401 / 601
第5章
63.フルードの遺言
しおりを挟む
◆◆◆
透き通った滴が零れ落ち、光を反射しながら輝いた。
降り続いていた雨で濡れそぼつ神殿。その屋根を伝い落ちる雨粒が、陽光に照らされながら池上に降り注ぐ様は、さながら透明な水晶が煌めいているようだ。
『私は間もなく逝きます。生まれ落ちてより32年近くの生涯を過ごしたこの地を離れることに、寂寥と感慨を覚えています』
この達筆な字はどうやって身に付けたのだろうか。大神官補佐室にて、上質な紙に綴られた流麗な筆跡を見ながら、アマーリエはぼんやりと考えた。
胸に去来するのは、今わの際の姿。全身が目も当てられぬほど無惨な状態に損傷していたにも関わらず、彼は美しかった。今まで見たどの天の神よりも艶やかだと思うほどに。鮮血に染まった中、奇跡的に綺麗なまま残っていた顔の左側だけは透き通るように白く、万物全てをひれ伏せさせるまでに神々しかった。
(律儀にこういう物を遺しているなんて、何というか、フルード様らしいわ)
フルードは秘奥の神器を鎮めに行く前、身支度の際に遺言状をアシュトンに渡していたらしい。自らの死期が迫っていると悟った時、あらかじめしたためておいた物だという。今、それを読ませてもらっている。
(どことなくフレイムの字に似ているわね。フルード様の方がずっと優しくて繊細だけれど。フレイムはもっと力強いわ)
だが、何というのか、筆跡というより書き方そのものがどこか似通っている気がする。そういえば、読み書きもフレイムに教えてもらったと言っていた。基本的な部分は神官府でも指導されたそうだが、流麗な字を乱さず迅速に書くことを教えてくれたのはフレイムだったという。
『私が去った後も、世界は変わらず回り続け、月が輝いては太陽が昇り、人々はそれぞれの暮らしを送ることでしょう』
聖威師だろうが大神官だろうが、自分一人がいなくなった程度で人の世が揺らぐことはないと、暗に告げている。地上も人間もそんなに脆くない、自分たちの力で先へ進んで行ける。
フルードは常々から言っていた。神である聖威師が、力にせよ身体能力にせよ人間を超越しているのは当然であり、何も凄いことではないと。むしろ、神のような存在ではなくとも精一杯に日々を営む人間こそが、真の意味で偉いのだ。それは聖威師と天威師の共通認識でもあった。
『一生の中では、様々なことがあります。良くないことも苦しいことも、たくさん起こるでしょう。腹が立つこともあると思います。
ですが、これは覚えておいて下さい。誰かに何かを言う時、する時、その言動は、相手の瞳に映り込んでいる自分に対しても向けられていると』
人を指差して攻撃すれば、それは自分に対しての指弾にもなり得る。誰かに対して両腕を広げれば、自分を抱擁することに繋がる。相手の向こうには自分自身がいる。
『許せないことをした相手に対し、抗議や反論、注意をするのは当然のことです。適正範囲内でならば、報復を行うことも有り得るでしょう。自分や自分の大切な者の尊厳を守るため、世の規律を乱さないためには必要なことです。
しかし、賞賛も罵倒も、肯定も否定も、労わる愛撫も振り上げた拳も、いつか何かの形で自分や自分の周囲に返って来るかもしれない、そのことは心に留めておいた方が良いと思います』
人の世では因果応報、自業自得などと呼ばれるそれは、一種の真理でもあるのかもしれない。
『世の中は不公平で理不尽です。生まれた時から全てに不自由しない人もいれば、いくら努力しても報われない人、酷い目に遭わされるばかりの人もいます。表面上は恵まれていても陰で泣いている人や、誰にも気付かれない所で辛い目に遭っていて、助けを求めても届かない人もいます。
同じ事象であっても、当人の心の持ち様で幸か不幸かは変わります。しかし、心身が千切れるほどの痛みに耐えて涙をこぼす人に、現状を不幸だと思うのはあなたの考え方が原因だと言うことは、私にはできません』
フルード自身、かつては壮絶な生き地獄の中で泣いていた。彼はどのような思いでこれを書いたのだろうか。
『痛みを抱えている人々に対して、私が取れる手段はとても少ないですが、私財の一部を公共の福祉活動のために遺します。
頑張りすぎて心と体を磨り減らしている人、叩き潰しかけている人。進むべき道が分からない人、足の調子が悪くて望む道に進めない人。艱難辛苦の中で耐え忍ぶ人。誰も知らない場所で不当な扱いを受けている人。
そういった人々を発見して救えることを、また、そういった人々を支えたいという志を持つ人の一助になれることを、心から願っています』
自分は地獄の底から救われた。高位神に愛されたから。だが、そんな大当たりを引き当てられる確率など、落ちて来た星の欠片に当たるより低い。特定の家柄に生まれた子女ならともかく、市井に住む一般人であればなおさらだ。救われない者たちが大勢いることを、フルードは常に気にしていた。
『散々に傷付いた人々が、大きな苦しみの中で疲れ果て、自信を失っていたなら、優しく抱きしめてこう言ってあげて下さい。
それほどしんどい思いをしても生き続けた、それだけであなたは十分に頑張った。あなたは今こうして生きているだけで、世界の誰よりも立派なのだと』
仮に、途中で耐えられず、命の幕を引いてしまった者がいたとしても、その人も最後の最後まで精一杯生き抜いただろう。
ボロボロにされる側の痛みを実体験で知る者が記した遺言状は、こう締めくくられていた。
『どうか一人でも多くの人が、自分は幸せだと心から思える世の中になりますように』
透き通った滴が零れ落ち、光を反射しながら輝いた。
降り続いていた雨で濡れそぼつ神殿。その屋根を伝い落ちる雨粒が、陽光に照らされながら池上に降り注ぐ様は、さながら透明な水晶が煌めいているようだ。
『私は間もなく逝きます。生まれ落ちてより32年近くの生涯を過ごしたこの地を離れることに、寂寥と感慨を覚えています』
この達筆な字はどうやって身に付けたのだろうか。大神官補佐室にて、上質な紙に綴られた流麗な筆跡を見ながら、アマーリエはぼんやりと考えた。
胸に去来するのは、今わの際の姿。全身が目も当てられぬほど無惨な状態に損傷していたにも関わらず、彼は美しかった。今まで見たどの天の神よりも艶やかだと思うほどに。鮮血に染まった中、奇跡的に綺麗なまま残っていた顔の左側だけは透き通るように白く、万物全てをひれ伏せさせるまでに神々しかった。
(律儀にこういう物を遺しているなんて、何というか、フルード様らしいわ)
フルードは秘奥の神器を鎮めに行く前、身支度の際に遺言状をアシュトンに渡していたらしい。自らの死期が迫っていると悟った時、あらかじめしたためておいた物だという。今、それを読ませてもらっている。
(どことなくフレイムの字に似ているわね。フルード様の方がずっと優しくて繊細だけれど。フレイムはもっと力強いわ)
だが、何というのか、筆跡というより書き方そのものがどこか似通っている気がする。そういえば、読み書きもフレイムに教えてもらったと言っていた。基本的な部分は神官府でも指導されたそうだが、流麗な字を乱さず迅速に書くことを教えてくれたのはフレイムだったという。
『私が去った後も、世界は変わらず回り続け、月が輝いては太陽が昇り、人々はそれぞれの暮らしを送ることでしょう』
聖威師だろうが大神官だろうが、自分一人がいなくなった程度で人の世が揺らぐことはないと、暗に告げている。地上も人間もそんなに脆くない、自分たちの力で先へ進んで行ける。
フルードは常々から言っていた。神である聖威師が、力にせよ身体能力にせよ人間を超越しているのは当然であり、何も凄いことではないと。むしろ、神のような存在ではなくとも精一杯に日々を営む人間こそが、真の意味で偉いのだ。それは聖威師と天威師の共通認識でもあった。
『一生の中では、様々なことがあります。良くないことも苦しいことも、たくさん起こるでしょう。腹が立つこともあると思います。
ですが、これは覚えておいて下さい。誰かに何かを言う時、する時、その言動は、相手の瞳に映り込んでいる自分に対しても向けられていると』
人を指差して攻撃すれば、それは自分に対しての指弾にもなり得る。誰かに対して両腕を広げれば、自分を抱擁することに繋がる。相手の向こうには自分自身がいる。
『許せないことをした相手に対し、抗議や反論、注意をするのは当然のことです。適正範囲内でならば、報復を行うことも有り得るでしょう。自分や自分の大切な者の尊厳を守るため、世の規律を乱さないためには必要なことです。
しかし、賞賛も罵倒も、肯定も否定も、労わる愛撫も振り上げた拳も、いつか何かの形で自分や自分の周囲に返って来るかもしれない、そのことは心に留めておいた方が良いと思います』
人の世では因果応報、自業自得などと呼ばれるそれは、一種の真理でもあるのかもしれない。
『世の中は不公平で理不尽です。生まれた時から全てに不自由しない人もいれば、いくら努力しても報われない人、酷い目に遭わされるばかりの人もいます。表面上は恵まれていても陰で泣いている人や、誰にも気付かれない所で辛い目に遭っていて、助けを求めても届かない人もいます。
同じ事象であっても、当人の心の持ち様で幸か不幸かは変わります。しかし、心身が千切れるほどの痛みに耐えて涙をこぼす人に、現状を不幸だと思うのはあなたの考え方が原因だと言うことは、私にはできません』
フルード自身、かつては壮絶な生き地獄の中で泣いていた。彼はどのような思いでこれを書いたのだろうか。
『痛みを抱えている人々に対して、私が取れる手段はとても少ないですが、私財の一部を公共の福祉活動のために遺します。
頑張りすぎて心と体を磨り減らしている人、叩き潰しかけている人。進むべき道が分からない人、足の調子が悪くて望む道に進めない人。艱難辛苦の中で耐え忍ぶ人。誰も知らない場所で不当な扱いを受けている人。
そういった人々を発見して救えることを、また、そういった人々を支えたいという志を持つ人の一助になれることを、心から願っています』
自分は地獄の底から救われた。高位神に愛されたから。だが、そんな大当たりを引き当てられる確率など、落ちて来た星の欠片に当たるより低い。特定の家柄に生まれた子女ならともかく、市井に住む一般人であればなおさらだ。救われない者たちが大勢いることを、フルードは常に気にしていた。
『散々に傷付いた人々が、大きな苦しみの中で疲れ果て、自信を失っていたなら、優しく抱きしめてこう言ってあげて下さい。
それほどしんどい思いをしても生き続けた、それだけであなたは十分に頑張った。あなたは今こうして生きているだけで、世界の誰よりも立派なのだと』
仮に、途中で耐えられず、命の幕を引いてしまった者がいたとしても、その人も最後の最後まで精一杯生き抜いただろう。
ボロボロにされる側の痛みを実体験で知る者が記した遺言状は、こう締めくくられていた。
『どうか一人でも多くの人が、自分は幸せだと心から思える世の中になりますように』
11
あなたにおすすめの小説
結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?
ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十周年。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。
※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
侯爵令嬢ソフィアの結婚
今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚したが、これは金が欲しいソフィアの父の思惑と高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない
そもそもヴィンセントには美しい恋人がいる
美男美女と名高いヴィンセントとその恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ
その事をソフィアも耳にしており、この結婚が形ばかりのものであることを知っていた
結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら家に住むように言われて…
表紙はかなさんです✨
ありがとうございます😊
2024.07.05
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
ローザリンデの第二の人生
梨丸
恋愛
伯爵令嬢、ローザリンデの夫はいつも彼女より仕事を優先させ、彼女を無碍にしている。
彼には今はもういない想い人がいた。
私と結婚したことにいい思いをしていないことは知っていた。
けれど、私の命が懸かっていた時でさえも、彼の精神は変わらなかった。
あなたが愛してくれないのなら、私は勝手に幸せになります。
吹っ切れたローザリンデは自分自身の幸せのために動くことにした。
※投稿してから、誤字脱字などの修正やわかりにくい部分の補足をすることがあります。(話の筋は変わらないのでご安心ください。)
1/10 HOTランキング3位、ありがとうございます。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる