猫耳アイドル

オトバタケ

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恐怖のボイストレーニング

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「おいチビ、もっと喉を開け」

 自主練では出せている音なのに、緊張と恐怖で喉がとじてしまって出せない。どんな状況でも変わらないパフォーマンスをするのがプロだ。それを痛いほど分かっている人の前だから余計に力んでしまって、今の状況に陥っているのだ。

「やめろ、ルイ。そんな高圧的な態度じゃ、怯えて出せるものも出せないだろ」

 早く出せ、と言わんばかりに指定してきたキーの鍵盤を連打していたルイさんの背中を、ジョー先生がバシンと叩く。ルイさんのボイストレーニングには常に先生も同席してくれて、ルイさんが横暴な態度をとると叱ってくれるのだ。

 ルイさんが突然事務所に現れて傍若無人な態度をとった翌日のことだ。また事務所に現れたルイさんは、昨日は悪かったな、と耳を澄まさなければ聞こえない音量で謝ってきて、高級焼き菓子セットを手渡してきた。そして、僕らのボイストレーニングをやると宣言してきた。
 先生は、ルイさんがアクションアクターになってからの仕事のパートナーだったのだそうだ。前に僕がルイさんのファンだと言った時に、ルイさんの本性を知って僕が落胆しないようにそのことは黙っていたのに、こんな形でバラして悪かったと頭を下げられた。
 自分ではない誰かを演じる仕事だから、それが本当の姿ではないとは分かっていたつもりだ。だけど……。
 先生に咎められているルイさんにチラリを目を遣る。僕の視線に気付いたのか、ギロリと睨まれた。ヒィ、怖いよぉ……。僕は、あからさまにきつく当たられた経験がないので、余計に怯えてしまう。

「リヒト、ちょっと休憩してきてくれ」

 ルイさんが僕に向けた視線に気付いたらしい先生が、ルイさんの頭をバシンと叩いて告げてくる。
 先生のお説教が始まるのだろう。ルイさんが腹いせに僕に罵詈雑言を浴びせないように、僕を避難させてくれるのだ。

「ジンくんは、ルイさんが怖くないの?」

 ルイさんのボイストレーニングは一人ずつ行われる。先にトレーニングを済ませてソファーで横になっているジンくんに聞く。

「ル……? 誰?」
「えぇ!? ボイストレーニングしてくれている人だよ」

 ルイさんのボイストレーニングもこれで六回目だ。まさか、指導してくれる人の名前を覚えていないとは思わなかった。

 近年はアクションアクターとして活躍していたルイさんだけど、久々に出演したあのミュージカルが大好評で、再びミュージカルをメインに活動しはじめた。
 稽古や公演で多忙なはずなのに、結構な頻度で事務所に来ている。先生に会うのが目的で、その口実にボイストレーニングをしてくれているのだろう。
 ルイさんの指導を受けてから声量が増したし、踊りながら歌っても呼吸がしやすくなった。だからだろうか、ルイさんの押しかけトレーニングを社長も黙認している。

 ルイさんは先生が大好きなようだ。ジョーは俺のものだ、と事あるごとに言ってくるからだ。言ってくる時の顔が、おもちゃを独占しようとしている子どもみたいで、僕の憧れたルイさんの顔とは違いすぎて困惑してしまう。
 ルイさんが来ると先生は嫌そうな顔をするけれど、ルイさんの我儘になんだかんだと付き合ってあげているので、嫌いではないのだと思う。
 腐れ縁の親友という間柄なのだろうか。言い争いばかりしているけれど、それは仲のいい相手だからできることだ。心を許せる友達を持ったことのない僕は、ちょっと二人が羨ましい。

「リヒトくんの方がよかった」
「え?」
「だから、ボイストレーニング」

 ボイストレーニングは社長がしてくれているのだが、社長が忙しい時は僕が代わりにやっていた。ルイさんみたいなプロの本格的なものではない、僕がコーラスサークルでやっていた基本的なものだ。

「そう? ありがとう」

 ジンくんは、ルイさんの厳しい指導より、僕の指導のが緩くてよかったという意味で言ったのだと思う。だけど、あの観客を魅了する圧倒的な歌唱力を持つルイさんより僕の方がいいと言ってもらえて、凹んでいた心が元の形を取り戻していく。公演中ずっと寝ていたジンくんは、ルイさんの凄さを知らないのだろうけれど……。
 ジンくんと話していたら、張っていた気が緩んで小腹が空いてきた。先生がおやつにと買ってきてくれたドーナツがあったはずだから、それを頂こうかな。

「ジンくん、ドーナツ食べる?」
「リヒトくんが食べるなら」
「じゃあ、お茶も淹れるね」

 手早くお茶を淹れてきて、ドーナツの入った箱と共にテーブルにに置く。ジンくんがソファーに沈んでいた体をノソノソと起こして座り直したので、隣に腰掛ける。

「え……」

 ドーナツの箱を開けて唖然とする。四個のうち三個に付箋が付いているのだ。その付箋には、ルイの、と書いてある。

「えっと……半分こでもいい?」
「構わないよ」

 ルイの、なんて書くのはルイさん本人しかいない。無視して食べたらどんな仕打ちを受けるのか想像に容易くない。
 付箋の貼られていないドーナツを半分に割って、僕の提案を了承してくれたジンくんに渡す。

「おい、なに勝手に食ってるんだよ!」

 モグモグとドーナツを食べていると、ルイさんが駆け寄ってきた。

「え……あのぉ……」

 付箋が付いていたのには手をつけていないと言いたいのに、ルイさんの圧が凄くて言葉が出てこない。どうしようと焦っていると、ジンくんが面倒臭そうに溜め息を吐いておもむろに立ち上がった。そして、ドーナツに付いていた付箋を取り、ルイさんを追いかけてきた先生のシャツに貼りだした。

「なんだ、これ?」
「いや、ジョーは俺のだけど……」

 先生もルイさんも、ジンくんの行動に困惑している。
 再びソファーに座ったジンくんは、食べかけのドーナツを口に入れて頬をモゴモゴ動かしている。
 ジンくん、ちょっと殺気立っていた。ルイさんにちゃんと物が言えなかった僕に怒ってしまったのだろうか。

「ジンくん、ごめんね」
「リヒトくんが謝る必要はないだろ」
「いや、でも……」
「そうだ、リヒトは何も悪くない。悪いのはルイだ」

 付箋に書かれた文字を見た先生が事の次第を理解したのか、ルイさんの頭を叩きながら言ってくる。

「これは事務所のみんなのおやつとして買ってきたんだ。部外者のお前が食べようとするな」
「部外者じゃねぇし。俺はジョーのパートナーだし」
「いやいや、俺はもう転職してるから」
「違うだろ、人生のパートナーだろ! あっ、ソレ、捨てるなよ!」

 ギャーギャー叫ぶルイさんに面倒臭そうに溜め息をついた先生が、シャツに貼られた付箋を取ってごみ箱に捨てると、ルイさんの騒がしさが倍増した。

「そうそう、今日は来れないと社長から連絡があったんだった。ドーナツは、二人で食べていいぞ」

 酷い酷い、と恨めしそうに呟きながら腰にしがみついてきているルイさんを無視して、先生が告げてくる。

「僕らは、また半分こして食べますから、残りは先生とルイさんで食べてください」

 四個入りだったということは、社長と先生と僕ら二人が一個ずつ食べられるようにと考えて買ってきてくれていたのだろう。半分だけじゃもの足りないなと感じていたので、もう一個に手を伸ばそうとして、はっとする。
 ジンくんが怒っていた相手がドーナツを独占しようとしていたルイさんだったならば、ルイさんにもドーナツを一個あげることになる僕の発言は頭にきたのかもしれない。

「勝手に半分こで食べるとか言っちゃって、ごめんね」
「別にいいよ」

 そう答えてくれたジンくんの眉は、不機嫌そうに寄っていない。僕に怒ってないと分かって安心しながら、半分にしたドーナツを手渡す。

 ルイさんにはまだまだ怯えてしまうけれど、ルイさんの指導を受ければ確実にステップアップできる。先生も見守っていてくれるし、頑張っていこう。
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