春と夜とお風呂の帝国

吉野茉莉

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第1話

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 ここは帝国。

 たった一人の。

 領地は私の身長と同じくらいで、両手を伸ばすことはできない。

 足を伸ばして湯船に浸かっている。

 かれこれ三十分ほど。入浴剤で白く濁り、ぷかぷかと黄色いアヒルが浮かんでいる。どこで買ったのかはわからないけど、たぶん二年くらいの付き合いになる相棒だ。もしかしたら、私以外の市民と認めてもいいかもしれない。

 入浴剤は日替わりで、アロマキャンドルが浮いているときもあるし、浴室の電気を消しているときもある。今のところスマホを持ち込んだことはないが、いずれ試してみるだろう。そうなると今以上に長くなってしまうのではと思う。

 ガラクタの量なら自分の部屋よりも多いだろう。

 ここが私の帝国だと認識したのは二年前からだ。

 帝国と王国の違いもわかっていない。とにかく、私がそう思ったからそうなのだ。

 足をさらに伸ばして上唇まで水に沈める。

 呼吸はできるが、少しずつ不安定になる。

 硬めで少し癖のある髪が湯船に浮かんでいる。

 そうしてまた頭を上げる。

 そろそろいい加減にしないと父に怒られてしまうだろう。

 どうして怒るのか、その理由ははっきりとしている。

 母が亡くなったのもこの浴槽だった。

 同じく長風呂が趣味だった母は、二年前に湯船に沈んでいるのを父に発見された。救急車で運ばれたけど、もうとっくに息をしていなかった。

 私はそのときたまたま家にいなかったので詳しいことはそれ以上聞かされていない。

 とにかく、そのとき母はここで死んで、それっきりになった。そこで長風呂をしている私もどうかと思われるかもしれないけど、そのとき居合わせたわけではないし、スッといなくなってしまったので、私の中では違和感がなかった。父はどうやら嫌らしく、毎日シャワーで済ませている。引っ越そうかという話もあったけど、私が環境を変えたくなかったので、それには反対した。父もしばらく悩んでいたが、死人が出た家を売るとなるとそれなりの価格になってしまうだろうということで住み続けることになった。

 保険会社に勤めていた母はこの家を買うときにも保険をかけていて、その保険金でこの家のローンもチャラになったらしい。ローンがなくなったのでフリーランスの翻訳家をしている父の収入でもとりあえずの生活はできるようになった。不幸中の幸いだ、という思いはあったけど、さすがにそれは口には出していない。このままいけば大学に行くこともできるだろう。

 温めのお湯なので茹だることはないが、頭がぼんやりしてきたので上がることにする。

「上がったよ」

 私が髪をタオルで巻きながらリビングに出る。リビングにあるソファには誰もいない。お風呂上がりに母がソファでテレビを見ながら何かしらを飲んでいたのを思い出す。反対側に部屋があり、そこのドアが開いていた。

「そう」

 とだけ声が聞こえた。

 リビングから二階に上がり、自室で髪を乾かす。母譲りのくしゃっとした薄茶色の髪は乾いていくに従いボリュームを増していくようにも思えた。大学に行ったら縮毛矯正を考えるべきか。

 鏡に自分の顔を映す。瞳がやや茶色い以外はさしたる特徴もなく、瞳のことも親以外には指摘されたこともない。

 ちらりをベッド脇に置かれている時計を見る。

 ンナー、と言いながら少しだけ開けておいた部屋のドアを押して黒い物体が入り込んできた。

 ンナンナー、と更に言い、首を振って部屋の中央に来る。

「ハハ、ダメだよ」

 そうは言ってみたが、ハハは気にもせずベッドの上に乗って倒れて伸びをした。

 ハハ、黒猫は一年ちょっと前に庭先で丸くなっていた。そのときは子猫で、鼻風邪を引いているようだった。親猫から見捨てられてしまったのか一日経っても一人きりだったので毛布に包んで病院に連れて行った。以来、主に私の部屋を中心に家をウロウロしている。

 ハハ、は私が名付けた。特に深い意味はない。母がいなくなったので、その代わりに来たのでは、と動物病院で名前を聞かれたときに思ったからだった。当然のことながら父は嫌がったが、ハハ自体は呼べば寄ってくるようになってしまったので今更変えることもできなくなった。

 ハハは私のドライヤーの音に反応して耳をパタパタさせていたが、慣れたもので逃げ出すことはなかった。

「じゃあまたね」

 乾いた髪を撫でて、その流れでハハを撫でて立ち上がる。

 あらかた乾いたところで、着替えをする。

 階下に行くと、父がソファに座っていた。

「ハル」

 父は私の名前を呼んだ。昼夜逆転気味の生活をしている父は、ようやく目が覚めてきたところのようだった。

「ようやく起きたの?」

「また出かけるのか」

 私の言葉に溜め息混じりでこちらを見た。

「うん」

「危ないよ」

「大丈夫だよ、たぶんだけど」

「でも、気をつけて」

「わかった」

 私が返事をすると、諦めたように父が言う。

「心配だよ」

「うん」

 そのまま財布を持って、私は玄関のドアを開けた。

 ここからも私の時間だ。

「春は私の季節だからね」
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