美しさという罪

青木 哲生

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一章

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有島翠は本当に美しい女だった。
彼女の周りにいる男達や、すれ違った男達はそんな彼女の美しさにあっという間に心を奪われていった。

しかし、そんな彼女が放つ輝きはあまりに眩しく、男たちの足を竦ませ、彼女を口説く勇気すら持たせなかった。

そのため男たちは、傍から彼女の顔や身体を盗みみることしか出来ず、当然そうした男たちの臆病な羨望の眼差しにも彼女は気づいていた。

精力旺盛な年頃の若い男さえも、圧倒するその美貌が、翠は自分が他の女達とは違う存在であることの根拠だと考えていた。

時として調子づいた軽薄な男が、自らが易々と手籠にすることができた浅はかな女と翠を同一視し近づくこともあったが、翠のそこに男の存在を認めないかのような愛想のない態度は、見事にそういった男の自尊心を粉々に砕いていった。特に、美しいがそれでいて男たちの胸の内を見透かすような真っ直ぐな瞳は、近寄ろとする男の歩みを押し留める力を持っていた。そうなると、蛇に睨まれたカエルの如く、男はそこに留まるしかなかった。

いつしか、翠は誰も触れられることができぬ天女のような存在になっていた。そして、翠はそんな自身の美しさを誰よりも誇りに思っていた。

朝目を覚ますと、翠は鏡台の前に座る。そして鏡に映る自分の姿をまじまじと見返す。それからうっとりとしたため息を漏らすのだ。

翠は自分の、うなじの辺りの肌の粒子の細やかさや、さらさらと靡く艶やかな髪や、伸びやかによく動く指先が好きだった。

特に翠が気にいっていたのは、大きくて黒い虹彩に囲まれた瞳だった。
他人を射竦めるように鋭かったが、同時に何時だって吸い込まれてしまいそうな程深い色を湛えて、しっとりと濡れていた。

毎朝、翠は相変わらず美しい自身の姿を鏡で確認すると、満足した表情を浮かべ、大学へ向かった。前日にどんなに悲しいこと、辛いことがあっても、この毎朝の習慣が彼女の心を晴れさせていた。その恩恵に預かったのは何も彼女だけではない。男たちもそうであった。彼女の姿を目に捉えることができただけでも、今日は何かいい事があると男たちを楽観的にさせた。だが同時に問題もあった。それは翠に会えなかった日には「今日も会えなかった」と男たちを悲観的にさせることであった。長い毎日のなかで、幸福な日など1日たりともない。物足りない、後悔ばかりの絶望的な日々だ。そうとすら思えるほどに多くの男の心をかき乱した。だが、彼女の姿や声を見聞きするだけで、そんな陰鬱な気分は吹き飛んだ。今や翠は男たちの精神バロメーターであった。

そんな周囲からの憧れの眼差しは翠の気分をより向上させていたが、同時に暗い視線を向けられていたことにも彼女は勘付いていた。それは同じ年代の女性からの嫉妬の眼差しである。同世代の女達は、翠を好ましくない存在どころか、憎むべき対象としていたようだった。それも当然のことでもあろう。自分が恋焦がれる男や、男女の関係にある彼氏さえも翠に夢中になってしまうのだから、彼女たちにとって面白いはずがない。彼女達は、翠を排除するために誰も友人になろうとしなかったし、一切声を掛けようともしなかった。だが、大学という高校までの狭いコミュニティとは違う広く開かれた世界のなかでは、そうした彼女たちの策略も大して意味を持たなかった。むしろ、誰も彼女に近づかなくなることで、益々彼女は孤高の特別な存在として認識されるようになったのである。

だが、ただ一つどちらとも異なる翠への視線があった。それは羨望の眼差しでもあり、嫉妬の眼差しでもあり、そして狂気に満ちた眼差しでもあった。その黒く濁った目に翠はふと気がついた。しかし、周囲を見渡しても、誰が彼女をそのような目で見つめているのかが翠には皆目検討もつかなかった。きっと気のせいだろう。彼女はそう考えていた。

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