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第二話 忌み地
3③
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*
痩せた壁板の隙間からところどころ西日が射し込んでいた。かなり古いお堂なのだろう。
——半日近くも、こんなことろにいなきゃならないなんて。
一人でないことがせめてもの救いだろうか。
お堂の真ん中で、なんとなく茜と身を寄せ合うかたちとなった。怖いというより、酒で身体が濡れて寒いせいである。
女の子とくっついているというのに何の情動の動きもなかった。状況が状況だから当たり前なのだが、なにより茜の性格が大きいように思う。瑠菜の背を撫でたときは、あんな状態でもその香りにどきりとしたというのに。
やがて陽が落ちて、堂内は闇に閉ざされた。
僕たちは無言のままじっとしていた。酒も乾き、においにも慣れ、茜の体温の暖かさと疲労の中で、僕は強い睡魔に襲われていた。うつらうつらしかけたところを、茜にすかさず肘で突かれるおかげで、なんとか眠らずに持ちこたえている状態だった。
そして僕はこんな時なのに、トイレに行きたくなってしまった。
もぞもぞと脚を組み替えたりしていると、茜がすっと隅のバケツを指さした。
僕はなんだか申し訳ない気持ちになりながらも立ち上がり、さらしの端を引きずりながらバケツに向かった。
——静寂の中、放尿の音が響き渡る。
間の抜けた音に気が抜けて、僕は小さく溜め息をついた。
恥ずかしさすら感じないことが自分でも信じられなかった。なんだか色々麻痺しているのだろう。
実際こう冷静になってみると、あんな化け物——本当に見たのかさえ怪しく思えてくる。むしろ、今の状況すら非現実的である。これが夢だと言われたらきっと信じてしまうのではないだろうか。
その時だった。
「間宮くん」
外から、佐々木の声がした。
反射的に返事をしかけ、はっと口を噤んだ。
臭いがしたのだ。
別荘に立ち込めていた耐えがたい臭気。かすかに、だが確かに鼻をかすめた。
(佐々木さんじゃない……?)
そもそも、佐々木は夜が明けるまでここには誰も来ないと言っていた。
冷たい汗が額に滲む。
「間宮くん」
身体がびくりと跳ねた。
声は、正面の板壁のすぐ向こうから聞こえた。
(……答えては駄目だ)
震える手でズボンのファスナーを上げる。じりじりと、呼吸さえ抑えるようにして後退りしかけ——唐突に腕をつかまれた。
僕は悲鳴を渾身の力で飲み込んだ。
腕を掴んだのは茜だった。いつの間にか側に来ていて、人差し指を口に当てて凄まじい形相で睨んでいる。
(わかってる! 急につかむな!!)
今のほうがよっぽど声を上げてしまいかねない。それをわかっているのか――。
そう茜を責めたかったが、無論、喋ることはできない。
その時、またも声がした。
「茜ちゃん」
腕をつかむ茜の手が、びくりと震えたのがわかった。
瑠菜の声だった。ただまったく抑揚がなく、異様に無機質な喋り方だった。
「茜ちゃん、ちょっと変わってるけどそんなとこも好きー」
茜は中腰になったままかっと目を見開いていた。怖れか怒りか、ぶるぶると震えている。
僕はそんな茜を抱えるようにひっぱってゆくと、お堂の中央に座らせた。
「茜ちゃん」
「うちら幼馴染なの」
外からの声はかまわず喋りかけてきた。
それが、別荘に向かう時の瑠菜の会話だと気づいた。
道中、瑠菜があたりを気にし、怯えていたわけがやっと分かった。森に入ってからずっと化け物につけられていたことに、瑠菜は気づいていたのだ。
「茜ちゃん」
僕の袖をつかむ茜の手に、ぐっと力が入るのが分かった。——化け物は周到だ。中野でなく、瑠菜の声を真似るとは。
「茜ちゃん」
「茜ちゃん」
数回名を呼んだのを最後に、外からの声は沈黙した。
(……あきらめたのか?)
おずおずと顔を上げたその時、突然堰を切ったように声が溢れた。
「茜ちゃん」
「ちょっと変わってるけどそんなとこも好きー」
「うちら幼馴染なの」
「茜ちゃん」
「ちょっと変わってるけどそんなとこも好きー」
腹の底から恐怖が込み上げる。尋常じゃないと思った。
茜は震える唇を噛みしめ、必死に堪えている。
その時――見えてしまった。
痩せた壁板の隙間から、黒目が覗いていた。
見てはいけないと分かっていたのに、そらせなかった。目が合った瞬間、眼球が凍りついたように動かなくなってしまったのだ。
意識が吸い込まれるように遠のいていった。その瞬間、がつんと頬を拳で殴られた。
僕は痛みに一気に覚醒する。視界が白むほどの衝撃だった。
茜が手負いの獣のような顔で睨みつけていた。食いしばった歯の隙間からふーっ、ふーっと荒い息を吐いている。
気を失うのを止めてくれたのだとわかったが――もう少しやり方があるのではないか。じんじんと痛む頬を押さえながら思った。
その時、壁板の隙間に鎌先のようなものがぐいっとねじ込まれた。すぐにそれが蜘蛛の足だと気づいた。
お堂全体ががたがたと音を出して揺れ始める。板を外そうとしているのだ。
(入られる……!)
そんな中でも、声は続いていた。
「茜ちゃん」
「うちら幼馴染なの」
「茜ちゃん」
僕たちは互いにしがみつくように抱き合いながら、音の洪水に耐えた。呼吸すら、ずいぶん長い間とめていたように思う。
どれだけの時間が経ったのか、やがて音がやんだ。
僕たちはおそるおそる顔を上げた。——板の隙間から幾筋もの光が差し込んでいた。眩しいほどの曙光だった。
腕の中の茜が安堵したように脱力したのがわかった。僕から身を離し、ふらりと立ち上がる。一刻もはやくここから出たいのだろう。
だが僕は、引き戸に向かおうとする彼女の腕をつかんだ。不思議そうに振り向いた茜に、僕は渾身の思いでふるふると首を振った。
臭いが、まだ濃厚にしていたのだ。
すると——唐突に差し込む光ががふっと消えた。一瞬にして周囲は暗転し、漆黒の闇に沈む。
力尽くで揺すられ、広がった板の隙間から化け物が覗いていた。塗りつぶしたような闇の中、それだけが異様にくっきりと見えた。
あれだけ物凄く笑っていた子供の顔は、凶相に変わっていた。怒りに吊り上がった目、への字に食いしばった口。それが握りこぶしのようにぎゅっと寄った皴の中に埋もれている。
僕は動けなかった。茜も立ちすくんだまま凍りついている。
恐ろしさに瞬きすらできぬまま見入っていると、そのまま顔は暗闇に溶けた。
それと共に、濃厚な気配、そしてあの臭いも消えた。
(……去った?)
――いや、また騙そうとしているのかもしれない。
僕らは互いにしがみつくように抱き合ったまま、息を詰めるようにして動かずにいた。
どれくらい時間が経ったのかわからないが、外が白みはじめ、二度目の曙光が壁板の隙間から差し込んだ。今度は茜も、身じろぎ一つしなかった。
痩せた壁板の隙間からところどころ西日が射し込んでいた。かなり古いお堂なのだろう。
——半日近くも、こんなことろにいなきゃならないなんて。
一人でないことがせめてもの救いだろうか。
お堂の真ん中で、なんとなく茜と身を寄せ合うかたちとなった。怖いというより、酒で身体が濡れて寒いせいである。
女の子とくっついているというのに何の情動の動きもなかった。状況が状況だから当たり前なのだが、なにより茜の性格が大きいように思う。瑠菜の背を撫でたときは、あんな状態でもその香りにどきりとしたというのに。
やがて陽が落ちて、堂内は闇に閉ざされた。
僕たちは無言のままじっとしていた。酒も乾き、においにも慣れ、茜の体温の暖かさと疲労の中で、僕は強い睡魔に襲われていた。うつらうつらしかけたところを、茜にすかさず肘で突かれるおかげで、なんとか眠らずに持ちこたえている状態だった。
そして僕はこんな時なのに、トイレに行きたくなってしまった。
もぞもぞと脚を組み替えたりしていると、茜がすっと隅のバケツを指さした。
僕はなんだか申し訳ない気持ちになりながらも立ち上がり、さらしの端を引きずりながらバケツに向かった。
——静寂の中、放尿の音が響き渡る。
間の抜けた音に気が抜けて、僕は小さく溜め息をついた。
恥ずかしさすら感じないことが自分でも信じられなかった。なんだか色々麻痺しているのだろう。
実際こう冷静になってみると、あんな化け物——本当に見たのかさえ怪しく思えてくる。むしろ、今の状況すら非現実的である。これが夢だと言われたらきっと信じてしまうのではないだろうか。
その時だった。
「間宮くん」
外から、佐々木の声がした。
反射的に返事をしかけ、はっと口を噤んだ。
臭いがしたのだ。
別荘に立ち込めていた耐えがたい臭気。かすかに、だが確かに鼻をかすめた。
(佐々木さんじゃない……?)
そもそも、佐々木は夜が明けるまでここには誰も来ないと言っていた。
冷たい汗が額に滲む。
「間宮くん」
身体がびくりと跳ねた。
声は、正面の板壁のすぐ向こうから聞こえた。
(……答えては駄目だ)
震える手でズボンのファスナーを上げる。じりじりと、呼吸さえ抑えるようにして後退りしかけ——唐突に腕をつかまれた。
僕は悲鳴を渾身の力で飲み込んだ。
腕を掴んだのは茜だった。いつの間にか側に来ていて、人差し指を口に当てて凄まじい形相で睨んでいる。
(わかってる! 急につかむな!!)
今のほうがよっぽど声を上げてしまいかねない。それをわかっているのか――。
そう茜を責めたかったが、無論、喋ることはできない。
その時、またも声がした。
「茜ちゃん」
腕をつかむ茜の手が、びくりと震えたのがわかった。
瑠菜の声だった。ただまったく抑揚がなく、異様に無機質な喋り方だった。
「茜ちゃん、ちょっと変わってるけどそんなとこも好きー」
茜は中腰になったままかっと目を見開いていた。怖れか怒りか、ぶるぶると震えている。
僕はそんな茜を抱えるようにひっぱってゆくと、お堂の中央に座らせた。
「茜ちゃん」
「うちら幼馴染なの」
外からの声はかまわず喋りかけてきた。
それが、別荘に向かう時の瑠菜の会話だと気づいた。
道中、瑠菜があたりを気にし、怯えていたわけがやっと分かった。森に入ってからずっと化け物につけられていたことに、瑠菜は気づいていたのだ。
「茜ちゃん」
僕の袖をつかむ茜の手に、ぐっと力が入るのが分かった。——化け物は周到だ。中野でなく、瑠菜の声を真似るとは。
「茜ちゃん」
「茜ちゃん」
数回名を呼んだのを最後に、外からの声は沈黙した。
(……あきらめたのか?)
おずおずと顔を上げたその時、突然堰を切ったように声が溢れた。
「茜ちゃん」
「ちょっと変わってるけどそんなとこも好きー」
「うちら幼馴染なの」
「茜ちゃん」
「ちょっと変わってるけどそんなとこも好きー」
腹の底から恐怖が込み上げる。尋常じゃないと思った。
茜は震える唇を噛みしめ、必死に堪えている。
その時――見えてしまった。
痩せた壁板の隙間から、黒目が覗いていた。
見てはいけないと分かっていたのに、そらせなかった。目が合った瞬間、眼球が凍りついたように動かなくなってしまったのだ。
意識が吸い込まれるように遠のいていった。その瞬間、がつんと頬を拳で殴られた。
僕は痛みに一気に覚醒する。視界が白むほどの衝撃だった。
茜が手負いの獣のような顔で睨みつけていた。食いしばった歯の隙間からふーっ、ふーっと荒い息を吐いている。
気を失うのを止めてくれたのだとわかったが――もう少しやり方があるのではないか。じんじんと痛む頬を押さえながら思った。
その時、壁板の隙間に鎌先のようなものがぐいっとねじ込まれた。すぐにそれが蜘蛛の足だと気づいた。
お堂全体ががたがたと音を出して揺れ始める。板を外そうとしているのだ。
(入られる……!)
そんな中でも、声は続いていた。
「茜ちゃん」
「うちら幼馴染なの」
「茜ちゃん」
僕たちは互いにしがみつくように抱き合いながら、音の洪水に耐えた。呼吸すら、ずいぶん長い間とめていたように思う。
どれだけの時間が経ったのか、やがて音がやんだ。
僕たちはおそるおそる顔を上げた。——板の隙間から幾筋もの光が差し込んでいた。眩しいほどの曙光だった。
腕の中の茜が安堵したように脱力したのがわかった。僕から身を離し、ふらりと立ち上がる。一刻もはやくここから出たいのだろう。
だが僕は、引き戸に向かおうとする彼女の腕をつかんだ。不思議そうに振り向いた茜に、僕は渾身の思いでふるふると首を振った。
臭いが、まだ濃厚にしていたのだ。
すると——唐突に差し込む光ががふっと消えた。一瞬にして周囲は暗転し、漆黒の闇に沈む。
力尽くで揺すられ、広がった板の隙間から化け物が覗いていた。塗りつぶしたような闇の中、それだけが異様にくっきりと見えた。
あれだけ物凄く笑っていた子供の顔は、凶相に変わっていた。怒りに吊り上がった目、への字に食いしばった口。それが握りこぶしのようにぎゅっと寄った皴の中に埋もれている。
僕は動けなかった。茜も立ちすくんだまま凍りついている。
恐ろしさに瞬きすらできぬまま見入っていると、そのまま顔は暗闇に溶けた。
それと共に、濃厚な気配、そしてあの臭いも消えた。
(……去った?)
――いや、また騙そうとしているのかもしれない。
僕らは互いにしがみつくように抱き合ったまま、息を詰めるようにして動かずにいた。
どれくらい時間が経ったのかわからないが、外が白みはじめ、二度目の曙光が壁板の隙間から差し込んだ。今度は茜も、身じろぎ一つしなかった。
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