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第四章 誰もいない世界から脱出編

ACT-42『今夜はすき焼きです!』

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  ■□ 押しかけメイドが男の娘だった件 □■
 
     ACT-42『今夜はすき焼きです!』




「車の音? マジで?」

「うん、でも気のせいかもしれないの。
 すぐ聞こえなくなっちゃったし」

「もしそれが気のせいでないなら、この付近に、生きている人が居るってことになりますね」

「どうする? こちらからアプローチかけるべき?」

「う、う~ん」

「悩みどころですね。
 いつぞやの様な、ああいう輩だったらまずいですし」

「こりゃあ、しばらく様子見するしかないかな」


 マンションに戻った卓也と沙貴は、澪からの報告を聞き、ひとまずの対応を検討する。
 しかし、熱海温泉の時のトラブルもあり、今の彼らには積極的に動こうという気力が湧かない。
 卓也は、もしかしたら、こういった気持ちが行方不明者同士のコミュニケーションを削いで、結果的に皆不幸な目に遭ってしまうのでは? という気がして来た。

「それはそうと、食材仕込んで来たわよ澪。
 どうするの? 本当にやるの? アレ」

「うん! やるよー準備してたもの」

「アレ? アレって何?」

「うふふ、これです! ジャジャーン!」

「おっ! すき焼き?」

 澪に感化されて来たのか、最近、沙貴のキャラが良い具合に解れて来ている。
 彼はタブレットに「すき焼き」の写真を映し、それを卓也に見せた。

「この為に、澪には秘密兵器を用意してもらったんですよ」

「そう! それがコレ!」

 ドスン! という効果音が飛び出しそうな勢いで、澪は真っ黒な物体を食卓に置く。
 それはかなり浅い作りで、柄を外したフライパンに半円型の取っ手を付けたように見える。
 
「鉄鍋でーす! これで今夜は、すき焼きパーティーよ♪」

「えぇ?! 土鍋じゃないの? つかこれ、具材煮れるの?」

「本日は、南部鉄の鍋で、関西風のすき焼きをご馳走いたします」

「おお、俺、向こうのすき焼きって食べたことないんだよね」

「びっくりするくらい美味しいから、楽しみにしててね☆」

 少々不安そうな顔の卓也に、澪がウィンクを投げる。
 そんな様子を見て、沙貴は、ほのかに頬を緩めた。

「ああ……幸せ」

「ん? なんか言った?」

「あ、いえ! なんでもありません」

「よし、じゃあ夕飯の準備手伝おっかな」

「ご主人様は、どうか座ってらしてください。ここは私達が」

「そうよー、ボク達に任せてー」

「いやぁでもさ、やっぱこう、何もかも君らに任せっきりだと申し訳なくてさ。
 何か手伝わせてよ」

「まったくもぅ、ご主人様って自覚ないんだからなぁ卓也は」

「だって、そんなガラじゃないもん俺」

「ふふ♪ でも、そういうところが、ご主人様の素敵なところです」

 そう呟きながら、沙貴が背後から卓也を抱き締める。

「な、なんか沙貴、本当に積極的になったよなあ」

「うんホント、隙あらば卓也に甘えるようになったし」

「澪も甘えなさいよ、こんな素敵なご主人様、そうそういないわよ。当社比」

「当社比ってなんだよ!」

 楽しくお喋りをしながら、食器を取り出して並べる卓也と、食材を取り出して野菜を洗う澪、肉の盛り付けを始める沙貴。
 その光景は、この無人の世界に於いて、とても考えられない程に幸福そうな一場面だ。
 そしてそれが特異である事を、口に出さずとも三人は深く理解している。
 とはいえ、今の彼らにとって、この幸福感を出来るだけ維持していくことが、ひいては各々の人間性を保つために重要な行為なのだ。

 ――あの、熱海で出会った本井のような結果を招いてはいけない。


 十数分後、準備が整ったので、全員それぞれの席に着く。
 今夜は、澪が鍋を取り仕切る。
 
「ほぉらぁ、A5の黒毛和牛肩ロース肉ですよぉ~♪」

「ぬわっ! す、すげぇ霜降り!
 こ、これ、すき焼きなんかにしちゃっていいの?!」

「ご主人様は、山G県のご出身でしたよね。
 なら、すき焼きはもしかして、鍋料理みたいなスタイルでしたか?」

「そうだね、ぐつぐつ煮るタイプで、昔からなんで“焼き”って付くんだろうって不思議だった」

「なら、この食べ方は衝撃的かもしれませんね」

 そう言うと、沙貴は澪の準備の様子を指し示す。
 澪は、卓上コンロの上に置かれた鉄鍋を熱し、そこに牛脂を置くと、菜箸を使って脂を拡げ伸ばして行く。
 大皿に盛り付けた紅色の霜降り肉の薄切りを、その上に平たく敷いていく。
 じゅ~……という肉の焼ける音と、香ばしい香りが充満する。

「へぇ、先に肉焼いちゃうんだ!
 だから鉄鍋なんだね!
 野菜は?」

「野菜は、まだ先です」

「え?」

「それよりまず、これだよ~」

 敷いた二枚の肉が程好く焼け、全体がほんのりピンク色になったところで、澪は、突然「ある物」を取り出した。
 卓也が、目をひん剥く。

「な、み、澪? それ……何?」

「ん? お砂糖」

「はぁ?! 砂糖なんか何すんの……って、ええええええ?!」

 絶叫する卓也をよそに、澪は、肉の上に砂糖をどっさりと載せた。
 それも、二枚それぞれに、山盛り。
 肉の上に山と盛られた白い砂糖のインパクトは、それはもう卓也にとって衝撃以外の何物でもない。
 すかさず、醤油を上からかけていく。
 肉の上には、醤油と砂糖が入り混じったものが拡がって行き、更に香ばしい香りが漂い出した。

「いや、ちょ、待って!
 まさか、これ食べるの?!」

「そうですよ、これが最高に美味しいんです」

「だ、だって、A5肉って最高ランクでしょ?
 いいの?! そんな凄いの、こんなにしちゃって」

「は~い、グダグダ言わないで、食べてみればわかるって!
 ハイ、卓也とぉ、沙貴の分からね。お待たせぇ」

 澪は、砂糖と醤油が溶け切って肉を覆い尽くした状態のものを取り、二人の皿に乗せていく。
 すかさず三枚目の肉を仕込んでいくが、まだ野菜が乗る気配がない。
 皿の上に乗った“砂糖漬けの高級肉”を、信じられないものを見るような目つきで見下ろす卓也。
 だがその横では、沙貴が「いただきます」をして、目をキラキラさせながら口に運ぼうとしていた。

「う~~ん♪ 凄い! 美味しいわ!!
 か、顔が、勝手ににやけちゃう♪」

「えへへ、でしょお?」

「澪、素晴らしいわ、ありがとう!
 ああ、この至福の味わい……もう、どう言えばいいのかしら。
 堪らないわ、感激よ!」

「え、そ、それ、どこまでネタ?」

 思い切り疑いの眼で沙貴を見る卓也。
 そんな彼に、澪は頬を膨らませた。

「卓也! 食べてもいないうちから、そんな事言っちゃ駄目よ」

「なんかお母さんみたいな事言い出した!」

「ご主人様、騙されたと思って一口食べてみてください。
 そもそも、美味しくないものを澪が調理するはずがないじゃないですか」

「そ、それはそうかもだけど……これ、ゲテモノ食いの一歩手前じゃね?」

「あ~、食べないならボクと沙貴だけで全部食べちゃうもんね」

「あひぃ、わ、分かりました! 食えばいいんでしょ!」

 先の山盛り砂糖は醤油と混じり姿を消している。
 所謂“砂糖醤油”をまぶしたような状態となった肉を、卓也は、怪訝な表情で眺めた。

(これ、甘ったるくて食えないんじゃないのか?
 煮てもいないんだし、あの甘さダイレクトに来るだろ?)

 ぐずぐずしている間に、澪は自分の分を焼き、それを口に運んでとろけている。
 沙貴も、我慢ならずといった態度で自ら肉を敷き、同じように砂糖をドゥバッと乗っけた。
 じゅうう……と良い匂いが室内に満たされ、それはそれで食欲を激しく刺激する。

「んんん~~♪♪ すんごぉい! 美味しいぃ~~!」

「堪らない、本当に堪らないわぁ♪」

 澪も沙貴も、卓也を無視して舌鼓を打っている。打ちまくっている。

(く、くそ、もうやけだ! 食ってやる!)

 覚悟を決めて、卓也は、砂糖醤油まみれの肉という、それまでの人生で見たことも聞いた事もない物を、口の中に放り込んだ。
 焼いても尚、柔らかく溶けるような食感、舌の上に広がる脂の旨みと、そして――

「?!」

 カッ!
 その瞬間、卓也のオーラが、黄金に輝いた。

「な、な、な、なんだこれぇ?! う、美味ぇっ?!」

「おおっ?! 卓也覚醒キタぁ?」

「ねっ、ご主人様! すごいでしょ?」

「お、お、お、俺が今まで知ってたすき焼きって、いったいなんだったんだぁ?!」

 澪が焼いてくれた肉は、確かに、卓也が知っている肉の食べ方とはまるで違うものだった。
 薄く柔らかい肉が、甘辛く香ばい砂糖醤油によって、眠っていた旨味を引き出されたような。
 濃厚な牛肉の、暴力的とも云える程の味わいの波を受け止め、それどころか増幅までさせる。
 思っていた程甘ったるくなく、むしろ丁度良いと思わせる程の不思議な調和。
 それは正に、卓也にとっての“未知の悦楽”だった。

「どういうことなの、これはいったい、どういうことなの……」

「大変よ澪! ご主人様が、ゲシュタルト崩壊始めてるわ!」

「待って! もうすぐお肉焼けるから!」

「優先度ぉ!」

「はい、卓也! 次の肉よっ!」

「そんな、メカの素みたいに言わなくても……」

 二枚目の肉が、澪の箸で卓也の口に運ばれる。
 またも、目がクワッ! と開かれた。

「いや待って、ちょ、待って!
 これ何?! なんで砂糖と醤油で、こんなに美味くなるの?!」

 紅潮した顔で興奮気味に尋ねる卓也に、澪は、へへーん☆ と勝利の笑みを向ける。

「これは、関西といっても京都でよくやる食べ方なのよ」

「京都」

「そうよ、京都のすき焼きは東日本みたいな“割り下”を使わないの。
 こうして、最初にお肉を焼くのね。
 鍋に拡がったお醤油は、このままにしていると焦げるから、こう、お肉で集めて……」

「で、でも、あんだけたっぷり砂糖乗っけたのに、どうして甘ったるくならないの?」

 不思議そうに尋ねる卓也に、沙貴が説明を始める。

「そもそも砂糖って、一般的に思われているほど甘さは強くないんですよ」

「え?」

「量を入れれば、そりゃあ甘くはなりますよ。
 けど、お菓子や清涼飲料水みたいなものには、かなり大量の砂糖を加えないと、あの甘さにはなりません」

「つ、つまり?」

「つまり、この程度の量の砂糖であれば、丁度いいくらいの甘さにしかならないんです」

「えええ! そ、そうなのか?!」

「そうよぉ。だって実際、今食べてみてわかったでしょ?
 だから言ったのよ。食べてもいないうちにって」

「う、うう、ゴメン」

「澪、そろそろお野菜じゃない?」

「ああ、そうね!
 ねえ卓也?」

「な、何?」

「このすき焼きが、これだけで終わりだなんて、思わないでね♪」

「ええっ?! ま、まだ何かあるの?」

「まだまだありますよ、今週のビックリドッキリ具材が」

「沙貴、ノリすぎ」

 澪は、肉を全て取り切った鉄鍋の上に、もう一度牛脂を敷き、今度は野菜を入れ始める。
 少量の青ネギ、カットされた玉ねぎ、椎茸、そして銀杏切りされた人参。
 そこに、更に加えられる謎の「丸くぶよぶよした物体」が数個。
 先程とはまた違った、野菜の焼けていく香りが鼻腔に嬉しい。

「ご主人様、うっかりしておりました。卵を出し忘れています!」

「あ、関西でも生卵使うの」

「使いますよ。ちょっとお待ちくださいね」

 そう言うと、沙貴は冷蔵庫から卵を二個取り出し、慣れた手つきで両手で一気に割ってみせる。
 鮮やかなダブル片手割りに、卓也は思わず拍手した。

「さすがの手練だなあ、俺、片手割りはどうしても出来なくってさ」

「あらぁ卓也? お料理はしないんじゃなかったのぉ?」

「ゲホンゲホン」

 焼かれていく野菜の上に、更に肉を載せる。
 当然、ここにも砂糖と醤油だ。
 火が通り、しんなりしてきた野菜に、砂糖醤油が滴っていく。
 野菜自体がそこまで沢山入れられておらず、ぎりぎり三人が一度に食べられる程度の量をキープする。
 いつしか、卓也の喉がゴクリと鳴るようになって来た。

「はぁい、九条ネギよぉ!」

「なるほど、これがあったから、京都風のすき焼きにしようと思ったのね」

「あったりぃ! 関東では滅多に手に入らないからねえ」

「うっほぉ! 野菜もうめぇ!!
 そのなんだ、この砂糖と醤油、肉だけじゃなくて野菜までこんなに美味くしちゃうのかよぉ!!」

 超サイヤ人並にオーラを発しながら、新たな境地をまた知った卓也が覚醒する。
 白い部分が殆どなく、全体が青い九条ネギは、東日本で流通している「長ネギ」とはまた違い、香味感、しゃきしゃきとした食感、そして調味料と合わさった時に発揮される旨味が、非常に個性的だ。
 どのような味付けにも合い、それどころか美味さを際立たせる最高の野菜に、新たに知った新領域の味わいが加わるのだ。
 卓也が堕ちない筈がない。

 そこに、沙貴が溶いてくれた生卵がプラスされ、ここに深い“コク”が追加される。

「お、お、お、お、お……」

「ああ、ご主人様! もう、目が浮ついてる」

「卓也、まだまだぁ! お肉ドーン!」

「うひぃ! 止めてこれ以上! 美味すぎて死むぅ!!」

「あらご主人様? 昇天はまだ早いですよ?」

 不敵に微笑む沙貴は、立ち上がると、食器棚からお茶碗と取り出す。
 そして、キッチンのある場所へと、歩いていく。
 それを見た澪が、声を上げた。

「待って沙貴! あんた、卓也を殺す気なの?_!」

「えっ」

「うふふ♪ そうねえ、ショック死しちゃうかも?」

「そ、そんな恐ろしい事……ボクの分もお願いー☆」

「はいはい」

「な、何をする気なんだ、沙貴は?!」

 沙貴は、キッチンの隅に置かれた炊飯器に向かうと、徐に蓋を開け、あろうことか――

「ぎょえっ?! 白ご飯?!」

「そうですよ、ご主人様。
 これで、共にヴァルハラへ参りましょう」

 お茶碗にこんもりと盛られた白飯。
 沙貴は、自分のご飯の上に、先程焼いて卵を絡めた野菜を載せると、それを一口頬張った。

「……んん……んん~~っっ♪♪」

 まるでエクスタシーでも感じているかの如き反応で、沙貴が身悶えする。
 顔は紅く染まり、身体をよじって感激を表現しようとしている。

「うひょ……! うんま!」

 今度は、澪が声を上げる。
 正に同じ食べ方をして、同じく言葉にならない歓びに打ち震えている。

「ゴクリ……そ、そんなに?!」

 卓也は、早速ご飯の上に、焼いた野菜を載せて頬張ってみた。

「うっそぉお! 何これぇ?!」

 本人の意志とは関係なく、感嘆の声が漏れる。
 ご飯は、どんなおかずでも受け止め、美味さを損なうことなく際立たせ、食べた者に感動を与える。
 だが、それにしたって限度という物がある。
 過剰な美味さは、時として人を、ダメにしてしまうものだ。
 そんな危険な領域の一歩手前まで一気に加速ブーストする……それが、砂糖醤油で味付けされた焼き野菜プラス生卵。
 卓也は、本気で持っていかれそうになった。

「す、すげぇ……なんだこれ、犯罪レベルで美味いぞ?!
 いいんか、こんなうまいもの、俺が食べていいんか?」

「卓也♪」

「えっ」

「行ってみなよ……飛ぶぜ」

 ニヤリと微笑む澪が卓也の皿に置いたのは、「肉」。
 その真意に気付いた卓也は、青ざめた顔で彼を見つめた。

「澪……俺を殺す気なのか?!」

「大げさよ! ほら、見て沙貴を」

「え……わっ」

「……」

 沙貴の背後から、白い羽根を背に生やしたもう一人の沙貴が、天に昇ろうとしていた。

「ダメだあ沙貴ぃ! 帰って来ぉい!!」
 
「光が見える。あれは天国への扉。ありがとうありがとう」

「ねっ、ご飯を合わせると、もうイキかけるくらい最高なのよ」

「そ、そこまで……ごくっ」

 覚悟をまた決め、卓也は箸を取り直す。
 ご飯の上に載せられた、野菜と肉。
 これを一度に、口の中に放り込む。

 ――卓也の記憶が、そこで途切れた。

 




「はっ?! お、俺は今まで何を?!」

「大丈夫? 卓也……」

「イキかけてましたよ、ご主人様」

「おぉ……犯罪的な美味さだったもんで、つい」

 なんだかんだで、 このすき焼きは卓也の口に合ったようだ。
 割り下で煮込んだり、土鍋で野菜ごと肉を煮込むタイプのすき焼きも、それはそれで需要があり美味いものだが、こちらは一つひとつの食材の味をじっくり堪能し、その上で複数の具材の味を同時に楽しむ事も出来る。

 宴もたけなわ、三人の会話も食も順調に進み、用意された食材もなくなりかけている。
 そろそろ締め……という段階で、卓也は、それまでずっと鍋の中に残されている「ある物」に注目した。
 それは、最初の野菜の投入の頃に入れたままの、あのぶよぶよしたものだ。

「ねえ澪、これは、何?」

「ああこれ? 最終兵器」

「さ、最終?!」

「澪、これは私も知らないわ。お麩のように見えるけど」

「正解~♪ これは“京麩”よ」

「恐怖?」

「京麩」

「お約束の展開ありがとう!
 これは、お麩を戻したものなの」

 最初は薄ベージュ色だった京麩は、醤油や野菜から出た水分、脂を吸ったせいか、すっかり色が変わっている。
 焦茶色に変色したそれを、澪は一つ取り、卓也に渡す。

「覚悟はいい?」

「か、覚悟?!」

「また、飛ぶわよ~」

「ひぃ! い、いったい何度飛ばされるんだ?!」

「そ、そんなに凄いのこれ?
 私も、食べた事ないわ……ずっと入りっ放しだったお麩……ゴクリ」

「うふふ♪ あなた達に、日本に住んでいて本当に良かったと思い知らせてあげるわぁ!」

「よ、よぉし! そこまで言うなら挑戦だ!」

「そ、そうですね、是非。いざ」

 卓也と沙貴は、同時に、京麩を口に運ぶ。

 そして――召した。





 二人が意識を取り戻した時、澪は、炊飯器からご飯をよそいに行っていた。
 沙貴と卓也は、思わず顔を見合わせる。

「こ、これはいったい……なんと表現するべきなんでしょうか」

「肉と野菜とそれらから出た出汁の味わいが、よりによって全部合わさって、しかも凝縮しやがった!
 しかも、それが砂糖と醤油の味でブーストアップしてやがる!」

「まさか、京都風のすき焼きに、こんな恐るべきものが隠されていたなんて……」

 信じられないものを見せられたような表情を浮かべ、空になった器をただじっと見つめる。
 自分の想像力をぶっち切った美味さを知ってしまった今の二人には、それ以上のことは何も出来ない。

 ふと、またもあの香ばしい香りが引き立って来た。

「ちょっと、待って!
 澪、あなた、いったい何をしているの?!」

「ぐえ、な、鍋にご飯を?!」

「そうよぉ~、そろそろ締めのお時間ですからねえ~」
 
「ま、まさか?!」

 すき焼きにも、当然締めがある。
 美味さの洪水に押し流され、二人は、その事をすっかり頭から飛ばしていた。
 なんと澪は、鍋の中に残った肉や野菜の破片、砂糖醤油などを全て白飯に絡め取り、それを雑炊のように仕上げようとしているのだ。
 既にコンロの火は消されているが、余熱で充分のようで、雑炊というよりは「炒め飯」のようになって来た白飯は、もう充分に食べた筈の卓也と沙貴の胃袋を、なおも刺激してやまない。

「よ~し、出来たぁ! はい二人とも、お茶碗貸して」

「どきどき……」

「ど、どうなっちまうんだ、これを食ってしまったら俺……」

「うひひ♪ ボクも食べるね!」

 箸で一口分を取り、口の中に運ぶ。
 途端に拡がる、甘味。
 それは砂糖がもたらす甘味に違いはないが、ただべたっとした甘さではない。
 白飯で適度に薄められ、また醤油と出汁によって適度に薄められ、ほんのりとしたとても上品な味わいになっている。
 更に、濃厚なコクが口腔内にふわっと広がって行き、えも言われぬ程の芳醇な味が楽しめる。
 それは、それまでの激し過ぎる程の旨さの攻撃をやんわりと纏め上げる、至高のフィナーレに思えた。

 夢中で平らげた三人は、一息つくと、綺麗に空っぽになった鉄鍋に注目した。

「――感無量。凄かった……ごっそさん」

「ご馳走様でした。
 澪、ありがとう。本当に美味しかったわ。
 ロイエの実力の一端を、改めて思い知らされたわ」

「えへへ、どういたしまして♪
 でも、卓也も喜んでくれて本当に嬉しいわ!」

「ああ、なんかもう、なんて言っていいのか。
 これ、いつかまた作ってよ! また食べたい!」

「賛成、私も是非」

 大絶賛に顔を赤らめながら、澪は照れ臭そうに後ろ頭を掻いた。




 素晴らしい発見にいくつも出会えた楽しい夕食時は、終わりを告げる。
 三人は手分けして後片付けを済ませると、揃ってベランダに出てみた。

 完全な闇に覆われた町並と、相反するように美しく輝く星空を眺め、卓也は、両脇に佇む澪と沙貴の肩を抱いた。

「卓也?」

「ご主人様?」

 不思議そうな顔で見上げる二人に、卓也は、優しく囁いた。

「ありがとうな、二人とも。
 俺、本当に幸せだよ」

「な、何よ急に! て、照れるじゃない」

「ご主人様……」

 夜は、更けていく。
 言葉に表せないほどの幸福感に包まれた三人は、改めて、この世界で共に生きていくことを誓い合った。





 ――これが、衝撃の事実を知る数日前の、ささやかな幸福の出来事であった。


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