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藤野宮家

幸田 堕ちる

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 来た………!

 夏野社長!!

「春子ちゃーん、お手伝いお願い!」

「はい!」

 竜子さんが社長を出迎えるよう私を呼んだ。

 幸田と海堂の視線の絡み合う中、頭を下げ座布団から降りる。
 立ち上がる寸前、正座した麗の手が震えてるのに気付き、思わず手を差し伸べ力いっぱい握った。

「意味がわかんないなぁー。
 今日は食堂の契約祝いをするんでしょ?
 俺にお説教でもするつもりなのー?」

「ああ。お前さんはたった今、無礼を働いたからな…」

 低く。
 暗く重い。
 海堂の呟き。彼の大きな背が威圧感を放つ。
 嵐の前の夜の海のよう。
 不穏な空気が漂う空間から抜け出し、辺りを見渡す。
 玄関先には竜子さんと慎也。
 そして紫織さんが立っていた。

 竜子さんが私のポケットをトントンと指差す。
 そうだ。ボイレコ。
 RECを切り、頷く。

「社長が到着されましたよ」

 紫織さんが私と慎也の腕を掴む。

「あんたらここに入っておいで!
 それをよこしな」

 まさか!ここでお役御免!?

「さぁ、イヒ早くこっちにイヒヒ」

「うぇっ!?」

「俺もっ!?」

 強引に菊池と言う怪しそうな斡旋屋のいる座敷に押し込まれてしまった。

「えー、真っ暗で何も見えねぇす!」

「ボイレコ取られたんだけど…」

「あー……まぁ、姉御の父親?すげー馬鹿にしてましたからね…姉御と春子ちゃんを虐めるつもりが………」

「社長をモロに貶し始めたね…アイツ…。アハ………なんか、私たちがなんやかんやしなくても」

 慎也からも渇いた笑いが出る。

「そっすね。あーゆー奴は見えないところで常にいない奴の悪評を流しますから。
 想定しないんすよ。基本的に自己中心的なんで」

 そこへ菊池が現れる。
 この鼠男、見た目で損するタイプなんだろうな…。紫織さんから素性を聞いてなかったら、私は色眼鏡で見ていたかもしれない。

「あーあー。大丈夫イヒ、イヒヒ悪いようにはしねぇよぉ」

「そ、そうですか…」

「おっさん誰スか?」

「イヒ、俺は菊池ってー………あ!!
 ほらっ!来たぞ!ヒヒ!ヒヒ!!」

 廊下側の襖のほんの少しの隙間を、三人で食いつくように覗く。

 玄関に現れたのは………。

「露木……?!」

 そうか……社長の運転手だからか。

「誰っすかあの人」

 慎也すまん。全スルーだ。後で説明するな。

 竜子さん、紫織さんが渋い面持ちで状況を話しているようだ。
 露木は何か頷くと、また外へ出て行った。

 二分ほどして、部下に傘を持たせた長身のスーツ姿の男性が現れた。

 外は…雨なのか…。
 いつの間に……。

「ようこそいらっしゃいました!」

 露木の時とは打って変わってご機嫌な声色で竜子さんが迎え入れる。

 男は色白で聞いていた年齢よりずっと若作りな印象だ。
 ただその冷たい眼差しが………確かに言われてみれば似ているかなと思う。麗に。

 夏野社長。
 入社してから三日間設けられた研修という名の洗脳期間にパンフレットで見た、ような………確かこの顔。

 イメージとしては、もっとどっぷりと金に浸かってる豚のような奴を想像していたが。
 なんだ?
 この男は、単純に怖い。
 金にも、人にも。情が無さげに見える。
 見目はスマートで甘いマスクだ。この系統が好きな女は居るだろう。
 雰囲気……だろうか…?
 纏った空気が重く、冷たい。
 紫織さんのような凛とした冷たさとは違う。

 竹下さんのいうことが本当ならば、繰り返し意中の女性を仕留めているわけだから、狙われた女性から見ると、この男には何か魅力があるのだろう。

 夏野社長がゆっくりと奥座敷に通される。

 菊池、慎也、私は手探りで、もちゃもちゃと揉み合いながら大移動。

 中は見えないが、向こうの空気は痛いほど伝わってくる。

「おっ!!お久しぶりですな!」

「どうぞ!夏野さん、こちらへ」

「こら、幸田君。その席をあけなさい!」

「しゃっ…………社長っ!!?」

 幸田が上ずった声色で怯えているのが分かる。
 慎也からコクリと生唾を飲む音がした。

「ああ。遅れて申し訳ない………」

 少し間を置き、ついにその存在に気付いたか。
 座敷は更に静まり返ったままだ。
 今になり、竜子さんが避難させてくれたことに感謝する。

「麗。どうしてここにいるんだ?」

 叱るでもなく、再会を喜ぶでもなく……。
 襖隔てて直ぐ頭上のハンガーを部下が取る音が鳴る。

「はい。バイト先の繋がりで桜食堂さんとは面識があり、本日はお手伝いとして参りました」

 父親……だよね?
 随分、かしこまった話し方だ。

「夏野さん、すまねぇ!
 分かっちゃいたんだが…どうにもこうにも幸田君の酒癖にはどうしたらいいか…」

「…!?」

 酒癖で畳むのか。
 夏野社長は納得するのか?

 側で菊池がイヒヒと笑う。

「あ………それは……私から説明を…」

 黒沢さんだ。

「実は娘さんには厨房を一緒にお願いしていて。
 でも、途中で幸田君が彼女に絡み出しちゃったものですから…」

「さっきまで大変な事になってたんだ!」

「まぁまぁ海堂さん!
 それで、麗さんの負担を軽減させるために私たちもお酌をしていたのですよ」

 大体あってる。
 ギリギリ………だいたい合ってる。

 夏野社長の反応は?
 顔が見えないのが残念だが。

「麗、すぐに帰りなさい」

「はい……」

 畳を歩く音が響く。

「はぁっ!?ちょっとちょっと!
 なんなの!?」

 馬鹿な。愛想よく麗を送り出せばいいものを。残念な奴め。残念幸田だ。

「え、娘さんって言った?むす………?
 はぁっ!?」

 誰もフォローをしない。
 皆が幸田を責めるかの如く無言を貫く。

「幸田君。麗が何か粗相でも?」

「いえっ!」

「そうそう、酒の席のことよ」

 海堂が塩を持って追いかけて来たぞ。

「あんな綺麗なお嬢さんでは、少し浮かれるのも無理ねぇわな。
 俺なんかもう随分お触りしとらん!ガハハ!女将さん、触らせてよ!幸田君がやったみたいに!」

「およしなさい!」

 海堂のおっさん……黒沢さんに何かでゴンッと叩かれたようだ。
 結構強めにやったな…。

「まぁいい。幸田。明日俺の家までくるんだ」

「っく!か………かしこまり……ました!」

 たったそれだけ?
 それだけか?
 だが社長も馬鹿じゃあるまい。
 これで幸田が麗に絡んでいた事は把握したはずだ。

「イヒヒ、イヒヒ!!」

「ちょ……その笑いやめてくださいよぉ…」

 慎也がコソコソと菊池さんに言う。
 緊張が解れていく…………。

 これで終わったのか…?

 なんとあっさり………。
 あの鶴の一声を引き出すために、これだけの人を集めて……?

 いや、まて。

「明日、社長は何するんだろう?
 幸田だけになったら、言い訳しまくって逃れるに決まってるよ!」

「イヒヒ、大丈夫大丈夫。その為のボイレコだからヒヒ」

「ボイレコ………」

「露木君が持ってったよ?イヒ、イヒ」

 露木………!
 あの狸………本当に大丈夫なんだろうか?

「これで終わったね…」

「ええ。厳重に処分されるんじゃないっすか?
 幸田の性格だと、甘い罰則で野放しにすれば「社長の娘と面識がある」とかなんとか、馬鹿な事を言い出すでしょうね」

 そうだ。麗はもう厨房に戻ったはずだ。

「麗探してくる!」

「うす!」

 廊下をそっと伺う。
 竜子さんや竹下さん達が社長のお膳を運んでいる。
 襖が開いてるから廊下からは無理か。
 玄関から外に出て厨房へ向かおう。
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