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楽園編

第21話 身も凍る

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 ユキは対戦開始の音が鳴ると同時、ADも展開しないまま真っ直ぐ突っ込んできた相手を、信じられない思いで見た。

(む、無手!? カードバトルは1秒をやり取りし合う戦い。武装展開する暇さえ惜しまなきゃいけないのに――いや、それよりもっ)

 ポケットから素早く取り出した【アクア・ボール】のカードを己のAD・ベーシック・ケインに装填しながらユキは思う。

(あ、足が早い! こっちも早く迎撃しないと――)

 13メートル、12メートル……20メートルの距離を瞬く間に俊足で塗り潰していく玄咲に、しかしユキは冷静に狙いを定める。

(エ、エイムには自信がある。相手は直線で向かってきてる。着弾までに大幅な横移動はできない。な、なら、この距離なら、外さない)

「アクア――」

 ベーシック・ケインを天之玄咲に向けてカード名を呼び始める。その途中、詠唱を聞いて反応した天之玄咲の視線、体の動きから相手の行動を先読みして0コンマ秒先の未来に置きに行く感覚でベーシック・ケインの先端の向きを僅かにずらし、カード名を呼び切った。

「ボール!」

 ベーシック・ケインがユキの魔力を吸い上げてスリットから青色の光を放つ。カードに刻み込まれた魔法陣を読み取り、魔力を流し、効果を増幅させて、起動する――。

 魔法が、発動した。

 ベーシック・ケインの先端から呼び放たれた魔法の水球――アクア・ボールが豪速で飛んでいく。アクア・ボールは狙い通りの軌跡を描き、思い描いた地点へと着弾した。これが的当てならばど真ん中100点の赤点を穿ち貫いていたであろう完璧なコントロール。気が弱くあがり症のユキにしては珍しく人前で発揮できた本来の実力。ユキのベーシック・ケインを持つ手が震える。

(な、なんでっ……!)

 相手の動きを予測して打ったはずのアクア・ボールはまるで自分から外しに行ったかのように天之玄咲の髪をかすめるだけの結果に終わった。予測と現実との間に蜃気楼が隔たっていた。何かされたのは明白。だがその何かが茫漠としたヴェールに包まれていて正体不明だった。

(外れたのっ……!)

 自慢ではないがユキは天才と呼ばれる類の人間で特に魔法の命中精度には天性のものを持っていた。弱気で何事にも自信のないユキだが自分の才能にだけは他人に謙遜しながらも密やかな自負があった。他人の一挙一動から半歩先の未来を読み取る先読みの力――自分でもよく分からない、なんとなく感覚で分かってしまう、そしてその通りに魔法を撃てば勝手に相手が当たりに行ってくれる。あとは自分の命中力次第――それゆえに命中力を徹底的に磨いてきた。先程のアクア・ボールも完璧にコントロールできていた。

 なのに、なのに――。

「あっ」
 
 気付けば。

 天之玄咲がすぐ目の前まで迫ってきていた。

 ほんの僅かな動揺。その間に信じられない程距離を詰められていた。いや、ほんの僅かというのはあくまで体感で、実際はそこそこ時間が経っていたのだろう。といってもおそらくはほんの1~数コンマ秒の時間。平時ならば意識することもない時間。しかしカードバトルにあっては致命的なほどの長時間――!

「アクア――」

 慌てて、しかし精神的動揺からもたつきながらユキはベーシック・ケインを天之玄咲に向ける。もう狙いはつけない。つける必要はないしつける暇もない。それくらい、すでに接近されていた。

 が、相手は何を考えてかADを武装解放していない。少しでも足を速めるための軽量化だろうか? だとしたら考えが甘い。アクア・ボールを至近距離でぶつけダメージと距離を稼いでその間に立て直しを――。

 腹に拳がめり込んだ。

「ぼっ、ばっ!?」

 唾と呼気が同時に飛ぶ。肺から空気を強制的に根こそぎ絞り出される感覚。腹を見ると、おぞましい程に深く腕が腹にめり込んでいた。信じられない光景だった。自分が生きてる事実、ラグナロク学園の魔法技術の高さ、これほど深く腕をめり込ませる拳の威力、そして魔法障壁のセーフティがあるとはいえ平然と人一人殺せるだけの物理攻撃を繰り出してきた目の前の男の神経――全てが信じられなかった。

「あ、ぶ、あ」

 必死の、泣きそうな思いで反撃を試みる。だが、声が上手く出ない。ダメージはない。呼吸も出来る。だが、強制的に息を全て吐き切らされた直後なのですぐに使える空気が足りなかった。呼吸をしようと口を開ける。

 その口に今度は腹にめり込んでいる腕とは逆の左腕が突っ込まれる。舌の根っこを掴まれる。右腕が腹から抜かれる。太腿にあてがわれる。「ひっ」と怖気が声ならぬ悲鳴の形で口から漏れる。

 体が宙に浮く。体がひっくり返る。両腕両足を宙に無様に勢いよく投げ出した体勢で首が接地する。

「おがっ!?」

 舌根っこを掴む左腕が勢い喉の奥に叩きつけられた。信じられない衝撃が全身を突き抜ける。痛みはないはずのになぜか喉の奥が痛んだ。呼吸は出来るはずなのになぜか胸がつまって上手く呼吸ができなかった。涙が零れ出た。

 さらに天之玄咲は自分の上に跨ってくる。両手を両足で拘束される。どういう仕組みなのか全く手が動かない。これから何をされるのか。恐怖がユキの心に真水に垂らした汚泥のように広がっていく。

 もう、戦いたくなかった。心が、ぽっきりと折れていた。今の一撃は間違いなくユキの心奥に届いた。ダメージはないが、それ以上のものをユキの心に刻みつけていった。根を掴まれて上手く発音できないがそれでも必死に「降参」と言う。何度も、何度も。天之玄咲の眉根がピクリと動いた。その動きにユキは希望を見た。さらに「降参」を重ねる。

「――ぉ、あう。おー、あう。おー、あう」

武装解放アムドライブ――ベーシック・ガン」

 天之玄咲がようやくADを展開した。銃型のAD。基本八型の一つ。手堅いチョイス。なるほど、遠距離タイプのADが苦手とする接近戦を体術で補うスタイルなのかと一応の納得を心の中に作り上げたことでユキの精神が少し落ち着く。遠距離タイプのADを超至近距離で撃てば時に近距離型のADをも上回る火力が出せる。おそらく状況に応じて遠距離と超至近距離の間合いを使い分ける【インファイトガンナー】なのだろうとユキは納得する。それならば一連の行動にも納得がいく。敵を無効化しつつ間合いを詰めるための最適解を天之玄咲は選んでいる。きっと今からあの銃型のADを超至近距離で使ってユキのHPを0にするつもりなのだろう。ユキの心に安心感がじわりと広がる。

(あ、ああ……ようやくこの怖くて苦しい時間が終わるんだ。よかった。よかったよぉ……)

 ユキは待ちわびる。天之玄咲が引き金を弾くその時を。銃型のADは魔法の発動に発声と引き金を弾く動作を必要とする。だから早く引き金を弾いて欲しい。そう考えるユキの視界の中で天之玄咲がADの銃身を握った。今からグリップにカードを挿入するのだろう。

 そう思うユキの頭蓋を天之玄咲はADのグリップで無造作に殴り抜けた。左から右に頭が傾ぐ。ユキの眼が驚きに見開かれた。

(!!!!? !!!!!!!?? なんで!!!! なんでっ!!!!!!!!)

 言葉を失う。何かを言う気力が殴るついでにグリップに引っ掛けられて根こそぎ奪い尽くされたかのようだった。殴ったのはその一度きり。だが、信じられない暴挙だった。何の意味もない、勝敗に何の影響もしない、純粋なただの暴行。もはやカードバトルではなかった。ただの暴力だった。憂さを晴らすためのただの、暴力――。

 やはり天之玄咲は入学式のことを恨んでいるのだとユキは確信した。次は何をされるのか。刹那の内に、数十通りの悪夢のビジョンがユキの脳裏に投影される。ユキは身震いした。

(――こ、怖い。怖いよぉ。だ、誰か助けてよぉ……)

 天之玄咲が体を動かす。もうそれだけでユキの心は恐怖に包まれる。今度は何をするのかと目を必死に動かして動きを追うと、何やら床に置いたADにポケットから取り出したカードを片手で入れようと苦心しているようだった。

 なんだか少しだけ恐怖が和らいだ。

「よし」

 カードの装填に成功した天之玄咲が銃口をユキの頭へと突き付ける。ああ、今度こそこの暴力が終わる――そう安堵するユキの耳に天之玄咲のカード名を詠唱する声が届く。

「アイス・バーン」

(は?)

 ランク1筆頭ゴミカードのアイス・バーンの名が天之玄咲の口から飛び出した瞬間、ユキの頭の後ろの床が凍った。冷たさは約1メートル四方に渡る。

 混乱。ユキは混乱していた。まさかこの試験でアイス・バーンを選ぶ大間抜けがいるとは想像だにしなかった。だがその大間抜けに今まさにユキは拘束されアイス・バーンによりなぜか体を冷たくさせられている。全く意味が分からない。ユキにはもうなにがなんだか分からなかった。

 唐突に手が、伸びてくる。目を覆われ頭を掴まれる。アイス・バーンでできた氷に後頭部が打ち付けられる。そうだろうと思ったら案の定だった。疑似的な痛みが後頭部に発生する。痛い。本来味わう痛みの何十分の一という痛みだろう。それでも確かに痛かった。

「――やった」

 熱い暗闇の向こうに喜悦混じりの声が生じた。後頭部を氷に叩きつけられた衝撃で空いた指の隙間から声の方向を見た。

 見てしまった。

 三日月状に口を歪めてこの状況が心底嬉しくて仕方ないと言わんばかりに笑う天之玄咲の姿があった。


 身が、凍った。
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