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第一章
つばなれ 洋之進 壱
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つばなれ洋之進
壱
天保八年、霜月の三日、江戸の市中では昼過ぎから寒渡りの風が辻々を通り過ぎていた。
遠く関八州、上野武蔵国の更に北の山々から吹いてくる風は陽が西に傾くといよいよ強さを増して通りから砂埃を舞い上げだした。店の手代や小僧が慌て前の通りに柄杓で水を撒く。
街行く人々は着物の裾や襟、袖から入り込んでくる風と埃ををなんとか避けようと袂を絞りながら前かがみになって歩いている。
棟木洋之進は風ではだけそうになる襟元を方手で押さえると、裾がばたつく綿羽織を着た上体を僅かにひねって前から歩いて来た男を左に避けた。三尺あまりの大きな唐辛子の張りぼてを抱えた七味売りは得意の口上を言うのも忘れ、風埃を避けて地面ばかりみている。
董源堀から三沢の代照寺まで伸びるこの薬研通りは、左右に中店、小店がずらりと並び、多くの人で賑わっていて油断をすれば行き交う人とぶつかりそうになる。
「おい、ちゃんと前をみて歩け」
ぶつくさと横で小声を上げているのは朝から崎守東寺町の研ぎ師、弥平治の店まで洋之進に同道した立花三十郎だった。六尺はあるがっちりした体に藍色の長着、山吹色の帯を巻き、うこん色に白地の檜垣紋の羽織は当人なりに意匠を凝らしたつもだろうが何処となく垢抜けていないのは選んだ柄のせいか、着こなしのせいか。
不機嫌そうな顔をしているがそれでも風を避けようと足許しか見ていない通行人を大きな体で流れるように自ら避けてやりながら歩いている。
日中は晴天に恵まれ師走とは思えぬ陽気だったが、夕刻になると流石に長着の上に単衣の羽織だけでは肌寒くなってきた。東西に伸びる通りに影法師が長くなり、煮売り酒屋や小料理屋などこれからが掻き入れ時の商い以外は店じまいの支度に入っている。
洋之進たち二人は昼前に十六文の二八蕎麦を一杯かき込んだきり何も口にしていないので、通りに面した暖簾の奥から食べ物の匂いが流れて来ると口中につばきが沸き上がって来る。出来れば暖簾をくぐり腰を落ち着けたいところだが、生憎ここから歩いて半刻ばかりの根岸池のほとりにある山口流の道場まで行かねばならない。
弥平治の店で受け取った拵え直しの脇差を道場主の雨岩清玄先生に届けなければならないのだ。時刻が定められた使いではなかったが、何といってもこの江戸でも数本しかないと言われる左文字の脇差だけに途中の寄り道ははばかられる。今からなら、何とか日の暮れるまでには行きつけよう。
脇差は鞘に傷が付かぬよう二重に布にくるんだあと、分厚い刺し子つくりの刀袋に入れてあった。左文字は南北朝時代に筑前の刀匠左安吉によって鍛えられた名刀で、刀身に左の一文字が刻まれていることから左文字と後世に言われている。どちらかと言えば短刀を得意とした刀工だが長刀も善くこなし、北条家家臣の板部岡降雪斎から徳川家康に献上された二尺七寸五分の太刀は降雪左文字の異名を付けられ、更には紀州徳川家に下賜され家宝となっている。短刀はそれより多く現存しているが、この日の本の国を隈なく探しても十本は無いのではないかと言われている。
弥平治の店で見せてもらったそれの刀身は身幅広く地鉄は板目肌に地沸強く、匂口深く明るく冴えわたり、それはそれは見事なものであった。弥平治の話ではこれほど降雪の造りに似ている左文字は無いとの事で、三十郎と共に言葉を忘れて暫し見入ってしまったほどだった。
脇差とは言えこれほどの業物を運ぶ使いをポンと任せてくれた清玄先生に感謝するとともに、何としてもその信用を失うわけにはいかない。
暖簾が風にはためく蕎麦屋の前を通り過ぎると醤油と出汁の良い香りが漂ってきた。ごくりと生唾を飲み込みながらも痩せ我慢を決め込むと、隣から大きく腹の虫が鳴る音が響いた。見やると三十郎が片手で腹を押さえている。
「仕方なかろう。昼に蕎麦一杯きりだからな。俺は体が大きいから人の倍は食わんといかんのだ。やはり二杯食っておけばよかった」
洋之進が何も言わぬうちから言い訳をし、恨めしそうな顔で暖簾を見やる。
「蕎麦よりも一刻も早く左文字を見たいと急いで店を出たのはおぬしだろう。それに遣いを頼まれたのは俺一人だ、お前は適当に煮売り屋にでも入ったらどうだ。清玄先生のところまで付き合ってくれるのは有難いが、行っても飯を食わしてくれるかどうかも分からんぞ」
少し意地が悪いかなと自分でも思ったが口に出てしまった。有れば勿論、快く馳走をしてくれるだろうが、老人の一人暮らしだ。米を少なく炊いでいれば三人ではとても足りないに違いないし、まさか先生の夕飯を取り上げるわけにもいくまい。
「俺とお前の仲で寂しいことを言うな。一度付き合ったら最後まで行くさ。それに帰る前に今一度、左文字を見せて頂きたい」
友が左手に持つ刀袋を見て、子供のように無邪気に笑顔を見せるとは、やはり三十郎も剣客なのだ。ま、あの輝くような左文字の刀身を思い起こせば無理もない。洋之進も機会があれば清玄先生にせがんでこれから何度でも見せて頂きたいと思っているのだ。
よし、ならば急ごうかと歩みを速めた時だった。通りの前方から怒号と女の悲鳴が聞こえた。周りを歩く人々も振り返って一様に声のした方を眺める。続いて何かが壊れるような音が響き、更なる男の怒鳴り声が重なった。
「喧嘩だ、喧嘩だ!」
壱
天保八年、霜月の三日、江戸の市中では昼過ぎから寒渡りの風が辻々を通り過ぎていた。
遠く関八州、上野武蔵国の更に北の山々から吹いてくる風は陽が西に傾くといよいよ強さを増して通りから砂埃を舞い上げだした。店の手代や小僧が慌て前の通りに柄杓で水を撒く。
街行く人々は着物の裾や襟、袖から入り込んでくる風と埃ををなんとか避けようと袂を絞りながら前かがみになって歩いている。
棟木洋之進は風ではだけそうになる襟元を方手で押さえると、裾がばたつく綿羽織を着た上体を僅かにひねって前から歩いて来た男を左に避けた。三尺あまりの大きな唐辛子の張りぼてを抱えた七味売りは得意の口上を言うのも忘れ、風埃を避けて地面ばかりみている。
董源堀から三沢の代照寺まで伸びるこの薬研通りは、左右に中店、小店がずらりと並び、多くの人で賑わっていて油断をすれば行き交う人とぶつかりそうになる。
「おい、ちゃんと前をみて歩け」
ぶつくさと横で小声を上げているのは朝から崎守東寺町の研ぎ師、弥平治の店まで洋之進に同道した立花三十郎だった。六尺はあるがっちりした体に藍色の長着、山吹色の帯を巻き、うこん色に白地の檜垣紋の羽織は当人なりに意匠を凝らしたつもだろうが何処となく垢抜けていないのは選んだ柄のせいか、着こなしのせいか。
不機嫌そうな顔をしているがそれでも風を避けようと足許しか見ていない通行人を大きな体で流れるように自ら避けてやりながら歩いている。
日中は晴天に恵まれ師走とは思えぬ陽気だったが、夕刻になると流石に長着の上に単衣の羽織だけでは肌寒くなってきた。東西に伸びる通りに影法師が長くなり、煮売り酒屋や小料理屋などこれからが掻き入れ時の商い以外は店じまいの支度に入っている。
洋之進たち二人は昼前に十六文の二八蕎麦を一杯かき込んだきり何も口にしていないので、通りに面した暖簾の奥から食べ物の匂いが流れて来ると口中につばきが沸き上がって来る。出来れば暖簾をくぐり腰を落ち着けたいところだが、生憎ここから歩いて半刻ばかりの根岸池のほとりにある山口流の道場まで行かねばならない。
弥平治の店で受け取った拵え直しの脇差を道場主の雨岩清玄先生に届けなければならないのだ。時刻が定められた使いではなかったが、何といってもこの江戸でも数本しかないと言われる左文字の脇差だけに途中の寄り道ははばかられる。今からなら、何とか日の暮れるまでには行きつけよう。
脇差は鞘に傷が付かぬよう二重に布にくるんだあと、分厚い刺し子つくりの刀袋に入れてあった。左文字は南北朝時代に筑前の刀匠左安吉によって鍛えられた名刀で、刀身に左の一文字が刻まれていることから左文字と後世に言われている。どちらかと言えば短刀を得意とした刀工だが長刀も善くこなし、北条家家臣の板部岡降雪斎から徳川家康に献上された二尺七寸五分の太刀は降雪左文字の異名を付けられ、更には紀州徳川家に下賜され家宝となっている。短刀はそれより多く現存しているが、この日の本の国を隈なく探しても十本は無いのではないかと言われている。
弥平治の店で見せてもらったそれの刀身は身幅広く地鉄は板目肌に地沸強く、匂口深く明るく冴えわたり、それはそれは見事なものであった。弥平治の話ではこれほど降雪の造りに似ている左文字は無いとの事で、三十郎と共に言葉を忘れて暫し見入ってしまったほどだった。
脇差とは言えこれほどの業物を運ぶ使いをポンと任せてくれた清玄先生に感謝するとともに、何としてもその信用を失うわけにはいかない。
暖簾が風にはためく蕎麦屋の前を通り過ぎると醤油と出汁の良い香りが漂ってきた。ごくりと生唾を飲み込みながらも痩せ我慢を決め込むと、隣から大きく腹の虫が鳴る音が響いた。見やると三十郎が片手で腹を押さえている。
「仕方なかろう。昼に蕎麦一杯きりだからな。俺は体が大きいから人の倍は食わんといかんのだ。やはり二杯食っておけばよかった」
洋之進が何も言わぬうちから言い訳をし、恨めしそうな顔で暖簾を見やる。
「蕎麦よりも一刻も早く左文字を見たいと急いで店を出たのはおぬしだろう。それに遣いを頼まれたのは俺一人だ、お前は適当に煮売り屋にでも入ったらどうだ。清玄先生のところまで付き合ってくれるのは有難いが、行っても飯を食わしてくれるかどうかも分からんぞ」
少し意地が悪いかなと自分でも思ったが口に出てしまった。有れば勿論、快く馳走をしてくれるだろうが、老人の一人暮らしだ。米を少なく炊いでいれば三人ではとても足りないに違いないし、まさか先生の夕飯を取り上げるわけにもいくまい。
「俺とお前の仲で寂しいことを言うな。一度付き合ったら最後まで行くさ。それに帰る前に今一度、左文字を見せて頂きたい」
友が左手に持つ刀袋を見て、子供のように無邪気に笑顔を見せるとは、やはり三十郎も剣客なのだ。ま、あの輝くような左文字の刀身を思い起こせば無理もない。洋之進も機会があれば清玄先生にせがんでこれから何度でも見せて頂きたいと思っているのだ。
よし、ならば急ごうかと歩みを速めた時だった。通りの前方から怒号と女の悲鳴が聞こえた。周りを歩く人々も振り返って一様に声のした方を眺める。続いて何かが壊れるような音が響き、更なる男の怒鳴り声が重なった。
「喧嘩だ、喧嘩だ!」
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