熾天使〈セラフィム〉の秤

春風 嬉鳳 -Y.Harukaze-

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熾天使〈セラフィム〉の秤

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 深夜の部屋には、沈黙が深く沈殿していた。灯りは落とされ、わずかに漂う白檀の香が、精神を深層へと導いていく。男は座し、目を閉じたまま、心を澄ませていた。祈るでもなく、願うでもなく──ただ、静かに天へと意識を伸ばしていく。
 やがて、空間の一角に淡い金光が渦を巻きはじめた。光の核より現れたのは、荘厳な霊的存在。その姿は輝きに包まれて輪郭が曖昧でありながら、明らかに高次の威光を宿していた。

「⋯⋯私はお前の導き手。長きにわたり、お前の魂を見守り、導いてきた者だ」

 男はゆっくりと目を開いた。三十代前半、物静かな青年。知性の光がその眼に静かに灯っていた。

「ええ、知っています。あなたの声を、いつも感じていました」

 導き手は満足げに頷いた。

「ならば話は早い。最近のお前の思考は、進んでいるようで未熟に過ぎる。まだ語るには早すぎる霊的真理に、踏み込んでいる」

 男は小さく息を吐いた。

「“未熟”と仰いますが、何をもってそう判断されたのでしょう?」

 導き手は天を仰ぎ見るような所作で答える。

「例えば、『謙虚さが霊性の本質である』というお前の信念だ。確かに美しい。だが、真に謙虚であることは、霊的高位に到達した者にしかできぬ。“謙虚”を語る者が、自らの謙虚さを信じている時点で、それは偽りだ」

 男は一瞬黙し、次いで静かに問い返した。

「では、あなたが“私は高位の存在だ”と信じて語る今この瞬間、あなたの謙虚さは保たれているのでしょうか?」

 導き手の眉がわずかに動いた。

「⋯⋯我は、自己を誇っているのではない。事実を述べているだけだ」

「ですが、“事実”という言葉の背後に、他者より優れているという意識が潜んでいるなら、それは自他を隔てる壁になる。謙虚さとは、壁を取り払う力ではないでしょうか?」

 導き手は少し黙し、再び言葉を紡いだ。

「ならば問う。もしお前が、人々の前で霊的真理を語り、人を導こうとする立場になったとしよう。名声が集まり、敬意を集めたとき、お前はそれを拒むのか?」

 男は即答しなかった。数拍置いてから、ゆっくりと答えた。

「拒みはしない。だが、私が求めるのは“伝わること”であって、“崇められること”ではない。敬意は他者の自由です。それを享受するかどうかは、自我の問題でしょう。私は自我に飲み込まれぬよう、ただ見守ります」

 導き手は静かに口元を歪め、笑みとも皮肉ともつかぬ表情で語る。

「そういう理想論は、現実の濁流の前では脆い。いずれ自我に呑まれる。だからこそ、高位の者が導かねばならぬのだ。真理は、選ばれた器にしか保てぬ」

 男の表情は変わらなかった。ただ、眼差しにわずかな哀しみが浮かぶ。

「⋯⋯その“選ばれた器”という言葉こそが、人を分け、閉ざす壁を生むのではありませんか?真理は、選ばれた者だけのものではない。どんな小さな器にも、真理の雫は宿ると私は思う」

 導き手の輝きが、わずかに揺れた。

「お前は、理想に溺れている。現実の苦しみも、無明も、お前にはまだ理解できていない。だからこそ、導く資格がないと申しているのだ」

 男は微かに頷いた。

「確かに、私はまだ理解の途中です。未熟さは自覚しています⋯⋯けれど、だからこそ、人と共に歩めるのです。上からではなく、隣で」

 その言葉が発せられた瞬間、空間が震えた。圧倒的な光が天より降り、部屋の空気が一変する。光の中心より、輪郭すらも超えた存在が姿を現す。

 ──神。

 それは“誰か”ではなく、“在るもの”だった。慈しみと威厳を湛えた、名を超えた存在。

「⋯⋯もうよい」

 その声は、音ではなく、存在そのものが語っていた。
 導き手はその場にひざを折り、声を震わせた。

「⋯⋯主⋯⋯!」

 神は静かに二人を見渡す。

「人の子よ。おまえの心は、天において尊ばれる。高ぶる者は、低くされる。仕える者こそ、真に高い。⋯⋯その理を真に理解していたのは、おまえだった」

 男は目に涙を浮かべ、深く頭を垂れた。

「⋯⋯ありがとうございます。ただ、己の内の闇を忘れぬよう、努めていただけです」

 神は頷き、導き手の方へと向き直った。

「おまえは、導きという行為を、位階として捉えた。その手段は、やがて目的にすり替わり、魂を導くはずの眼差しは、己の高さを守る盾となった」

 導き手は震えながら、言葉を吐き出す。

「⋯⋯それでも、私は、彼を誤った方向へ導いたつもりは⋯⋯!」

「その言葉こそが、驕りの証。おまえの眼は、彼の魂ではなく、自らの階位に注がれていた」

 沈黙の中、導き手は俯いたまま、低く呟いた。

「⋯⋯申し訳ありません⋯⋯」

 神は厳かに、されど慈悲を込めて告げた。

「おまえの霊的位階を下げ、導き手としての任を解く。今一度、初心に立ち返り、謙虚さを学べ」

 導き手の光が、淡く、静かに消えていった。
 神は男の前に立ち続けていた。
 男は手を合わせ、深く頭を垂れる。

「⋯⋯この導きを、胸に刻みます」

 神は微笑み、最後の言葉を残した。

「霊性とは、共に在ること。真に高き者は、己を高いとは言わぬ。ゆえにこそ、高いのだ」

 光は天へ還り、静寂が部屋に戻る。
 東の空が、かすかに明るみを帯びていた。夜が終わり、新しい光が生まれようとしている。
 男はその空を見上げ、ゆっくりと微笑んだ。

「⋯⋯ああ、今日も、いい朝だ」

 そう呟いた声は、静かな祝福のように響いていた。

 
  
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