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きゅう
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暖かな何かに、体が包み込まれている感触がした。
意識は現実と夢の狭間を彷徨い、不意に頭を動かせば、頬がふかふかの枕に一層沈み込んでいく。体全体がぐったりと重く、けれど決して不快ではない。そんな不思議な感覚が咲里を蝕んでいた。
不意に、誰かが咲里の頬をなぞる。随分と薄くなった頬の傷跡を確かめるようにしてなぞりながら、その誰かは咲里の体に回す腕の力を強める。
一体何だろうと、咲里は呆然とする意識で緩慢に瞼を押し上げていった。
「――おはよう」
目を開けると同時に、細められた黒い瞳と目が合った。
カーテン越しにうっすらと陽光の差し込む暗い部屋の中で、男の微笑だけがうっすらと浮かび上がる。
咄嗟のことに何が起こっているのか判断出来ず、焦点の合わない目で呆然と男を見上げているのをいいことに、男は咲里の頬をなぞっていた指をずらすと長い髪に指を通し、上機嫌に額に口付けを落とす。
二人が一緒になって寝転がっても余裕のある、おそらくキングサイズであろうふかふかの大きなベッド。男の向こう側には、天蓋越しにロココ調の家具で統一された見覚えのない部屋が広がっている。この部屋の間取りには見覚えがあったが、うちにこんな高そうなベッドなどあっただろうかと、寝起きでこんがらがった頭は迷走を始める。
とにかく、体全体がひどく重かった。一挙一動全てが億劫で、咲里はただされるがままに戯れに肌に触れる男に身を任せていた。
(眠、い……)
再び瞼を閉ざし眠りにつこうとしたところで、それまでゆるゆると背を撫でていた男の指が咲里のパジャマの隙間から直接少女の肌に触れる。妙にゆっくりと、全身を蝕むようにして触れてくる男の手つきに、ようやく咲里は昨晩の痴態を思い出すとともに、意識を覚醒させた。
「ま、待って!」
男の顔を凝視し、迫真の表情で訴えかければ、男は渋々といった様子で咲里の服から腕を抜き去った。それでも、咲里の体に回す腕を離そうとはしない。咲里が昨日買ってやった紺のパジャマを身にまとった男は、向き合った状態でゆるやかにパジャマ姿の咲里の体を抱きしめている。
(わ、わたし、この人と、昨日……)
思い出してしまえば、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。昨日風呂で気を失って、それから、おそらく体を清めて、寝巻きを着せて、ここまで連れてきてくれたのだろうが。
(は、恥ずかし、すぎる……)
けれど、半ば流されるようにしてではあったが、嫌ではなかった。むしろ、求められて嬉しかった。必要とされていると実感できた。こんな自分でも、この人の役に立てた。喜んでもらえた。そう思えば、充足感とともに暖かな感情が咲里の中を満たしていく。
しかし、どうにも男の顔を直接見ることが躊躇われ、咲里は男の胸元にやけくそのように額を押し当てた。頭上からは低い笑い声が降り注ぎ、ますます咲里の羞恥を駆り立てていく。
「あの、この、部屋は」
苦し紛れに、見覚えのない部屋の内装について尋ねてみると、きょとんと、男の眼が無防備に見開かれる。
「昨日、物欲しそうにしてた」
(……物欲しそう)
淡々と答えながら、男は咲里の髪を梳く。
それがどうにも落ち着かなくて、咲里はますます体を縮こまらせた。
確かに、立ち止まってじっと見ていたことは認める。けれど、どうして部屋がこんな風になっているのかを知りたいのであって、それでは答えになっていないではないかと、咲里はどう尋ねればよいものかとぐるぐると考えを巡らせる。
「模様替え、したかったんだろう?」
咲里が困惑しているのを察知してか、男は諭すようにしてゆっくりと口を開く。
何かまずいことをしただろうかと、そんな風にどこか伺うように頬に触れられては何も言い返すことは出来なくなってしまい、咲里は結局押し黙ることしかできなかった。
それはつまり、咲里が寝ている間に何らかの手段を用いて母の部屋だった場所を改装した、と受け取っていいのだろうか。
今咲里を抱きしめている男は満足そうに鼻を鳴らし、瞳を細めている。
よくよく男の肩越しに部屋を見渡してみれば、家具やベッドのみならず壁紙までもが張り替えられていた。
(やっぱり、この人魔法使いなのかな)
以前尋ねた際は違うとは言われたが、あまりに現実離れした所業に咲里は戸惑ってしまう。魔法使いではなく、あんたの犬だ。そんな不可解な言葉が、不意に咲里の脳裏をよぎる。
「なんか、……すみません。いろいろと」
とりあえず、体を清めてくれたことも、すっかり寝てしまっていた間に模様替えを一人でさせてしまったことについても、ここ数日の待遇を思い返し一度詫びておく。家具を一人で買いに行くのは流石に無謀ではないのかとか、ではどこからこの家具を持ってきたんだとか、そんな疑問には蓋をする。考えたところで、理解出来ないものは仕方ない。男の言うことは時折咲里の理解の範疇を逸脱しており、説明してもらえたとしても納得出来るとは到底思えなかった。
「どうして」
「だって、模様替え、一人でしてくれたんですよね」
「……ああ」
言葉を付け加えると、男は相変わらずの淡々とした返事を返した。
だが、その後に続けられた言葉に、咲里は思わず首をかしげていた。
「嫌だったか」
「……え?」
「嬉しく、なかったか」
仏頂面の裏にどこか哀愁を漂わせる男に、咲里はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ。そういうわけじゃ、なくて。ただ、大変だったんじゃないかなって、思って」
「じゃあ、喜んでくれるか」
「え、……あ、……はい」
どこか食い気味に身を乗り出されてしまえば、押しに弱い咲里は咄嗟に頷くことしかできない。
愛され、尽くされ、こんなにも甘やかしてもらって、恥ずかしさはもちろんあるが、嬉しいか嬉しくないかで言えば当然嬉しいに決まっている。
ただ、今までにない状態に混乱してしまっているだけだ。それを勘違いされて男を失望させるのは、咲里の本意ではなかった。
咲里が頷きを返せば、男の仏頂面が和らげられる。
「そうか」
咲里の首筋に顔を埋め、男はすんすんと満足気に鼻を鳴らした。その歓喜を全身で表すかのように、咲里の体を強く抱きしめ、押しつぶさんばかりの勢いで腕の中に閉じ込める。
突然の激しい接触に、嫌でも昨晩の情事を思い出してしまい、咲里は急いで男を引き剥がそうとした。けれど、男の腕は頑なだった。
咲里程度の反抗ではうんともすんとも言わない。そのまま不埒に体を這い、再びパジャマの裾に手を差し込もうとしてきた男を必死で制し、咲里は叫び声をあげる。
「あの!」
耳元で大声を出されたのが相当応えたのか、男はあからさまに眉をしかめた。
そういえば耳もいいんだっけと思い出してしまえば若干の申し訳なさを覚えはするが、いまこの場でずるずると流されるわけにはいかない。
今日は月曜日。しばらく学校を休んでいたし、これ以上休み続けるのは流石にまずい。
遅れた分のノートを見せてくれるような友達がいないのなら尚更だ。
「い、今、何時でしょう……か」
「そんなこと、あんたは気にしなくていい」
苦笑いでの問いを、男は一笑した。
あからさまにトーンの下がった低音が、咲里を駆り立てていく。
それまでの甘やかな空気が嘘のように、男は微かに体を起こすと、呆然としている咲里を組み敷いた。咲里の頭の横に両腕をつき、喉元を食いやぶらんばかりの勢いで身を乗り出してくる男に、咲里は声なき悲鳴を上げた。
「っ、あ、で、でも、学校、行かないと、だから、時間、知りたくて……っ」
「学校」というキーワードに、あからさまに男の機嫌が急降下していく。
「必要ない。俺が何も気付いていないとでも思ってるのかもしれないが、あんた、「学校」が好きじゃないだろう」
瞳孔を見開き、男の顔を凝視したまま固まってしまう。
無表情のまま、けれどどこか男は得意気だった。鼻を鳴らし、あんたのことならなんでも知っているとばかりに咲里を頭上から見下ろしている。わずかばかりに口角を吊り上げる男は、咲里の心の奥底を見抜いているかのように見えた。
「だったら、行かなくていい。あんたのことは、俺が守ってやる」
咲里を組み敷き喉を鳴らす男は、昨晩の情事をまざまざと咲里に思い出させた。
咲里の全身を食み、肉壁を押し割り、犬というにはあまりに荒々しい、文字通り咲里の全てを征服しようとする侵略者の顔をして、男は婉然と笑っている。
人間離れした微笑に、ぞっとした。
男の言う通りだ。学校は、好きじゃない。好きなわけがない。
虐げられ、人間扱いすらしてもらえない。けれど、這ってでも学校に通っていたのは咲里なりの最後の意地だった。咲里は、一人で生きていけるようになりたかった。
いい会社に入って、自立して生きていたかった。誰にも迷惑をかけないように細々と生き、そして死にたかった。それが最善だと思っていた。だって、咲里のことなんて誰も好きになってくれなかったから。
社会では、学歴がモノを言う。
そんなことは、いくら浅慮な咲里だって分かっていたつもりだった。だから、必死に勉強して今の学校に入った。それしか、咲里に出来ることはなかった。
「言っただろう。あんたの面倒は俺が見る。これから先、ずっと」
この男は確かに初対面の時、咲里の面倒を見ると言った。
そして今だって、咲里を養う覚悟がある。
リビングの片隅には大金の入ったボストンバッグが置かれ、空っぽのはずの冷蔵庫からは買い出しに行っていないにも関わらず食材が湧き出してくる。咲里の言動に一喜一憂し、咲里の望むように部屋を整え、どろどろに甘やかしてはただ嬉しそうに笑っている。
この状況は、暮らしていくのに何の支障もない。
むしろ十分すぎるほどに、今の咲里は満たされている。
だったら、這ってでも学校に行き続ける意味など、もう存在しないのではないだろうか。
ばくばくと、心臓が激しく脈打っていた。
本当に、一緒にいてくれる?
男は咲里とずっと一緒にいると誓った。
でも、ずっとって、いつまで?
永遠なんて存在しない。
結局は、どちらかの死をもって幸福というものは終わりを告げるものなのだ。
ちょうど「くろ」が死んでしまったように、いつかはこの男も死んでしまう。
今はいいかもしれない。けれど、そのあとは?
この男が死んだその時、咲里はどうすればいいのだろう。
「……うそ、つき」
言い放った後で、とんでもないことを言ってしまったと、咲里は口の端を噛み締めた。
体は恐怖に打ち震え、男の顔をまともに見ることが出来なかった。
どうして、いつも卑屈なことばかり考えてしまうのだろうかと、一度口から飛び出したものがおさまるわけでもないのに、咲里は静かに絶望の沼に沈む。
失望させた。今度こそ、本気で罵られることを覚悟した。
「嘘じゃない」
けれど、男は怒らなかった。
咲里の頬に刻まれた傷を愛おしげに舐め上げ、男は機嫌を伺うようにして咲里を上目遣いに見上げるだけだ。
「俺はもうあんたから離れない。ずっと、一緒にいる。永遠に。……あんたが死んでも、離れない。……あんたが嫌だと言っても、絶対に」
過呼吸に喘ぐ咲里を落ち着かせるようにして、男は静かに言葉を吐き出していく。
それは咲里を宥めるための睦言でしかないのだろう。けれど、何故だろう。
男の言葉には、妙な信憑性があった。それは呪いのように咲里の頭にこびりつき、蝕んでいく。
「どうすれば、信じてくれる?」
「ぁ……は……っ、う」
「咲里」
男が一層、顔を寄せる。
「俺と、「学校」。……あんたは、どっちが大事だ?」
びくりと、大きく肩が震えた。男をまじまじと見据え、口を引き結んだまま、何も答えることが出来ずにしばし静止する。
見上げた先の黒い目は、薄闇の中で煌々と輝いていた。
無機質な黒の中に凶暴なまでの妄執を覗かせて、犬はただ主人の答えを待っている。
ごくりと、無意識に息を呑んだ。何を答えても、恐ろしいことが待っていそうな気がしてならなかった。だから、咲里はただ強く目を閉ざした。それが、咲里の出した答えだった。
「――そうか」
強く引き結ばれた咲里の唇を、男がぺろりと舐めあげる。
犬が主人の愛を乞うようにして施された愛撫に、咲里は咄嗟に目を開けてしまった。
体を起こした男と、視線がかち合う。そして、後悔した。
「分かった」
これまで見たどんなものよりも、凶悪で美しい微笑みを残して。
次にまばたきをした瞬間には、男の姿は寝室から綺麗さっぱり消え失せていた。
意識は現実と夢の狭間を彷徨い、不意に頭を動かせば、頬がふかふかの枕に一層沈み込んでいく。体全体がぐったりと重く、けれど決して不快ではない。そんな不思議な感覚が咲里を蝕んでいた。
不意に、誰かが咲里の頬をなぞる。随分と薄くなった頬の傷跡を確かめるようにしてなぞりながら、その誰かは咲里の体に回す腕の力を強める。
一体何だろうと、咲里は呆然とする意識で緩慢に瞼を押し上げていった。
「――おはよう」
目を開けると同時に、細められた黒い瞳と目が合った。
カーテン越しにうっすらと陽光の差し込む暗い部屋の中で、男の微笑だけがうっすらと浮かび上がる。
咄嗟のことに何が起こっているのか判断出来ず、焦点の合わない目で呆然と男を見上げているのをいいことに、男は咲里の頬をなぞっていた指をずらすと長い髪に指を通し、上機嫌に額に口付けを落とす。
二人が一緒になって寝転がっても余裕のある、おそらくキングサイズであろうふかふかの大きなベッド。男の向こう側には、天蓋越しにロココ調の家具で統一された見覚えのない部屋が広がっている。この部屋の間取りには見覚えがあったが、うちにこんな高そうなベッドなどあっただろうかと、寝起きでこんがらがった頭は迷走を始める。
とにかく、体全体がひどく重かった。一挙一動全てが億劫で、咲里はただされるがままに戯れに肌に触れる男に身を任せていた。
(眠、い……)
再び瞼を閉ざし眠りにつこうとしたところで、それまでゆるゆると背を撫でていた男の指が咲里のパジャマの隙間から直接少女の肌に触れる。妙にゆっくりと、全身を蝕むようにして触れてくる男の手つきに、ようやく咲里は昨晩の痴態を思い出すとともに、意識を覚醒させた。
「ま、待って!」
男の顔を凝視し、迫真の表情で訴えかければ、男は渋々といった様子で咲里の服から腕を抜き去った。それでも、咲里の体に回す腕を離そうとはしない。咲里が昨日買ってやった紺のパジャマを身にまとった男は、向き合った状態でゆるやかにパジャマ姿の咲里の体を抱きしめている。
(わ、わたし、この人と、昨日……)
思い出してしまえば、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。昨日風呂で気を失って、それから、おそらく体を清めて、寝巻きを着せて、ここまで連れてきてくれたのだろうが。
(は、恥ずかし、すぎる……)
けれど、半ば流されるようにしてではあったが、嫌ではなかった。むしろ、求められて嬉しかった。必要とされていると実感できた。こんな自分でも、この人の役に立てた。喜んでもらえた。そう思えば、充足感とともに暖かな感情が咲里の中を満たしていく。
しかし、どうにも男の顔を直接見ることが躊躇われ、咲里は男の胸元にやけくそのように額を押し当てた。頭上からは低い笑い声が降り注ぎ、ますます咲里の羞恥を駆り立てていく。
「あの、この、部屋は」
苦し紛れに、見覚えのない部屋の内装について尋ねてみると、きょとんと、男の眼が無防備に見開かれる。
「昨日、物欲しそうにしてた」
(……物欲しそう)
淡々と答えながら、男は咲里の髪を梳く。
それがどうにも落ち着かなくて、咲里はますます体を縮こまらせた。
確かに、立ち止まってじっと見ていたことは認める。けれど、どうして部屋がこんな風になっているのかを知りたいのであって、それでは答えになっていないではないかと、咲里はどう尋ねればよいものかとぐるぐると考えを巡らせる。
「模様替え、したかったんだろう?」
咲里が困惑しているのを察知してか、男は諭すようにしてゆっくりと口を開く。
何かまずいことをしただろうかと、そんな風にどこか伺うように頬に触れられては何も言い返すことは出来なくなってしまい、咲里は結局押し黙ることしかできなかった。
それはつまり、咲里が寝ている間に何らかの手段を用いて母の部屋だった場所を改装した、と受け取っていいのだろうか。
今咲里を抱きしめている男は満足そうに鼻を鳴らし、瞳を細めている。
よくよく男の肩越しに部屋を見渡してみれば、家具やベッドのみならず壁紙までもが張り替えられていた。
(やっぱり、この人魔法使いなのかな)
以前尋ねた際は違うとは言われたが、あまりに現実離れした所業に咲里は戸惑ってしまう。魔法使いではなく、あんたの犬だ。そんな不可解な言葉が、不意に咲里の脳裏をよぎる。
「なんか、……すみません。いろいろと」
とりあえず、体を清めてくれたことも、すっかり寝てしまっていた間に模様替えを一人でさせてしまったことについても、ここ数日の待遇を思い返し一度詫びておく。家具を一人で買いに行くのは流石に無謀ではないのかとか、ではどこからこの家具を持ってきたんだとか、そんな疑問には蓋をする。考えたところで、理解出来ないものは仕方ない。男の言うことは時折咲里の理解の範疇を逸脱しており、説明してもらえたとしても納得出来るとは到底思えなかった。
「どうして」
「だって、模様替え、一人でしてくれたんですよね」
「……ああ」
言葉を付け加えると、男は相変わらずの淡々とした返事を返した。
だが、その後に続けられた言葉に、咲里は思わず首をかしげていた。
「嫌だったか」
「……え?」
「嬉しく、なかったか」
仏頂面の裏にどこか哀愁を漂わせる男に、咲里はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ。そういうわけじゃ、なくて。ただ、大変だったんじゃないかなって、思って」
「じゃあ、喜んでくれるか」
「え、……あ、……はい」
どこか食い気味に身を乗り出されてしまえば、押しに弱い咲里は咄嗟に頷くことしかできない。
愛され、尽くされ、こんなにも甘やかしてもらって、恥ずかしさはもちろんあるが、嬉しいか嬉しくないかで言えば当然嬉しいに決まっている。
ただ、今までにない状態に混乱してしまっているだけだ。それを勘違いされて男を失望させるのは、咲里の本意ではなかった。
咲里が頷きを返せば、男の仏頂面が和らげられる。
「そうか」
咲里の首筋に顔を埋め、男はすんすんと満足気に鼻を鳴らした。その歓喜を全身で表すかのように、咲里の体を強く抱きしめ、押しつぶさんばかりの勢いで腕の中に閉じ込める。
突然の激しい接触に、嫌でも昨晩の情事を思い出してしまい、咲里は急いで男を引き剥がそうとした。けれど、男の腕は頑なだった。
咲里程度の反抗ではうんともすんとも言わない。そのまま不埒に体を這い、再びパジャマの裾に手を差し込もうとしてきた男を必死で制し、咲里は叫び声をあげる。
「あの!」
耳元で大声を出されたのが相当応えたのか、男はあからさまに眉をしかめた。
そういえば耳もいいんだっけと思い出してしまえば若干の申し訳なさを覚えはするが、いまこの場でずるずると流されるわけにはいかない。
今日は月曜日。しばらく学校を休んでいたし、これ以上休み続けるのは流石にまずい。
遅れた分のノートを見せてくれるような友達がいないのなら尚更だ。
「い、今、何時でしょう……か」
「そんなこと、あんたは気にしなくていい」
苦笑いでの問いを、男は一笑した。
あからさまにトーンの下がった低音が、咲里を駆り立てていく。
それまでの甘やかな空気が嘘のように、男は微かに体を起こすと、呆然としている咲里を組み敷いた。咲里の頭の横に両腕をつき、喉元を食いやぶらんばかりの勢いで身を乗り出してくる男に、咲里は声なき悲鳴を上げた。
「っ、あ、で、でも、学校、行かないと、だから、時間、知りたくて……っ」
「学校」というキーワードに、あからさまに男の機嫌が急降下していく。
「必要ない。俺が何も気付いていないとでも思ってるのかもしれないが、あんた、「学校」が好きじゃないだろう」
瞳孔を見開き、男の顔を凝視したまま固まってしまう。
無表情のまま、けれどどこか男は得意気だった。鼻を鳴らし、あんたのことならなんでも知っているとばかりに咲里を頭上から見下ろしている。わずかばかりに口角を吊り上げる男は、咲里の心の奥底を見抜いているかのように見えた。
「だったら、行かなくていい。あんたのことは、俺が守ってやる」
咲里を組み敷き喉を鳴らす男は、昨晩の情事をまざまざと咲里に思い出させた。
咲里の全身を食み、肉壁を押し割り、犬というにはあまりに荒々しい、文字通り咲里の全てを征服しようとする侵略者の顔をして、男は婉然と笑っている。
人間離れした微笑に、ぞっとした。
男の言う通りだ。学校は、好きじゃない。好きなわけがない。
虐げられ、人間扱いすらしてもらえない。けれど、這ってでも学校に通っていたのは咲里なりの最後の意地だった。咲里は、一人で生きていけるようになりたかった。
いい会社に入って、自立して生きていたかった。誰にも迷惑をかけないように細々と生き、そして死にたかった。それが最善だと思っていた。だって、咲里のことなんて誰も好きになってくれなかったから。
社会では、学歴がモノを言う。
そんなことは、いくら浅慮な咲里だって分かっていたつもりだった。だから、必死に勉強して今の学校に入った。それしか、咲里に出来ることはなかった。
「言っただろう。あんたの面倒は俺が見る。これから先、ずっと」
この男は確かに初対面の時、咲里の面倒を見ると言った。
そして今だって、咲里を養う覚悟がある。
リビングの片隅には大金の入ったボストンバッグが置かれ、空っぽのはずの冷蔵庫からは買い出しに行っていないにも関わらず食材が湧き出してくる。咲里の言動に一喜一憂し、咲里の望むように部屋を整え、どろどろに甘やかしてはただ嬉しそうに笑っている。
この状況は、暮らしていくのに何の支障もない。
むしろ十分すぎるほどに、今の咲里は満たされている。
だったら、這ってでも学校に行き続ける意味など、もう存在しないのではないだろうか。
ばくばくと、心臓が激しく脈打っていた。
本当に、一緒にいてくれる?
男は咲里とずっと一緒にいると誓った。
でも、ずっとって、いつまで?
永遠なんて存在しない。
結局は、どちらかの死をもって幸福というものは終わりを告げるものなのだ。
ちょうど「くろ」が死んでしまったように、いつかはこの男も死んでしまう。
今はいいかもしれない。けれど、そのあとは?
この男が死んだその時、咲里はどうすればいいのだろう。
「……うそ、つき」
言い放った後で、とんでもないことを言ってしまったと、咲里は口の端を噛み締めた。
体は恐怖に打ち震え、男の顔をまともに見ることが出来なかった。
どうして、いつも卑屈なことばかり考えてしまうのだろうかと、一度口から飛び出したものがおさまるわけでもないのに、咲里は静かに絶望の沼に沈む。
失望させた。今度こそ、本気で罵られることを覚悟した。
「嘘じゃない」
けれど、男は怒らなかった。
咲里の頬に刻まれた傷を愛おしげに舐め上げ、男は機嫌を伺うようにして咲里を上目遣いに見上げるだけだ。
「俺はもうあんたから離れない。ずっと、一緒にいる。永遠に。……あんたが死んでも、離れない。……あんたが嫌だと言っても、絶対に」
過呼吸に喘ぐ咲里を落ち着かせるようにして、男は静かに言葉を吐き出していく。
それは咲里を宥めるための睦言でしかないのだろう。けれど、何故だろう。
男の言葉には、妙な信憑性があった。それは呪いのように咲里の頭にこびりつき、蝕んでいく。
「どうすれば、信じてくれる?」
「ぁ……は……っ、う」
「咲里」
男が一層、顔を寄せる。
「俺と、「学校」。……あんたは、どっちが大事だ?」
びくりと、大きく肩が震えた。男をまじまじと見据え、口を引き結んだまま、何も答えることが出来ずにしばし静止する。
見上げた先の黒い目は、薄闇の中で煌々と輝いていた。
無機質な黒の中に凶暴なまでの妄執を覗かせて、犬はただ主人の答えを待っている。
ごくりと、無意識に息を呑んだ。何を答えても、恐ろしいことが待っていそうな気がしてならなかった。だから、咲里はただ強く目を閉ざした。それが、咲里の出した答えだった。
「――そうか」
強く引き結ばれた咲里の唇を、男がぺろりと舐めあげる。
犬が主人の愛を乞うようにして施された愛撫に、咲里は咄嗟に目を開けてしまった。
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