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第1章
その29 舞台の幕はとっくに上がっている
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おれ、山本雅人は。
いま吉祥寺のかっこいい喫茶店にいる。
伊藤杏子さんに「まさとお兄ちゃん?」と呼びかけられたら、何かを思い出しそうになった。だが、考えようとすると頭がガンガン痛くなって。
目の前が真っ暗になった。
※
それから、どれくらい過ぎただろう?
「……やまもとくん。やまもとまさとくん? 大丈夫?」
落ち着いた、優しそうな声が聞こえた。
女性の、キレイな声だ。
しかし若すぎる雰囲気では無い。
女医さんかな?
「気分は? 吐き気はする?」
「だいじょうぶです」
目を開けた。
意外なことに、そこはまだ、喫茶店の中だった。
洞穴の内部を思わせる天井。シックな店内。
おれを覗き込んでいる、きれいな女の人の顔。心配そうだ。
……杏子さんに似てる?
「どうしたんだろう。なんか頭が痛くなって」
「今は?」
「……えっと。もう痛くないです」
落ち着け、おれ。
「身体を起こして。ゆっくりとね」
おれは店内の奥まったところにある席に横たえられていたのだった。背中に手が差し入れられ、起き上がるのを助けてもらったのがわかった。
「雅人おにいちゃん! ごめんなさい」
おれよりも動転しているのは、杏子さんだ。
おにいちゃんと呼ばれるのはとても心地良い響きだけど。
「杏子さんのせいじゃないよ」
ようやく、ちゃんと起き上がり椅子に座って、渋い雰囲気のマスターが出してくれた水を、少しずつ飲む。
「なんでかわからないんだ。思い出そうとしたら、すごい頭痛くて」
「あたしのせいよ」
杏子さんはガンとして主張する。
「あたしが、八年前のことを言い出したから」
「八年前?」
思わずオウム返しに呟いた。
「そうよ。不思議でたまらないんだけど。あたしと香織は、八年前に、雅人おにいちゃんと、充くんに、助けられたのよ。それも、いまの雅人と充なの!」
勢い込んで、杏子さんは話し出した。興奮して呼び捨てにされていても彼女になら、全然、いやじゃなかった。
「雅人、紹介するわ、あたしのお母さん! きょうは仕事が早く終わって帰宅していたの。家が近いから、来てもらったの。心配で……もしものことがあっても、あたし一人じゃ、雅人おにいちゃんを運べないし」
「平気だよ、起き上がれるから」
席を立とうとして、また、ぐらついた。
そんなおれを支えてくれたのは、頼りになるマスター。
肩越しに、店の奥のウィンドウが見えている。
さんさんと降り注ぐ明るい光に照らされた、小さな中庭。
「あれ? まだ、夕方じゃない? 外はあんなに明るいんだ」
おれは何気なく呟いたけれど。
答えたのは、杏子さんのお母さんだった。
「山本くん。もう日は落ちているのよ。あそこは、外光が差しているんじゃないの」
「え?」
「ディスプレイよ。舞台装置みたいなの」
ここは人形劇団の人が運営しているところなのよと、教えてくれた。
それを聞いたとき、おれは……
どこかで。腑に落ちた気がした。
舞台装置。
用意された、レイアウトされた立ち位置。
……けれども、本当の意味では何一つわかってはいなかったのだ。
「山本くん、ちょっと家に寄っていらっしゃいな。すぐ近くなの。よかったら、休んで行って。お父様には、わたしから連絡しておくから」
杏子さんのお母さんは、親しげに申し出てくれた。
まだ気分が悪い。
おれは、彼女たちの申し出を、ありがたく受けることにした。
……そういや充は、今頃どうしてるかな。
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