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1 国語教師は人権を守る

(3)ゆえに我ら立ち上がるべし

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 ところで、私の心を読む小娘は本当に私の姪っ子だ。彼女は私がこの高校に勤務しているのを知りながら、わざわざ同じ高校に入学してきた。私に憧れているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。先ほどの態度を見ていると、そうでない可能性の方が大きそうだった。しかしまあ、彼女をファーストネームで呼んで怒られない程度には親密だ。ファミリーネームで呼ぶと、親族一同が振り向くことになる。
 というわけで、私が煙草を吸いに旧校舎の屋上に出てきたとき、彼女はとたとたと私の後ろをくっついてきた。正確にはもう少し優雅にくっついてきたのだが、思い出補正をかけるのは親族の特権だ。いざとなれば、俺はお前のおしめをとりかえてやったんだぜ、と言うことができる。「転ぶなよ、一夏」と私は声をかけたが無視された。
 六月にしては天気の良い日で、屋上は心地良い風が通り抜けていた。ライターで煙草に火をつけるにはあまり適さない日だ。校庭で、運動部が謎のかけ声を発しながら身体を動かしている。学校を取り囲む住宅街の中の一つの窓に向かって、私はにっこりと微笑んだ。そこで暇を持て余した可愛い奥さんが見ているとも限らない。
 私がなんとか煙草に火をつけると、一夏が「まるで子供ね」と言った。部室での一件を咎めているのだ。気づいたのだが、彼女は私の保護者のつもりでこの学校に入学してきたのかもしれない。彼女はあきれたように微笑みながら続けた。
「もっと先生らしい対応ができたんじゃないの? つまり、適当にお茶を濁すとか、そういうこと。わざわざ、あんなあげつらうような言い方をしなくてもいいんじゃない?」
「まだ思春期が終わってないんだ」と言って、私はにやりと笑った。「それにお前も『uh-huh』と言っていた」
「あたしはまだ思春期ど真ん中だからいいのよ。十七歳の女の子に心を読まれないでよね」
「俺の心を読むのはお前ぐらいだよ。他の人間は、大体俺のことを避けて通る。そのうち俺とお前でデートするといいかもしれん」
「やめてよね」と一夏が言ったが、おそらく照れているのだろう。そう考えた方が気分がいいので、そう考えることにした。
「彼の演説だが」と私は言った。「どこかで聞いたことがあると思わないか?」
「実利を貪る理科系と、精神的な高みを目指す文学、とかいうあれ?」
「そう」
「円卓の騎士、ガウェイン卿の台詞?」
「もちろんそうだ。あるいはミッキーマウス・マーチの歌詞かもしれない」
「ヤァ!」と一夏が甲高い声で言い、にっこり笑った。「そうでなければ、SNS、もしくはインターネットの海の中?」
「どうかな、あまりインターネット向けの演説ではなかったと思う」
「そう? 激しい憎悪、大仰な言葉遣い、単純な世界の二分化ーーネット向けだと思うけど」
「その三つは俺にもあてはまるよ」と私は言った。「おい、『単純な世界の二分化』? どこでそんな言葉づかいを覚えるんだ?」
「多分、思春期が終わらない伯父からね」
「なるほど、俺はまたお前の母親から怒られるな」
 一夏が肩をすくめた。私は煙草を一息吸い込み、煙を空に向かって吹き上げ、彼の演説の違和感について考えてみた。
「『誰かが力を持って立ち上がらなければいけない』というのがひっかかる」と私は言った。「普通、インターネット上の『激しい憎悪』というのは、ほとんどが主張の形を取った破壊衝動に過ぎない」
「破壊衝動?」
「つまり、傷をつけたら喜ぶやつが出てきそうな相手を見つけて、徹底的に痛めつけてやろうということだ。相手が傷ついたらそれで満足なんだ。『ゆえに我ら立ち上がるべし』というのはあまり無い」
「その部分は彼のアレンジなんじゃない?」
「あいつにそれができるなら、京一と史哉の物語よりマシな文章を書いているよ」
「誰それ」と一夏が眉をひそめた。「それじゃあどういう人たちがそんな言い方をするの?」
「本気で我ら立ち上がるべしと信じているか、そう信じていると思わせたい連中だな」
「じゃあ私にはお手上げみたいね」と一夏は言った。「あなたには、そういうのに詳しい知り合いがいるんじゃなかった?」
「そう、いるな。彼に聞く方が早いかもしれん。俺には、お前は何でも知っているもの、と思い込む癖があるんだ」
「やめてよね」
「冗談じゃないよ。以前にお前は、なぜミドル・ティーンの女の子は伯父と一緒に映画を見に行かないのか、ということについて俺にしっかりと教えてくれたよ」
 彼女が私の左のすねを軽く蹴った。
「そういうときは、俺の胸を拳で小さくこづく方が効果があるよ。俺のあごに頭をくっつけながら、かわいらしくやるんだ」
「そういう冗談は感心できませんよ、大沢先生。たとえあなたとその子が親戚関係だとしても」
 急に声が聞こえたので、私と一夏は振り返った。
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