公爵夫人(55歳)はタダでは死なない

あかいかかぽ

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 アンは少々慌てたようすで出てきた。

「忙しいんだけど……」

(あらいけない。タイミングが悪かったかしら……)

 アンの職業を考えたら、部屋の奥に客がいないともかぎらない。サラは努めて明るく社交的な笑顔を作った。

「お伝えしたいことがあって、ほんの一言だけ、いいかしら」

 そのとき、サラの鼻先をある匂いが掠めた。

「……いるのね、ここに」

「忙しいっていったでしょ……!」

 サラの鼻先をかすめた匂い、それは魚の生臭さ。
 ドアを閉めようとしたアンに、あわててサラは言葉を投げた。

「黒うさぎ!」

 怪盗黒うさぎに注意してちょうだい。この近くにいるのは間違いない。もし今あなたの部屋に男がいるのなら、その男が黒うさぎかもしれない。あなたが汗水たらして稼いだ金を盗まれるかもしれないわ。
 と言いたかったのだが、ドアが閉まるまでの時間が短すぎた。

 バタンッ! 戸は鼻先で閉まった。

 単語ひとつで伝わるとは思えなかった。そもそもアンが黒うさぎを知っているかもあやしい。黒うさぎが上流階級の邸を荒らしまわるのは、アンが伯爵邸の生活を放棄してからだからだ。

「あのう、アン、聞こえてます? 丁寧に説明したいのだけど……」

 もう一度ノックをすると、ふたたびドアが開いた。

「アン……!」

「入って」

 アンが横に避けて促した。リカルドが部屋の隅にいた。どこか怯えたようすで上目遣いにサラを見ている。

「アン、この人は──」

「どうしてわかったの? 私が黒うさぎだって」

 アンは静かな声で問いかけた。サラの喉がゴクリと音を立てた。

「あの、お茶をいただけないかしら。喉が渇いてしまって……」

「お、俺が淹れます!」

 リカルドが椅子を蹴倒す勢いで急いでキッチンに向かう。

「あいつが洩らしたのかしら」

 アンの視線はリカルドの背を刺す。リカルドの両肩がびくりと上下した。

「いいえ、そうじゃなくて」

 手を振ったサラを無視して、アンはすたすたと奥の部屋に行った。
 すぐに戻ってきた彼女の手の中には見覚えのあるものがのっていた。

「それは……」

 公爵邸から盗まれたもののひとつ。大きなエメラルドを配した、鳥を模したブローチだ。

「あとのものは全部ばらして売ってしまったわ。ごめんなさい、それしか残ってなくて」

 台座の裏には『NよりSへ 愛をこめて』と刻まれている。『ノースからサラへ 愛をこめて』伴侶への定型文なのでとくに深い意味はない。

「確かにわたくしのものだわ。返していただけるの?」

「警察に言わないわよね」

 サラは答えに窮した。黒うさぎの正体が、まさかアンだとは思いもしなかったので、なにも考えていなかったのだ。
 リカルドが持ってきた紅茶さえ怪しく見える。

「毒なんて入ってないわ。黒うさぎは人殺しなんてしないの」アンは華やかに笑った。「潮目かしら。もう充分稼いだし、そろそろ足を洗おうと思っていたところなのよ」
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