未完のクロスワード

ぬくまろ

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ときめき

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 それから数日経って、かおりはとある結婚相談所へ行った。そして、入会手続きを終えて、定期的に紹介を受ける準備を整えた。オフィス内の彼女の行動を観察すると、心なしかうきうきしているように思う。わたしは事情を知っているから、そう見えるかもしれないけれど、口調の高揚度や書類を整理するときの妙に無駄な手の動きを見ると、事情を知らない他人でも、よっぽど鈍感な人でない限り、その変化に何か気づくはずだ。かおりの体内で、ある期待感がふくらみ、未知の世界に陶酔している。普段の彼女よりだいたい二十パーセント増しで浮ついている。そんな感じ。
 ランチタイムになり、お店に足早に着いて、わたしをせかすようにメニューを差し出した。そして、店員に注文を告げると、間髪入れずに切り出した。
「行ってみてよかったわ。行くまではどきどきしたけれど、実際に見て納得したような気分になったわ。『ネクステージ』っていう名前の結婚相談所なんだけれど。JR渋谷駅から歩いて七分くらい、道玄坂のビルの七階にあるの。雰囲気は、銀行の定期預金などを扱うカウンターにブースをつけたようなつくりかな。カジュアルだけどプライバシーに配慮したって感じ。三つのカウンターがあったけれど、行ったときはすべて埋まっていて、十分くらい待ったかな」
「けっこう来ているのね」
「そうね。思ったより混んでいた。女性がふたりに、男性がひとり。年齢はわたしたちと同じか、ちょっと上かな。まあ、時間帯にもよるんでしょうけれど。それで、カウンターに通されて、説明を受けた。わたしの担当者は五十代の女性だった。ベテランらしく、それにやさしそうだった」
「どういうこと聞かれたの」
「まず、にっこりと微笑んでくれた。いきなり条件を聞かれるかと思ったけれど、違った。世間話からだった。わたしが着けていたネックレスのこと。“その石、とってもきれいね。お似合いよ。スーツと合っているし、清楚な感じがするわね”って。わたしもありがとうございますと言ったけれど、それで緊張がほぐれたわ。それから、紹介システムの概要を一通り説明してくれた。相手の希望を聞かれたとき、性格が合えばいいんですと言ったら、“みなさん、そうおっしゃいますけど、はっきり希望を出した方がいいですよ。その方がお相手も見つかりやすいし、お互いの条件を合わせてこそ、最高のパートナーになるんですから”と言われた」
「それで、どうゆう条件を出したの」
「担当者にそう言われたら、欲が出てきちゃってさ。わたしは、高収入の人がいいって言ったの。心の中ではうすうすそう思っていたけれど、この際、はっきり希望を言った方がいいかなって、担当者に背中を押されたような気分になった。まあ、とりあえずの条件ね」
「それで、あとは待っているだけでいいの?」
「定期的に情報が来ることになっているわ。プロフィールを見て、気に入ったら申し込む」
 かおりが話をしているとき、目の中で星がきらきらしている、まるで少女のような表情を見せていた。王子様を待っているお姫様のようでもあった。上野さんと付き合い始めたときはそんな表情は見せなかった。新しい出会いに期待を寄せているかおり。どんな気持ちで二股をかけるというのだろう。
「かおり、ほんとにうきうきしているね」
「そう見える」
「だって、上野さんと付き合い始めたとき、そんな表情じゃなかったもん」
 わたしが言うと、一瞬かおりが困ったような顔をした。手の内を見られたような、そんな感じだった。まだ会ったこと、まだ見たことのない相手に対して、かなり期待している。彼氏のいない人とは違うはずなのに。気が多いだけなのかな……わたしが納得していないような顔をしていると、かおりが言った。
「あさり、それは勘違いよ。前にも言ったように、上野さんは上野さんだから、今回のこととは関係ないの」
「そう」
 わたしは納得していないけれど、ただなんとなく返事した。
「担当者が言っていたんだけれど、入会する人たちって、高学歴や高収入の人が意外と多いんですって。そういう人たちは、データを重視するタイプだそうで、結婚の相性も感情的ではなく、数値的に置き換えて将来を描くそうよ。もちろん、ただ相手を見つけたい人もいるでしょうけれど、高学歴や高収入の人は、その人にとって自分にふさわしい良質の相手を見つけたいということらしいの。ひとつの例としておしえてくれたんだけれど、最高学府の国立大学卒業で官公庁に勤めている四十代の男性がいて、条件としてあげたことが、国立の四大卒で超一流企業または官公庁に勤めている二十代の女性だったらしいの。その人にとって、自分と同じような国立大卒で、誰もが知っている企業に勤めている人と結婚することが、プライドを高めること、言い換えるとブランドを手にすることなんですって。それに加えて、若さ。ただ、若さに関しては、どの年齢層でも求められる項目なんだって」
「男性が年下を求めるっていうのは昔からよね。スポーツ選手みたいに職業柄、姉さん女房の方が合っている場合もあるけれど。それは特殊として、女性の場合、年下希望は少ない。一時的な遊びの場合は、年下願望があっても、いざ結婚となると収入とかを含めて現実的になるんじゃない。一般的に。わたしは、まだそこまで考えていないけれど」
 わたしは、まだそこまで考えていないけれど……ほんとうにわたしは考えていなかった。それは、仕事にしても結婚にしても、かおりより遅れているということなのか。二十八歳ということは、かおりのような思考が普通なのか。ちょっぴり不安になった。
 ふと、お店のウィンドウ越しに外を見ると、わたしと年代的に同じくらいの女性が何人も道を行き交っている。会社の制服を着た四人組のOL、体のシルエットを心地よく表現したスーツを着ている生命保険の外交員風の女性、バッグをはじめ最新の流行を身にまとった女性、個性的なファッションで自己表現している女性……。いろいろな女性がいるっていうことは、生きていくうえでの考え方もいろいろなはずだ。世間でいわれている結婚適齢期って、あるものなのかな。
 その人が結婚したいときがその人の結婚適齢期だと、どこかで読んだことがある。でも、かおりの話を聞いていると、年齢的に、絶対的な範囲で、特に女性の場合、ある程度固定した適齢期ってあるものなのかなって思ってしまう。結婚を意識しなくても、まわりがそうさせてくれない。男性も結婚するなら自分よりも年下を望むだろう。そうすると、結婚するならある程度のところで踏ん切りをつけないといけないのか。今、結婚したくなくても、いつもそんなことを考えていかないと乗り遅れてしまうのか。結婚しないと一人前に見られないのか。わたしは二十八歳。仕事のことでも頭がいっぱいだ。

 『ネクステージ』の話を聞いてから、三週間後、かおりから連絡があった。
「あさり、聞いてる。ネクステージから紹介してもらっちゃった。希望項目を伝えてあったから、リストが送信されてきて、その中からピックアップして返信したら、相手方もOKということだったので、今日会ってきたばかりなの」
「もう紹介されたの。ずいぶん早のね。」
「たまたま、そういう人がいたってことね」
「どういう感じの人」
「三十五歳の自動車関連のエンジニア。まじめ路線の人。わたしと違う業界だから新鮮に感じたわ」
「そう」
「初対面だから、ふたりともしばらくは緊張していた。まあ、お互い初対面ですけど、こういうシステムで知り合いましたので、結婚を前提にお付き合いしましょうって、言われちゃった」
「それでなんていったの」
「よろしくお願いします」
「えーっ。そんな感じて始まっちゃうの。かおり、そのつもりで入ったわけじゃないんでしょ。いきなり、結婚前提なんだ。かおりだって困るでしょ。そんなこと」
「うーん。そうだけど、わかんない」
「上野さんと同時進行ってわけね」
「土曜日は上野さんと会ったわよ」
「かおりって、器用なのね。というか、恐れ知らずかな」
「さあ」
「でも、あんまり深入りしないほうがいいと思うよ」
 正直言って、こんなに早く相手が見つかるなんて思わなかった。さすが結婚相談所。結婚予備軍の人たちが貯蓄された、結婚適齢期バンクみたいな全国区のシステムならではだろう。それにしても、土曜に上野さんと会って、日曜日に紹介された人に会ったなんてびっくり。後ろめたさなんてないのだろうか。
「自分の気持ちがしっかりしていれば大丈夫よ」
 かおりは、さらりと言った。そして、続けて言った。
「お互いのプロフィールはわかっていたけれど、経歴から始まって、趣味やライフスタイルなどを紹介しあった。向こうは、職場に年頃の女性がいないので入会したと言っていた。わたしは、適齢期だからそろそろ考えなきゃってことで……まあ、そんなとこ。第一印象はまじめそうな人。まだ初対面だから、それ以上のことは感じられなかった。とにかく、入会してみて、何か道が開ける予感がした」
「道が開けるたって、そこで即結婚するということで入ったわけじゃないんでしょ」
「そうだけど、何か期待感ていうのが違うのよね。家と会社を往復するだけじゃ生まれない、突発的な何かが起こりそうな期待感かな」
「上野さんのことは大事に考えてよ」
 わたしは、心を躍らせているかおりの話しぶりに対して、そう言うしかなかった。
 次の日のかおりを見て、気分が高揚していると思ったのはわたしだけだろうか。わたしは事情を知っているからそう見えるだけであろうか。それにしても、足取りがいつもより軽やかになっているような気がする。そんなかおりの姿を目で追っている人がいる。望月さんだ。望月さんも気づいているのだろうか。いつもと違うかおりを。それとも、上野さんとの付き合いが深まって、うまくいっていることに対するかおりへの変わらない嫉妬心なのか。同性のわたしから見て、かおりより望月さんの方が美形に感じる。鼻筋が通って、目元ばっちり。一見冷たそうに見えるけれど、きれいで明晰な風貌がある。かおりは、どちらかというと、きれいではあるが望月さんと較べるとスマートなイメージではない。明晰というよりもスポーツ系だ。男性から見たら、かおりの方が話しかけやすいタイプである。事実、同僚や上司、年下のスタッフ問わず、さまざまな人たちから気軽に話しかけられている。銀座や六本木の街に違和感なく溶け込むのが望月さん。新宿や渋谷の街を快活に歩く姿が想像できるのがかおり。わたしは、自分で自分を分析してみると、普通のOLだ。どこにでもいるような容姿だと思う。だから、ビジネス街を歩く、その他大勢の中のひとりだと言えるかな。
 望月さんは学生時代からモテたらしい。本人が言うのは、いつも声をかけられていたとのこと。自分から努力しなくても、向こうからやってくるから、常にパートナーがいたらしい。ただ、積極的にアタックしてくる男性ほど、自分が求めているタイプじゃないことが多かったとか。わたしから見れば、贅沢な悩みだなあと思ってしまうが、常に隣に誰かいる人にとっては、そうじゃないのだろう。それで、別れを告げる方、いわゆるふる方は、決まって望月さんからだったらしい。本人はそう言っていた。逆に、声をかけられることが多く、受け身の体質になってしまったことで、自分からいざアプローチしたい人がいても、その方法がわからなかったらしい。
 それにしても、過去からずうっとモテた人は、ツンとした印象がある。自身の誇りがそうさせるのだろう。そんな彼女からすれば、かおりに上野さんを取られたことは、その誇りを揺るがされたに違いない。上野さんに直接ふられたわけではないけれど、最終的には上野さんはかおりを選んだ。かおりからの強引なアプローチも効いているはずだけど、望月さんにとっては、取られたという印象が強いはずだ。そのショックは一カ月くらい続いていた。もともと彼女は、不倫をしているから、どうしても上野さんが欲しいわけではなかったと思う。以前付き合っていた人からのストーカー行為で男性不信になり、特定の人を愛せない状態が続いているから、特定の人にのめり込むなんてことはないはずだ。それでも、かおりに対する嫉妬心は続いているのか。
 望月さんと仲のよかったとき、一度だけ自宅に遊びに行ったことがある。東京港区のマンションの1DK。どうしても都心にこだわりたかったらしく、狭くてもいいから今の住まいを選んだらしい。グレー系のきれいなタイル貼りの外観で、時代の先端を行くデザイナーズマンション。
 デザイナーズマンションは、個性的で斬新な建築家や設計士が提案する機能的で都会的なマンションで、都会のしゃれた街に多い。よく犬は飼主に似てくるっていうけれど、家も住む人に似てくるのだろうか。そのデザイナーズマンションが望月さんのイメージにピッタリなのだ。きれいで、無機質で、あか抜けている。室内は、八帖くらいのダイニング・キッチンと六帖くらいのベッドルーム。ベッドルームには、シングルベッドとテーブル、イスがきちんとコーディネートされており、狭さを感じさせない。雑誌もラックに整頓されていて、スキがない。性格が乗り移ったように完璧だ。どこに座っていいのかもわからない。多少散らかっていれば、適当に座ればいいけれど、スキがない部屋は身の置き所がない。そんなわたしを見ていた彼女は、わたしをダイニング・キッチンのテーブルに導いてくれた。そして、ミルクと砂糖を少し入れた薄めのコーヒーをパステルピンクのマグカップで出しながら、わたしににっこり微笑んでくれた。わたしは、部屋をいつもこんなにきれいにしているんですかとたずねると、「あまり帰っていないだけよ」と望月さんは答えていた。「えっ。帰っていないんですか」と聞いた覚えがあるが、そのときは深く聞かなかった。それ以上聞けないような雰囲気だったので、話題を切り替えて、仕事のことを話した。先輩・後輩として、日常のありきたりな内容だったが、恋愛についての話題になると、望月さんの声のトーンが少し低くなって、ひと言ひと言考えながら話すようになった。普段から落ち着いてはいたが、何か思うところがあるような話し方だった。望月さんがわたしに、「結婚は考えてる?」って聞いてきたとき、「まだそこまでは考えていません。仕事を追いかけることで、精一杯です」と答えた。すると望月さんは、わたしに対して視線をロックしながら、「仕事と並行して考えないといけない問題だと思うよ。結婚したいと思ったときに、すぐに相手が現れるものじゃないから。学校だって、就職だって、前もって計画して実行したんでしょ」続けて「予行練習は必要よ。慣れておかないと、いざというとき決断できないわよ」と言った。わたしは、そのときは望月さんの話を聞き流していが、望月さんが不倫をしていると後で聞いたとき、不倫もその話と関連しているのかなと思ったものだ。
 わたしからしてみれば、不倫は冒険に近い。相手に奥さんがいるから、離婚しない限りは絶対に手にできないものだ。どんなに好きになってもいっしょにはなれない。感情がだんだん入り込んで、好きでしょうがなくなってもいっしょになれない。相手の家庭を壊してまで、いっしょになろうとは思わない。そう考えるだけで、冒険の入口に立てない。付き合うからには、何の障害もなくいっしょになれる人がいい。望月さんから見れば、わたしの恋愛観は古くて面白くないと言われそう。

 わたしが昔の望月さんのことを思い出しながら、望月さんを何気なく見ていたからだろうか。向こうもわたしに気づいて、目と目が合った。すると望月さんがパソコンのキーボードをたたき始めた。視線が外れたので、自分のパソコンの画面に視線を戻すと、メールが着信。望月さんからだ。クリックして開いてみた。
〈ちょっとお願いしたいことがあります。近日中、会社が終わった後、時間ありますか〉との内容だ。
 何だろう、わたしにお願いしたいことって。あらたまってそう言われると、何か特別のことだろうか。気が乗らなかった。でも、会社の先輩でもあるから返信した。
〈明後日と、来週の火曜日なら空いています〉
 すると、返信があった。
〈明後日でお願いします〉

 望月さんと待ち合わせるその日になった。先輩から呼び出されたから会うことになったけれど、かおりに知られたくないので、会社から離れた場所で待ち合わせることにした。わたしがその場所へ行くと、望月さんはもう来ていた。
「どうも。久しぶりねこんな形で会うなんて」
 望月さんが言った。
「そうですね」
 わたしは何て言ったらいいのか、迷ったけれど、少し緊張していて無難なことしか言えなかった。やはり、望月さんと向かい合うと緊張してしまう。望月さんが歩き始めたので、その後にしたがって続いた。帰宅する人たちの流れとは逆にふたりは歩いていた。しばらく歩くと、オフィス街の切れ目になり、ある喫茶店の前で立ち止まった。ふたりは、奥の四人掛けのテーブルに着いた。喫茶店で話す内容だから、込み入った内容じゃないんだろう。
「この前、仕事のことで疲れているって言ってたわよね。あまり考えすぎないことね。ストレスは誰にでもあるから、多少の手抜きも覚えたほうがいいかも」
「はあ」
 こんな話でわたしを呼び出したのだろうか。なんとなく望月さんの顔を見た。
「お願いしたいことなんだけど、単刀直入に言うね。上野さんと鈴木さんの進行状況をおしえて欲しいの。メールでもいいから定期的におしえて欲しいの」
「えっ」
 わたしは困った。こんなこと聞かれるとは思わなかったし、興信所みたいなことをするのは苦痛でいやだ。かおりに対してもスパイ行為をしているようで気が進まなかった。だけど、断ったら望月さんはなんていうだろう。仕事関係で報復されるかな……こんな気持ちが頭の中で渦巻いて、さらに回転を速めていった。
「いきなりでごめんなさいね。用件はそれなのよ」
 いつも通り、望月さんの口調は冷静だ。
「まあ、順調に、うまくいっているみたいですよ。ただ、結婚するとか、しないとかは別にして」
「今は今でいいのよ。この先、どうなるのかが知りたいの」
「細かいことはよくわかりませんけど」
「亜仁場さんは、鈴木さんと仲良しでしょ。気軽に聞けるじゃない」
「そうですけど……でもどうしてふたりのこと知りたいのですか」
 そこまで聞いちゃいけないと思ったけれど、スパイ行為もしたくなかったので、理由を聞いてみた。
「それはね。今は言えない。でも、悪いことをしようとしているわけじゃない」
「かおりに直接は聞けないですよね」
 それは無理だとわかっていたけれど、断りたかったので、わたしはそう言った。
「鈴木さんと仲がいいあなただから、頼んでいるのよ」
「プライベートなことなので、根掘り葉掘り聞けるということではありません」
「あら、でもふたりはいつも親密な話をしているじゃない」
「えっ」
 なんでそういうことを言うんだろう。聞き耳を立てているのだろうか。それにしても、なんでふたりのことがそんなに気になるのだろう。やはり、上野さんのことをまだあきらめていないのか。とにかく、この場を逃れたかったので、続けて言った。
「わかりました。でも、お役に立てるかどうかわかりません」
 その夜、後味の悪い幕引きだったので、自宅の帰っても居心地の悪い時間が流れた。会社の先輩とはパブリックなことでは、お世話になっているし、ある程度立てなくてはいけない。プライベートなことはどうだろう。会社の延長として、よほど理不尽なことを除いては、拒絶するべきではないのか。同僚で友人のプライベートなことまで、伝える義務はあるのだろうか。これはコミュニケーションの延長ではなく、スパイ行為になるのではないか。ちょっと聞いてみよう。征治さんに電話した。
「もしもし」
「はい。木村です」
「わたし」
「あさり?」
「そう」
「どうした?」
 いつもと同じイントロで始まった。
「会社の先輩から頼まれたことがあるの。それが、かおり情報を提供して欲しいっていうこと」
「かおり情報?」
「かおり今、社内の人と付き合っていて、そのふたりの仲っていうか、進行状況をおしえてくれっていうことなの」
「なんで」
「理由については、今は言えないらしいの。会社の先輩の頼みごととして、どうしたらいいのか悩んでいるのよ。とりあえず、わかりましたとは言ったけどね」
「特にプライバシーに関わることじゃなくて、友だちの情報をただ伝えることだけだったら、そんなに気にしなくてもいいと思うけれど、友だちの知らないところで、定期的に伝えるのは抵抗があるかもしれない。友だち関係の深さだとか、情報の内容にもよるけどね。日常会話的な内容だったら、そんなに気にしなくもいいけどね」
「やっぱり内容よね。恋愛とか、結婚に関わることって、プライバシーの度合いが特に高いから、少し抵抗がある」
「それだったら、断ればよかったのに」
「会社の先輩だから、何か仕事上でも意地悪されたら嫌だなって、そっちの気持ちの方が強くて断りきれなかった。冷静に考えれば、断ったほうがいいよね」
「そうだね」
 わたしの中で決まった。この件は断ろう……と思った。
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