鬼狩り

笹野にゃん吉

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「お前の腕は女子どもを守るためにあるのだ」

 まだ幼いナギに、タツゴは決まってその諭し文句を聞かせたものだった。

 けれど当時のナギに、〈鬼〉は恐ろしい存在だった。恐怖以外のなにものでもなかった。角笛の音を聞くたびに腹の底から震えがこみ上げ、頭の中が白んだ。

〈鬼狩り〉になどなりたくなかった。自分が守られる側でなく、守る側に立たなければならないという現実は、熱せられた鉛を胸の中に押しこめられたように、痛く重いものだった。

 そんなナギを、ミヨは慰めてくれた。血の繋がらない子どもに対してでも、深い愛情の印を与えてくれた。「あなたは好きに生きればいいの」と、頭を撫でてくれたのだ。

 だがその優しさも却って空しかった。学舎にも通わせてもらえないナギの将来は、すでに決まっているようなものだったから。

 朝早く中原村へ出かけてゆくコウタが羨ましかった。しかし、厳格な父に「学舎へ通わせて欲しい」と申し出る勇気もなかった。いずれやってくる未来に、怯えていた。

 ナギは、そんな鬱憤を晴らそうとするように、ナミと遊んだ。牧草地で馬と戯れ、祓川はらいがわで水をかけ合い、時には掟を破って牧草地の柵を越え、果山かさんの麓に立って大人たちにこっぴどく叱られたこともあった。

 父の拳骨は痛かったが、そんな日々は楽しかった。村でできる遊びなど限られていたけれど、ナミが一緒にふざけてくれれば、それだけで将来の憂いは晴れた。

 永遠にこんな時間が続く。そう思わせてくれる力があった。

 事件があったのは、服を丸めた蹴鞠で遊んでいるときだった。
〈鬼〉がでたのだ。その上〈鬼〉の数は多く、壁を乗り越えて現れた。
 ナギたちのすぐ近くへと着地した〈鬼〉が、蹴鞠をむざんに踏み潰した。薄い唇の間から蒸気が漏れ、壊れたからくり人形のようにコトコトと意味不明な呟きを発した。

 ナギは恐ろしさのあまり狂ったように悲鳴を上げた。
 その隣でナミの短い悲鳴がもれた。
 それを聞いた途端、全身に電流が駆けめぐった。
 父の言葉が蘇った。

『お前の腕は女子どもを守るためにあるのだ』

 咄嗟に身体が動いていた。ナミの正面に立ち、大きく腕を拡げていた。手足は情けなくぶるぶると震えたが、軋むほど歯を噛みしめ、決してその目を〈鬼〉から逸らそうとはしなかった。

〈鬼〉がまた呟きを発し、一歩、ナギへと距離を詰めた。

 コトコト。コトコト……。

 ナギは瞼をきつく結んだ。

 その時だった。
 銃声が頭の中を掻き回すように轟いたのは。

「……ッ!」

 目をひらくと、〈鬼〉の腕が血の華と化し、吹き飛んだところだった。
 たちどころに二度目の銃声が轟いた。〈鬼〉の頭が爆ぜ、ゆっくりと後ろ向きに倒れた。

「大丈夫か!」

 駆け寄ってきたのは、タツゴだった。彼はナギの頭を、次いでナミの頭を撫で、あやすように背中をさすってくれた。

 また、あの言葉が思い出された。

 けれど、もう勇気は湧きあがってこなかった。〈鬼〉に襲われた恐怖と助かった安堵だけが胸を占めていた。えずくように泣いた。泣き続けた。もう二度とこんな思いをしたくないと思った。

 ナミは、ナギを労わってくれた。恐れで濡れた顔に無理やり笑みを浮かべ、小さな手でナギの着物の袖を握ったのだった。

 たぶんそれから、ナギはナミを意識するようになった。ただの友人ではなく、ただの幼馴染ではなく、己の腕で守らねばならない相手となったのだった。

 ところが、それから数ヶ月の後。
〈秘密の丘〉で〈はぐれもの〉と対峙したナギが、再びあの日のようにナミの前に立つことはなかった。ナギは生き残り、ナミは塵となって風に融けた。憎悪と悔恨だけが胸に深く刻まれた。

 十二年が経ち、風化した記憶にもまだそれは残っている。まるで今しがた薪をくべられた炎のように。

                 ☯☯☯

「どうして、門を塞いでしまわないんだ?」

 家を出るなり、サノが言った。

 サノと迎えた初めての朝。
 これから村を案内してやるところだ。

 村の西側に建てられたナギの家の正面には〈黄泉の門〉がある。狭間の役割を担う岩壁で全容を窺い知ることはできないが、狭間から〈黄泉の門〉の深い暗がりを見ることはできる。その暗さたるや、無限に続く洞穴のようにも、平面な黒い壁面のようにすらも見える。どろりと黒い感情が胸の中を這い上がった。

「まあ、それを知りたいなら、そっと中を覗いてみたらいい。できるだけ目を凝らさないように」

 空には鈍色の雲が垂れ込めている。北北東の方角には銀色に光る雲がたなびいているが、こちら側はほとんど宵闇のように暗い。目を凝らすなというのは、だから多少無理があった。

 ナギは、サノの肩に手を置いた。催促ではない。異状があれば、すぐに引き倒してやるつもりだった。長らくこの村に住んでいれば、門を直視することもできるようになるが、慣れていない者が門を覗けば、精神に異常をきたす恐れがある。

 サノは怪訝に眉をひそめ、しかしそっと〈黄泉の門〉を覗いた。膝の上に手を置いて。震える足を諌めるように。

「あっ……」

 サノの身体が兎のように跳びあがったのは、声がもれたのと同時だ。瞬時に眼差しから熱が失せ、膝を押さえていた腕を門へと伸ばし始めた。まるで、夢の中に囚われた魂をとり戻そうとするかのように。

 ナギは冷静だった。サノを引き寄せ、瞼へきつく手のひらを押し当てた。
 初めて門を見た者は、大抵こうなるのだ。
 サノはしばらくの間、手足をゆらゆら彷徨わせていたが、やがて潰れた蛙のような悲鳴を上げた。

「ああっ、なんだ、真っ暗だ! ナギ、ここはどこなんだ!」

 手足をばたつかせ、獣のように暴れるものだから、そっと手のひらを離してやる。

「村だよ、西野村。お前、本当に饅頭盗んできたのか?」

 きょろきょろ辺りを見回し、ようやくここが西野村だと解ると、サノが「本当だよ」と不貞腐れて唇を尖らせた。

「まあ、都の法務官殿の判決は正しかったってことだな。こんなに臆病な男をここに流しちまえば、そりゃあ悪さしようって気も削がれるってもんだろう」

「もう悪さなんかしやしねぇよ。生きることさえ許されるなら、真っ当に生きていくさ」

 たとえ饅頭を盗んだだけでも、罪は罪。
 罪を犯すということは、心が弱い証拠だとナギは思う。

 しかし、意外にもサノの性分は真面目だ。盗みをはたらくような男には思われない。もしかしたら饅頭を盗むとき、大いに葛藤したのかもしれない。それも彼の一側面でしかないのかもしれないが。人間とは不思議なものだ。

 ナギは門へ向き直る。

「そういや、さっきの答えがまだだったな。サノ、門がどんな姿だったか憶えてるか?」

 門に心を囚われる前でも、一部記憶が飛んでしまうくらいはよくある。

「あ、ああ。憶えてるよ。あんな暗い闇は他に見たことがない……」

 サノの顔からみるみるうちに血の気が引いていった。

「それだけか? 門から黒い霧みたいなもんが出てなかったか?」

「あ、そういやぁ、出てた! 黒い霧というか、無数の糸というか……とにかく不気味なもんが」

「それが門を塞がせちゃくれねぇんだ」

「あれが?」

「そう、あれがだ。あれは瘴気。穢れた気だ」

 サノはなにも返事を寄越さなかったが、その名によほど得心が入ったのか、しきりに頷いていた。

「瘴気は、触れたものならなんでも灰に変えちまう。それがどんなに頑丈な大岩だろうと、どんなに鍛え抜かれた鋼だろうとな」

 サノが自分の手を見ろして、カチカチと歯を鳴らした。大方、その手が瘴気に触れたときのことでも考えているのだろう。

「上にも囲いを作ることはできるだろうが、〈鬼〉はそんなもの簡単に壊しちまう。でも抜け道を用意しておけば、無駄に物を壊したりしない。あいつらは人を殺すことに夢中だからな。狭間はそのためにある。そして万が一、〈ほむら〉で撃ち損じたときには、〈ひらめき〉で直接……両断してやんのさ!」

 利き腕が微かに震え、喉が熱を帯びた。〈鬼〉を斬った際の感触が、まざまざと思い出され、背筋がひとりでに波打った。

 憎い。殺したい。この刃で。この手で——。

 どこかから風にのって鳥の囀りがやって来た。

 はっとしてサノを一瞥すると、その目に怯えが浮かんでいるのを見て取る。
 ばつ悪く、言い訳の言葉も見出せなかったナギは、咄嗟に目を逸らし歩き出した。

 村の南側にも、まばらに家が並んでいる。
 およそ中央にある建物だけが横に広くできているものの、基本的な造りは畑を囲う家々と同じだ。異なるのは白樺の配置で、家屋は決まって裏手にそれが伸びているが、ここ一帯の建物は背面だけでなく側面にも白樺が植わっていたりして、法則性がない。

「……ここは蔵みたいなもんだ。昔は人も住んでたんだが、こんな村だからな。サノみたいな流れ者でもやって来ない限り、村人は減っていく一方さ。村には女も少ないしな」

「はあ、なるほど」

「ここ、住んでみるか?」

 サノはわなわなと震えだしてしまった。「勘弁してくれ! なにかオレ失礼なことしちまっただろうか?」と顔を蒼くされると、さすがに気の毒に思われた。「冗談だ、冗談」と背中をさすってやる。
 ますます罪人とは思えない。

「因みに、中央にあるあのでかいのは、蔵じゃなくて道場だ。大体、〈鬼狩り〉が使う。今日は誰もいないみたいだけどな」

「……ああ、道場か。一つだけ大きいから、なんだろうと思ってた」

 そう言ったサノの目は、しかし道場に向けられていない。
〈鬼〉との戦いによって鍛えられたナギだ。それに目敏く気付いて言った。

「まだ訊きたいことがあるみたいだな?」

 サノはこちらを一瞥すると、すぐに視線を戻した。それを追うと、どうやらサノの見ているものが、白樺の木らしいと解ってくる。

「ずっと気になってたんだが、どうしてこの村の建物の後ろには、白樺があるんだ?」

 尤もな疑問だった。
 ナギは肩から銃を下ろし、それをサノに差し出した。

「これ、見てみな」
「ん……?」

 すると、これと白樺の木とになんの関係があるんだと言いたげに、怪訝な眼差しが返ってきた。これも尤もだ。

「持ち手が白樺でできてんだ」

 精神を糧にして弾を撃ちだす〈焔〉に、物理的な仕掛けは施されていない。ゆえに引き金すらないのだ。持ち手と銃身の筒が伸びるだけの簡素な作りである。
 その持ち手が綺麗に磨き上げられた乳灰色の白樺だ。銃身は対照的に光を吸い上げるような漆黒。ぬらりとした微かな光沢は、カラスの羽毛に似ている。

 サノの疑問と眉間のしわは、ますます深まった。
 
「……えっと、それで?」

「〈鬼〉は白樺を嫌うんだ。決して近付かんというわけでもないが、好んで寄って来たりはしない」

「ああ、それでか」

 ナギは差し出した銃を担ぎ直した。
 そこに新たな疑問が投じられた。

「だけどそれなら、家の前に木を生やすべきなんじゃねぇのか?」
「〈鬼〉が嫌うのは、なにも白樺だけってわけじゃねぇんだ」

 ナギはもったいぶって言った。サノは聞き分けのいい生徒のように、じっとこちらの言葉を待った。

「ここの家は、寺社仏閣のような形をしてるだろ? 中は普通の家と変わりねぇが、外観だけは神聖な気をまとわせてるんだ。陽の気とか言うらしいが」

「陽の気……」

「ああ。花が綺麗だったり、寺の前でなんとなく足が竦んだりするだろ? あれは陽の気が満ちてるからなんだとさ。〈鬼〉はそれを嫌うんだな。だから戦えない奴らには、畑へ逃げろと言ってある。二重の守りが敷いてあるわけだから、〈鬼〉はわざわざ近づかねぇ。お前もそのときには、家の中じゃなくて畑に行けよ」

「あい、分かった。それともう一つ」

「なんだ?」

「あれは……」

 サノは道場の奥を指差し、肩を縮こまらせた。よほど恐ろしいと見えて、こいつの勘はなかなか正しいと感心する。

 蔵や道場の背面で茫洋と佇むのは、黒ずんだ灰色の森だ。群生しているのは広葉樹が主だが、茨や蔦が網のように張り巡らされ、その間隙から融けた鉛のようなねじくれた花が顔を覗かせている。

「あれは〈闇の森〉。見ての通り、気味の悪い森だ。昔の人たちは、あれの中に入ろうとしたこともあるらしい。だが、ついに帰ってきた者はいなかった。火をつけることだってできないんだと言われてる。まあ、俺は試したことないがな」

〈黄泉の門〉ほどではないにせよ、〈闇の森〉にも人の心を乱す作用がある——と少なくともナギは思っている。心の端で燻る恐怖が、十八年をこの村で過ごしてきた今も消えないのは、きっとそういうことだろう。

「興味本位で近付かないほうがいいぜ。あと、あれもな」

 そう言ってナギは振り返り、果山を指差した。黄泉の断崖と一体化した山で、草木がなく断崖と同じように肌が赤い。頂上は雲に隠され、断崖よりもなお高い標高をほこる。

「とんでもなく高い山だなぁ」

「ああ、あれは果山。どこまで続いてるのかも知れねぇ。登ろうとした奴らは、みんな麓にある〈不浄池ふじょういけ〉に死体が浮かぶんだとよ」

「その池も嫌な名前だ」

「まったくな。〈不浄池〉は、祓川の水が流れ込んでできた池。流れ着くまでの穢れが全部あそこに溜まるって言われてる。もちろん、近付かないほうがいいぜ」

「うん、絶対に近付かない」

 サノはそう言ったきり、果山の方角を見ようともしなかった。

「それにしてもこの村、いわくつきの場所が多いな……。東側以外は、全部悪いものに囲まれてるじゃねぇか」

「だから鬼流しなんてもんがあるんだろうよ」

 この村で生まれ育ったナギにとっては、それが恐ろしいことなのかどうか今以てしてもよく分からない。〈闇の森〉に対する漠然とした恐れや果山の威厳は感じられても、それだけだ。実害を被ったこともない。
〈黄泉の門〉だけが、今も明確な恐怖と憎しみの対象だ。

「あ」

 その時、サノが突然、手のひらを上向け空を見上げた。こめかみに水滴が滑り、透明な針がすっと視界に線を刻んだ。

 つられて見上げると、雨粒が瞼を叩いた。みるみるうちに地面に黒い染みが拡がってゆく。土の上を跳ねる雨。弾ける音は、湿った指で鼓膜を叩くように響く。

 雨粒は途端に大きくなる。盥をひっくり返したような土砂降りが全身を叩き、雨音は耳を聾するまでに膨れ上がった。

「うわぁ!」
「一旦、家へ戻るぞ! こりゃひでぇ!」

 二人が駆け出すと、黒々とした雲に紫の傷が生じた。
 と思うのも束の間、果山の辺りを真っ白い光の槍が貫き、天が鳴いた。
 鼓膜が痺れ、残響が谺した。
 たて続けに、二度、三度と雷鳴が轟いた。

 それが意識を散漫とさせたのか、先を走っていたサノが、ぬかるんだ地面の上に倒れた。全身に泥が塗られた。
  サノは屈辱と恐怖でぶるぶると震え出した。

「ああ、ああぁっ……!」

 足をとめたナギは、しかし哀れなサノに手を差し伸べようとはしなかった。
 北西の方角へ向き直ると、おもむろに〈焔〉を構えた。

 脅威に敏感なサノは、雷鳴に怯えているわけではない。雨粒に叩き潰されるとも、稲妻にその身を焼かれるとも思っていないはずだ。その証拠に、彼の目は〈黄泉の門〉の方角へと向けられていた。

 ナギの腰では〈閃〉が微弱に振動していた。雨音を払うように、カタカタと鳴き声を発している。〈鬼〉の悪意を感じ取った証左だ。

「サノ、蔵のほうへ逃げろ。ここからじゃ畑へ戻るのは却って危険だ」
「お、〈鬼〉はここまで来るのか……?」

 サノは恐怖で膝が砕けてしまったのか、立ち上がろうともしなかった。

「いいから早く逃げろ! もたもたしてると殺されるぞ!」

 ナギはサノの首根っこを掴んで、無理やり立ち上がらせた。
 烈しい雨音の間隙を縫い、角笛の低い唸りがナギたちの許にまで届く。天が応えるように、一面を白ませ、巨大な生き物の咀嚼音の如く雷鳴を轟かせる。

「角笛が吹かれたか……。〈鬼〉の数は少なくないぞ。じきに来る。俺がついててやるから、とにかく白樺の近くまで下がるんだ!」

 土砂降りの所為で、視界が白く煙りだす。足許もぬかるんでよく滑る。〈鬼〉を狩るには悪条件だ。門前の〈鬼狩り〉たちが、〈鬼〉を逃す恐れは充分に考えられる。

 ナギは、サノの低い尻をほとんど蹴り上げるようにして、白樺の近くまで退避した。

 門前の様子は、ここからでは窺い知れない。飛沫の幕が濃い。視覚を頼りにするのは賢明でない。ナギは毛穴全部を拡げるように感覚を研ぎ澄ませた。

 肌を流れるしずく。雨音に混ざる風の唸り。白樺から下りてくる柔らかな匂い。雨を弾いて立ち昇る土の香り。

 それと混じり合う――腐臭。つい顔をしかめずにはいられなくなる〈鬼〉の臭い。

 いる。どこかに。臭気の濃さからすれば、まださほど近くはない。雨で臭いが薄れている所為もあるかもしれないが。とにかく〈鬼〉はいる。門番が〈鬼〉を仕留め損ねたのは間違いない。

〈閃〉の鳴き声は徐々に大きくなる。
 早く〈鬼〉を斬らせてくれ、と駄々をこねる子どものように。

 ナギは鯉口に指を這わせ、宥める。
〈焔〉をサノへ押し付ける。

 この視界だ。〈焔〉はさほど役に立たない。ぬかるんだ地面の上での死闘となれば、平衡を保つため、潔く銃は捨てたほうが良い。

 背後から、しきりにサノのかち合わない歯の音が聞こえる。
 黙れと一喝してやりたいが、言ったところで無駄だろう。

 それより鎮まって欲しいのは雨のほうだ。大地を叩きつける音は耳に痛い。追い打ちをかけるように風を払う雷鳴が、頭の芯を叩きつけ、集中力を奪う。

 集中、集中。とにかく集中すべし。

 それでも気力で集中を保つ。〈鬼〉の奇襲に備えなければ、泥の中に血肉をさらすことになるのはこちらのほうだ。

 雨のいきおいが一瞬おとろえ、視界の隅で光が閃いた。遅れてやって来た遠雷が、ゴロゴロと喉を鳴らした。

 歯の音が途切れる。背中に緊張が漲る。

 一瞬の無音。

 雨粒が動きを止める。空中に留まる。無色透明の真珠のように。

 その時、ぴりりと頬に痛みがはしった。十二年前につけられた傷が、怒り吼えるように疼き。

 コトコト……。
 
 世界が動き出す。

 土砂降りの煙、その一部が焦げたように黒く染まった。
 ナギは、反射的に〈閃〉を鞘走らせる。
 目にも留まらぬ神速。
 音もなく無数の雨粒が弾き返され、煙の中から躍りでた異形の爪が斬り飛ばされ宙を舞った。

 たちどころにもう一方から、爪による刺突が迫る。
 ナギは左足に重心を移す。

「ッ……!」

 ところが、泥の所為で足許が滑る。重心が乱れる。
 すぐに姿勢を戻し、柄の底で受け流すが、頬に薄らと赤い線が生じた。雨がそれを洗い流すのも待たず、〈鬼〉の腹を蹴った。〈鬼〉がたたらを踏んで後退する。

 ナギは背後の気配に、感謝の一瞥を投げる。
 白樺の木。
 陽の気だ。多少なりとも〈鬼〉の動きは鈍っている。従来通りの力を発揮されていれば、ここで命を落としていたか、あるいは大怪我を負っていたかもしれない。

 仕切り直しだ。

 先に踏みこんだのは〈鬼〉。

 二の轍は踏まない。
 今度は、こちらがぬかるんだ地面を利用する番だ。

 身を低くし、〈鬼〉の踵を足で払った。
〈鬼〉は呆気なく姿勢を崩し、泥の上へ倒れ込む。後頭部を打ちつけた拍子に「クアッ」と不気味な悲鳴。

〈閃〉は逆手に。
〈鬼〉の胸目がけ突き下ろす。

 黄泉よりの使者は、泥の上を転がり躱した。
 刀が虚しく泥を跳ねあげる。

 すると、川を遡行する鮭のように、〈鬼〉が身を捩り、空へ跳びあがった。
 着地した〈鬼〉は、唇の間から青い舌を蠢かせる。その様は人を殺す悦びに満ちている。はらわたが煮えくり返るような怒りが胸を焦がす。

 ところが、ナギの口許に浮かんでいるのもまた、悦びに他ならなかった。下弦の月のごとく歪んだ唇のすきまから、犬歯だけが先を覗かせ、飢えたように喉が鳴る。

 ナギは〈鬼〉が逸るのを待つ。
〈閃〉の刃を微かに揺らしながら。

 その動きにつられるようにして、〈鬼〉が動く。
 しかし、正面ではない。
 弧を描き、横面へ。

 その目が捉えるのは、ナギですらなかった。
 背後から短い悲鳴。

 サノだ。

 ナギは軸足を捻じり、踏み出した。
〈閃〉が稲妻のごとく空を走る。

〈鬼〉はそれを受けようとせず、地を蹴り、間合いをとる。
 そして驚嘆すべきことに、着地の瞬間、蛙のように大きく膝を折り、跳びあがった。

 ナギの頭上を跳び越え、サノの正面で泥が跳ねた。頬に汚らしい泥が塗られた。〈鬼〉が大股に踏み出し、大きく腕を振り上げた。

「う、うああああああぁぁぁっ!」

 悲鳴が雷鳴を圧した。
 墨のような黒い血が噴いた。
 サノの顔面が、たちまち黒く染め上げられた。

 悲鳴が潰れた。

 こめかみのすぐ隣、鈍い光を放つ刃がある。先の雷光にも似た眩い白刃だ。それは〈鬼〉の胸から突き出て、白樺の表面を削っていた。

「……」

 ナギは〈鬼〉の背中から〈閃〉をひき抜く。
〈鬼〉の手が力なく垂れると、肩を寄せひき倒す。汚らわしい化け物を仰向けに寝かせる。

 一連の動作にはよどみがない。
 赤く燃える眼に、刀を突き刺す瞬間も、逡巡めいたものが過ぎることはなかった。

 もう一方の眼にも刀を突き下ろす。それから胸に。腕に。脇に。腿に。膝に——。

 ナギは嬉々として、〈鬼〉の身体を串刺し、刻み、弄んだ。

 脳裏に閃くのはあの日の惨憺たる光景。
 幼心に恋したナミの腹を突き抜けたおぞましい色の爪。惚けたように見る〈鬼〉の真っ赤な眼。無残に裂けた己の拳。
 滾ってくるのは憎悪。その表面を磨きあげるのは、どす黒い喜悦だ。
 刀を振り下ろす度に、哀惜が、無力な己への悔恨が悦びに変わってゆく。

 しかし、満たされない。
 憎しみは果てしなく熱いのだ。〈鬼〉を細切れにしようとも、刀を振り上げた瞬間、悦びなど涸らしてしまう。

 やがて土砂降りも小雨へと変わる頃、ナギは〈閃〉についた血を払い、それを鞘へ収めた。

 荒い息に気付いて振り返ると、サノがへたりこんだまま、こちらを見上げていた。その目をいっぱいに満たす水の膜は、恐れに揺れ、今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。

「……立てるか?」

 手を差し伸べても、サノはすぐに掴まろうとはしなかった。〈鬼〉の返り血にどす黒く染まったその手を。

 ナギは苦い笑いをかみ殺した。

 やがて、そこへ〈鬼〉の全滅を告げる角笛の響きが届いた。
 快哉を吸いこむ〈闇の森〉から、ぽたぽたと雫の落ちる音がした。
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