渋茶片手につれづれと

宮ノ上りよ

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第二章 戦友の絆~繋ぎ合う手

2-7 変わらない景色を夢見る

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 何かと慌ただしかった中学校生活初めての一学期が終わり、夏休みに入った。
吹奏楽部はいよいよ目前に迫ったコンクールに向けて、夏休みとは名ばかり、連日登校しての強化練習期間に突入した。
それでも七月のうちは月曜日から土曜日の午前中三時間で昼には帰宅出来たが、八月に入った途端、弁当持参で午前は個人練習やパート練習、午後からはコンクール出演メンバーのみ合奏、一年生はその間パート毎にひたすら基本練習と、ハードなスケジュールに追われる毎日となった。

 「はぁあ!やっぱ美味いなぁ!」
コップから口を離した春久が恍惚の表情で
「お代わり!」
机の角を挟んで斜め横に座っている菜々美に、空のコップを突き出す。
はいはい、と笑いながら、菜々美がつい最近新調したばかりの赤い水筒を手に取った。
小学校時代から長く使っていた前の水筒と色こそ変わらないが、容量はひと回り大きい。

 なみなみと注いでもらった冷たい緑茶を、一気に飲み干した一杯目とは異なり少しずつ味わうように飲んでいる春久を、その横でまだ一杯目の茶が残っているコップを口に運びながら有智は見ていた。


 初めて菜々美の冷茶を分けてもらった際にその独特の渋味がすっかり気に入ってしまった春久は、次の土曜日も弁当を食べ終わった後
『なな!お茶くれ!』
女子の一団の中で昼食を摂っていた菜々美に向かって、大声で呼ばわった。
『欲しかったらそっちから来なよ!』
これまた大声で菜々美が返してくるのに、めんどくさいなぁ、とぶつぶつ言いながら
『行くかユーチ』
そうするのがさも当然のように有智を誘って、席を立った。
春久が自席に座ったまま菜々美に茶をねだるのに、こっちから行って頼むのが常識だろうがずうずうしい、と眉を顰めていた有智は
『いや俺は』
いい、と即座に返そうとして、思わず口ごもった。
あのお茶は確かに美味しかった。もういちど飲めるものなら……いや、でも。
一瞬の躊躇ちゅうちょ
『俺のコップ貸してやるから』
コップを持っていないがゆえの遠慮と取ったのか、春久がそう言って。
結局前の週と同様、有智も春久と共に菜々美に茶を分けてもらった。

 夏休みに入ってからは、練習の合間の休憩時間にめいめいが持参の水筒で水分を補給する中
『おーいなな!お茶くれ!』
大声で茶をねだる春久とふたりで菜々美の許へ足を向けるのが、何時の間にかお決まりのパターンと化していた。
三回に一回は例によって『パープル!』呼ばわりして
『だからバイオレットだってば!』
菜々美の怒声が飛び、有智がはいはいわかったわかったハルもいい加減にしろ、と春久をたしなめて。
その後、三人で机を囲んで茶を飲む。
 
 当初は春久の水筒のコップに一杯ずつ注いでもらって順番に飲んでいたが、次第に春久がお代わりを要求するようになって。
今までの水筒ではとても足りないからと菜々美が水筒を大きめの物に買い換えた。
するとそれまで水筒付属のちいさなコップでは飲んだ気がしないとぼやいていた春久が
『量が増えたんなら遠慮することないよな!』
ある日、水筒とは別にプラスチック製のコップを持って来た。
あれでも遠慮していたつもりだったのか、と唖然とする一方で、有智は迷った。
春久がコップを持って来て、自分が今まで通り彼の水筒のコップを借りるというのも何だかおかしな話だ。
だからと言って自分までもがわざわざコップを家から持って来るのは、それこそ遠慮がなさ過ぎるのでは、と。
だが、有智の内心の逡巡は
『ユーチも明日から自分のコップ持って来なよ?』
菜々美のひとことで、あっさり断ち切られた。
以来、有智も家からプラスチックのコップを毎日持参している。春久のそれよりも一回り位小ぶりのものにしたのは、ささやかではあるが一応の遠慮、のつもりだった。

 菜々美の茶は、彼女が自身で色々と工夫して淹れているものだと。
有智は母の祐子の話で知った。
初めて菜々美から茶をもらった日、あまりの美味しさに帰宅してすぐ母にそのことを話したら
『ユーチがお茶美味しいって言うなんて珍しいね?』
そんなに美味しいお茶ってどんな味なんだろう?と首を傾げられて。
やっぱり母さんが教えた訳じゃなかったか、と、有智は確信した。
菜々美は小学生の頃から祐子に料理を教わっている。もしかしたら茶の淹れ方も母から習ったのかと一瞬思ったのだが、家で同じような味の茶を飲んだ事は今までいちどもなかった。
翌日の、日曜日の晩。
『ななちゃんのお茶、ホントに美味しいね』
昼間、菜々美に弁当のおかずの作り方を教えた際に彼女に頼んで茶を淹れてもらったという母が
『あれね、ななちゃんがちいさい頃から自分でお湯の温度とかお茶を淹れてから蒸らす時間とか考えて、ちょうどいい渋さになるようにしたんだって』
感に堪えたように、そう言った。
『ユーチが物凄く褒めてたって言ったら、ななちゃん喜んでたよ』
『そっか』
母の言葉に、余計な事言うなよ、と苦い思いでそっけなく返しながらも
『ななちゃん喜んでたよ』
をひどく嬉しく思った、有智だった。


 「なな!もう一杯!」
再び空になったコップを菜々美の目の前に勢いよく突きつける春久を
「ハルもう三杯目だろ?いい加減にしろよ。ななの分なくなっちまうだろが」
有智は見かねて窘めた。
「ああいいのいいの。私ひとりじゃそんなに飲まないし、まだたくさんあるから」
菜々美が春久のコップに向けて水筒を傾けながら
「ユーチは?お代わりいいの?」
屈託のない笑顔で問うてくるのに
「……じゃあ、なながいいんだったら」
小声で返しながら、有智は自身のコップをおずおずと差し出した。

 ――ハルの奴、よくあんなに遠慮なくワガママが言えるもんだな。

 菜々美に注いでもらった二杯目の茶に口をつけながら、有智は春久のあまりの臆面のなさに心の中で呆れ返っていた。
春久が毎日毎度凄い勢いでお代わりを要求するせいで、菜々美が水筒を買い替える羽目になったのに、感謝するどころかますます図に乗って。
ド厚かましいにも程がある、と。

 大体、ななもななだ。
たまにはいい加減にしろって突っぱねればいいのに。
いつも『しょうがないなぁ』なんて言いながらほいほい聞いてやってるから、余計にハルがつけあがるんだ。
パープルって呼ばれた時は物凄い勢いで怒るくせに、何なんだよ、ったく。

 と。
そこまで思ったところで、有智は自身の感情の動きに戸惑った。
これって、もしかして。

 俺、ハルにヤキモチ焼いてる、のか――?

 まさか、と。
慌てて打ち消そうとしたものの、いちど言葉ではっきりと形取ってしまったものは容易には拭えなかった。
それどころか却って、心の中にもやもやと拡がっていって。

 ――もし、俺が……だったら。

 小学校以来数年間の付き合いの中で、有智が菜々美にワガママを言ったことなど、覚えている限りいちどもない。
低学年の頃は今の春久のように、自分の意思をはっきり口に出して主張する性格だったが、それでも菜々美に対して無理を言ったり何かを要求するということはなかった、と思う。

 もし、俺が。
ハルみたいに、ななにワガママを言ったら。
ななは何て言うだろう。

 『しょうがないなぁ』って、笑って聞いてくれるんだろうか。
それとも――。

 「ユーチ?」
不意に呼ばれて、有智は我に返った。
「どしたの?さっきからずっと黙っちゃってて」
机越しに菜々美が怪訝そうにじっと見つめて来るのに、え、あ、とへどもどして。
「……これ、やっぱ美味いなって」
咄嗟に思いついた言い訳を、半ば本音を込めて返す、と。
「うわぁ」
何故か、菜々美は眉間に縦皺を寄せながら僅かに後ずさった。
「何かやっぱ不気味」
「へ?」
「ユーチに褒められるって、絶対何かウラがあるんじゃないかって」
「はぁ?何だよそれ!」

 確かに日頃の自分からすれば、らしくない位ストレートな物言いかもしれない、が。
母からこの茶の美味さが菜々美の創意工夫の成果と聞いて、心の底から凄いと思っていたからこそ、さらりと口から出た称賛だった。
有智が茶の味を褒めた事を
『ななちゃん喜んでたよ』
母はそう言っていた。

 なのに。

 喜ぶどころか、明らかに引いていると丸判りの表情をこちらに向けている菜々美に
「何?ユーチがなな褒めるってそんなに珍しい事なのか?」
春久が問うと、菜々美は首を何度も縦に振って。
「いっつも文句言われたり怒られたりばっかりだし。だから褒められても素直に受け取っていいのかわかんなくて」
「素直に受け取れよっ!」
思わず叫んだ有智に
「はいはいわかったわかった」
ふたりの間で苦笑しながら春久が宥めるように言った。いつもと立場がまるで逆だ。
「まあでも今のはユーチもマジで褒めてんだろ?これマジ美味いし何杯でも飲みたくなるし?」
手にしたコップを軽く掲げた春久は、中に残っていた茶を一気に飲み干して
「ってわけでなな、お代わり!」
菜々美の眼前にコップを突き出した。
「ああはいはいはい」
ったくもう、と溜息混じりに笑いながら、菜々美が水筒を傾ける。これで四杯目だ。
遠慮する気配なぞ微塵もない春久と、気のせいか嬉しそうに彼に茶を注いでいる菜々美を、無言で眺めながら。

 ――冗談じゃない。

 こいつと同じレベルで俺がななにワガママを言うとか、全然想像出来ない。
……いや。

 絶対、想像したくない――。

 菜々美に対して傍若無人に振る舞う春久を羨ましいと思っている訳でも、彼に嫉妬している訳でもない、と。
脳裏を掠めた微かな疑念を、全力で否定した有智だった。

 三人で机を囲んで、茶を飲みながら。
今練習している教則本の事や、先輩達が吹いているコンクールの曲の事、最近やっとほぼ全員の名前とある程度の性格を把握しつつある同期部員の事、夏休みの宿題の進み具合や難度、等々。
話の種が次から次へと湧いて来て、他愛もない会話は休憩時間が終わるまでいつも尽きる事がなかった。

 「何か、こういうのっていいよね」
不意に。
菜々美が水筒の残りの茶を全部自身のコップに空けながら、言った。
「二年になっても三年になっても、こんな風に三人でお茶飲みながらいろんなこと話せたらいいなって」
「ああ」
有智が頷くのに重ねて、だな、と春久が応える。

 三人揃えば、言いたいことを言い合って。
くだらないことですぐ口喧嘩になって。
ふたりで言い争うのを、ひとりがはいはいわかったわかった、と止める、けれど。
時々三人でやり合い収拾がつかなくなって、先輩や同期におまえらいい加減にしろと怒られて。

 だけどそんな毎日が、妙に楽しい。

 来年も。
再来年も。
先輩達が卒業して、後輩達が入って来て、自分達が最上級生になっても。

 ずっとこんな風に三人で、変わらない仲でいられたら。

 「卒業しても、大人になってもね?」
ふたりの同意を得て気が大きくなったのか。
菜々美が語る未来は、有智が想定したそれを遥かに超えた先に飛んでいた。
「卒業って!どんだけ先の話だよ!」
「まだこの間中学入ったばかりだってのに!」
春久とふたり、笑いながらそれぞれに突っ込んだものの、菜々美は意に介する様子もなく心なしかうっとり夢見るような表情で。

 「ジーサンバーサンになっても縁側で渋茶飲みながら三人で部活の思い出なんか語り合ってたら面白いだろうなぁ」
「ぶ!」
今度こそ、有智も春久も盛大に噴き出した。
「おいおい!何年寄りじみた事言ってんだよっ!」
「ジーサンバーサンになるまであと何十年あると思ってるんだなな!」

 まだ十代の真ん中にも届かない年齢で、そんなとてつもない先の事を軽々と菜々美が語るのが可笑しくて。
天井を仰いであははは!と笑い声を響かせる春久と共に、有智も腹を抱えて前のめりになりながら笑った。
そのうち菜々美が『ふたりとも笑い過ぎ!』と怒り出すんじゃないかと思いながらも、どうにも止められない。
だが菜々美は相変わらず笑顔のままで。

 「でも、何十年経ってもそういう友達でいられたら最高じゃない?」

 と、春久がすっと笑いを収めて。
「まあ、悪くないよなそれ」
真面目な口調で応えたのに、有智は驚いた。
「でしょ?」
我が意を得たとばかりに意気込む菜々美が
「ユーチは?」
問うてきて。
「……うん、そうだな」

 縁側。
有智の家にはないが、菜々美の家には濡れ縁がある。
子どもの頃に彼女の家の庭先で遊んだ際、そこに座って菓子を食べたり飲み物を飲んだりした。

 ――ハルと、ななと、俺と。

 何年か……何十年か先。
三人であの縁側に並んで、渋茶を啜りながら。
部活の思い出を語り合う。

 あの頃楽しかったよな、って――。

 ジーサンバーサンになった自分達なんて、全く想像がつかないけれど。
もしも、そんな年になっても、こんな風に変わらずに三人でいられたら。

 「縁側で渋茶、か」
有智の呟きに
「それ!縁側で渋茶!いいでしょ!」
菜々美が弾んだ声で応じて
「うんいいな!」
春久が、にっと笑った。
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