑茶を一口飲む。

「……あんさんが本当に甘ちゃんかどうかは、わいにはなぁんも言えまへんわ。」

 半分ほどあった緑茶を全て飲み干して、逸叡は座布団の隣に置いてあった急須に指を引っ掛けた。

「わいは、あんさんがなんの理由もなく殺したくないという人間には見えまへんし。」

 少し冷えた零の湯呑みと空っぽになった自分の湯呑みに、まだ熱々の緑茶を注ぐと、逸叡は続けた。

「せやけど……人を殺さずに得る勝ちいうんは、人を殺して得る勝ちよりずっと難しいですわ。」

 逸叡もくしゃり、と年に似つかわしくない幼さで苦笑した。

「わいには出来る気がしまへん。それを志す事さえ。」

 茶の足された湯呑みを持って、零は逸叡の言葉を胸に深く刻み込んだ。

 * * *
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