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出会い④

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 週末の有坂家通いを始めて半年が過ぎた。
 会社は少しずつだが上向きになり、相変わらず多忙な日々が続いている。
 朔夜との関係は、俺が出生の秘密を知っていると告げたあの日から微妙に変わった。有坂が設ける食後の二人だけの時間を、普段は圧し殺している本来の朔夜で過ごすようになったのだ。普段は腹に一物を抱えた大人達との本心を探り合う会話や、媚びを売る女とのうざったい会話ばかりなので、ぶっきらぼうだが生真面目で凛とした青年と話すのは心地好く、素朴な料理と同様に俺を癒してくれた。
 最近朔夜は、香夜として生きると決めたのに朔夜として生きたいと思ってしまう葛藤をポツリポツリと呟くようになった。秘密の告白をただ一人聞ける優越感からか心が満たされるのを感じながら、貴方は朔夜さん以外の何者でもないんですよ、と伝え続けている。
 蝸牛の歩みのように、本当に少しずつだが、ふたりの距離は近付いていっている。

 その日は、もう初秋と呼ばれる時期なのに、絡み付く熱気が不快な残暑厳しい夜だった。いつもの週末と同じように有坂家を目指し、新月で星明かりしか届かない山道を額に汗を浮かべて登る。

「こんばんは、望月です」

 玄関で声を掛けても、なんの応答もない。常ならば俺の訪問を待ちながら一杯やっている有坂が、ほろ酔いで御機嫌に出迎えてくれているのだ。

「お邪魔しますね」

 偶々こんな日もあるだろうと、特に疑問も抱かずに室内へと入る。

「朔夜さん、これは一体……」

 夕飯の準備をしているだろう朔夜の元に向かう前に、リビングで一杯やっているはずの有坂の元に向かうと、床に倒れた有坂とその脇で蹲り虚ろな目で宙を見つめている朔夜の姿があった。
 尋常ではないその光景に急いで二人の元に駆け寄り、倒れている有坂を抱えあげようとして固まる。有坂の体が、氷のように冷たく石のように固かったからだ。

「朝食の片付けをしてたらリビングから凄い音がして、駆けつけたら父さんが倒れてたんだ。急いで起こそうとしたら、『香夜の白無垢姿が見たかった。香夜、幸せになるんだよ』って微笑んで、それで動かなくなっちまって……」

 夢と現実の間を彷徨っているような焦点の合わない瞳で有坂を見つめ、本の内容を語るように言う朔夜。
 有坂は死ぬ寸前まで、息子を娘と勘違いしたままだったのか。偽りの息子に、娘としての幸せを祈った父。本心では朔夜として見て欲しいと願っていた息子を、最期まで苦しめていった父。
 ただの物と化した有坂を殴り倒したい衝動に駆られたが、そんな父でも感謝をし、父の願いを叶えるために自分を殺して香夜になりきっていた朔夜を思って踏みとどまった。

 有坂の死因は脳梗塞だった。
 夢と現実の狭間を漂い続けている朔夜の代わりに葬儀の手配をし、役所の手続きも全て俺が済ませた。有坂の葬儀は家族だけの密葬とし、朔夜と俺の二人だけで見送った。

「一人になっちまったな。いや、もともと一人だったか……」

 骨になった有坂を見て、やっと現実なのだと理解したのだろう朔夜が呟く。

「貴方は正真正銘有坂家の一員でしたよ。血の繋がりはなくとも家族だった」
「父さんも母さんも姉さんも、そう思っててくれたら嬉しいんだけどな。俺は、みんなと本当の家族だと思ってたから……」

 愛しそうに父の骨箱を抱える朔夜を見て、グシャリと心臓を握り潰されたような痛みが走り、身体中を蛆虫に這われているような不快感が走った。
 その感覚が何という名前のものなのか、その後すぐに分かることとなる。

 父が亡くなった後も不便な山頂に一人で住み続ける朔夜が気掛かりで、週末だけではなく時間ができたら有坂家を訪れるようになった。
 父が亡くなってすぐは食事を摂らず、ただでさえ細身の体が折れそうなほど痩せてしまっていた朔夜だが、毎回世間で美味しいと評判の手土産を持参して家族のためにも食べるようにと諭すと、見た目は健康だった頃の姿に戻っていった。ただ、心に空いた穴はなかなか塞がらないようで、ぼんやりと宙を眺めていることが多い。

「次の金曜日、食事に出掛けませんか?」

 有坂の匂いが染み付いたこの家から離れ、少しでも気分転換になればと思い朔夜を誘う。

「食事?」
「ええ。先日商談で使ったレストランがとても良い雰囲気で料理も美味しかったので、次回は朔夜さんと来たいなと思ったんです」
「ふーん。奢りなら行ってやってもいい」

 向かったのは、河沿いに建つホテルのスカイレストランだ。

「綺麗だな」

 対岸の公園の幻想的にライトアップされた観覧車を眺め、瞳を輝かせた朔夜が呟く。英国紳士のスーツのようにピシッと敷かれたテーブルクロスの中央に置かれた、年代物のランプの中でユラユラと揺れる柔らかな炎が照らすその顔は妙に艶やかで、動悸が早くなる。何度も同じシチュエーションで女を見てきたが、何かを感じたことなどなかったのに。
 上品で柔らかい声の紳士が行儀良く並んだナイフとフォークの間にカラフルでみずみずしい前菜を置き、フレンチのフルコースの始まりを告げた。

「うまい」

 フォークを口に入れた朔夜が、感激した様子で呟く。一口一口ゆっくりと味わっていくその顔が、徐々に笑顔に変わっていく。
 南仏の田舎町のレストランを思わせる、白壁に立派な梁が印象的な店内。朔夜の笑顔は、地中海の太陽よりも輝いているように見えた。

「ああ、うまかった。ごちそうさまでした」

 金で縁を装飾されたカップをコトンとソーサーに戻した朔夜が、掌を合わせて頭を下げる。

「前回来た時も美味しいと思いましたが、朔夜さんと食べると前回以上に美味しく感じました。誰と共に食べるかによって味も変わるんですね」
「前に食べた時は舌がおかしかっただけじゃないのか」

 本心を告げて感謝するように微笑み掛けると、ぶっきらぼうに呟いた朔夜は顔を背けてしまった。

「あれに乗りたいんですか?」

 食事中、何度も何度も窓の外に視線を向けていたのが気になっていた。

「ガキの頃、家族で遊園地に行って四人で観覧車に乗ったんだ。父さんと俺が目を輝かせて食い入るように景色を眺めていると、それを見て母さんと姉さんが笑って……」

 目を閉じて瞼の裏の愛しい思い出を語ると、ゆっくり開いた瞳が再び窓の外に向けられる。

「乗りに行きましょう」

 ガタッと席を立つと、照れ臭そうにはにかんだ顔が頷いた。

 夜空には靄がかかっていて、観覧車の上に浮かぶ半分欠けた白い月がぼやけている。
 茶色の衣に着替えた桜並木を抜け、風の通り道なのか、心地好い冷たさの風が吹き抜ける細い橋を渡って対岸へと向かう。橋の下の河川敷の芝生で犬と遊んでいる子供の笑い声に、エコーがかかって響いている。

「気持ちいいな」

 フワッと下から吹き上げてくる風で目を覆った前髪を直しながら、天を仰ぐ朔夜。
 静かで、幻想的な夜だ。朔夜の大切な人達が甦り、途切れた昨日の続きが何もなっかたように繋がっていっても不思議ではないような夜。
 歩を進めるにつれて青いライトの光が周りを染めていき、益々神秘の世界に迷い込んだような気になってきた。

「結構、人いるんだな」

 対岸に足を踏み入れた瞬間、現実へと引き戻される。
 週末の夜だ。幻想的なライトアップは恋人達を魅了し、周りにはハートが飛びまくっている。

「なんか、場違いって感じじゃねぇ?」

 妙に甘ったるい空気が流れるそこに、ばつが悪そうな顔が俺を見る。

「乗ってしまえば関係ありませんよ」
「そうだな」

 男を連れているのに、俺に対し、また見目の良い朔夜に対してまで秋波を送ってくる女共を無視し、スタスタと観覧車乗り場に歩いていく。
 周りに人は多いのにそれほど並んでいる人は居らず、二組が乗った後すぐにゴンドラに通された。

 ガタンガタンと小刻みに揺れながら、二人の体は宙に浮いていく。青い光で包まれた静かな空間は、再び橋の上で感じた神秘の世界へと誘っていく。

「夜の観覧車って初めてだ。夜だと、全然雰囲気変わるんだな」

 少し埃っぽい窓から、疎らなネオンが輝く街並みを見下ろした朔夜が呟く。

「昼の方が良かったですか?」
「そうだな、真っ青な空に手が届きそうな感じがして気持ちよかったな。満天の星空だったら印象が違うのかもしれねぇけど」

 ぼやけた月しか見えない空を見上げる朔夜の背中がいつもより小さく見えて、全ての苦しみと悲しみから守ってやりたい、と心の底から思った。

「もうすぐ天辺だな」

 数秒後、常に窓の外に見えていた鉄筋が消えた。腰の辺りまでユラユラ揺れる青い光に浸かり、その上には延々と続く黒。
 朔夜に羽が生えて愛しい人達の元に飛び立ってしまう、そんな恐怖感が不意に襲った。

「行かないで」

 飛び立たせはしないと、華奢な手首を必死に掴む。
 ガタンと大きく揺れたゴンドラの窓には、再び鉄筋の姿が現れた。
 必死の形相をしているだろう俺に、困惑げに眉を下げる朔夜。

「俺の側にいて。朔夜さん、貴方を愛している。俺と……結婚してください」

 愛なんて知らなかった俺は、朔夜さんに対して抱く感情が愛している故のものだということに気付くのが遅れた。朔夜さんが家族に抱く暖かな思いに感じた不快感は、嫉妬だったのだ。
 朔夜さんがいなくなってしまうかもしれないと考えただけで足が竦み体が震えだして、やっと朔夜さんを愛していることを自覚したのだ。

 どのくらいだろう、俺には永遠に値するくらいの長い沈黙のあと、朔夜さんの溜め息がゴンドラ内に響いた。

「狙いは有坂家の財産なんだろ?」
「違います。政略結婚ではなく朔夜さんと本当の家族になりたいと思っているんです。有坂家の朔夜ではなく、有坂朔夜という人間を愛しているんです」
「今は戸籍上は女だが、俺は男だぞ?」
「男とか女とか性別など関係ありません。朔夜さんという人間が俺には必要なんです」

 ガタッと大きな衝撃がゴンドラを揺らし、朔夜さんの手首を掴んでいた手が滑って離れていく。

「おかえりなさい」

 ガチャっと扉が開き、グレーのつなぎを着た青年が愛想笑いを振りまいてくる。

「変な奴」

 フッと口許を弛めた朔夜さんは、青年の脇を猫科の動物のように素早く通り抜けて観覧車を降りていった。
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