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鬱金の章

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帰蝶の頭は、真っ白になった。
だだひとつの事実が突き付けられる。

器が違う――。

この男は蝮の道三が、ましてや私などがどうこう出来る男ではない。
相手は丸腰。こちらは武器を手にしている今、切り捨ててしまえばいい。
だが、出来なかった。
理屈ではない、魂がこの男に完全降伏しているのだ。彼を取り巻く空気はまるで意志を持った龍のように、どんな鎧よりも硬くその身を守っている。たとえ全兵で襲い掛かろうと、彼の命を奪うことは叶わないだろう。

降伏するしかないのか。しかし織田を欺いた父上は……美濃はどうなる。

青ざめる帰蝶に対して信長は、緊張感のない様子で無精髭の顎をスルリと撫でた。

「俺はな、蝮のことが気に入っているんだ」
「言葉の意味をはかりかねます」
「好きに解釈すればよい」

もう、腹を括るしかない。
帰蝶は薙刀を投げ捨て、信長の隣に歩みより、勢いよく腰を下ろす。
目を丸くした信長が、薙刀と帰蝶を交互に見た。

「おい、どうした」
「この場で薙刀一本がなんになりましょう、あなたほどのお方が、驚くようなことではありますまい」

信長の瞳を捕らえて微笑んだ帰蝶の心の内。
それは最後の矜持だった。
勝てないまでも、この男に侮られるのだけは嫌だ。
培った日々の鍛錬が、帰蝶の心を強く押し上げる。
信長は驚いたように黙りこみ、何事か思考を巡らせていたが。

「本当は替え玉でも良かったんだが……」

帰蝶の腕を掴み、強引に引き寄せる。

「気が変わった、俺と一緒に来い」

瞳を輝かせた信長の顔に、まるで宝物を見つけた少年のように屈託の無い笑顔が広がった。

「上総介……殿?」
「堅苦しい呼び方は好かん、信長でいい」

信長の毒気にやられてしまったのだろうか。

「お前は俺と一緒に走るに足る女だ」

断定的に放たれたその言葉が、帰蝶の体を熱くする。

「断る……と言ったら」
「お前は断らないよ」
「どうしてそう思うのですか」
「我が妻は、阿保ではなかろう」

逆らえば美濃を潰す。
これは遠回しな脅しだ。

うつけの皮をかぶった、狡猾な狼。
帰蝶が忌々しさに目を反らした瞬間。

「なっ!?」

顎を掴まれ、顔を引き寄せられる。

「それにこの目だ……帰蝶、お前は美濃で燻っていられる輩ではない。俺と同じ……戦場でしか生きられぬ………戦鬼の目をしている」

戦鬼――。

どこかで聞いたことがある。
それは確か源氏と平家が戦っていた頃。平和に身を置くことが出来ず、戦いの中でしか生きられない。そんな種類の人間がいたそうだ。人々は彼らを戦鬼と呼び、平穏の後は恐れ、迫害したという。
自分がその『戦鬼』だというのか。
帰蝶がゾッとして身を震わせるのを、信長は底の見えない目で見つめた。

「帰蝶、お前が選べ」
「父美濃の民に手出しはせぬと約束してくれますか」
「言ったろう。俺はあの蝮親父が気に入っていると」

信じて良いのか。けれども他に選択肢などあるだろうか。
自分の役目は兵の命を守り、美濃を守ること。覚悟を決めて戦場に赴いたはずだ。

帰蝶は、顎にかけられた信長の手をゆっくりと外した。

「松永を呼ぶ……」

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