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第四巻『血を流し死で洗い 命枯らすまで 荊棘たれ。』(CoSH Exc.2)
Example 2-30
休日、珍しく暇が出来たバスカヴィルとニコライは、秋の校舎を満喫するべく外に繰り出した。売店で売られていた煎った栗の袋を片手に二人は紅葉に満ち満ちた桜並木を歩く。
「そうだニコライ、夏休みに思ったんだけど。」
「何?」
少し歩き疲れて、ベンチの落ち葉を払って腰掛けた。なんと美しい秋の景色だろう。桜吹雪や夏の緑も美しいが、豊穣を招く秋の黄金が降り注ぎ、眼前を覆い尽くすこの宝の季節は筆舌に尽くしがたい。
「私もそろそろ体をきちんと作りたいと思ったんだ。ニコライは細い割にしっかりしているから、どういう事をすればいいのかと思って。」
「そう……。」
ニコライはバスカヴィルの姿を頭から爪先まで眺めた。なるほど、ヘラクレスと言うには筋肉はないし、アポロンと言うにはアドニスとかエロースとかの軟弱さも少々あった。入学当初はそれなりに筋肉がついていたが、ここ一年弱の講義は座学も多く、訓練をしているのも特に見受けられないバスカヴィルの体つきが細くなるのは自明の理であった。
「ヴィルは姿勢がきちんとしているから基礎は大丈夫だと思うけど。最初にやりやすいのはスクワットとか……。私も最近は維持ばかりでつけるほうをしていないから。」
「時間は……やはり朝早くに起きてるのかい?」
頷いて、ニコライはほかほかの栗を口に投げ入れた。
「夜更かしはいけない。私は講座上せざるおえないけど。きちんと寝て、朝早くに起きて走ったりトレーニングしたりすればその内筋肉なんてつく。」
随分ぞんざいに言い放つが、バスカヴィルは成程、と向かい側の桜の木を見た。やらなければつかないのはその通りだ。
「明日から、やってみるよ。」
「一週間に一回でも。」
彼が男らしい体つきになる事は、今後決してマイナスにはならないだろう。ニコライは微笑んだ。
* * *
残念ながら翌日の朝は、ニコライは自主練習をするからと言って休日であるにも関わらず狙撃場へ早くに部屋を出てしまった。バスカヴィルは一人で、ニコライが教えてくれたいくつかの鍛錬をこなすと、すっかりと腹が減ってしまった。朝早くのシャワーはだれもいなくて快適だった。
「あ……。」
そそくさと食堂のほうへ行くと、見慣れた男が一人扉の前の壁に寄りかかっていた。律儀に本を読んでいた。
「……。」
足音が聞こえたのか顔を上げると、なぜお前が、と言わんばかりの表情でバスカヴィルの視線を真っ直ぐに返した。
「おは、よう。」
ロベルトは挨拶を返さずに本に戻った。読んでいるのはグリム童話の原著だった。
(またグロい話を……。)
「こんな朝早くに朝食をとるのか?」
本に視線を落としたまま、ロベルトは隣に佇んで葉が落ちる様を眺めるバスカヴィルに尋ねた。
「あ、いや、今日はたまたま……。」
まだ距離感を掴めない間柄の、しかも屈強な男に、トレーニングをしています、とはなかなか言い出せなかった。
「お前こそこんな朝早くから朝食を?」
「毎日だ。」
明らさまにバスカヴィルは嫌そうな顔をしてしまった。これでは朝早くに起きても少しゆっくりしてから朝食に行かなくてはならなくなりそうだ。会話が打ち切られて次の言葉を探している間に、食堂の扉が開いた。
「お待たせしました~。あれ? 今日はお二人なんですね、友達ですか?」
「別に。」
冷たく言い捨てて、ロベルトは食堂の中に入っていった。バスカヴィルも頭を下げて慌てて後についていく。
「あ、オルガンは開けておきましたよ~!」
(オルガン……?)
中に入ると、再奥の普段石壁の部分が開いていた。まさかそこが扉だとは思いもしていなかったバスカヴィルは思わず、うわ、と声を上げてしまった。向こう側に隠れていたのは立派なパイプオルガンだ。成程、元々教会であった場所なら確かにあってもおかしくない。ロベルトは食事を取る事もなくスタスタと一直線にオルガンへの階段を上っていった。
「あの、毎朝ああやって?」
「あ、いえ。毎週日曜日だけ弾いてくれるんですよ~。なかなかあそこのオルガンは弾かれる事がないので。」
カチャカチャと器や食器が長テーブルに運ばれている間に、ロベルトの演奏は始まった。真面目に聞いている観衆はバスカヴィル一人だ。
(バッハの小フーガ、ト短調……。)
とても有名な曲だが、バスカヴィルはオルガンでこの曲を聴くのは初めてだった気がした。バロックの重苦しい旋律が、食堂を一気に本来の姿へ引き戻した。篝火の少ない黒い内装と、ステンドガラスを通して差し込む秋の高い日差しが二人の間を照らしているような気がした。明るさと暗さ、その絶妙な調子のコントラストがロベルトの体格とは想像もつかない繊細さを表していた。言い知れぬ感情がバスカヴィルの胸を打つ。その感情の濁流がなにを表そうとしているのか彼には分からなかった。ロベルトも恐らく理解していないだろう。沸き立つ激しい感情の全てを鍵盤にぶつけているに過ぎない。
(オルガンの響きはこんなにも物悲しいものなのか。)
しかし、怒りとも、哀しみとも、恨みとも、積年のその感情は、今のバスカヴィルの想像をゆうに越している事だけは、確かだった。
演奏などなかったかのような顔でロベルトは目の前で食事を取っていた。バスカヴィルよりも随分とよく食べる。
「オルガンは、習っていたのか?」
口の中の物を飲み込んで、ロベルトは返した。
「小さい頃に。」
外から鳥の鳴き声が聞こえた。給仕が毎朝くれるパン切れを求めに来たのである。ロベルトはまた食事に集中し始めた。
(この男は一体なんなんだろう……。)
無愛想で不躾で、体格のようにぶっきらぼうで不器用かと思いきや、まるで繊細にオルガンを奏でてみせる。周囲の青年よりも随分と老け込んでいて、若さを殆ど感じさせない。バスカヴィルが皿に盛ったより何倍もある朝食をとっとと平らげて、ロベルトは皿を片付けるとまた挨拶もなしに食堂を立ち去ってしまった。
(あの男、休日に一体何をしてるんだ……?)
とんと私生活に想像がいかず、疑問は尽きなかった。
* * *
それから毎週日曜日、バスカヴィルはロベルトを避けるように朝食へ向かっていたが、オルガンだけはまだ聞いてみたくて何度か外まで足を運んだ。彼のオルガンはいつでも激しかった。理性的な音を奏でるオルガンに、一体どうしてそこまで感情を込められるのか。ロベルトのこなすオルガンの言葉は相変わらずバスカヴィルに理解は出来なかった。
「そういえば、お前は何処の寮なんだ?」
「ヘルハウンドだ。」
次のコマの講義がたまたま休講になって、バスカヴィルはいつもの講義の後、初めてロベルトと寮棟群への帰路についた。ニコライに見られるとまたなにを言われるか、喧嘩が始まるか、溜まったものではなかったので、少し散歩でも、と遠回りをする事にした。
「そういうお前は?」
「私はユニコーンだよ。ヘルハウンドなら、反対側かな?」
意味ありげに、ユニコーンか、と呟いて、ロベルトはほんの一瞬だけ歪な笑みを浮かべた。
「お前は俺と行動するのが怖くないのか?」
「……いや、別に怖くはないが。お前が一体どういう人間なのかさっぱり分からないと言えば分からないよ。」
鼻を鳴らして、そうか、と呟いた。当て所なく歩けば、少し寮棟群とはまた別の場所に来てしまったようだ。
「……ここは競技館か。」
人気はなかった、恐らく丁度講義中なのだろう。
「そろそろ戻——」
振り返った途端、鳩尾に強い衝撃が走った。膝からまるで地に吸い取られるように力が抜けていく。
「お、ま……え。」
痛みに暫く慣れていなかった体はいとも容易く意識を手放してしまった。バスカヴィルの体を抱えるには、ロベルトは片腕だけで十分だった。
「自分の不用心さを呪え。」
耳元でそう囁いてやったものの、バスカヴィルに聞こえているかどうかは分からなかった。
* * *
「そうだニコライ、夏休みに思ったんだけど。」
「何?」
少し歩き疲れて、ベンチの落ち葉を払って腰掛けた。なんと美しい秋の景色だろう。桜吹雪や夏の緑も美しいが、豊穣を招く秋の黄金が降り注ぎ、眼前を覆い尽くすこの宝の季節は筆舌に尽くしがたい。
「私もそろそろ体をきちんと作りたいと思ったんだ。ニコライは細い割にしっかりしているから、どういう事をすればいいのかと思って。」
「そう……。」
ニコライはバスカヴィルの姿を頭から爪先まで眺めた。なるほど、ヘラクレスと言うには筋肉はないし、アポロンと言うにはアドニスとかエロースとかの軟弱さも少々あった。入学当初はそれなりに筋肉がついていたが、ここ一年弱の講義は座学も多く、訓練をしているのも特に見受けられないバスカヴィルの体つきが細くなるのは自明の理であった。
「ヴィルは姿勢がきちんとしているから基礎は大丈夫だと思うけど。最初にやりやすいのはスクワットとか……。私も最近は維持ばかりでつけるほうをしていないから。」
「時間は……やはり朝早くに起きてるのかい?」
頷いて、ニコライはほかほかの栗を口に投げ入れた。
「夜更かしはいけない。私は講座上せざるおえないけど。きちんと寝て、朝早くに起きて走ったりトレーニングしたりすればその内筋肉なんてつく。」
随分ぞんざいに言い放つが、バスカヴィルは成程、と向かい側の桜の木を見た。やらなければつかないのはその通りだ。
「明日から、やってみるよ。」
「一週間に一回でも。」
彼が男らしい体つきになる事は、今後決してマイナスにはならないだろう。ニコライは微笑んだ。
* * *
残念ながら翌日の朝は、ニコライは自主練習をするからと言って休日であるにも関わらず狙撃場へ早くに部屋を出てしまった。バスカヴィルは一人で、ニコライが教えてくれたいくつかの鍛錬をこなすと、すっかりと腹が減ってしまった。朝早くのシャワーはだれもいなくて快適だった。
「あ……。」
そそくさと食堂のほうへ行くと、見慣れた男が一人扉の前の壁に寄りかかっていた。律儀に本を読んでいた。
「……。」
足音が聞こえたのか顔を上げると、なぜお前が、と言わんばかりの表情でバスカヴィルの視線を真っ直ぐに返した。
「おは、よう。」
ロベルトは挨拶を返さずに本に戻った。読んでいるのはグリム童話の原著だった。
(またグロい話を……。)
「こんな朝早くに朝食をとるのか?」
本に視線を落としたまま、ロベルトは隣に佇んで葉が落ちる様を眺めるバスカヴィルに尋ねた。
「あ、いや、今日はたまたま……。」
まだ距離感を掴めない間柄の、しかも屈強な男に、トレーニングをしています、とはなかなか言い出せなかった。
「お前こそこんな朝早くから朝食を?」
「毎日だ。」
明らさまにバスカヴィルは嫌そうな顔をしてしまった。これでは朝早くに起きても少しゆっくりしてから朝食に行かなくてはならなくなりそうだ。会話が打ち切られて次の言葉を探している間に、食堂の扉が開いた。
「お待たせしました~。あれ? 今日はお二人なんですね、友達ですか?」
「別に。」
冷たく言い捨てて、ロベルトは食堂の中に入っていった。バスカヴィルも頭を下げて慌てて後についていく。
「あ、オルガンは開けておきましたよ~!」
(オルガン……?)
中に入ると、再奥の普段石壁の部分が開いていた。まさかそこが扉だとは思いもしていなかったバスカヴィルは思わず、うわ、と声を上げてしまった。向こう側に隠れていたのは立派なパイプオルガンだ。成程、元々教会であった場所なら確かにあってもおかしくない。ロベルトは食事を取る事もなくスタスタと一直線にオルガンへの階段を上っていった。
「あの、毎朝ああやって?」
「あ、いえ。毎週日曜日だけ弾いてくれるんですよ~。なかなかあそこのオルガンは弾かれる事がないので。」
カチャカチャと器や食器が長テーブルに運ばれている間に、ロベルトの演奏は始まった。真面目に聞いている観衆はバスカヴィル一人だ。
(バッハの小フーガ、ト短調……。)
とても有名な曲だが、バスカヴィルはオルガンでこの曲を聴くのは初めてだった気がした。バロックの重苦しい旋律が、食堂を一気に本来の姿へ引き戻した。篝火の少ない黒い内装と、ステンドガラスを通して差し込む秋の高い日差しが二人の間を照らしているような気がした。明るさと暗さ、その絶妙な調子のコントラストがロベルトの体格とは想像もつかない繊細さを表していた。言い知れぬ感情がバスカヴィルの胸を打つ。その感情の濁流がなにを表そうとしているのか彼には分からなかった。ロベルトも恐らく理解していないだろう。沸き立つ激しい感情の全てを鍵盤にぶつけているに過ぎない。
(オルガンの響きはこんなにも物悲しいものなのか。)
しかし、怒りとも、哀しみとも、恨みとも、積年のその感情は、今のバスカヴィルの想像をゆうに越している事だけは、確かだった。
演奏などなかったかのような顔でロベルトは目の前で食事を取っていた。バスカヴィルよりも随分とよく食べる。
「オルガンは、習っていたのか?」
口の中の物を飲み込んで、ロベルトは返した。
「小さい頃に。」
外から鳥の鳴き声が聞こえた。給仕が毎朝くれるパン切れを求めに来たのである。ロベルトはまた食事に集中し始めた。
(この男は一体なんなんだろう……。)
無愛想で不躾で、体格のようにぶっきらぼうで不器用かと思いきや、まるで繊細にオルガンを奏でてみせる。周囲の青年よりも随分と老け込んでいて、若さを殆ど感じさせない。バスカヴィルが皿に盛ったより何倍もある朝食をとっとと平らげて、ロベルトは皿を片付けるとまた挨拶もなしに食堂を立ち去ってしまった。
(あの男、休日に一体何をしてるんだ……?)
とんと私生活に想像がいかず、疑問は尽きなかった。
* * *
それから毎週日曜日、バスカヴィルはロベルトを避けるように朝食へ向かっていたが、オルガンだけはまだ聞いてみたくて何度か外まで足を運んだ。彼のオルガンはいつでも激しかった。理性的な音を奏でるオルガンに、一体どうしてそこまで感情を込められるのか。ロベルトのこなすオルガンの言葉は相変わらずバスカヴィルに理解は出来なかった。
「そういえば、お前は何処の寮なんだ?」
「ヘルハウンドだ。」
次のコマの講義がたまたま休講になって、バスカヴィルはいつもの講義の後、初めてロベルトと寮棟群への帰路についた。ニコライに見られるとまたなにを言われるか、喧嘩が始まるか、溜まったものではなかったので、少し散歩でも、と遠回りをする事にした。
「そういうお前は?」
「私はユニコーンだよ。ヘルハウンドなら、反対側かな?」
意味ありげに、ユニコーンか、と呟いて、ロベルトはほんの一瞬だけ歪な笑みを浮かべた。
「お前は俺と行動するのが怖くないのか?」
「……いや、別に怖くはないが。お前が一体どういう人間なのかさっぱり分からないと言えば分からないよ。」
鼻を鳴らして、そうか、と呟いた。当て所なく歩けば、少し寮棟群とはまた別の場所に来てしまったようだ。
「……ここは競技館か。」
人気はなかった、恐らく丁度講義中なのだろう。
「そろそろ戻——」
振り返った途端、鳩尾に強い衝撃が走った。膝からまるで地に吸い取られるように力が抜けていく。
「お、ま……え。」
痛みに暫く慣れていなかった体はいとも容易く意識を手放してしまった。バスカヴィルの体を抱えるには、ロベルトは片腕だけで十分だった。
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