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第四章 誰もいない世界から脱出編

ACT-50『まだまだ調査は続くのです!』

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 土下座から始まる、爽やかな朝。


「ごめぇ~ん! 卓也ぁ、本っっ当にごめんね!!」

「申し訳ありません、ご主人様!
 このようなことは、二度とないように……!」

「あ~もう、気にしてないからいいってば」

 ソファに座る困り顔の卓也と、その前で必死で頭を床に擦り付けるロイエの二人。
 主人の伽を寝オチでスルーというのは、どうやらロイエにとっては大罪らしい。
 その後、色々なことを経てその辺はなんとかなった卓也は、割と賢者っぽい気持ちで、二人の罪を赦す気になっていた。
 というより、はなから責める気などないのだが。

「お詫びに、今から!」

「そういうのいいから、俺のズボンから手を離せ澪!」

 舌なめずりをする澪の頭を、必死で押し返す。

「そうおっしゃらずに! 二人がかりで、すぐに終わらせますから!」

 怯んだ澪の隙を突き、今度は沙貴が食い下がる。

「いやさ、だから、そういうとこな」

「ちょっとでいいから! 先っちょだけでも!」

「それ、意味が違うだろ?!」

「でもご主人様、このままでは、ロイエとしての誇りが!」

「そこまで言うなら、別な方面でロイエっぽいことしてくれよ。
 まず朝ごはんオナシャス」

「か、畏まりました!
 澪、やるわよ!」

「ふにゃあ~~! た、卓也ぁ~!」

 沙貴に首の後ろを掴まれ、ずるずると引きずられて行く澪に手を振ると、卓也はスマホの画面に見入った。

倉茂くらも容志やすしかぁ……。
 ありふれてるようで、あんまり見ないタイプの名前だなあ」

 スマホの画面に映っているのは、先日、中野ブロードウェイビル入り口のシャッターで撮影した写真。
 例の、野方の住所の記載だ。
 今日は、ここを尋ねてみるのが、卓也のミッションだ。
 だが、昨日見たストリートビューの映像が、ふと脳裏をよぎる。

(うう、やっぱ、澪だけでも連れてこかな?)

 卓也は、先日新たに発見して練習用に使っている軽自動車の事を思い浮かべるが、沙貴から「まだ単独運転は危険」とダメ出しされているので諦める。
 誰も居ない世界なのに危険視されるってことは、よほどの事なんだなーと、卓也は少々ガッカリした。






  ■□ 押しかけメイドが男の娘だった件 □■
 
   ACT-50『まだまだ調査は続くのです!』






 朝食は、フレンチトーストだった。
 外はぱりっとして、中はふんわりとろけるような柔らかさで、甘すぎずバターの香りが食欲をそそる、沙貴の得意料理の一つだ。
 あれだけ疲れていたのに、寝る前にちゃんとやるべき仕込を済ませている事に、卓也は驚きと深い感謝の気持ちを抱く。

 食後のコーヒーを堪能したら、いよいよ本日の行動だ。

「じゃあ、俺は一足先に行くね」

「もう行くの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「そう思ったんだけどさ、その分早く帰って来てくつろいだ方がいいかなって」

「承知しました。
 どうか、くれぐれもお気をつけて。
 何かあったらブザーを鳴らしてくださいね」

「聞こえるかな」

「だぁいじょうぶ! 鳴らしっ放しでいたら、いつか気付けるし!」

「気ぃ長っ!」

「心配ないわよ、ロイエの耳はね、一キロ離れた所の針の穴すら聞き分ける性能を持ってるのよ!」

「ロイエって、すごいんだな」

「そうですね、私も今、初めて聞きました」

「うん、ボクも今初めて言った」

「澪~……」


 今日の澪達は、渋谷方面に新居の下見に行くとのこと。
 遅くても午後五時までには全員マンションに戻るという約束をして、早速行動を開始する事にする。

(しかしこう、なんだな。
 前までただダラダラしてるだけだったけど、探索始めるようになってから、少し生活に張りと刺激が出て来た気がするな)

 落書きの主も、そういう気持ちで活動していたのかな、と考えながら、卓也は原付を停めてある場所へと急いだ。



「ねえ、沙貴」

 卓也を見送った後、不意に澪が声をかける。

「なぁに、澪?」

「昨日さ……」

「ん?」

 無邪気な微笑みを浮かべて振り返る沙貴に、一瞬言葉に詰まる。


『あんた、なんで昨日、卓也にウソをついたの?』


 そう追求するつもりだったが、何故か声に出せない。


 
  『さっきは、ご主人様の鋭い推理に、驚いただけです』

  『ええ、その、バグというのは想定外でした』

  『核心を突いているご意見だと思います』



(沙貴は、既にバグエリアのことを知っているはずなのに、何故?)

 主人への嘘は、ロイエには御法度だ。
 だが沙貴は、何かを誤魔化すのではなく、まるで知らない体を装った。
 その真意を知りたいと思ったのだが――

「どうしたの? 深刻な顔して?」

「え? ああ、あのね!
 実はさ、昨日変な夢を見てね」

 咄嗟に、話をはぐらかす。
 澪は、物凄く夢見の悪かったことを、世間話的に話すことにした。

「世界移動する時の、あの気持ち悪いの、あったでしょ?
 覚えてる?」

「覚えてるわ。あの変な光が窓の外で光る奴ね。
 あれがどうしたの?」

「うん、夕べね、それが起きた夢見ちゃって」

「えっ? それって本当に夢なの?」

 沙貴が驚きの表情を浮かべる。
 しかし澪は、慌てて首を振った。

「ううん、間違いなく夢だよ!
 だって、卓也が起きて来て突然ヒャッハーして、この部屋から出て行っちゃうの」

「何よそれ」

「それでね、ボク慌てて卓也を捕まえに行くんだけど、そこで世界移動が起こっちゃって、マンション消えちゃったの!」

「それじゃあ、私一人だけ世界移動しちゃうってこと?」

「夢の中ではね!
 でも、実際そうなってないわけだから、間違いなく夢でしょ?」

 えへへと舌を出して笑う澪に、沙貴は少し困った顔を向ける。

「な~んか、私だけ締め出そうと思ってるみたいで嫌だわー」

「そ、そうじゃないよ!
 でもさ、そうならないようにしないとねって思って」

「昨日は凄く疲れてたから、そんな変な夢見たのよ。
 私は、夢なんか見ないでぐっすり寝ちゃったわ」

「健康的でいいじゃなーい」

「確かに元気は取り戻したわね。
 じゃあ、私達もそろそろ準備開始しましょう」

「おっけ!」

 二人は、もうすっかり馴染んだ"壁の向こう側用"装備を準備し、ザックに必要な道具を詰めると、ランドクルーザーに積み込む。
 その一連の流れは、もうすっかり慣れたものだ。
 
「澪、今日はあなたが運転してみる?」

「え? いいの?」

 突然運転を振られ、澪が戸惑う。

「大丈夫よ、私が横からサポートするから」

「う、うん、じゃあ安全運転で行くね」

「よろしくお願いするわ。
 私に何かあったら、今度はあなたがご主人様を運ばなければならないんだから」

「な、何よ、縁起でもない!」

「でも、この世界はいつそういう事が起きてもおかしくない場所だってわかったのよ。
 お願いだから、澪も自覚を持って。
 私達は、ご主人様をお護りするために、あらゆる技術を身に着けなければならないってことを」

「う、うん……」

 いつになく沙貴の態度が真剣で、澪は激しく困惑する。
 しかし、顔には出さない。
 沙貴には、きっと何か考えがあるのだろうと、その上での発言なんだろうと、澪は信じる事にした。

「ねえ、沙貴」

「ん、何?」

 澪は、不意に沙貴の肩を掴んで、囁いた。

「あんた、ずっと――ボク達と一緒に居てくれるんでしょ?」

 何故か、そんな言葉が口をついて出る。
 澪は、思わず「何言ってんの、自分?!」と戸惑ったが、それでも沙貴は、真剣な表情を返してきた。

「当然でしょ。
 私は、ロイエなんだから」

 沙貴は、そう言いながら澪を抱き締める。
 彼のぬくもりを感じながらも、澪は、何故か一瞬、とても不安な気持ちに苛まれていた。





 一時間後。

 氷浸けの中野駅の脇を通り過ぎ、卓也は例の住所を目指す。
 幸い、アプリケーションのマップは普通に使用可能で、目的地への案内も実行可能だった。
 JR中野駅からおよそ十分程度の移動で、その場所は比較的あっさりと発見することが出来た。
 だが――

(お、俺、今からここに入るの……?)

 事前にストリートビューで観ていたとはいえ、そのアパートのボロさは、想定を大きく覆すものだった。

 明らかに昭和の時代に建てられたもので、どう安く見積もっても、築五十年くらいは余裕で経過しているだろう古臭い造りの建造物。
 剥げ落ちたモルタル、錆び付いた手すり、散乱する粗大ゴミで動線を塞がれた一階の入り口。
 このアパートが、如何にメンテナンスを怠っており、尚且つ住人のモラルが低いか、一目でわかる。
 野方六丁目は、比較的落ち着いていて小奇麗な住宅が多いのだが、その中で特に異彩を放っているのがこの物件だ。

 ここだけ、全く違う土地から丸ごと持って来たかというくらい、雰囲気がまるで違う。
 その上、隣の家が庭にやたらと樹を植えている影響もあり、その枝や葉が敷地内に大きく割り込んでいる。
 二階の奥の方などは、その木々の影響で、これだけ明るい日中にも関わらず薄暗くなっている程だ。

(うえぇ……えっと、部屋は……201号室。
 ってことは、二階の手前の部屋かな)

 鉄製なのにギシギシと怪しい音を立てる階段を上り、卓也は落書きに記された部屋番号を探す。
 一番階段に近い部屋のドアの前に立ち、ノブを回すが、びくともしない。

(あんれ? 鍵かかってるじゃん!
 もしかして無駄足踏んだ? 何かの罠ぁ?)

 数回ガチャガチャ回してみるが開く様子はなく、念のためブザーを鳴らしてみるが、当然反応はない。
 数分粘って諦めた卓也は、階段に戻ろうとしたその時、ようやくドアの上部に付けられている部屋番号のプレートに気がついた。

 『205』

「えっ!? 間違ってた?!」

 慌てて隣の部屋番号を見ると、そこは「204」となっている。
 ということは――

(も、ももも、もしかして、201号室って一番奥の、あの……?)

 一階から窺って、一番行きたくないなあと思えた、薄暗い奥の部屋。
 どうやらそこが、201号室にあたるようだ。
 卓也は、しばし戸惑ったものの、覚悟を決めて足を踏み込む事にした。



 201号室の前に立つと、まるで異空間に入り込んだような気がしてくる。
 実際に立ち入ると、そこの薄暗さは半端なく、もはや日が落ちた後のようですらある。
 隣の家の木の枝と葉は、二階ベランダの奥を完全に覆い隠し、日光はほぼ差し込まない。
 更には、ドアより奥は完全に枝が遮ってしまっており、何が置かれているのか良く分からない。

 枝を掻き分けて覗いてみると、相当昔に放棄されたと思われる独身用の小型洗濯機と、謎のくたびれたダンボールがいくつか見えた。

(さて、ここが、落書きの主の住んでいた……いや、住んでるかもしれない部屋か)

 ゴクリ、と唾を呑み込むと、卓也は、覚悟を決めて201号室のドアを開けてみることにした。

 キィ……と軽い音を立て、ドアはあっさりと開いてしまった。
 
「お邪魔しまーす」

 誰に言うとでもなく、つい言葉に出す。
 やはり、中から住人の声が返って来ることはなかった。





 代々木公園の近く、井の頭通りを南に向かって進行していたランドクルーザーは、代々木公園交番前の交差点に侵入する直前で停止した。
 バス停の辺りで車から降り立った澪と沙貴は、呆然とした表情で、空を見上げる。

「……まさか、ここも……」

「どうなっているの……」

 それ以上、言葉が出ない。

 井の頭通りは、西から東にかけて広範囲に、あの「黒い壁」で完全に遮られていた。
 壁は交差点をも分断している為、車はこれ以上侵入することも出来ない。
 壁の高さは秋葉原と同じくらいあり、やはり、道路を下から突き破るように生えている。

「ね、ねえ沙貴!
 ここにあるってことは、もしかして、渋谷もごっそり隔離されちゃってるってこと?」

「可能性は高いわね。
 どういうこと? 人が大勢居るところには、出ないんじゃなかったの?」

「ボクも、それ思った!
 なんか、情報が食い違ってない? あのノートのコピーって」

「そうね……。
 澪、ひとまず戻りましょう。
 どこまで壁が続いているのか、把握しておかなくちゃ」

「OK!
 ええっと、沙貴ぃ、こんな狭い道路でターン出来るかなぁ」

「チャッターバーは、乗り越えても運転に支障は出ないから、落ち着いてゆっくりやれば大丈夫よ」

「う、うん、やってみる!」

 そう言うと、澪は運転席に戻る。
 沙貴も、辺りを見回してから助手席に戻った。

(秋葉原に続いて渋谷も、となると、他にも人が多く集まる場所を確認した方がいいわね)

 とてつもない不安に駆られながら、沙貴はカーナビを操作し始めた。



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