上 下
1 / 1

1.大地震、彼女を救う

しおりを挟む
 突如、波のように揺れる地面。鼓膜に鳴り響くベル音。それですぐに地震──いや、大地震だと察しがついた。

 それは放課後、校舎から殆どの生徒が吐き出された後の出来事だ。そう……僕と教師ら、そして彼女を除いて。

 それに気づいたのは、玄関の下駄箱に着いた頃だ。辺りに身を隠せる所はない。外が目の前にあるのにも関わらず、僕は出ようとはしなかった。理由は1つ。

 まだ教室に人が──

 踵を返し、大地震という支配下でも必死に抗うかのごとく複雑な足取りで駆ける。勢いに任せ、ただひたすらに。

 大きな揺れの中、足が言うことを聞いてくれず、苛立ちを覚えていた。それでも僕の意思は揺るがない。

 誰しもが彼女の状況下に置かれようと、僕が助けるわけではない、と言えば客観的に悪へと姿が変わるだろうが……僕がここまで必死なのにはちゃんと理由がある。







 今日のロングホームルーム時に役決めをした。中学の頃とは違い、どの委員かには必ずなれというのはなかった。黒板の前に立ち、去年と同等『秘書』という欄に自分の名前を書いた。

 先生のお手伝い、身の回りの整理整頓と、仕事は少なく行動範囲も短いので気に入っている。

 この仕事はなぜか人気がなく、今年も僕で即決された。

 そしてとある委員会の欄だけが名前で埋め尽くされていた。見る限り、ほぼ男子だった。おおむね検討はついていた。その欄の上部分に書かれた女子2人の名前。その片方……。

 ──穂波琴葉ほなみことは

 去年行われた校内の一大イベントであるミスコンテスト、通称『ミスコン』に、彼女は1年にして2年、3年をも見くびるかのように断トツで一位の座を手にした。

 常日頃からの言動、成績と、全てにおいて非の打ち所がない彼女は、言わば学校のトップカーストである。もちろん憧れの的である。

 素直に言おう。僕もその中の一人、彼女に淡い憧れを抱いているのだ。

 そんな彼女の人気は、入学当初から未だに色褪せていない。褪せる気配すら見せない。

 結局その委員はジャンケンによって決めることになった。結果はというと、彼女は負けた。「負けちゃったよー」と一言添えた彼女が移った役先は『秘書』だった。

 珍しかった。他の役にも枠はあり、秘書は人気がない。それに、彼女にとって僕はただのクラスメイトだ。席も隣になったこともなければ、話したこともない。

 元々彼女は友達と一緒に立候補したようだった。友達はジャンケンに勝ったようで、名前の横に丸されていた。空いてる役には、彼女と仲のいい女友達が、一人決めされている所がある。

 にも関わらず秘書に立候補とは、純粋にやりたかったということなのか……。

 それにつれて、他の負けた男子数名も『秘書』に名前を書き始めた。彼女についてきたとしか考えられない。

 またジャンケン決めになるも、今度の彼女は勝ってみせた。

 今日の放課後から先生によって、早速仕事を託されたのだ。

永遠とわくん、宜しくね!」
「うん」

 名前は覚えていてくれたらしい。一年も一緒にいれば覚えるだろうと心でつぶやいた。相変わらず彼女の印象は『明るい』でまとめられる。

 仕事も少なく、残りは書類を先生の元へ届けるだけだ。

「それじゃあ、僕は書類を届けてそのまま帰るから」
「お疲れ様ー! 私もうちょっと残ってくね」

 忘れ物のチェックをしているようだった彼女は、僕の声に反応し、目を細めて手を振ってきた。まだ親しいわけでもなく、あまり女子と話す経験もなかった僕は、彼女にのれなかった。振り返すこともなく、教室を出てしまった。

 何か惜しい事をした気分だった。








 大地震と察した時、咄嗟に僕の心に映し出してしまったのは、ただの琴葉の姿ではなく、無慈悲ながらも教室で慌てふためく様子の琴葉が、恐怖のあまり青ざめ、その場にへたり込んでしまっている姿だった。

 不安でしかなかった。

 教室の前に辿り着いた僕は、迷わず取っ手に手をかけ、引いたが開かない。2度目は体ごと引いたが開かない。揺れが原因で入り口の枠が歪んだのだろうとすぐに分かったが、最悪の手段は既に考えていた。

 相変わらず揺れは治らない。バランスを取りながらもすぐさま数歩後退し、助走をつけ、扉へ突っ込んだ。

 揺れのせいで、ガタガタとひたすらに響く辺りの大きな物音のお陰か、扉を倒した時の衝撃音は少ししか目立たなかった。

 教室の全体を視界に収めた。夕陽によって色付けられた教室の中、視線に入ったのは1人の少女がうずくまっている姿だった。

 穂波琴葉であった。

 心に映し出していた彼女の姿と一致しなかった部分は、頭を抱えながら顔を膝に埋める姿だけだった。ビクビク震えているようにも見えた。

「琴葉さんっ!」

 即座に安心させようとする一心で名を呼ぶ。彼女に対して、初めて名前を叫んだ。

 精一杯かけて出した声も、彼女の耳には届かなかったようだ。耳が腕によって塞がれているせいか、
はたまた物音のせいか。

 ふと気づいた。彼女の位置は、今にも落ちんばかりの、外れかかった蛍光灯の真下。

「危ない!」

 そう言ってからは一瞬だった。彼女の元へ駆け出し、移動させようと彼女の腕を掴み、押したのだがうまくいかなかった。

 そのまま押し倒してしまった。彼女のどこまでも黒い長髪は、床で水のようあらゆる方向へ広がっていた。腕を掴み、そのまま覆いかぶさった僕に彼女は目を見開いていた。何が何だか分からない様子だ。

 僕の暗い影を落とされた彼女の顔、は本当に綺麗だった。余裕のないこの状況下でも、そう感じてしまった。

 眉間に皺を寄せた彼女は、長い睫毛の間から僕を鋭く見つめ、その可憐な口を開かせた。

「ちょっと! こんな時にな──」

 直後、辺りの音とは比べ物にならない程の大きなガラスの割れた音が、教室中に鳴り響いた。そして僕の背中に衝撃が走った。

 彼女は、僕のこの行為を察したように黙り込んだ。その瞳は先程よりも開ききっていた。

「──っ!」

 遅れて感じてくる痛み。多分今、僕の背中はとても酷いことになっているだろう。

 弱音は口に出さず、表情で抑えた。

「ちょ、永遠くん! 血がっ!」
「え?」

 言われて気づいたが、妙に背中が熱い。ワイシャツがどんどん滲んでくのが、皮膚の感覚を伝って感じた。

 これが汗ではなく、血だとしたら尋常な量ではない。

 やがて気が遠のいてゆくのを感じた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...