継の箱庭

福猫

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●「はじめまして」を初めから

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「えっと、はじめまして。日本で野良猫として生きてきたからとくにに名前はない……です。たぶん一年くらい……? ずっと同じ町に住んでたかな。ここに来たのは今日で……それから、それから……えーと、何を話せばいいかな? ……あ、よろしくお願いします……?」


 かしこまってみたものの、人間ふうの挨拶ってあとどんなこと言えばいいのかな……?
 最後にぺこっと頭を下げてみたけど、あってるのかな?
 …………ちょっと不安になりながら彼のほうを覗ってみた。


「ふふ、ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」


 同じように頭をぺこっと下げて返してくれる。
 よかった、ちゃんと挨拶できた……みたい。


「私から色々と質問させていただきたいんですけど、ただその前に……」

「どうしたの?」

「――お名前、ないんですよね……? ぜひ貴女を名前でお呼びしたかったんですが……」


 あー……野良だったからなぁ。
 わたしのこと、青い屋根の家の女の子は『クロ』って呼んでたし、桜の木の家のおじさんは『ニャンコ』って……それは名前じゃないか。

 わたしの、わたしだけの名前というものはない。
 今までは特別欲しいと思ったことなんてなかったけど…………あればよかったな。

 こんなふうに言ってくれる人が、言ってもらえる日が……やってくるなんて知ってたら。

 ――あ、そうだ。


「うーん……じゃあさ、あなたがつけてよ」


 いいことを思いついた、とばかりに提案してみる。


「………………え?」

「だから、わたしの名前。あなたにつけてほしいな……って、だめ?」

「!? だっ……駄目じゃないです! 駄目じゃない! あ……わ、私でいいんですか? 私がつけてもいいんですか!?」


 あ、よかった。
 反応がなかったから嫌なのかな……と思ったけど、ただ時間差があっただけみたい。


「うん、だってわたしの名前呼びたいって……呼んでくれるんでしょ? そんなこと言ってくれたのあなただけだもの。すごく嬉しいなって、呼んでほしいなってはじめて思ったから……あなたが呼びたい名前、つけてよ」


 ――お願いします。
 ぺこっと頭を下げる。
 これがお願いするときのポーズなんだよね? さっきもそうだったもんね…………?


「……はい……はい! あぁ、なんて光栄な……っ!!」


 思ってた以上に喜んでくれてる……のかな。
 上を向いたまま動かなくなっちゃったけど。名前考えてくれてるのかな?


「――――ハッ!? すみません、また。感動のあまり意識が……名前、名前ですよね。どうしましょうどんなものが貴女にふさわしいでしょうどんな名前なら貴女の魅力を存分に表現できるのでしょう!?」

「……そんな……簡単なのでいいよ? 適当すぎるのはちょっと困るけど……」

「いいえ! いいえ、いいえ! これはとても重要な案件です。心して取り組まなければ罰が当たります。これは神に与えられた使命、いや! 試練だと言っても過言ではありません。えぇ、きっと」


 あれ? もうちょっと簡単に決まるものだと……。
 大事になっちゃったなぁ…………って思ってたら、彼がジィーーーッと強い視線で見つめてる。


「……ふむ、真っ黒な体に黄金の瞳がひとつ………………」


 さっきまでの大興奮が嘘のように、顔に手をあてて、俯いたまま静かに考え込んでしまった彼を、不安と期待に満ちた目で眺めつづけること数分。
 ゆっくりと顔を上げたところでポツリと呟いた。


「美夜」


 ……みや……? もしかして、それがわたしの名前なの?
 ドキドキと、もう動かないはずの心臓が早鐘を打っているような気になる。


「――貴女の、その動くたびに光が走る艶やかな黒い体が、漆黒の闇と数多にきらめく星々を、黄金に輝く真ん丸な左目が、夜空にぽっかりと浮かんだ満月を思わせる…………」


 わたしを見ながら静かに語りかける。


「美しい夜の光景を切り取ったような、そんな貴女にふさわしいと…………日本でお生まれとのことなので、馴染みある表現や音のほうがいいかと思いまして。日本の漢字で美しい夜と書いて『美夜』です…………いかがでしょうか?」


 美夜……美しい夜空。なんて素敵な名前なんだろう。


「とても……っ、とっても素敵! わ、わたしっ……でも、いいのかな……こんな素敵で、きれいな名前。わたしがもらっちゃってもいいのかな……? こんな、わたしこんな…………きれいじゃないのに…………」


 素敵な名前を考えてくれたことがとても嬉しかった。
 でも、素敵な名前が……とても素敵だから…………わたしが似合わないんじゃないかって思えてきた。

 こんな……目も、しっぽもきれいじゃない。
 優秀な血だって、特別な能力だってない……何も持ってない。


「美夜、この名前は私が貴女を目の前で見て感じて思い浮かんだもの。ほかの誰かを見たわけでも思い描いたわけでもない、貴女から、貴女だから得られたものです。貴女以外に『美夜』はいませんよ」


 自信が持てないわたしに、優しく諭すように声をかけてくれる。


「よく考えてください、夜空に月はひとつしかないんです。なにもおかしくはないでしょう? 美夜の目の金色がひとつなのはそういうこと…………あぁ、そうだ、私が貴女を『美夜』にしようと決めたのではなく、貴女がご自身を『美夜』なのだと示し私がそう受け取った。だからあなたは間違いなく『美夜』です。それから、そのしっぽ……美夜は知らないんですね『かぎしっぽ』」

「かぎしっぽ……? それってなに……?」

「『かぎしっぽ』とは美夜のようにしっぽの先が少し曲がってるものをいうんですが、なんとそれ…………幸運のしるしなんですよ」


 幸運のしるし。
 彼の説明によると、曲がったしっぽが鍵のように見えるからそう呼ばれてて、その曲がった先が幸せをひっかけてくるとか、鍵となって幸せの扉を開くのだとか……いろいろあるらしい。


「黒猫はもともと幸運の象徴としても有名ですが、さらにかぎしっぽまで持っているなんて……なんという奇跡。つまりですね、美夜は黒猫の中でもそれはそれは特別な、まさしく『福猫』と呼ばれるにふさわしい存在というわけです。素晴らしいですね」


 そう……なの? そうなのかな?
 わたしが特別だなんて初めて言われたそんなこと。
 彼はわたしにいっぱいの素敵な初めてをくれる。いっぱいの嬉しいをくれる、優しい人。

 優しい人に触れると自分まで優しくなれる、って誰かが言ってたような気がする。
 だからかな、自分の気持ちが素直に出てくる。


「あなたに出会えてよかった。あなたが素敵な言葉をいっぱいくれるから、わたしはおかしくなんてない、わたしはわたしのままでいいんだってそう思えたよ。……本当にありがとう」

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