春と夜とお風呂の帝国

吉野茉莉

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第7話

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 無言のまま時間が過ぎ、暗いながらも海岸線が見えてきた。

「少し補給をしていこう」

 ヨルが提案をして、近くのコンビニに車を止めた。ヨルは運転席から出て背伸びをする。私もそれに倣って背伸びをした。

 コンビニに入って、それぞれが飲み物を買った。ヨルはさすがにダメか、と小声で呟いて缶チューハイから手を離し、ペットボトルに入った紅茶を手に取った。私はサイダーを買う。

「それから」

 レジ前でヨルは肉まんを指さす。

「なにか」

 ヨルに促されて、私は普段頼んだりもしない唐揚げを選んだ。

 会計をヨルが済ませて、私たちはまた車に乗り込む。

 十分ほどして車は駐車場に止まった。

「砂が入るね、ハルの方が楽そうだ」

 誰もいない駐車場から真っ直ぐ砂浜へ向かう。砂を踏む感触が足に伝わる。ヨルのヒールの低いパンプスに比べれば私のスニーカーの方が確かに砂は入りにくいだろう。

 波打ち際に対して水平に私たちは砂浜を歩く。

 周囲は月と星の明かりと、道路からの照明だけで、少し距離を取ればヨルの姿は見えなくなりそうだった。足を速めてヨルの横に並ぶ。

「ベンチがある」

 紅茶を持った右手でヨルは指す。私も薄闇の中で二人がけのベンチが置かれているを見つける。

「座ろう」

 奥側にヨルが座ったので、手前に私が座る。

 ヨルがペットボトルの蓋を開けたのを見て、私も同じく蓋を開ける。

 ヨルがだらりとベンチに身体を預けて紅茶に口をつける。

「疲れたなあ」

「運転ありがとう」

「ハルが言うことじゃないよ、私が連れ出したんだし、疲れたけど、家でじっとしているよりはよかった」

「そう」

「冷めないうちに食べようかな」

 ビニール袋に入っていた肉まんを取り出してヨルは食べ始めた。そのまま袋を私に渡す。私はそれを受け取って、中身を出した。

 唐揚げの入った小さな箱を開いてそのうちの一つを取ろうとした。

 そのときだった。

 バサリという音が頭上でした。

「い」

 何かが手に乗った。

 その重みは一瞬でなくなる。

 眼前をふわりとしたものが覆う。

「な」

 右手がわずかに軽くなる。

 手に持っていた箱が宙に浮いて自由落下をする。

 二人で顔を見合わせた。

「これって」

 バサバサと音が頭の近くで鳴っている。

 突然やってきた鳥が、私の持っていた唐揚げを箱ごと奪っていったのだ。

 全てを奪えなかったのか、ボロボロと唐揚げが空から降ってきて二人の間に落ちてきた。

 私たちは動きを停止してお互いを見つめている。

「あはははは!」

 ヨルが大げさに大笑いした。

 演技で見るように、お腹を抱えている。

 星の光を遮るように鳥は旋回をして、そのまま闇の中に消えていってしまった。

 右手は鳥のくちばしが掠ったのか少しじんじんする。

「どうしたの?」

 光景は面白かったかもしれないけど、そこまで笑うようなことだろうか。

 笑いながらヨルは空を指さした。

「だってさ、鳥が唐揚げってことは、共食いじゃん!」

 笑いすぎて苦しそうな呼吸になりながらもヨルが言う。

「前言撤回! やっぱりあいつら自由だ!」

 嬉しそうな声でヨルが言った。

「ねえねえ、海行こう海!」

 突然ヨルが立ち上がる。

 パンプスを置いて、裸足でヨルが走り出した。

「ちょ、ちょっと」

 私はサイダーをベンチに転がしてスニーカーを履いたまま、ヨルを追いかける。

 波打ち際まで追いつくと、ヨルは両足を上げてわざとバシャバシャと波音を立てていた。

「ハルもおいでよ」

 手を広げてくるりと回転して、ヨルが手招きをする。

 先ほどの鳥の行動で、何かの糸が切れたのかヨルはテンションが上がったままだ。

「でも」

「はやく!」

 大きく両手を振っているのが見えた。

「ちょっと待って」

 スニーカーと靴下を脱いで波の届かないところに置く。湿った砂を踏む感触があった。

「つめた」

 波が押し寄せてくるぶしまで水が上がってくる。春の海はまだ冷たい。水道水よりも冷たい水が喉ではなく足に染み渡っていく。

「こっちこっち」

 ヨルが近づいた私を掴もうとしたけど、暗闇で距離を誤ったのか右手が空振りをしてそのまま海の中に尻餅をついた。

「あらら」

 下半身を波下に沈めたヨルは慌てる様子もなく、おどけた感じで呟いた。

「まるでお風呂だ」

「なんて?」

「海がさ、お風呂みたいだってこと」

 ヨルの言葉に少しドキリとする。

「大きなお風呂だ。今は二人きりで貸し切りの」

「そうだね」

「海じゃなくて温泉にでも行けばよかったかなあ」

 手を差し出し、ヨルを引き上げる。あのときと立場が反対になった。

「今度行こうよ」

「そうだね、今度、いつか、私たちが終わる前に」

 ヨルがスカートを持ち上げてくるりと踊る。月に照らされてヨルの足が見えた。薄暗がりでもわかるくらい、ヨルの足には痛々しい傷がある。

「染みる、海が染みるなあ」

「大丈夫?」

 最高の笑顔を見せてヨルが返す。

「痛い! メッチャ痛い!」

 嬉しそうに言う。

「生きてる!」

 ヨルが叫ぶ。

「生きてるんだよ!」

 もう一度大声で叫んだ。

「たとえ地獄に行くとして! 私はまだ生きてるんだ!」

 ヨルが足を上げて蹴りのような仕草をしたせいで、水が跳ねて私の顔にかかる。

「私も! 生きている!」

「そうだよ、みんな生きているんだ、生きているかぎりはね!」

 二人で叫び合って、手を取り合って、ぐるぐると回って、全身をずぶ濡れにしない程度に水を掛け合った。

 ずっと、笑っていた。

 ひとしきり騒いで、落ち着いたところで二人で手を繋いでベンチに戻る。靴下を穿くことは諦めて、そのままスニーカーを履いた。砂がジャリジャリと足の裏についていて、スニーカーと擦れて痛かったけど、それすらも生きている証拠のように思えてきた。

 ヨルはまだ裸足のまま、足をぶらぶらさせていた。

「本当はさ、これで終わりにしようって思っていたんだ」

 ヨルが言う。

「でも、終わるのはまだ先だな」

 この間お風呂で読んでいた本を思い出す。

 あの海で死んだ二人は最後幸せだったろうか。

「本当はさ、保育士になりたかったんだよね、私」

 唐突にヨルが言う。

「大学もそういうところに行ったんだけど、でもなれなかった」

「どうしてですか?」

「さあ、どうしてだろうね。どうしてか、それももうわかんなくなっちゃったんだ」

 ヨルがスカートを絞って海水を砂に染み込ませていた。

 二人とも海水でベチャベチャになっていた。タオルも用意していなかったので、車に乗るまでには多少乾かしていかないといけないだろう。特にヨルは腰まで水に浸かってしまったのでかなり不快感がありそうだったが、それも顔に出さず、むしろ満足そうにしていた。

「ライン、やってる?」

 ヨルが聞く。

「うん、でも」

 ヨルが連絡先を聞くなんて不思議に思った。

「でもが多いよ。交換しようよ」

 スマホを振ってヨルが画面を出す。

「……いいよ」

「連絡するよ、いつか」

「わかった」

 ラインを交換する。

「帰ろう、お父さんが心配するよ」

「うん」

「心配する親がいるんだから」

 ヨルは海の方を見る。

「今日も一日に感謝を!」

 ヨルが海に向かって叫んだ。

 車は来た道を戻り、私は公園の前で下ろしてもらった。

「じゃあね」

 ヨルが手を振る。

 そのまま車は闇の中を走って行った。その車を完全に闇に溶けるまで見ていた。

 それから、ヨルから連絡が来ることはなかった。

 数日ラインをチェックしてみたり、橋に行ったりしてみたけど、ヨルはいなかった。

 しばらくして、ああ、もう会えないんだな、と私は思うようになっていった。

 いずれ思い出になって、そういえばここで変な人に会ったんだよな、と公園を横切るときときどき思うようになるのだろう。
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