えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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おしまい

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 くろの責めは、執拗だった。
 膣内を掻き回し、白濁で咲里の中を犯しては、愉悦に満ちた笑みを浮かべてみせる。何度も男の劣情をぶつけられた結果、最後の方は記憶が曖昧だ。ただ引き抜かれると同時に、どろりと蜜口から精液が溢れ出す生々しい感覚だけが記憶の奥底にこびりついて、離れなかった。

「ん……ぅ」

 そろりそろりと瞼を押し上げていき、真っ白な天蓋を見上げたまま制止する。
 真新しい家具に囲まれた亡き母の寝室だったはずの場所で、咲里は一人目を覚ました。部屋の中は暗く、しかして締め切られたカーテン越しに微かな太陽光が飛び込んでくる。しばし呆然と薄闇の中に視線を彷徨わせて初めて、咲里は自分が今まで眠ってしまっていたことに気が付いた。
 外がうっすらと明るいということは、夜まで寝過ごしてしまったということではなさそうなのが唯一の救いとは言えるのだが。
 
(腰、重い……)
 
 寝返りを打とうとして、最初の感想がそれだった。
 体は綺麗に清められ、着慣れたパジャマを纏っている。今朝と似たような光景に、まさか全部夢だったのではという考えが脳裏をよぎるが、それを真っ向から否定するようにして、ずんと甘やかな刺激が咲里の体を襲っていた。微かに腰を動かした瞬間、腹の奥から何かが伝い落ちてくる感触がする。
 その「何か」の正体を確かめるのが恐ろしくて、咲里は寝返りを打つのを諦めると、顔を赤らめ、やけになってシーツの中に顔を埋めた。
 朝っぱらから何をしていたのだろうと、一人になってしまえば途端冷静さを取り戻していく。

「咲里……っ。もっと、もっとあんたが欲しい」
「むり……っ、ほ、とに、まっ!? んぁああああ!?!?」
「あんたの体は、いいと言っている」
「ぁ、よく、なっ、んんぅ!? ひっ!? や、ぁ……っ、あっ」
「今、また締まった。……あぁ、あんたは本当に、っ、俺を悦ばせるのが、上手いよ」

 目を閉ざしてしまえば余計に、睦言とともにまざまざと情交の記憶が蘇ってくる。貫き貪られるたびに結合部からはどちらのものとも言えない体液が泡立ち、掻き出され、その代わりとばかりに新たな白濁を注ぎ込まれていく。ずっと、その繰り返しだった。
 とうに引き抜かれているはずなのに、今もまだ男のものを挿し込まれている感覚がする。

「……くろ」

 ぼそりと、無意識に男の名が口を突いていた。
 そこに深い意図はなく、ただなんとなく呼びたくなっただけ。
 ここにいない男の名を呼んだところで、応えてくれるわけもないのに。

(お腹、すいた……な)

 昨日の晩も今朝も流され、結局何も食べずじまいなのだから、当然腹も空く。そろそろ何か腹に入れなければなと、そんなことを考えながらシーツから顔を出した瞬間。
 
「呼んだか」

「ひっ!?」

 目と鼻の先に飛び込んできた胸中の男の顔に、素っ頓狂な悲鳴を上げ固まってしまう。
 ベッドサイドに、くろがいた。片方の膝をつき、咲里と視線を合わせ、男は変わらない無表情で咲里を見据えている。
 咲里が先日買ってやった胸元の少し空いた白のカットソーにスキニージーンズ、その上に黒のカーディガンを羽織った男は、幾分かラフなのもあり、仏頂面は変わらないはずなのに普段のスーツ姿よりも雰囲気が柔らかく感じられた。

「俺に、用があるんじゃないのか」

「え、あ、あの。……と、特に用があるわけじゃ、なくて。……ただちょっと、どこに行ったのかなって、気になったから、……なんとなく、呼んでみた、だけ……なん、です、けど」

「……そうか」

 うるさく鼓動を早めていく心臓を落ち着けるようにして、咲里はゆっくりと深呼吸を繰り返す。

(び、びっくりした)

 この男が急に姿を現わすのは今に始まった事ではないが、完全に不意をつかれてしまった。固まってしまった咲里を尻目に、くろは淡々と咲里の問いに答えていく。

「昼食の準備をしていた。腹が減ったかと思って」

「あり、がとう。ちょうど、お腹減ってたから」

 素直に礼を述べると、くろはどこか誇らしげに表情を和らげた。
 ちらりと、ベッドサイドの時計に視線をやる。時刻は昼の一時過ぎを指していた。

「まだ寝ていても――」

「……大丈夫。起きる、から」

 咲里の肩を柔らかく掴み、そのまま寝かせようとするくろを制し、ゆっくりと体を起こしていく。瞬間腰を襲った鈍い痛みに顔をしかめるのを、くろが見逃すはずがなかった。

「痛むか」

「そ、そんなことは」

「無理をさせた自覚はある」

「……えっと、……ちょっとだけ、痛い、です」

(本当は、全然ちょっとじゃないけど)

「すまない。調子に乗りすぎた。……次からは、もう少し加減する」

 「次からは」という言葉に、卒倒しそうになる。
 あんな恥ずかしいことを、また要求するつもりなのか。

(覚悟してなかったわけじゃ、ない、けど)

 一度体を重ねたわけだし、ずっと一緒に暮らしていくわけだし、お互い一応は好き同士である以上、ごくごく自然な流れではあるのだが。
 そうか、次があるのか。恥ずかしいような、嬉しいような、いや、やっぱりむず痒いような。
 顔を両手で覆い隠し、耳まで赤く染め上げた後しばし静止してしまう。不安気に覗き込んでくるくろの顔を視界に入れるのが、心底恐ろしくて仕方なかった。

「咲里?」

 不意に呼ばれた名に、恐る恐るてのひらを退ける。

「な、なにとぞ、……お手柔らかに、お願いします」

「ああ」

 太陽の光すら届かない薄闇の中で、犬は照れる主人に上機嫌に微笑みを返した。

***

 くろは、相変わらず咲里に家事をさせてくれない。
 くろが用意してくれた昼食を終え、さすがに片付けくらいはと無理やり皿を洗おうとしてみたのだが、ギッと力強い目で睨みつけられてしまえば、臆病な咲里は引き下がることしか出来ない。仕方なく、咲里はリビングのソファーに腰を下ろした。
 響き渡る水音を背景に、テレビの電源をつける。
 どこの局に回しても、テレビは咲里の通っていた学校の爆発事件で持ちきりだった。ガス会社の社長が「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。すると、目眩がするほどのシャッター音とフラッシュ、記者たちの罵詈雑言がテレビから飛び出してくる。ごくごくありふれた、謝罪会見だ。
 スタジオにカメラが戻れば、評論家たちがこれまたガス会社を非難する言葉を次々と吐き出していく。

「日本の将来を担う若者たちが大勢犠牲になったんです。私たちはこの事件を重く捉えなければ」
「そうですね。二度とこんな悲惨な事件が繰り返されないよう、管理体制を徹底させなければなりません」

 この人たちはまさか、犬の亡霊の仕業だなんて思いもしないだろう。
 そんな非科学的な現象、少し前の咲里が信じていなかったのと同じように。
 咲里はちらりと、背後の男に視線を向ける。淡々と皿を洗っていくくろの姿は、どこからどう見てもただの「人間の男」に過ぎない。獣の耳も生えていないし、邪悪なオーラも纏っていない。けれど、咲里はこの目で確かに見たのだ。
 この男の姿が、犬から人に変わる瞬間を。
 そのまましばし画面を眺め続けていると、天気予報が始まった。
 気象予報士曰く、夕方頃からは雨が降り始めるらしい。
 重たい腰を上げ、咲里はそろりと庭へと続く窓に近付いた。レースのカーテンを開ければ、薄暗い灰色の空が咲里の視界に飛び込んでくる。そのままがらりと窓を開けて庭に出ると、湿った空気が不気味に咲里の肌を這う。今にも、降り出しそうな気配がした。
 足を進め、咲里は庭の片隅で腰を屈めた。しゃがみ込み、簡素な飼い犬の墓の前で静かに目を閉ざす。お世辞にも墓とは言えない、ただの土塊。けれど、咲里にとってはどんなものよりも意味がある場所だった。
 くろは死んだ。こうしていると、今でもくろを埋めた日のことを思い出す。
 泣きながら、穴を掘った。今日と同じ曇り空の下、暗くて深い穴の底にくろを閉じ込めた。でも、くろは戻って来た。人の形をした、怨霊となって。

 ぽつりと、頬に水滴が当たる感触に目を開ける。

「咲里」

 それとほぼ同時に、黒い影が咲里の上に落ちた。
 しゃがみ込んだまま背後を伺い見れば、この場所に埋めたはずの犬が傘を差し立っていた。雨雲から遮るように咲里のすぐ後ろで真っ黒な傘を差すくろに、くろと出会った日のことを思い出す。

 一度目は、この家の前で。
 二度目は母の葬式の日に、葬儀場で。
 どちらの日も、雨が降っていた。
 違いはたった一つだけ。咲里は傘を投げ捨て、くろは傘を差し出した。

「あんたはそこに、俺を埋めたんだな」

 段々と本格的に降り始める雨の中で、くろが小さく口を開く。
 責めるようなものでも悲しむようなものでもなく、くろは純然たる事実として己の死と咲里の行いを認識しているらしかった。淡々と吐き出される声は、咲里の耳によく馴染む。
 この男と対峙している時だけは、咲里は素直に自分の言葉で話すことができた。
 視線を前に戻し、咲里はじっと盛り上がった土を見据える。
 咲里に、もっとお金があれば。きちんと、葬儀をしてやれば。
 くろが戻って来てくれたことは嬉しい。けれどそれは、くろの魂を咲里に縛り付けてしまったということだ。体を重ね、愛情を享受してなお往生際の悪いことに、微かな罪悪感がちくちくと咲里の胸を刺す。

「……怒らないの?」

「怒る理由がない」

 恐る恐る吐き出された咲里の問いを、くろは淡々と否定する。
 激しさを増す雨の中、隔絶された屋根の下でふたりきり。
 
「後悔、しているのか」

 ふるふると、首を横に振る。
 何を、とは聞かなかった。

「……してない」

 罪悪感はある。けれど、後悔はもうなかった。くろに好きだと言ったあの瞬間、覚悟は出来ていた。何を犠牲にしても、咲里はくろを手放したくなかった。

「くろは?」

 くろも同じ気持ちならいいと、咲里は体ごと視線を背後に向ける。
 主人の問いに、犬は黙って視線を返すだけだった。けれど、心なしかいつもより和らげられた黒い目に、咲里は安堵した。

「……そっか」

 言いながら、立ち上がる。
 そのままくろの横に並び立ち、歩き出そうとして。

「あんたには、長生きしてほしい」

 突然何を言い出すのだろうと、咲里は見慣れたはずの仏頂面を見上げたまま固まった。

「死は無限だが、生は有限だ。俺は、あんたを殺したいわけじゃない。死んでからもずっと一緒なんだ。死に急ぐ必要はない」

 怨霊のくせに、酷く真っ当なことを言う。
 一体、くろの目に今の咲里はどう映ったのだろうか。そんなにも、死にそうな顔をしていただろうか。
 まさか、亡霊に諭される日が来るとは思いもよらなかったと、咲里はただ呆気にとられていた。
 
「俺は、あんたを幸せにしたい。たくさん美味い飯を食わせてやりたい。色んなところに連れて行ってやりたい。服だって買ってやりたいし、どんな願いだって叶えてやる。……だから、……死なれると、困る」

 そこまで言い切ったところで、くろは「ああ、クソ」と言いながらぐしゃぐしゃと自身の髪を傘をさしているのと反対の腕でかきむしった。

「あんたは話をするのが得意じゃないと言ったが、俺も不得手だ。……言葉というのは、とても難しい。俺の気持ちは、……ちゃんと、伝わっているか」

「――うん」

 それこそ、十分すぎるほどに。咲里には、もったいないくらいに。

「楽しみに、してます」

 降り注ぐ雨の中で、咲里はそっと口角を釣り上げる。
 まどろみの訪れはいつだって、土砂降りの豪雨とともに。

「分かった」

 柔らかな微笑みを享受しながら、咲里はゆっくりと足を踏み出した。
 咲里が歩き出すのに合わせて、くろも歩みを進めていく。
 
(ゆっくりと、歩いていけばいい)

 今この瞬間も、この先の未来だって。
 薄暗い雨空の下、一人と一匹は狭い傘の中で人知れず、静かに肩を寄せ合った。


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