変わらないもの

雨間一晴

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変わらないもの

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「日本人でまだ誰一人として、世界ヘビー級チャンピオンになったことがないんだよ!」

  そんな言葉を思い出しながら、減量のランニング帰りに、ぼんやりと商店街を歩いていた。あれは、誰の言葉だったっけな。頭が重い、倒れてしまいたい。

(久しぶりに、この商店街に来たな。変わってない。変わったのは俺の方かもな……)

  下を向いて歩いていると、インドカレーの看板に、頭がガツンと当たり苦笑する。こんな店は無かったな。強烈なスパイスの匂いに、思わず入店しそうになる。店内から彼らが表情を変えずに、遊ばれている子猫のように首を上下に動かして、こちらを観察している、向こうの人にも高い身長は珍しいのかもしれない。

(身長が二メートルもある日本人は貴重だ、君なら間違いなくライトヘビー級の王者になれる。……か)

 日本人で二メートルを越えるのは、異例すぎてはっきりと数値化されてないが、百万人に一人とも言われている。もっと少ないかもしれないが、俺には興味が無かった。

 俺は明日に計量を控えているプロボクサーだ。
 二十歳、最年少チャンピオンとして今や時の人だが、かなり無理をしてライトヘビー級で戦っている。 その方が勝ちやすいと言われたからだ。
  極端な例えだが、中学生が小学生と腕相撲するくらい、階級というのは世界が変わってしまう。それに加えて身長があると、上から見下ろせるし、腕の長さから有利と言われている。

  ライトヘビー級は約七十六から七十九キログラムだ、今の俺は七十九ギリギリだ、全く気が滅入る。

 小数点以下までの厳しい階級分けなので、コップ一杯の水が命取りになる。コップの水たった二百グラムで試合も出来ずに負けになる。減量中は砂漠のサボテンのように、少しの水でも吸収して貯《たくわ》えてしまう。
 計量で体重オーバーの場合は、数時間の猶予が与えられるが、そこで必死になって体重を減らすのも、なんか、格好悪い。別にその努力を馬鹿にするつもりはない、ただ、俺の目指す最強の男は、体重制限やトレーナーの言葉に流されない堂々とした男だった。

 俺は、最も重い無差別な階級、世界ヘビー級王者になりたかったんだ。こんな無理して減量して、頬のコケた顔色の悪い、育ちきれなかったナスのような顔は子供の時の俺は望んでいなかった。

 ヘビー級は体重が、約九十キログラム以上のボクシング最重量、二百十三センチ、百四十八キログラムのチャンピオンもいたくらいだ。チャンピオンとなれば、世界最強の男と讃《たた》えられる。

  もちろん俺も本当は世界最強を目指してボクシングを始めたのだが、周囲はそんな夢より、より確実な勝利を選んで俺にアドバイスを送り、俺も言われた通りにした。別に世界のヘビー級で二メートルの身長は特別では無いのだから。

「俺はこのまま夢を捨てて良いのだろうか、気が狂いそうな空腹に耐えてまで、自分の夢を捨ててまで……」

 夕方の商店街に、小声でぼやく俺の声は、安売り合戦の八百屋と魚屋の叫び声に消されていく。商売をしている彼らの顔が生き生きとしていて、なんだか惨《みじ》めになってきた。
 ライオンの顔のシャツを着たおばさんが、俺の身長を確かめるように驚いた目で観察している。上から見下ろすと、そのチリチリのパーマに産まれたてのヒナ鳥でも置いてやりたくなる。

 久しぶりの商店街は、相変わらず人が殺到していて、上から見下ろすと、点だけで描く下手な点描画《てんびょうが》のようだ、蠢《うごめ》く絵は、空腹で見ていると気持ちが悪くなりそうだった。

( しかし、身体を作り直しても、ヘビー級で勝てる可能性は限りなく低いんじゃないか。俺はどうしたらいいのだろう……)

  ぼんやりと考えながら歩いている内に遠くまで来てしまった。無意識に、人が居ない方に進んでいたのかもしれない、すっかり人が居なくなってしまった。

 賑わっている先程の商店街に比べて、全体的に古い。半分以上の店がシャッターで、小さいオモチャ箱のように寂しく仕舞《しま》われている。
 消えかかった道路の白線の上を、我が者顔で太ったカラスがリズム良く歩いていく、美味しそうに見えてしまうのが悲しかった。

 等間隔で並ぶ街灯は、付いたり消えたりしている物もあれば、完全に消えている物もあった。今の俺は、きっとチカチカと消えそうな街灯なのだろう、親近感を感じて、ぼーっと消えかかった街灯を眺めていた。

「しょう君?」

  今にも潰れそうな駄菓子屋から、今にも消えてしまいそうな、おばあちゃんが声をかけてきた。

  真っ白なお団子ヘアーで、しわくちゃな優しい笑顔は変わっていない。大きなエプロンに包まれてしまった様な白い割烹着《かっぽうぎ》のおばあちゃんは、神々しく七福神のように見えた。なんだか、助けてくれそうな安心感を感じてしまう。

 俺の足元くらいしか無い気がする、小さく丸まった体を伸ばして、俺を優しく見つめる顔も、何もかもが変わっていなくて、泣きそうになってしまう。
  そうだ、この駄菓子屋は小学生の頃に良く来ていたんだった。

「おばあちゃん。あの、その。お久しぶりです……」

「やっぱり、しょう君だ。しょう君は小さい頃から大きかったから、よーく覚えてるよ。何だか元気なさそうだけど大丈夫かい?」

 「その、おばあちゃん、俺……」

 全てを分かってくれたような優しい声に、俺は泣いてしまった。俺の涙が、おばあちゃんの小さく白いタンポポのような、お団子ヘアーに吸い込まれていく。

「しょう君、ほら、お入り。頭ぶつけないようにね」

「……うん」

「ちょうど店を閉めようとしてたところだから。ちょっと、ここ座って待っててね」

「……すみません」

 黒い四つ脚の、丸く緑色の座るところが破れているパイプ椅子まで、あの日のままだった。

 子供の頭の中をぶち撒けて溢《あふ》れ出したような、色々な色彩の駄菓子やオモチャに、白い小さな紙が貼ってある、手書きで三十円、五十円と黒く震えた字で書かれている。

 空腹で、それらを食べたいと思うよりも、懐かしくて胸が一杯になり、余計に涙が出てきた。
 駄菓子の匂いに混じって、線香の香りも漂っている。

 おばあちゃんは、あの日のように、ガラガラとシャッターを閉めて、戻ってきた。

「懐かしいねえ。あの日も、しょう君、うちの前で泣いていたね。大きな体で一生懸命に泣いてるから、なんだか、おかしくてねえ」

「……」

「なかなか泣いてる理由を教えてくれないから、お店を閉めてね。くるくるぼーゼリーを渡してみたら、泣きながら産まれたての子牛のように吸い付いて飲むから、なんだか、かわいくてねえ」

「……そうだったね、ごめん」

「ふふ、しょう君は変わってないね。あの頃のまま泣き虫でかわいいねえ。ほら、一応持っておきな」

 おばあちゃんは、俺にそっと、細長いねじれパンのような真っ青なゼリーを渡してくれた。

「……おばあちゃん、でも俺、減量中で……」

「うんうん、分かってるよ。しょう君が頑張ってるのはテレビで見てるから、色々と大変そうなのは、ニュースでだけど、聞いているから。飲まなくていい、お守りとして、持っておきなね」

「……うん」

「それを一気に飲み干した後ね、しょう君は、大きな声で、悔しい。って言ったんだよ」

「……うん」

「何があったのか聞いたら、大きな体のくせに。弱くて泣き虫だって言われたって。小学生のしょう君は、もう私より大きいのに、とても小さく丸まるように、その椅子に座って泣き続けたね、今のしょう君のようにね、ふふ。変わらないね、しょう君」

「……俺は、あの頃とは変わってしまったよ」

「ううん、何一つ変わらないよ。でも、大人になると、中々弱音は吐けないのよね。だから、今は無理に泣いてる理由も聞かないよ、大丈夫だからね」

「……うん」

 おばあちゃんの弱音は確かに聞いたことが無かったし、子供の俺は考えたこともなかった。

「おばあちゃんはね、本当は駄菓子屋じゃなくて、服や帽子を作る人になりたかったんだよ。糸や針を使って何かを作るのが好きでね」

「そうだったんだ……」

(思い返せば、おばあちゃんに手縫いの帽子を貰ったことがあった。家を探せばあるだろうか、無性に見たくなった)

 手に握るゼリーの棒が、温かくなっていくのを感じた。

「うちの主人、子供が好きでね。周りの子供にお菓子を配るのが好きで、突然、俺は駄菓子屋をやるぞ、手伝え。なんか言ってね。いざ、駄菓子屋が出来上がったら、さっさと天国に行っちゃってね。銃のオモチャを子供と撃ち合うような、全く困った人だったよ」

「なんで、おばあちゃんは、それでも駄菓子屋を続けたの?」

「さあ、なんでかね。気付いたら、店に来ていた小さい子が大きくなっていて。それでも、たまに帰ってきてくれる子は何も変わっていなくてね、それが、何か安心するんだよ」

「俺も変わってない?」

「ああ、何も変わってないよ。泣き虫で優しいままの、しょう君だよ」

「……そっか」

「ほら、これ、覚えてるかい?」

 おばあちゃんが指差した、駄菓子に挟まれた木の柱に、黒いマジックで身長が三つ刻まれていた。上から、しょう、おばあちゃん、まゆみ、と書かれている。それぞれ自分で書いたんだっけな、薄くボヤけていたけれど、汚い字が恥ずかしかった。

「一番高い場所にあるのが、しょう君だね。真ん中が私。私より下にあるのが、あの子。まゆみも、こんなに小さかったんだね……」

 おばあちゃんが、駄菓子屋の奥のガラス戸に顔を向けて言った。ガタっと、何かが音を立てて動いた。

(そうか、まゆみちゃんの言葉だったんだ。どうして俺は忘れていたんだろう)

「ふふ、思い出したかい?泣いているしょう君を、私達は励《はげ》ましてね。そしたら、しょう君、強くなりたいって言ってね。それであの子が、あんな事を言ったから……」

「そうだったね……」

「お父さんが言ってたよ!世界最強の男は、ボクシングのヘビー級チャンピオンなんだって!日本人でまだ誰一人として、世界ヘビー級チャンピオンになったことがないんだよ!しょう君は大きいんだから、それになって、いじめたやつをいじめたら良いんだよ!」

 おばあちゃんが、声色を変えて、大きな声でわざとらしくガラス戸に喋り出した。

「うるさい!」

 ガラス戸が開かれないまま返事をした、扉のすぐ近くに、こちらに見えないように立っているのだろう。

「あんた、しょう君が久しぶりに来てくれたんだから、顔出しなさいよ」

「今忙しいから無理!おばあ余計な事言ったら殺すからね!」

「おお、怖い怖い」

「まゆみちゃんも、変わってなさそうだね」

 俺は小さい頃のまゆみちゃんしか、思い出せないけれど、三つ編みを揺らして励《はげ》ましてくれたんだったね。
 
「しょう君、ごめんね、あの子多分すっぴんだから、来れないんだと思う。悪く思わないでね、ふふ」

 おばあちゃんは、小さく耳元でコソコソ話をした。

「うん、そうだね、突然来ちゃったし、大丈夫」

「少しは元気出たみたいで良かったよ。おばあちゃんは、駄菓子屋になったのを後悔はしていないけど、しょう君は、誰かに言われたからじゃなくて、自分がしたいようにするんだよ」

 おばあちゃんは、心配そうに俺の手を握ってくれた。ゼリー棒ごと握ってくれた手は冷たかったけれど、とても温かかった。

「……おばあちゃん、あのさ」

「うん、どうしたんだい?」

「俺、やっぱり悔しい。強くなりたいって今も思う。誰のためにとか、もう顔も忘れたいじめっ子のためでもなくて、弱かった自分を変えたい」

「うんうん、しょう君がそう思うなら、そうするのが一番だよ」

 手を握ったまま、安心したように、あの日と同じ優しい笑顔だった。あの日も俺は、おばあちゃんとまゆみちゃんに、強くなりたいって言ったんだ。今は昨日のことのように思い出せる。

「おばあちゃん、駄菓子買ってって良いかな?」

 おばあちゃんは、少し驚いた顔をしたけど、すぐ笑顔に戻った。

「もちろん良いよ、お代は今度で良いから、また来てやっておくれ、あの子のためにもね、ふふ」

「うん、そうするよ。ありがとう。また来るよ」

 俺とおばあちゃんは、ガラス戸の向こうに聞こえるように話した、なんだかガラス戸が怒って見えたのが、おかしかった。

「よし、じゃあ、シャッターを上げて、世界最強のチャンピオンを送り出さないとね」

「……おばあちゃん、本当ありがとうね」

「ふふ、リングの上では泣き虫では居られないからね、また何かあったら、帰っておいで」

「うん、ありがとう」

 開けられたシャッターの外は、日も落ちて薄暗くなっていたけど、どこか明るく見えた。少し歩いてから振り向くと、おばあちゃんが手を振ってくれた。
 暗い街に照らされていた小さなおばあちゃんは、今にも消えてしまいそうに小さく見えたけど、あの日と変わらずに、そこに居てくれた。それが、とても安心で嬉しくて仕方がなかった。

 おばあちゃんに、お辞儀《じぎ》をしてから、歩き出した俺は、手に持ったままの、くるくるゼリー棒を飲んだ。ぬるくなっていたけれど、懐かしい味は変わっていなかった。

 明日の計量をどうするとか、ライトヘビー級の王者になれると、俺を支えてくれたトレーナーに対する説明とかは、考えなかった。
 ただ、ヘビー級チャンピオンになることを考えて、俺は歩きながら買った駄菓子を食べ続けた。

 チカチカと点滅する街灯を見ても、もう何も感じなかった。


「これで、良かったのかい?」

「いいのよ、しょうは世界最強の男になるんだから」

「ふふ、そうだね。世界最強の男と結婚するのが、まゆみの夢だったものね。邪魔しないようにって連絡も取らずに、健気だねえ、ふふ」

「おばあ、殺されたいの?」

「あらあら、照れちゃって。しょう君、また来てくれるってさ。あんたの夢も叶うかもしれないね。でも、もう少し、穏やかじゃないと、しょう君、他の女に捕まっちゃうかもね。チャンピオンはモテモテだろうし。私も独り身だから、アタックしちゃおうかな。ねえ、まゆみ?」

「うるさい!」

「ふふ、まゆみも変わらないねえ」
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