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後日談
えみりちゃんといぬ(そのなな)
しおりを挟むそのまま駆け足に休憩スペースの方へ向かえば、咲里の存在を認識したらしいくろが、ベンチから立ち上がり、こちらへ向かって歩いてくるのが目に飛び込んでくる。
「咲里?」
名前を呼ばれた瞬間、咲里は咄嗟にくろの胸に抱きついていた。
何度も深呼吸を繰り返し、上がってしまった呼吸を落ち着けようと、咲里はしばし黙り込んだまま動くことができなかった。
九条と名乗ったあの男が言う通り、おそらくくろは「良くないもの」なのだろう。
だがそもそも、大勢の人を呪い殺せるような存在が善良でないことなど、最初からわかりきっていたことだ。
今更くろが咲里に何かを隠していたとしても、咲里はもう驚かない。恐れない。
だってどれほど邪悪だろうと、くろが咲里に向けてくれる愛情だけは、本物だと確信できるから。
だから、咲里が真に恐れているのは。
「……何があった」
咲里の背を軽く撫でながら、その手に握られていた名刺を抜き取り、くろが低い唸り声を漏らす。
「あいつか」
明確な敵意の込められた咆哮に、咲里はびくりと肩を揺らした。
くろの顔色を伺うように視線を上げれば、咲里を撫でる腕に反し、殺意の籠った冷たい眼差しを浮かべる、くろの横顔が飛び込んできた。
くろの視線の先。そこにはお話会が終わったばかりらしい子どもたちの群れに混じり、ガラス扉の向こうに佇む、九条と名乗った男の姿があった。咲里を引きとめようとしているのか、九条はその場に立ち止まったまま、歯を食いしばりくろの顔を睨み付けている。
今すぐに男を殺してしまいそうな勢いのくろを押しとどめるようにして、咲里はきつくくろの胸にすがりついた。
頭を何度も横に振り、静かにくろをなだめ続ける。
「……くろ」
「だが」
「もう、いいから」
もうこれ以上、誰かが犠牲になる必要はない。
あの男に悪気はない。だからこそ、これ以上踏み込んでほしくはなかった。
――私は、大丈夫です。だから、もう関わらないでください。
そんな意思を込め、咲里は九条に視線を送った。
くろは確かに「良くないもの」だ。それは咲里自身重々把握している。
それでも咲里は、くろを選んだ。
身を滅ぼす覚悟など、とっくの昔に済ませている。
地獄へだってどこへだって、連れて行ってくれればいい。
だから、お願いだから。
――この『幸福』を、壊さないで。
「……帰ろう」
九条に背を向け、咲里はくろの腕を引く。
しばしくろは不服そうだったが、咲里に逆らう気はないのか、渋々九条から視線を逸らし、ジーンズのポケットに名刺を仕舞うと、咲里の後に続いた。
咲里の思いが通じたのか、九条はそれ以上追いかけては来なかった。
帰り道、しばらく二人の間に会話はなかった。
図書館へ向かう道すがら、あんなに意気揚々としていたのが嘘のように、今の咲里は何を話せばいいのかを掴みかねていた。
ただくろの腕を引き、無言で日の光の下を歩いていく。
てのひらから伝わる熱の確かな感触に、一層胸が締め付けられていった。
「咲里」
どれくらい、そうして歩いていただろうか。
不意に、くろが咲里の名を呼んだ。
「このままだと、焼ける。夏の日差しは、あんたには毒だ」
歩みを止め、視線だけを背後に向ければ、いつもと変わらぬ無表情が咲里の瞳に飛び込んできた。そのことに、咲里は一人胸を撫でおろす。
ああ、よかった。いつも通りのくろだ、と。
ゆっくりと繋いでいた腕を離せば、咲里が立ち止まった隙をつき、くろはするりと咲里の横に滑り込んでくる。
そのままどこからともなく日傘を取り出したくろに合わせ、咲里もそっとくろの体に身を寄せた。
人気のない路地を、二人連れだって歩いていく。
小さな小さな黒い屋根の下を、ゆっくりと。
「あんたは、あれでよかったのか」
耳障りな蝉の音の間、微かな低音が咲里の耳をかすめる。
見上げた先の横顔は、相変わらず何を考えているのか咲里に読ませてはくれない。
けれど、その瞳が物騒な輝きを放つのを、咲里は見逃さなかった。
「あんたが望むなら、俺は――」
「殺さないで」
再度立ち止まり、うつむいたままくろの羽織っていたカーディガンの裾を掴み、咲里は懇願した。
「殺さなくて、いい」
零れ落ちる声は、蚊の囁きのように脆く、儚く、夏の日差しの中に溶けて消える。
「お願い」
祈るように、咲里はただくろの答えを待った。
十分すぎるほどに、くろは人を殺めた。だからこれ以上、咲里なんかのために誰かを殺す必要はない。
長い長い、沈黙が落ちる。しばらく、くろは身動きを見せなかった。
じっと咲里の姿を瞳に映し、やがて男は傘を持つのとは反対の腕で、そっと、カーディガンを握りしめていた咲里の手首を撫で上げた。
ゆっくりと顔を上げれば、うらめしげに掴んだ咲里の手首を見つめる男の顔が飛び込んでくる。
くろの視線の先。そこは丁度、九条に去り際掴まれた箇所だった。
「……あんたが、それでいいなら」
あからさまに不満な様子を隠しもせず、それでもくろは、渋々咲里の腕を解放した。
そんな言葉を最後に、再び二人の間から言葉が消える。
無言で歩む帰り道は、どうにも気まずくてならなかった。
家にたどり着くと、くろは手馴れた様子で玄関の扉を開ける。
咲里が家の中に入るのを確認してから、くろもそのあとに続いた。
このまま何事もなく終わってくれると思っていたのだが、玄関扉が完全に閉まった瞬間、くろは咲里の肩を掴み、その体を扉へと押し付けた。
九条に触れられた腕を掴み、くろは匂いを上書きするようにして、咲里の血管の筋に舌を這わせていく。
「……癪に、触る」
「くろ」
鼻を鳴らす音ともに、舌打ちまじりに耳を突く、物騒な言葉を咎めるようにして。
咲里の困ったような視線を受けても、くろは主人の腕を離さなかった。
「分かってる。あんたの言うことは、ちゃんと聞く。あいつは、殺さない。だが、……あんたから他の奴の匂いがするのは、我慢ならない」
執拗に舌を這わせ、軽く歯を突き立てては、何度も甘噛みを繰り返す。
あからさまにぶつけられる執着心に、ぞくりと全身を甘美な震えが駆け抜けていった。
くろの視線から逃れるようにして、咲里はきつく瞼を閉ざす。
けれど視界が閉ざされたことにより、より一層肌の感覚が敏感になってしまった。
血管をなぞるようにして、そのままくろの舌先は次第に上へ上へと向かっていく。
咲里が静止の言葉を投げかけようと瞳を微かに開ける頃には、くろの顔は咲里の首筋まで到達していた。何度も口付けと甘噛みを繰り返されているうちに、咲里の体は明確に熱を帯び始めていく。
「あ、あの……っ」
逃れようと身をよじる咲里の腰を抱き、体を弄りながら、反対の腕で舐めていた腕を留めるようにして、くろは深く指と指とを絡め合う。何もかもを、奪い去るようにして。
このままでは、流されてしまう。咲里がそんなことを思った、その刹那。
じゅっと、一際強く、音を立てて咲里の首筋を吸い上げたかと思えば、くろはゆっくりと咲里の体をまさぐる腕を止めた。
扉に背を預けたまま、咲里はしばし火照った体を持て余したまま呆然と、離れていくくろの涼やかな顔を眺める。
何か、言ったほうがいいのだろうか。
そんなことを思っていたところで、不意にくろが口を開く。
「週に一度、なんだろう。あんたが嫌がることは、しない」
ぐしゃぐしゃと乱雑に咲里の頭を撫でたきり、くろは咲里に背を向け、そそくさとリビングへと向かって行ってしまった。
なんだか一人先を期待していたのが馬鹿みたいで、咲里は赤くなった頬を誤魔化すようにして、数度頭を玄関扉へと叩きつけた。
(自分で、週に一回って言い出したくせに)
言い出した側が、一番ダメージを受けてどうする。
自覚してしまえば、一層羞恥心が足元から全身を侵食していってしまう。
ぷるぷると小刻みに震えたまま、咲里はしばらくその場を動くことができなかった。
*******
その日の晩。
食事を終え、風呂上がりにいつものようにソファーの上で膝を抱え、呆然とテレビを眺めながら、咲里は一人頭を唸らせていた。
九条正孝と名乗った、霊感があるのだというあの男。
彼はおそらく、これ以上深追いしてくることはないはずだ。咲里とあの男は、所詮ただの他人だ。咲里一個人のために、身を滅ぼすことはない。
くろも、殺さないと約束してくれた。
だからきっと大丈夫。もう何も、怖いことは起こらない。そう、頑なに信じていたかった。
そんな風になんとか自分に言い聞かせ、咲里は胸の内を満たす不安をかき消そうと、必死に別の話題を探し出そうとする。
不意に脳裏をよぎったのは、今日の昼間に湧き上がった些細な、けれども重要な疑問だった。
果たして、くろとの間に子供は出来るのか。
(……どうやって、聞き出そう)
素直に尋ねるのが一番早いに決まっているのだが、どうにも躊躇してしまう。
一体、どうすれば。――いや、そもそも。
(……なんていうか。……意識すると、ここにいるの、結構落ち着かないというか)
一度スイッチが入った瞬間、昨日、ソファーの上で流されるまま致してしまった情事の記憶が、ありありと蘇ってきてしまう。
先ほどまで真面目に考えを巡らせていたのが馬鹿みたいに、考えれば考えるほど思考がピンク色になっていく。
咲里の名を呼ぶ震えまじりの低い声、肌を撫でる指の動き、腰を掴み、執拗に貪られる行為の感触。その全てをまざまざと思い出してしまい、咲里はたまらずその場で立ち上がり、意味もなく叫び出したい衝動に駆られた。
「咲里」
そんな時、考えを中断させるようにして突如頭上から響いた声に、咲里は大袈裟に全身を震わせた。
「え!? あ、えっと、何……?」
「あんた、どこか行きたいところはないか」
「え……?」
突然何を言い出すのだろうかと、咲里はソファーの背もたれ越しに背後に立つくろを見上げたまま固まってしまう。
「あの、それって、どう、いう」
「前に、あんたを色んなところに連れて行ってやりたいと言ったのを、覚えているか」
忘れもしない。
一週間前、簡素な飼い犬の墓の前で、くろは咲里に胸の内を明かしてくれた。
こくりと頷きを返せば、くろは神妙な顔のまま、淡々と言葉の続きを吐き出していく。
「……人間は、夏には旅行をするものなんだろう?」
「え? ……まあ、えっと、うん。……そういう人が、多い……かな」
一般的に、夏休みには旅行をする家族が多い。
その知識は何も間違ってはいないのだが、何も全員が夏休みにどこかへ遠出するわけではない。現に咲里も、これまでの夏は毎年引きこもりを決め込んでいた。
行きたい場所がないわけではなかったが、単純に金銭的な問題から遠くへは出かけられなかったからである。
胸を張り、どこか得意げな顔をするくろの顔を見つめ、咲里はしばしどう返すべきか迷ってしまった。
(えっと、つまり、私と旅行がしたい……、ってこと、だよね?)
くろとどこかに出掛けられること自体は、咲里自身もとても嬉しい。
だが咄嗟に旅行と言われても、急に目的地が思いつくかと言われれば答えは否だ。
(えっと、行きたいところ……、行きたいところ……)
「今日は――温泉に来ています!! 見てください! この美味しそうなカニの山!!」
「ん~~~! すごいですねぇ~~!! まさに、海の宝石箱!!」
テレビから聞こえてきたハイテンションな男女の声に、咄嗟に咲里は画面に視線を向けていた。釣られるように、くろも咲里の視線の先をたどる。
(カニ……)
画面いっぱいに映し出された赤々としたカニ料理の数々に、咲里は食後だというのにごくりと息を飲む。同時に、背後に佇んでいたくろが微かな笑い声を零した。
「食いたいのか」
「えっ、あ、いや、その、これは……!」
「分かった」
笑いまじりに頷きを返し、くろはスキニージーンズのポケットに腕を差し込む。
取り出されたものに、たまらず咲里は絶句した。
「あ、あの、ちょっと待って!? その、手に持ってる、それ……!!」
「スマートフォン」
「スマートフォン」
言葉の意味を理解出来ぬまま、咄嗟におうむ返しになってしまう。
いや、単語としての意味は理解出来るのだ。長方形で、液晶パネルが付いていて、電話を掛けたり、インターネットに繋げたりできる便利な機械。
くろの手に握られていたのは、至って普通の黒いスマートフォンだった。
くろがどこからともなく物を取り出すことには慣れたつもりだったが、まさかそんな近代的なものを取り出してくるとは思わず、咲里はくろの顔と、手に握られたスマートフォンを交互に見ては、何度も目を瞬かせる。
「これがあると、便利なことが多い。あんたも使ってみるか?」
至極普通のことを言ってみせるくろに、咲里はブンブンと激しく首を横にふった。
「わ、私は、いいよ。機械は、その、あんまり……、得意じゃない、から」
「そうか」
咲里の返事を聞き届け、くろは視線を黒いスマホへと集中させる。
(……いつも思うんだけど、一体どこから)
慣れた様子で画面をなぞっていく指を凝視してみたところで答えが出るわけではないが、人間である咲里よりも、飼い犬であるくろの方が最先端技術を使いこなしていることに、どうにも複雑な感情を抱いてしまう。
しばらくすると、くろは画面を操作する指を止めた。
顔を上げたくろと、視線がかち合う。急に改まった顔をするくろに、知らず背筋がピンと伸びた。
「咲里」
「は、はい」
「明後日から、旅行に行こう」
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