鬼狩り

笹野にゃん吉

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 村の内と外とは祓川によって隔てられている。村の門のある東方面を川がぐるりと囲んでいるのだ。

 川の深さはそれほどでもなく、泳いで渡れない幅でもない。とはいえ、村を行き来するのにいちいち濡れていたのでは堪らないし、商いのために馬車も往来するとあって、川の上には橋が架けられている。また、〈鬼〉がでた際、奴らが橋を渡って逃げられないように、橋の前には二人の番役〈鬼狩り〉が待機していた。

 その傍らで、サノはごしごしと〈鬼〉の血を洗い落としている。あの怪物の禍々しい姿を思い出すと、とても一人でいる気にはなれなかった。肝っ玉の小さい饅頭盗りでは尚更である。

「なかなか落ちねぇな……」

 人の血よりも〈鬼〉のそれは濃い。水に浸けてざぷざぷ擦っても、色は多少落ちるが、消えることはない。だからと言って、化け物の血が滲みた衣服に袖を通す気にもならない。
 途方に暮れて顔をあげると、歳若い〈鬼狩り〉と目が合った。〈鬼狩り〉がにんまりと笑った。

「お前がもう一人の流れ者だよな?」

 おそらくナギとそう変わらない年齢の青年だった。日に焼けた肌がまだ瑞々しく、顔にはしわの一つも見当たらない。美青年という風ではないが、若さと活力に満ちた精悍な顔つきをしている。

 それにしても「もう一人」とは、まるでおまけのようだ。サノは自嘲を含んだ笑みを返した。

「ええ。オレはサノと言います」
「サノか。俺はコウタってんだ。よろしくな。隣のおっさんはゲンジ」

 おっさんと呼ばれた〈鬼狩り〉は、恨めしげにコウタを睨んだ。一方、コウタはそちらへ一瞥を向けることもなく、睥睨は無意味だった。代わりにサノが眉尻を下げて謝るような会釈を送った。ゲンジが困惑したように小さく顎を引いた。

「お前、なんの罪でこっちへ流されてきたんだ?」

 また笑われるな、と覚悟しながらサノは答える。

「まあその、饅頭を盗み食いしまして……」
「ええ? 饅頭って言ったのか?」
「へぇ、そうです……」

 案の定、どっと笑いが起こった。しかめ面をしていたゲンジまでもが口許を覆い、肩を揺らしている。

「こりゃあ、傑作だ! 饅頭盗んで鬼流しか! 色んな流れ者を見てきたが、そんな奴初めて見るぜ」

 コウタが屈んでこちらの肩をばんばんと叩いてくる。遠慮というものを知らないのか、戯れのわりに強く痛い。〈鬼〉を狩るとき以外、好青年という印象のナギとは違い、コウタには番匠めいた荒々しい気風が感じられた。〈スミ〉の連中とも少し似ているかもしれない。

 ひとしきり笑うと、コウタは立ち上がって「すまねぇなぁ」と詫びた。その口許にはけれど、笑いの気配。

 不思議と、怒りも苛立ちも感じなかった。そんな自分の心を茫然とした気持ちで眺める。

〈スミ〉にいた頃、人気のある仲間はとにかく話の上手い奴だった。ちょっとした小話を面白おかしく語って、芸の多い奴がちやほやされるのが常だったのだ。

 サノは大人しい気概で、話を盛り上げる術など知らず、芸の一つもできなかった。まだ子どもだったし、お頭が唯一引き取った子どもということで、なんとか輪に入れてもらっていたが、そうでなければ、座敷の隅で畳の編み目を数えるだけの男となっていたに違いない。

 そんな自分が、今は、身の上を語るだけで笑いをとることができる。サノは自分が自分ではない誰かになったような奇妙な心持ちがした。

 なにが自分をそうさせたのだろうか。

 サノは誉れによってそれを得たわけではなかった。罪によってそれを得た。それは誇るべきことではない。受けた嘲りを恥として受け入れるべきだ。

 誇るべきこと……。

 サノはその時初めて、自分が「誇るべきこと」を求めているのに気付いた。

 罪によって裁かれた自分が、それを望むのは道理からかけ離れてはいないか。

 そう思う一方で、タツゴの言葉を反芻すれば、それこそが罪人の正しい生き方とも捉えることができそうに思えた。

 だがどうすれば、それを得られるのだろうか。

 見上げると、二人の〈鬼狩り〉がこちらを見下ろし「どうした?」と声をかけてきた。ちょうどいい機会だ。訊ねてみることにした。

「お二人は、どうして〈鬼狩り〉になったんで?」

 真っ先に応えたのはゲンジだった。

「そりゃあ、女子どもを守るためだろうな」

 サノは感心した。それはやはり誇りに直結することだろうと思ったからだ。自らの命を賭してか弱い者たちを守る。その崇高な精神を誇りとせねば、なにを誇りとすることができるだろう。

 ところがコウタの答えは、まったく違ったものだった。

「どうしてなんて言われても、俺はよく分からんけどなぁ。この村で生まれた以上は、そうなるのがサダメのようなもんだし。理屈で言えば、ゲンジのおっさんが言うようなことなんだろうけど、〈鬼〉と戦うときに考えるのは、ただ死にたくねぇ、生きてぇって思うだけで、守りたいのは自分の命って感じがするんだよなぁ」

 コウタが言い終えると、ゲンジは厳めしい顔を一層険しくして、毒づくように言った。

「だからおめぇの剣はまだまだ甘いんだ、若造が」

「えぇ、そんなぁ! 戦のときにあれやこれやと考えてられねぇでしょうよ。それこそ首が飛んじまう」

「それが甘いってんだ!」

 ゲンジのきついお説教が始まった。
 サノはそれをただ黙って眺め、胸を撫で下ろしていた。

 もしも〈鬼狩り〉こそが、誇りを得るための早道なのだとすれば、それを得るためには自分もまた〈鬼狩り〉とならねばならなかったかもしれない。そんなのはごめんだ。なんとか打ち首を免れた身だというのに、わざわざ死地へ赴くような真似はしたくない。

「だからおめぇは——!」

 説教はまだ続いている。
 さすがにコウタに申し訳ない気がして、重ねて訊ねてみることにした。

「オレみたいなちんけな盗人でも、〈鬼狩り〉になれるんでしょうか?」

 途端に、説教がぴたりと止んだ。ゲンジが意外なものを見る目つきでサノを見た。コウタが首を傾げ、腕を組んだ。

「そりゃあ、なれるだろうよ。誰でも〈鬼狩り〉になんざなれらぁ」

「え?」

「〈閃〉と〈焔〉をもって、血濡れ袴を穿くだろ? あとは鋼の胴あてよ。それで〈鬼狩り〉の出来上がりだ。正式に認められるためには試練を受けにゃならんが、健康な男子なら稽古を積めばそのうち認められるぜ」

「そういうもんですか」

 サノはすっかり拍子抜けして二人の〈鬼狩り〉を交互に見つめた。

 てっきり「ちんけな盗みはたらいた奴にできるわけねぇだろう!」と一蹴されるものと思っていたからだ。ところが、これには堅物らしいゲンジも、文句の一つも言ってはこないのだった。

「そういうもんだ。そいつが何者かなんてのを決めるのは、そいつのなりだからな。この恰好してりゃ〈鬼狩り〉だし、お前だって饅頭盗んで罪人認定、西野村行きになったわけだろ。俺の見た目が〈鬼狩り〉であることを決めて、お前の罪を犯した事実が罪人であることを決めたんだからな。そういうこったよ」

「じゃあ、オレが罪を悔い続ければ、それがオレの形になるんでしょうか?」

「さあなぁ。そんなのは周りが決めることだろうよ。でも、お前が何者になるかを決められるのは、お前だけだぜ」

 その言葉は心に深く突き刺さり、滾るような熱をともした。

 サノは無数の選択肢の中から、自分が何者になるかを決めかねていた。何者として生きることが、罪と真摯に向き合うことなのかを判じかねていた。だから、誇りを持って生きることがそうだと思ったし、あるいはコウタの言葉を借りれば形が自分を作ってくれると思っていた。

 ところが、他者の意見からたしかめようとした誇りでなく、他者の認識から作られる形でもなく、自分が自分を定めるとコウタは言った。

 もしそれが真実なら、自分は何者となることを望むだろう?

 サノはいよいよどうしていいか解らなくなり、桶の中でまだ薄汚れたままの衣服を見下ろし、口を閉ざした。

「おめぇもたまにはまともなこと言うんだな、コウタ」
「たまにはってなんだよ、ひでぇなぁ」

 二人の他愛もない会話を、サノは聞き流した。そして黙々と洗濯を続けたが、ついに〈鬼〉の血は消えてくれなかった。水中でたゆたう衣は、一つの形をなすことなく、いつまでも水の動きにつられて揺れていた。

                 ☯☯☯

 翌日、タツゴが案内役を買って出てくれた。

 最後に案内されたのは、村の北面に位置する牧草地だった。
 そこは高い柵に囲まれ、手前に厩舎が設けられていた。何頭かが、牧草地の中を悠々と歩いている。その穏やかな光景は、とても〈鬼〉の現れる死と隣り合わせの場所とは思われない。

「ここは見ての通りだ。馬を管理している。厩には五頭まで入れられるようになっているが、ここにいるのは三頭だけだ。残りは外から来た馬を入れられるようにしてあるんだな。まあ、外から馬がやって来ることは滅多にないんだが」

「なるほど。オレ、馬なんて久しぶりに見ました」

 サノは牧草地を歩く一頭の黒馬に目を留めた。夜が形をもって歩いているような美しい馬だ。燦々と降り注ぐ日を照り返す毛皮が、歩みを進める度、首を揺らす度に、表面をぬらりと流れた。まるで月に濡れる小川のようだ。

 感銘に目を輝かせたサノを、タツゴは意外そうに見た。

「馬なら都にもおるではないか。行く度に見かけるぞ」

「オレは盗賊の育ちだったんで、後ろ暗いでしょう? 馬乗りなんてのは大抵が秩序にうるさい役人たちか、はたまたもっと偉い方ですから。オレたちはそもそも馬乗りのいるところには近寄らないようにしてたんです」

 都の法務官の前では黙っていたが、タツゴにはここへ来るまでに自分が〈スミ〉の一員であったことを話し終えていた。

「商いをする者も来るだろうに」

「ええ、馬をもたない商人はなかなかいないでしょうね。でも、商人こそ狙われやすいもんで、つまり金をもっていますから、正義の目が光ってるもんなんです」

「それで盗賊団なんてものが務まるのか? 見つかりはせんだろうが、盗むものも盗めんだろう」

「昼間の賊は、庶民となんら変わらぬ面をしてるんですよ。善人を装って、昼間、忍び込む屋敷の下見をするわけです。そして草木も眠る頃になってようやくことを起こす。でもオレなんかは肝っ玉が小せぇし、隠し事のできねぇ性質なんで、下見にも出しちゃもらえなかった。だから、馬だって拝んだことはほとんどないんですよ」

「そりゃあ退屈そうだな。私だったら、とても十六年も耐えられん」

 タツゴの言葉を聞いて、果たして自分はこの十六年を「耐えて」きたのだろうかと考えた。

 そして、どうもそうでないことが分かった。

 己の生い立ちを憂うことや盗みに疑問を抱くことはあったが、団を抜ける直前まで、辛苦に悩まされてこなかったのだと気付かされた。

 ただ自分は盗賊の形をしており、何者の称号ももたなかっただけだ。自分が何者でもないということにすら気付かず。考えずとも、お頭の命に従っていれば、それだけでサノは生きられた。

 ところが今、お頭に当たる者はいない。自分を甘やかすも戒めるも、自分自身だ。何者かにならなければ、そう逸るのもまた自分自身。

「この村でできることは少ない。畑をやるか、商いをするか、馬の世話か人の世話か。あるいは〈鬼狩り〉となるか。お前の道は定まったか?」

 タツゴの言葉に、今は首を横に振ることでしか答えられない自分を情けなく思った。しかしタツゴの表情は穏やかだ。

「そうだろうな。逸ることはない。まずは気晴らしに馬にでも触れてきたらどうだ?」

「え、触ってもいいんですかい?」

「馬手が許せばな」

 それが案内終了の合図らしかった。タツゴはふいに踵を返すと、どこかへ行ってしまったのだ。厩舎の周りには二人の〈鬼狩り〉がひかえている。危険はなさそうだが、目的もなく放り出されるのは不安だ。ここに「自分」を委ねられる他者はいない。

 サノは迷いに迷った挙句、厩舎でなにやら作業している鬚をたっぷり蓄えた男を一人捉まえた。

「あのぅ……」
「おあ、なんだい? 初めて見る顔だな」

 男の顔には疲労の色が浮かんでいたが、口許に浮かぶ微笑は穏やかだった。〈鬼〉の現れる地であることは間違いないのに、平時のこの地は緊張からかけ離れている。精々気を引き締めているのは、門衛の〈鬼狩り〉くらいのものだろう。それもコウタのような者がいるので一概には言えないが。

「オレはサノと言います。二日前にここへ来たんです。都で悪事をはたらいて」

 これには男もいい顔をしなかったが、露骨に表情をしかめるということもなかった。軽く唇を引き締めただけだ。

「へぇ、そうかい。あんた流れ者なのかい。俺はオガってんだ、よろしくな。そんで、俺になんの用だい?」

「つまらねぇお願いなんですが……馬を触らせちゃもらえねぇでしょうか」

「馬を?」

 オガはサノの頭からつま先までを見下ろして、きょとんとした顔をしていたが、やがてなにか悪いことを思いついたように、にやりと笑った。

「いいよ。だけど、タダでってわけにはいかねぇ」
「すんません、銭は持ってねぇんです……」
「いや、銭はいらねぇが、対価が必要だって言ってんのさ」
「対価。どうすれば触らせてくれるんです?」

 このような態度をとられると、殊更馬を触りたくなってくるから不思議だ。

「実はこいつらも俺も、今しがた遠くから戻ってきたばかりでな。これから水やりをせねばならんのだ。草はあっちでたらふく食わせたが、なかなか水までは補給してやれんでな。だからよ、これがいっぱいになるくらいの水を汲んできておくれ。そしたら、触らせてやるよ」

 オガが指したのは横長の水のみ用の桶だ。腕をいっぱいに拡げれば持てるか持てないか、と言ったところ。それだけでもかなりの重量がありそうだが——。

「承知しやした、オガの旦那」

 たとえ重労働であろうと、仕事を任されるのは嬉しかった。自分は罪人としてやって来たのだし、この村に住まわせてもらっている以上、村のためになることをしたかったのだ。

 意気揚々として、肩が外れそうなほど腕を拡げ、洗濯に利用した祓川の水を汲みに行った。それだけで血の淀むような疲労を感じたが、任せられた仕事を放り出すわけにはいかない。言われたとおり、いっぱいに水を汲んだ。

 そこまでは良かった。
 だが、いざ持ち上げてみると、ぞっとするような思いを味わうこととなる。

「お、重い……!」

 肩が外れそうだった。顔を真っ赤にして持ち上げてみたものの、運ぶことなどできそうにない。腕の痺れはたちまち痛みへと変じ、足腰は軋み、一歩を踏み出すことすらままならない。ようやく一歩踏みだすと、せっかく汲んだ水が大きな波をたてて、地面の上に弾けた。

 東の門番をしている〈鬼狩り〉たちが「頑張れ、新入り!」と笑いながら激励するも、力が漲ってくることはない。桶の中の水はこぼれてゆくばかり。

 ついに厩舎の前にまで辿り着いた頃には、底に薄く水の膜が張っているだけで、ちっとも馬を満足させられるだけの水は残っていなかった。

 絶望感に打ちひしがれ、荒い息をつきながら膝をついていると、藁で馬の身体を梳いていたオガがかっかと笑いながら、サノの肩を叩いた。

「おいおい、一度に持って来ようとする奴があるかい! こんなばかでけぇ桶を運ぼうとするなんて、まったく笑っちまうな!」

 吐き気にも似た疲れが反駁の意思さえも奪っていた。サノはただただ荒い呼吸を繰り返すことしかできず、頷く余力もない。

「サノ、仕事には要領ってもんがあんのさ。一度にできたらそれでいいが、できねぇなら工夫をしなくちゃいけねぇ。まあ、元々は俺の仕事だ。やっぱり自分でやるがよ、もし、まだ動く気力が残ってるなら手伝ってくれるか?」

 サノはぱんと膝を叩き、よろよろと立ち上がると、ぎこちなく頷きを返した。重労働はとてもできそうにないが、少しでも役立てるなら手伝いたい。

 それから二人で、少しずつ桶に水を溜め、馬たちの喉を充分に潤せてやれるだけの支度が整った(いっぱいにしなければならない横長の桶はなんと五つもあった)。

 最初に無理をした所為で、全身が汗でびっしょりと濡れていたが、このような他人の役に立つ仕事をしたのは初めての経験だった。元々は義賊だったとはいえ、サノがやって来た仕事はあくまで盗みだったし、その中でもただ物を運ぶだけだった。

 あとから被害に遭った者が顔を真っ赤にして怒り散らしているのを見たことはあっても、貧しい者たちに物や金銭を分けてやるのはサノの仕事ではなかった。いつもサノの目に映るのは不幸になった人間の姿でしかなかったのだ。

 ところが、こうして一仕事を終えてみると、オガは「助かった、助かった」と言って、満面の笑みを浮かべながら肩を叩いてくれた。そして、藁を手渡すと「それで身体を梳いてやってくれ」と、馬にも触らせてくれたのだった。

 オガが触らせてくれた馬はとびという名で、全体が褐色の体毛に覆われていた。鬣は夜風に揺れる草のような青みがかった黒。顔の中央だけが白粉を塗ったように白くなっていた。
 波打つような光沢を見れば分かるように、その表面は触れてみるとつやつやとして滑らかだ。撫ぜる手が鬣に近くなると、跳がブフンと大きく鼻を鳴らした。

 サノは跳びあがるほど驚いて、ほとんどオガに抱きついた。

「お、怒ってるんですかい?」

「いんや。怒ってるわけではねぇ。でも、馬は賢い生き物だから、初めて会うあんたに警戒してるんだ」

「じゃあ、ちょっと撫でるくらいにしておきます」

「ああ、跳も次第に慣れてくるだろうから、逸ることはねぇ。いずれサノも仲良くなれる」

 感謝の念をこめて、跳の目を覗きこむと、その目はどこまでも果ての見えない夜空のような色をしていた。表面にきらりと光る膜は、ちらちらと瞬く星のようだ。それを一度「眼」と認識すると、オガが賢いと言ったように、その瞳が、いかにも怜悧に感じられるのだった。

「馬が触りたけりゃ、いつでもきな。そのときは、ちゃんと身体を洗ってもらわにゃならんだろうが」

「ええ。オガの旦那さえよければ、すぐにでもここで働かせてもらいてぇくらいです」

「そうかい。そりゃ嬉しいね。だけど、あんたここに来てまだ日が浅いだろ? 何事も逸っちゃいけねぇさ。じっくり考えてからまた来ればいい。あんたには、他にもっとやりたいことが見つかるかもしれねぇ」

「そうでしょうか……?」

 サノは初めて仕事に取りかかった喜びと跳への愛情とで、これ以上相応しい仕事があるとは思えずにいた。

「そうさ。あんたがやりたいことなのか、やらなくちゃいけないことなのかは、俺には分からねぇ。もしかしたら、そのどちらも見つからないかもしれねぇ。そのときは、またここに来ればいい。でも少しずつ村に慣れて、じっくり考えてからじゃなくちゃ、あんたがこの村に来た甲斐がねぇぜ」

「この村に来た甲斐?」

「ああ。罪を犯して流れてきたんだろ? じゃあ、誇りのある生き方を見つけなくちゃいけねぇ。そしてその誇りに比べて、これまでの自分がどれだけ惨めで哀れだったかを自覚しなくちゃいけねぇんだ。それが流れ者としてここにやって来た罪人の償い方ってもんさ」

 そう言うと、オガは頬をぽりぽり掻いて、はにかむような表情を見せた。

「この言葉は受け売りだがね。俺も昔、余所で悪さをしてやって来た身でな、前にここの仕事をやってた旦那にそう言われたのよ」

 サノは驚いて、オガを見返した。この善良な馬手が罪人だとは思ってもみなかった。

「死ぬまでに、自分が何者か見つけるこった。あるいは、自分が何者かを定めるんだ」

 オガはそう言い残すと、踵を返して厩の中へ消えてしまった。

 一人取り残されたサノは、自分の手のひらを見下ろした。手に残るのは跳に触れた際の感触だったが、その手にはなにも握られていない。手にすべきものも判然としない。馬手として生きることが誇りある生き方に直結するのかどうか確信がもてない。

 タツゴもオガも逸るな、と言う。しかしサノの心は焦燥の炎に炙られて、息も苦しいほどだった。早く自分の生き方を、村のためになる生き方を見つけたかった。

 あるいはこの焦燥こそが、罪人への裁きなのだろうか。

 サノはやはり途方に暮れた。
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