短編集【怖い話編】

猫田けだま

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月が綺麗ですね

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 満月の夜には、なにかがおこる。
 満月は、ひとを狂わせる。

 今宵の禍々しくも美しい月は、どんな狂気を映し出してくれるのだろう。


*  *

 とあるタワーマンションの一室。妙齢の男女が上質なソファーに並んで座り、窓から見える満月を肴にワイングラスを傾けていた。

 男の方は品の良さがうかがえる外見で、物腰も柔らかい。対して女は露出の過ぎるワンピースをだらしなく着崩し、魔女のように長い爪でパルミジャーノチーズを摘み上げている。いささか不釣り合いなふたり。それでも室内に漂う空気は、甘い恋人のそれだ。

 と――、グラスの中身を飲み干した男が、蠱惑的な笑みを浮かべて口を開く。

「英語教師をしていた夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した、なんて逸話を聞いたことがありますか」

 女は即座に「もちろん」と頷く。不自然に強い口調が女の嘘を露呈していた。彼は満足げに目を細め、

「では「月が綺麗ですね」と、ささやかれた相手は、どう返すのが美しいでしょう」

 そう質問して、けれども答えを待たずに先を続ける。

「イワン・ツルゲーネフの小説〝片恋〟を翻訳した二葉亭四迷は「あなたに委ねます」という一節を「死んでもいいわ」と訳したそうです」
「……まあ、素敵」
「万里子さん、僕はね「月が綺麗ですね」に最も相応しいYesは「死んでもいいわ」だと思うんです」
「そうですね、とても美しい答えだわ」

 とろりと頬を染めた女が、潤んだ目をしばたかせた。

 この女、落ちたな――確信した男の視線が月光を映し、濡れて光りながら彼女に注がれる。

「月が、綺麗ですね」

 さあ、この世で最も美しいYesを――

 答えを待つ男の右手が、そっとズボンのポケットに忍び込んだ。そうして彼女の視界に入らぬよう取り出されたのは、飛び出しナイフ。彼の手は、数秒後におこるであろう惨劇への期待に小さく震えていた。

 早く言え。 死んでもいいわ――と。
 その瞬間、銀の刃先が君の喉を切り裂くから。
 君は声を失い、恐怖を瞳いっぱいに溜めて僕を見る。

 『ど・う・し・て?』

 唇の動きで読み取った訴えには、こう答えてあげる。
 君が言ったんだろう?「死んでもいいわ」って。

 薔薇色の頬が蒼白に変わったころ。そうだな……今度はその瞳を餌食にしようか。
 言葉と光を失っても、君にはまだ音がある。
 ルビーのピアスがよく似合うその耳に、なにを聞かせてあげようか。

 そうだ、ベートーベンのピアノソナタ『月光』はどうだろう。レコードプレーヤーを新しくしたんだ。気に入ってくれるといいのだけれど。
 
 曲が終われば、君は無音の世界に落ちていく。
 そこからは、痛み、恐怖、絶望だけ。

 だからね、万里子。最後の調べは優しいピアノソナタにしてあげる。

 ああ、たまらない。早く言ってくれ。腹の奥が熱くて堪らないんだ。

 早く……早く……熱くて……熱くて……
 熱い……あ……つ……い……あ……つ…………え?

 
 カラン――。


 男の手からナイフが滑り落ちた。はずみで刃の部分が飛び出す。
 それを見つめ、女が薄く笑った。

「知ってる?   月は綺麗だけど、決して裏側を見せないの」

 蜃気楼のように立ち上がった女は、尖った指先でナイフを拾い、刃先を彼の首に這わせた。

「生まれついての殺人鬼はね、浅薄な仮面を被って現れるものよ……裏側に底知れない残虐性を隠してね」

 切っ先が男の喉ぼとけをいたぶる。けれど彼は微動だにしなかった。いや、出来なかったのだ。

「残念だけど、あなたは分かり易すぎる」
「やめ……やめてくれ」

 強烈な熱さと痺れに筋肉を蝕まれ、指一本動かせない男が懇願した。女は彼を見つめながら、ナイフを上下に滑らす。

「そうそう、あなたのワインに入れたしびれ薬なんだけど、あれって凄いのよ。体の自由を奪うだけじゃなく、頭が冴えわたるんですって……素敵ね、肉を切られる感触も皮を剥がれる痛みも、最後までしっかりと味わえるわ」

 男が恐怖に叫び声を上げようとした瞬間、ナイフが喉をえぐった。

「ぎっ……ヒュウッ……」

 ほとばしる鮮血。一緒に風音に似た呼吸が吐き出された。

「うるさいのは嫌い……頭が痛くなるの」

 女は血に染まったソファーからいったん離れ、レコードを物色する。

「月光……、罪深い私にぴったり」

 レコードプレーヤーからベートーベンのピアノソナタが流れ始めると、窓辺に歩みを進めた女が空を見上げた。深く沈んだ、そしてどこまでも優しいピアの調べが室内を満たし、

「啓介さん」

 女がゆっくりと振り返った。
 カタカタと情けなく震える男に、彼女が慈愛に満ちた目を向ける。

「今夜が満月じゃなければ、死なずにすんだのに」

 赤い唇が、切なげに歪み、

「月は……怖いわね」

 月明かりの下。
 彼女の瞳から、ひと粒の雫が転がり落ちた。


 ~完~


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