いつものカクテル

ぬくまろ

文字の大きさ
1 / 1

いつものカクテル

しおりを挟む
「ちょっとよろしいでしょうか。ここ空いていますか?」
 わたしがカクテルを飲んでいると、誰かが声をかけてきた。振り向くと、スーツを着た三十代と思われるサラリーマン風の男性が立っていた。

 わたしはフラれていた。
 婚約寸前までいっていたのに、一週間ほど前に、非情な電話があった。
「ぼくの言葉をしっかり聞いてくれ。結婚できなくなった。ごめん。ぼくは君に相応しい人ではないんだ。さようなら。ほんとうに、ごめん」
 電話が切れた後、スマホを握ったまま立ちつくしていた。
「今のは何? えっ」確かにあの人の声だ。
 わたしはいつもの番号をプッシュした。彼が出た。わたしだけど……「ごめん。そういうことなんだ」そして切れた。
 間違いじゃなかったんだ。そう思った瞬間。わたしは号泣した。泣き終わっても、また泣いた。何度繰り返したのだろう。気がついたら、朝陽が射し込んでいた。理由は彼の友人経由でもわからなかった。なぜなら、彼の部屋は空っぽだったのだ。
 夜逃げだろう……友人のひとりはそう言った。
 そんなに借金があったのか……金のかかる趣味でもあったのだろう……そんな声も聞こえてきた。

 この店は彼とデートのたびに来たところ。
 ここに来れば、彼に会えるかもしれない……とにかく何かを聞きたい……わたしの中に未練があった。
 いつものように、いつものカクテルを飲んでいたとき、見知らぬ男性が声をかけてきたのだ。
 別れた彼とは似ていなかった。ナンパされているのかと直感したけれど、無視する力もなくうつむくしかなかった。
「もう一杯どうですか。おごらせてください」
 男性はそう言って、わたしの返事を待たず、勝手に注文してしまった。
 ずいぶん強引で失礼な人……不快になりかけたとき
「表層雪崩って知ってますか。古くて固い雪の上を新雪が滑り落ちるんですよ。ゴォーって、ものすごい音がするんですよ。まいっちゃいますよね。動けないんですよ」

 次の日、電話が入った。
 彼がいた。スノーボードの練習をしていたとき、雪崩に巻き込まれたらしい。地元の人に発見された。わたしは、すぐ会いに行った。彼はきれいな顔をしていた。会えなかった分、涙が雪崩になった。

 そして東京に戻ってきてから、いつものお店に通い続けている。
 隣の席を空け、いつものカクテルで。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

【完結】狡い人

ジュレヌク
恋愛
双子のライラは、言う。 レイラは、狡い。 レイラの功績を盗み、賞を受賞し、母の愛も全て自分のものにしたくせに、事あるごとに、レイラを責める。 双子のライラに狡いと責められ、レイラは、黙る。 口に出して言いたいことは山ほどあるのに、おし黙る。 そこには、人それぞれの『狡さ』があった。 そんな二人の関係が、ある一つの出来事で大きく変わっていく。 恋を知り、大きく羽ばたくレイラと、地に落ちていくライラ。 2人の違いは、一体なんだったのか?

双子の姉がなりすまして婚約者の寝てる部屋に忍び込んだ

海林檎
恋愛
昔から人のものを欲しがる癖のある双子姉が私の婚約者が寝泊まりしている部屋に忍びこんだらしい。 あぁ、大丈夫よ。 だって彼私の部屋にいるもん。 部屋からしばらくすると妹の叫び声が聞こえてきた。

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

処理中です...