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帯雲虫
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秋風が吹き抜ける草原に、少年がいた。
草の上に寝転ぶ少年は、手にした杖で空に浮かぶ雲やらをなぞる遊びをしている。杖といっても森で拾った樫の木切れだ。見つけてからずいぶん経つが、先が鉤状になっていて仕事に使うのにちょうどいい。
少年はそれを大切に使っていた。
少年の名はダソルという。
羊飼いだ。
空いているほうの手で髪を弄びながら、自分でも意味の分からない、異国の歌を口ずさみ、ひとつ大きなあくびをした。
伸びるがまま艶の無い黒髪は、髪を束ねている麻紐と同じくらい手触りが悪い。
のどかな昼下がりだ。だが、日も短くなった。そろそろ戻る準備をしないと。
ダソルは身を起こし伸びをした。
草を食む羊たちが散らばる草原は綿花の花畑のようだ。
その中に紛れる相棒の姿を見つけ、息を吸い込みダソルは大声で呼んだ。
「ユン! そろそろ羊たちを集めよう。カイを呼んで」
「わかった!」
すぐにはつらつとした声が返ってきた。ユンはダソルの弟分だ。
ユンが口笛を吹くと、どこからともなく中型の犬が二人の前に躍り出た。
ダソルがそのつややかな栗色の毛を撫でてやると、牧羊犬のカイはちぎれんばかりに尻尾を振る。
「いい子だ。カイ、羊たちを集めよう」
そしてダソルの手をぺろりとひとなめするとカイは跳ねるように走り出した。
「ダソル、昼寝は捗った?」
ユンは肩をすくめていたずらっぽく笑う。ダソルは目を細め、「こいつめ!」と、羊のようにふわふわしたユンの黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
同じようにダソルの頭を撫で返そうとぴょんぴょん跳ねるが、背の高いダソルの頭には到底届かない。そんなユンを見るダソルのそばかすだらけの顔が綻ぶ。
ユンの黒目がちな大きな目が嬉しそうに輝くのが愛らしいのだ。
身寄りのないダソルは、同じく身寄りのないユンを本当の弟のように慈しんでいた。
ダソルは物心ついたころから一人きりだ。自分がどのようにして育ったのかも分からない。辿れるところまで辿ってみても、すでに今の旦那のところに奉公してる記憶しかない。ダソルが七つのころ、旦那がみなしごを引き取った。それがユンだ。それ以来、ユンとは兄弟のように育ち、ずっと一緒にいる。
羊を柵に追いやるころには日も暮れ始めていた。
美しい夕焼けだ。
二人の少年は空を見上げた。
「わあ! 今日は光ってるみたいだね」
「夕日が反射してるんだな」
「最近は腹の部分ばかりだ。僕は尻尾がすきなのに」
「そうだな。尻尾はしばらく見てないな」
二人が見上げる空には、巨大な帯状のものが浮かんでいる。
夕陽の沈む方と夜の色の濃くなっている方へ、空を二分割している。両端は見えない。
『帯雲虫』と呼ばれているそれは、実のところ、なんだか分からない。
人々の営みが始まる以前から空に浮かんでいるものだ。
その名のとおり、帯雲のように空を渡る姿はあまりに大きく、全容を見たものはいない。
百足のように節のある長い体は平たく幅広で、短い足が蚰蜒のようにびっしりと、規則正しく並んでいる。
月や星や太陽のように初めから空にある。人々にとってあたりまえの風景であって天地万物の一つでしかない。
しかし、『帯雲虫』は月や星や太陽よりもひときわ、人々の探求心を沸き立たせる。それは、その姿がまるで生き物だからだ。
地を這う虫に似た形で、雲のようにただ浮かんでいる。人に害を為すこともなくただ常に空に在るだけとは分かっていても、無数の脚や艶やかな腹の節々は今にもうごめきそうだ。
夕焼けの光が甲虫特有の艶のある表面に照り返され、一層その形がありありとしている。
『帯雲虫』の端、尾のような部分は時たま見られることもあるが、もう一方の端は常に雲に覆われていて形は知られていない。
もう一方の端は頭の形をしていて雲を喰っていると昔から言い伝えられているが、空を飛ぶことでもできない限り、だれも確かめることはできない。
「あれを近くで見てみたいなぁ」
「そうだな」
二人は『帯雲虫』を眺めるのが好きだった。
羊の番をしながら草の上に寝転び、空を飛べたらと、空想話をするのがお決まりだ。
月や星や太陽にしても、同じ、“何だか分からない空に浮かぶもの”なのだが、『帯雲虫』にまつわる神話や伝説の数は比にならないほど多い。
雷は『帯雲虫』の鳴き声だとか、雲を食べているのではなく、吐き出しているだとか。
単なる物体ではなく人々の身近にある虫の形をしているが故に、沸き上がる想像は果てしない。
「帯雲はねぇ、『帯雲虫』が脱皮した皮なんだよ」
「うんうん。それで?」
ダソルはユンの空想が好きだった。
「帯雲が……あ! 違う。『帯雲虫』の皮がだんだん千切れて細かくなっていくでしょう?それが雲に混ざって雨と一緒に地面に落ちてくるんだ。皮には栄養がたっぷり入っているから、作物が良く実るんだよ」
「なるほど」
「でもね。人が近づいてしまうとダメなんだ。あいつは人のことなんて見えてないから何も悪さをしてこない。だけど、人が空に行けるようになったら気付かれてしまうんだよ。大事にしてる玉に小さい虫が付いてるってね。嵐や洪水を起こして洗い流そうとするんだ。だから、近くで見てみたいけど人は空を飛ばない方がいいんだ」
「そうか。じゃ、この話を知ってるか? 大河は『帯雲虫』が落ちた跡なんだ。深い溝ができてそこに水が溜まったんだ。『帯雲虫』は落ちる直前に幼虫を産むんだ。筋雲、見たことあるだろう? 空に残れるのは一匹だけ。ほかは消えて雲になる。残った奴はだんだん大きくなって『帯雲虫』に育つんだ」
「わあ! 僕、やっぱり近くで見てみたい!」
「うん。沢山勉強をおやり。そして学者になって人が空に行ける道具を、お前が作るんだ」
ユンはダソルを見上げた。大きな目でまっすぐにダソルの目をみると、少し悲しげに微笑んだ。
「……ダソル。春になったら町へ行くんでしょ?」
「……ああ。ユン、知っていたのか」
少し前のことだ。夏の終わり、ダソルは旦那に呼ばれた。なんの用かは察しがついていた。
年を越すころにはダソルももう十八だ。いつまでもここにはいられない。
旦那の牧場は広い。雇人も多く、裕福で広く知られているのでよく家畜小屋に捨て子が置かれている。
旦那はダソルやユンだけでなく、こうして置いていかれた身寄りのない子どもを引き取り、育て、教育し、仕事を与えてくれる。
だが、一生、全員の面倒を見るわけにはいかず、十六になると皆、独り立ちをしていくのだ。
十六のときも旦那に呼ばれた。独り立ちをする年ごろになったからだ。ところがダソルは暇を出されなかった。もう少し、この家で働いて欲しいというのだ。
ダソルにとってはこの上ない話だ。ユンが気がかりで仕方ない。他所へ出るなど、とても考えられなかった。それは旦那も同じ考えだった。
ユンは生来、人に心を開くことが不得手で世話をする大人は手を焼いていた。昼夜問わず泣き通しだった。
ダソルはそんなユンを幼いころからずっと気にかけていた。自分にもこんな頃があったのかな。と、赤ん坊に興味深々だった。
なんで、ずっと泣いているのかな。哀しいのかな。淋しいのかな。痛いのかな。苦しいのかな。
僕もずっと泣いていたのかな。
ユンを見ていると、ダソルは幼いながらに身を引き裂かれそうになるほど痛ましかった。
この小さな小さなユンがすやすや眠れるように、そして目が覚めた時には笑顔になれるように、寄り添っていたいと思うようになった。
ダソルは学校や家の手伝いの時間を除いて、できるだけユンのそばにいることにした。
ユンがあまりにも手に負えないものだから、女中たちはしめたとばかりにダソルに世話を押し付ける。それが功を奏す。ユンはダソルと目を合わせるようになり、そのうち笑顔を見せるようになっていった。
そして、歩きはじめたころには金魚のフンのようにダソルについてまわる。
ダソルと一緒にいると、よく話しよく笑う。
手に余っていたユンがやっと落ち着いたきと、旦那もすっかり胸を撫で下ろし、その頃からすでにダソルを頼りにするようになった。
二人はいつも一緒だった。本当の兄弟のようだった。
ユンとの想い出は尽きない。あれからずいぶん大きくなったな。と、ダソルはしみじみとした。
そうだ。ユンのいう通り、 いよいよここを出る時がきた。
ダソルは夕日に照らされた少し悲しげなユンの笑顔を見つめ返す。少し悲しげではあるが、ユンは笑顔を見せてくれた。
ユンはもう、幼子ではない。ダソルが居なくとも、一人でやっていかなければならないこともある。
精いっぱい作ったユンの切ない笑顔には、そんな決意が見える。
ダソルも踏ん切りをつける時だ。そんなユンの決意を大切にしなければならない。笑顔を返し、もう一度、ユンの頭を優しく撫でた。
「……さあ、もう入ろう。暗くなってきた」
「うん。夜ご飯は何かなぁ。お腹すいたね」
「ああ。沢山食べろよ」
「お前はチビだからな」と、ダソルはユンの頭に手を置く。ユンは無邪気にぴょんぴょん跳ね、「チビじゃないよ! ほら」と、おどけて見せた。
「襟元がはだけてるぞ」
「だって、羊が帯をかじるんだもの」
「ほら、襟を合わせろ。旦那さんに叱られるぞ」
着崩れた着物を整えてやると、ユンは「はーい!」と満足そうな笑顔だ。見つめ返すダソルの笑顔は切なさが滲んでいた。
◇
ダソルの奉公が明けてから六年の月日が流れた。
ユンは十六だ。
一人でもうまくやっていたが、笑顔が減り、寡黙になっていくユンのことを心配した旦那は、ユンに一人の子供の世話を任せた。
ダソルが旅立った後に、引き取った子供だ。
ネオと名付けられた子供は人懐こくてユンの赤ん坊の頃とは大違いだ。すぐにユンと打ち解け、やがて本当の兄弟のようになった。
ネオはいつでもユンと一緒だ。夕焼けのように赤々とした髪を弾ませて走り回り、毎日羊の番に励む。牧羊犬のカイとも大の仲良しだ。
秋風が吹き抜ける草原に、羊飼いの少年がいた。
ユンは草の上に寝転び、手にした杖で空に浮かぶ『帯雲虫』の形をなぞる遊びをしている。杖はダソルから譲り受けた、先が鉤状になっている樫の木切れだ。
ユンは大切に使っていた。
ダソルがいつもしていたように、空いているほうの手で髪を弄びながら、意味の分からない異国の歌を口ずさみ、空中に文字を綴る。
「何を書いてるの?」
赤毛が視界にあらわれた。ネオがユンの顔をのぞき込む。
「“ダソル”って書いてたんだ」
「ユンの兄さんだね」
ユンが目で頷くと、ネオはにこりと笑った。
のどかな昼下がりだ。だが、日も短くなった。そろそろ戻る準備をしないと。ユンは身を起こし伸びをした。
「もうすぐユンも兄さんのいる町に行くんでしょ?」
ネオは首をかしげ切なげに笑う。ユンは目を細め「ああ」と、馬のたてがみのようにつややかでこしのあるネオの赤毛をくしゃくしゃと撫でた。
ユンは空を指さす。
そこには『帯雲虫』が無言でその大きな体を横たえている。
「空を見上げると元気になれた。ダソルといつも『帯雲虫』の話をしていたからね。きっとダソルも空を見上げてる。って、さ」
ユンは穏やかに答え、ネオの頭にそっと手を添えた。
ネオはユンの隣に座ると、両手をユンの腰に回し力を込め、ユンの服に顔をうずめた。
「……僕も空を見上げるよ。ユン、元気でね」
ユンは、ネオがユンの服で涙を拭っているのには気付かないふりをした。
「ネオ。お前も一緒に行こう。ネオのこと、ダソルに手紙を書いたんだ。僕たち二人の兄さんだよ」
「いいの?」
「ああ、もちろん。お前のおかげで僕は一人前になれたんだよ、ネオ。だから……手伝ってくれるだろう? 空に行く機械を作ろう。一緒に。ダソルと僕とネオ、兄弟三人で『帯雲虫』を見に行くんだ」
草を食む羊たちが散らばる草原は綿花の花畑のようだ。
そして『帯雲虫』を見上げる羊飼いの少年たちの夢は、空を翔昇った。
了
草の上に寝転ぶ少年は、手にした杖で空に浮かぶ雲やらをなぞる遊びをしている。杖といっても森で拾った樫の木切れだ。見つけてからずいぶん経つが、先が鉤状になっていて仕事に使うのにちょうどいい。
少年はそれを大切に使っていた。
少年の名はダソルという。
羊飼いだ。
空いているほうの手で髪を弄びながら、自分でも意味の分からない、異国の歌を口ずさみ、ひとつ大きなあくびをした。
伸びるがまま艶の無い黒髪は、髪を束ねている麻紐と同じくらい手触りが悪い。
のどかな昼下がりだ。だが、日も短くなった。そろそろ戻る準備をしないと。
ダソルは身を起こし伸びをした。
草を食む羊たちが散らばる草原は綿花の花畑のようだ。
その中に紛れる相棒の姿を見つけ、息を吸い込みダソルは大声で呼んだ。
「ユン! そろそろ羊たちを集めよう。カイを呼んで」
「わかった!」
すぐにはつらつとした声が返ってきた。ユンはダソルの弟分だ。
ユンが口笛を吹くと、どこからともなく中型の犬が二人の前に躍り出た。
ダソルがそのつややかな栗色の毛を撫でてやると、牧羊犬のカイはちぎれんばかりに尻尾を振る。
「いい子だ。カイ、羊たちを集めよう」
そしてダソルの手をぺろりとひとなめするとカイは跳ねるように走り出した。
「ダソル、昼寝は捗った?」
ユンは肩をすくめていたずらっぽく笑う。ダソルは目を細め、「こいつめ!」と、羊のようにふわふわしたユンの黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
同じようにダソルの頭を撫で返そうとぴょんぴょん跳ねるが、背の高いダソルの頭には到底届かない。そんなユンを見るダソルのそばかすだらけの顔が綻ぶ。
ユンの黒目がちな大きな目が嬉しそうに輝くのが愛らしいのだ。
身寄りのないダソルは、同じく身寄りのないユンを本当の弟のように慈しんでいた。
ダソルは物心ついたころから一人きりだ。自分がどのようにして育ったのかも分からない。辿れるところまで辿ってみても、すでに今の旦那のところに奉公してる記憶しかない。ダソルが七つのころ、旦那がみなしごを引き取った。それがユンだ。それ以来、ユンとは兄弟のように育ち、ずっと一緒にいる。
羊を柵に追いやるころには日も暮れ始めていた。
美しい夕焼けだ。
二人の少年は空を見上げた。
「わあ! 今日は光ってるみたいだね」
「夕日が反射してるんだな」
「最近は腹の部分ばかりだ。僕は尻尾がすきなのに」
「そうだな。尻尾はしばらく見てないな」
二人が見上げる空には、巨大な帯状のものが浮かんでいる。
夕陽の沈む方と夜の色の濃くなっている方へ、空を二分割している。両端は見えない。
『帯雲虫』と呼ばれているそれは、実のところ、なんだか分からない。
人々の営みが始まる以前から空に浮かんでいるものだ。
その名のとおり、帯雲のように空を渡る姿はあまりに大きく、全容を見たものはいない。
百足のように節のある長い体は平たく幅広で、短い足が蚰蜒のようにびっしりと、規則正しく並んでいる。
月や星や太陽のように初めから空にある。人々にとってあたりまえの風景であって天地万物の一つでしかない。
しかし、『帯雲虫』は月や星や太陽よりもひときわ、人々の探求心を沸き立たせる。それは、その姿がまるで生き物だからだ。
地を這う虫に似た形で、雲のようにただ浮かんでいる。人に害を為すこともなくただ常に空に在るだけとは分かっていても、無数の脚や艶やかな腹の節々は今にもうごめきそうだ。
夕焼けの光が甲虫特有の艶のある表面に照り返され、一層その形がありありとしている。
『帯雲虫』の端、尾のような部分は時たま見られることもあるが、もう一方の端は常に雲に覆われていて形は知られていない。
もう一方の端は頭の形をしていて雲を喰っていると昔から言い伝えられているが、空を飛ぶことでもできない限り、だれも確かめることはできない。
「あれを近くで見てみたいなぁ」
「そうだな」
二人は『帯雲虫』を眺めるのが好きだった。
羊の番をしながら草の上に寝転び、空を飛べたらと、空想話をするのがお決まりだ。
月や星や太陽にしても、同じ、“何だか分からない空に浮かぶもの”なのだが、『帯雲虫』にまつわる神話や伝説の数は比にならないほど多い。
雷は『帯雲虫』の鳴き声だとか、雲を食べているのではなく、吐き出しているだとか。
単なる物体ではなく人々の身近にある虫の形をしているが故に、沸き上がる想像は果てしない。
「帯雲はねぇ、『帯雲虫』が脱皮した皮なんだよ」
「うんうん。それで?」
ダソルはユンの空想が好きだった。
「帯雲が……あ! 違う。『帯雲虫』の皮がだんだん千切れて細かくなっていくでしょう?それが雲に混ざって雨と一緒に地面に落ちてくるんだ。皮には栄養がたっぷり入っているから、作物が良く実るんだよ」
「なるほど」
「でもね。人が近づいてしまうとダメなんだ。あいつは人のことなんて見えてないから何も悪さをしてこない。だけど、人が空に行けるようになったら気付かれてしまうんだよ。大事にしてる玉に小さい虫が付いてるってね。嵐や洪水を起こして洗い流そうとするんだ。だから、近くで見てみたいけど人は空を飛ばない方がいいんだ」
「そうか。じゃ、この話を知ってるか? 大河は『帯雲虫』が落ちた跡なんだ。深い溝ができてそこに水が溜まったんだ。『帯雲虫』は落ちる直前に幼虫を産むんだ。筋雲、見たことあるだろう? 空に残れるのは一匹だけ。ほかは消えて雲になる。残った奴はだんだん大きくなって『帯雲虫』に育つんだ」
「わあ! 僕、やっぱり近くで見てみたい!」
「うん。沢山勉強をおやり。そして学者になって人が空に行ける道具を、お前が作るんだ」
ユンはダソルを見上げた。大きな目でまっすぐにダソルの目をみると、少し悲しげに微笑んだ。
「……ダソル。春になったら町へ行くんでしょ?」
「……ああ。ユン、知っていたのか」
少し前のことだ。夏の終わり、ダソルは旦那に呼ばれた。なんの用かは察しがついていた。
年を越すころにはダソルももう十八だ。いつまでもここにはいられない。
旦那の牧場は広い。雇人も多く、裕福で広く知られているのでよく家畜小屋に捨て子が置かれている。
旦那はダソルやユンだけでなく、こうして置いていかれた身寄りのない子どもを引き取り、育て、教育し、仕事を与えてくれる。
だが、一生、全員の面倒を見るわけにはいかず、十六になると皆、独り立ちをしていくのだ。
十六のときも旦那に呼ばれた。独り立ちをする年ごろになったからだ。ところがダソルは暇を出されなかった。もう少し、この家で働いて欲しいというのだ。
ダソルにとってはこの上ない話だ。ユンが気がかりで仕方ない。他所へ出るなど、とても考えられなかった。それは旦那も同じ考えだった。
ユンは生来、人に心を開くことが不得手で世話をする大人は手を焼いていた。昼夜問わず泣き通しだった。
ダソルはそんなユンを幼いころからずっと気にかけていた。自分にもこんな頃があったのかな。と、赤ん坊に興味深々だった。
なんで、ずっと泣いているのかな。哀しいのかな。淋しいのかな。痛いのかな。苦しいのかな。
僕もずっと泣いていたのかな。
ユンを見ていると、ダソルは幼いながらに身を引き裂かれそうになるほど痛ましかった。
この小さな小さなユンがすやすや眠れるように、そして目が覚めた時には笑顔になれるように、寄り添っていたいと思うようになった。
ダソルは学校や家の手伝いの時間を除いて、できるだけユンのそばにいることにした。
ユンがあまりにも手に負えないものだから、女中たちはしめたとばかりにダソルに世話を押し付ける。それが功を奏す。ユンはダソルと目を合わせるようになり、そのうち笑顔を見せるようになっていった。
そして、歩きはじめたころには金魚のフンのようにダソルについてまわる。
ダソルと一緒にいると、よく話しよく笑う。
手に余っていたユンがやっと落ち着いたきと、旦那もすっかり胸を撫で下ろし、その頃からすでにダソルを頼りにするようになった。
二人はいつも一緒だった。本当の兄弟のようだった。
ユンとの想い出は尽きない。あれからずいぶん大きくなったな。と、ダソルはしみじみとした。
そうだ。ユンのいう通り、 いよいよここを出る時がきた。
ダソルは夕日に照らされた少し悲しげなユンの笑顔を見つめ返す。少し悲しげではあるが、ユンは笑顔を見せてくれた。
ユンはもう、幼子ではない。ダソルが居なくとも、一人でやっていかなければならないこともある。
精いっぱい作ったユンの切ない笑顔には、そんな決意が見える。
ダソルも踏ん切りをつける時だ。そんなユンの決意を大切にしなければならない。笑顔を返し、もう一度、ユンの頭を優しく撫でた。
「……さあ、もう入ろう。暗くなってきた」
「うん。夜ご飯は何かなぁ。お腹すいたね」
「ああ。沢山食べろよ」
「お前はチビだからな」と、ダソルはユンの頭に手を置く。ユンは無邪気にぴょんぴょん跳ね、「チビじゃないよ! ほら」と、おどけて見せた。
「襟元がはだけてるぞ」
「だって、羊が帯をかじるんだもの」
「ほら、襟を合わせろ。旦那さんに叱られるぞ」
着崩れた着物を整えてやると、ユンは「はーい!」と満足そうな笑顔だ。見つめ返すダソルの笑顔は切なさが滲んでいた。
◇
ダソルの奉公が明けてから六年の月日が流れた。
ユンは十六だ。
一人でもうまくやっていたが、笑顔が減り、寡黙になっていくユンのことを心配した旦那は、ユンに一人の子供の世話を任せた。
ダソルが旅立った後に、引き取った子供だ。
ネオと名付けられた子供は人懐こくてユンの赤ん坊の頃とは大違いだ。すぐにユンと打ち解け、やがて本当の兄弟のようになった。
ネオはいつでもユンと一緒だ。夕焼けのように赤々とした髪を弾ませて走り回り、毎日羊の番に励む。牧羊犬のカイとも大の仲良しだ。
秋風が吹き抜ける草原に、羊飼いの少年がいた。
ユンは草の上に寝転び、手にした杖で空に浮かぶ『帯雲虫』の形をなぞる遊びをしている。杖はダソルから譲り受けた、先が鉤状になっている樫の木切れだ。
ユンは大切に使っていた。
ダソルがいつもしていたように、空いているほうの手で髪を弄びながら、意味の分からない異国の歌を口ずさみ、空中に文字を綴る。
「何を書いてるの?」
赤毛が視界にあらわれた。ネオがユンの顔をのぞき込む。
「“ダソル”って書いてたんだ」
「ユンの兄さんだね」
ユンが目で頷くと、ネオはにこりと笑った。
のどかな昼下がりだ。だが、日も短くなった。そろそろ戻る準備をしないと。ユンは身を起こし伸びをした。
「もうすぐユンも兄さんのいる町に行くんでしょ?」
ネオは首をかしげ切なげに笑う。ユンは目を細め「ああ」と、馬のたてがみのようにつややかでこしのあるネオの赤毛をくしゃくしゃと撫でた。
ユンは空を指さす。
そこには『帯雲虫』が無言でその大きな体を横たえている。
「空を見上げると元気になれた。ダソルといつも『帯雲虫』の話をしていたからね。きっとダソルも空を見上げてる。って、さ」
ユンは穏やかに答え、ネオの頭にそっと手を添えた。
ネオはユンの隣に座ると、両手をユンの腰に回し力を込め、ユンの服に顔をうずめた。
「……僕も空を見上げるよ。ユン、元気でね」
ユンは、ネオがユンの服で涙を拭っているのには気付かないふりをした。
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「いいの?」
「ああ、もちろん。お前のおかげで僕は一人前になれたんだよ、ネオ。だから……手伝ってくれるだろう? 空に行く機械を作ろう。一緒に。ダソルと僕とネオ、兄弟三人で『帯雲虫』を見に行くんだ」
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そして『帯雲虫』を見上げる羊飼いの少年たちの夢は、空を翔昇った。
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