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「あ……」

 アシュリーは心臓に手をやってふらりとゆらぐ。衝撃を受けているようだ。

「どうしたんじゃ」

「あ、気分が……悪くて。失礼するわね。一人で大丈夫よ、ノース」

 アシュリーが姿を消すと、雨音が居間を支配した。ただよう奇妙な空気に、誰も触れたくないという雰囲気だった。

「で、では今夜はもう休もうか」

 公爵の声でみながうっそりと立ち上がった。
 アシュリーのようすが変だったのはなぜだろうとサラは考えた。彼女はガイの顔を見て驚いているように見えたのだが。

(ハンサムすぎてびっくりしたのかしら)

「僕、大衆娯楽小説が大好きなんです」レインがふいに楽しげな声をあげた。

「こういうシチュエーション最高ですよね。悪天候による疑似密室。さまざまな思惑がある登場人物が一同に集まって一夜を過ごす。深夜に何か起こりかもしれませんね。利害がないのは僕ぐらい。探偵役かなあ。なんちゃって」


 レインが期待したような深夜の悲劇は起こらなかったが、翌日、二つの事件があった。
 鳥のさえずりと煌めく陽光がのぞく雨上がりの美しい朝。体になじんだ癖で早起きしてしまったサラは、数日放置されていたバラ園の手入れに向かった。
 たんに手持無沙汰だっただけである。雑草を抜き、枯れた枝を切り、毛虫をピンセットでつまんで取った。
 時が戻ったような感覚だった。公爵が階段から足を滑らせたと知るまでは。

 結果からいえば、レインが期待したような事件性はない。誰かに突き落とされたわけでもなく、階段に油がまかれていたわけでもない。公爵の不注意である。足が痛いと嘆く公爵を、レインとサラがつきそって病院に連れて行くことになった。

「おい、馭者はどこに行ったんだ」

 馴染みの馭者がいなかったので公爵は憤った。

「もともと馭者なんていませんわよ」

「いない。どういうことだ」

「雇ってるのは、料理人のロンと執事のカーンだけと言ったでしょ。馭者をしてくれていたのは近くに住む気のいい農奴だったのよ。でも昨日の暴言でそっぽをむかれちゃったみたいね」

「なんと……」

「公爵、安心してください。僕が馭者をやりますから」

 レインは馭者台に座った。公爵家の馬車馬はよく馴れていて、素人の馭者を馬鹿になどしない。
 なぜサラが付添ったのかというと、「体調が悪いから」とアシュリーが同行を拒否したせいだ。
 不幸中の幸いか、王立中央病院で、公爵は尊敬する大医師の手当を受けることができた。軽い捻挫だとわかり、三人は安堵した。

「もう歳ですし、念のために……」

 サラの口添えに加え、医師の勧めもあって、いくつかの検査を加えることになった。
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