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ダレソカレ

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 息を潜めて、歩く。見付からないように。バレないように。──『声』に、届かないように。
 僕を導く手にすら現実味を感じられなくて、泥を何度か蹴った自身のローファーを眺めることで漸く自分が世界に在ると自覚する。

 ──耳を塞ぐには手が足りないから、なにも見ないようにした。
 ──目を塞ぐには鮮明すぎるから、なにも聞かないでいた。
 本能というやつが──直感が、僕に立ち止まるなと命じた。


「──さ、ここまで来たら大丈夫。お迎えさんもいちょるけ、はよう行きんしゃい」


 ふと、手が僕に目を開いて良いのだと促した。顔を上げる。まず、ひとつに質素な橋がある。五歩も歩けば渡り切ってしまえる、そんな小橋だ。そして、その先────僕の〝現実〟が、携帯電話を片手にジャージを汗だくにして立っていた。
『声』はとっくに置き去りされていた。


「時政さん」

「──言っておくが、大遅刻だからな。アルバイト君」


 電波に乗ったものでない彼の生きた声に、思い出したみたいに感情が溢れる。乱れる。──嗚呼!
 叫んでしまいたいのに声が出ない。とにかくあなたの側に戻りたい。そして、そうするには────この手を放さねばならない。


「悪かったな。うちのが迷惑かけて」

「ええんよ。見付けたんがあたしで良かった。こない歳で捕われたら可哀想なんね。……あんた、『視える人間』でしょう? なら、ちゃんと守ったり。忠行ちゃん、めんこいけん」


 手は──離れた。着物の彼女はゆるりと袖を振って僕の背中を押した。


「そこの橋が境界やけ。はよう出ェ」

「あなたは──」

「あたしはもう囚われとるけ、出られん。それにね、あたしは──私は、まだ、ここにいなくちゃいけないの。ここで待ってるの。取り返すために。……ふふ、うふ。忠行ちゃんがそない顔せんのよ。ええから行き。はようせなここまで来てもかも知れん」

「…………」


 覚束ない足を進める。──立ち止まる。『境界線』まで残り一歩。踏み出せば──終わりだ。
 向かいの時政さんを見る。時政さんは、笑っていた。子供を見守る顔だ。仕方ないな──そう言う顔だ。踏み留まってしまった僕の気持ちなんて、この人には全てお見通しらしかった。


「見たければ見ればいい。──お前なら、大丈夫だろ」

「──はい」

「忠行ちゃん──?」


 振り返る。ああ──やっぱり。そのひとは正面から見てもずっと綺麗だった。牡丹とか、シャクナゲとか──そういう名前の鮮やかな花がよく似合うひと。


「ありがとうございました」


 真っ直ぐ顔を向き合わせて感謝を伝える。彼女が息を呑む。器用だな、なんて間抜けに思う。────、感情とはこんなにもわかりやすいものなのか。


「──もう、迷い込んじゃ駄目よ。さようなら」

「さようなら」


『またね』は言わない。きっともう、逢えないから。
 茜色の世界に背を向けて、最後の一歩を踏み出す。再び振り返る。────彼女は、やっぱり〝何も無い顔〟で笑っていた。


「──時政さん。さっきの人は、」

「後ろ、見てみろ」

「え?」


 三度目の正直だ。首だけでなく全身で世界を伺う。────夜だった。橋の先は緋色から黒に正しく塗り替えられていた。
 寄り道帰りなのか習い事帰りなのか、もしかするとアルバイトに向かうところなのか、女子高生達のキャラキャラとした笑い声。犬の散歩と一緒にランニングするおじさん。頻りに腕時計を覗くスーツのお兄さん。中身いっぱいの買い物袋を前カゴに入れて、自転車のペダルを踏むおばさん。
 いつも通りの光景が、人工的な光の中に広がっていた。
 小川はなかった。土手もなかった。茜の世界に共通するものは────苔むし雑草に埋もれた半壊の小橋だけが、ごく当たり前に在った。


「僕は──今まで──どこに」

「説明は後だ。取り合えず事務所に行くぞ」

「あ、はい!」


 手を取られる。彼女とは全く違う荒々しい手付きだ。大きな手だ。そして温かい手だ。時政さんはここに生きているから。
 安心する。──そうか。と、気付く。
 あのひとも、この人も──僕を守ってくれる優しい手だから。だから、怖くない。

 冷たくても、怖くなんかなかったんだ。



 ◆◆◆



 目の前に湯気が立ったマグカップを置かれる。中身の正体はカフェオレだ。初めて時政さんからコーヒーをご馳走になった時には、お客様用のコーヒーカップで出てきたんだよな、と懐かしく思う。同じ場所に同じシチュエーションなのに、今では台所に僕専用のマグカップが置かれているのだから、縁とは不思議なものだと沁々する。
 あったかい。品の良い苦味とミルクのほんのりした甘みが舌を宥めて、香りとなって鼻から抜けていく。


「落ち着いたか?」

「はい。ご迷惑おかけしてすみませんでした」


 ぺこんと間抜けっぽく向かいの時政さんへと頭を下げる。まったく、今日はとんだ厄日だ。続けて、顔を上げざま事務所に取り付けられている壁時計を目にして嘆息する。
 生まれて此の方、まだ二十歳にもならない身であれど、こんな奇妙な出来事に遭遇したのは初めてだ。命さんの件は──あくまでも第三者的ポジションだったわけだし。
 外はすっかり暗闇で、下手すると普段の退勤時間に近い。けれども、こんな苦い後味を抱えてあやふやに翌日を迎えられる筈もない。だから。
 マグカップを置いて、見据える。────僕が唯一知る、〝識っている〟人を。


「時政さんは所謂──『視える人』、なんですよね。それじゃあ、今回もなにが起きていたのか──わかるんですか」

「さてな。おおよその検討はついてるが」

「……あの人は、」

「────黄昏の由来、知ってるか?」

「へ?」


 脈絡もなく替わった話題に、思わず抜けた声が出た。──黄昏? えっと、世間一般的に夕暮れ時の事を云う──はず、だよね。──それとこれと、何の関係が?


「黄昏時は昼と夜の狭間。夕方の薄暗い時分を指す。昔は街灯なんて便利なもんは無かっただろ。だから相手の顔がはっきり見えなかった。そこで、道行く人にこう尋ねた。──『誰そ彼』てな」


 誰そ彼、タレソカレ、タソガレ……────黄昏。


「顔が見えない、てのは〝あるモノ〟にとって非常に都合が良い。自分の顔を見られずに済むからな」


 あるもの──時政さんの謎掛けのような言葉に、マグカップを持ったまま暫し考え込む。
 顔が見えなければ、都合が良い──顔を見られてしまうと、バレるから。────、それって。


「あの女────顔が〝無かった〟だろ」


 その通りだった。境界を越える瞬間、振り返ってまで正面から見た彼女に『顔は無かった』。表情ではなく──『顔』が。
 ──たぶん、子供みたいな想像だ。空想の末の創作だ。ほんのちょっと、ふざけ半分に誰かを怖がらせる為の────怪談話ツクリバナシ

 あのひとは。


「顔の無い妖怪。顔亡カオナシ。────『のっぺらぼう』だよ」


 時政さんの答え合わせにぐっと顔をしかめる。
『のっぺらぼう』──面の無い妖怪。誰だって名くらいは聞いた事があるだろう。それなりにポピュラーな妖怪だ。架空の、人間の恐怖心が生んだ世迷言の一つ。
 それが、存在している────?


「でも、それは──夕暮れ時で相手の顔がよく見えなかったから、だから、勘違いをして……そういうこと、ですよね?」

「ああ、だろうな。勘違いで──錯覚で──嘘だ。怪談話ってのは大抵が退屈な人間のタチの悪い遊びだ。だがな──〝人の思い〟ってのは時にとんでもない力を発揮する」


 ゆらり。揺れる。
 ぐるり。回る。
 僕の生きてきた世界が。普遍が。常識が。当たり前が。彼によって決壊する。


「知ってるか? 人ってのは思い込みだけで自分の身体に傷を作れるんだぜ」


 例えば火傷。例えば切傷。例えば────死。それを、想像ではなく現実に引き起こしてしまう。人間は真を嘘にも嘘を真にもできる。
 それだけの力を持った生き物が本気で〝信じた〟ならば────果たして虚構ウソ虚構ウソのままであれるのか。


「人間が、創り出した」


 答える。奇妙な感覚だった。僕の口が勝手に動いてるみたいだ。


「そう。人間の思い込みが、闇への恐怖心が──生み出したんだ。あのアヤカシを」


 じっとりと。妖しげに語る時政さんこそ、まさしく妖怪のようだった。
 人ではないもの。あやかし──あやかしきもの。
 彼が首を傾ければ、スルリと夜色の髪も彼の頬と首筋を流れていく。すっかり見慣れたジャージと眼鏡の姿は、普段なら笑っちゃう格好なのに仕草の一つ一つが不思議なくらい印象的に思えて、彼から目を離せなくなる。


「あやかし──」

「『俺達』はそう呼んでる。妖怪、霊、神、あるいは事象、その全てを引っくるめてな」


 まるで眠りに就く幼児に素話でも聞かせる風に、そう──と声を潜めて識者は語る。


「のっぺらぼうには顔が無い。だから、昼や夜だと人間にバレてしまう。夜は提灯で〝顔〟を照らされちまうからな。提灯が要る程でもないが暗く、目を射す光で視界を遮られる夕時が、奴等の最も行動しやすい時間なんだよ」


 まるでその目で視てきたかのような口振りだった。急に情報として明確に与えられた非現実に頭がクラクラした。呼吸をしているのに、酸欠みたいだ。


「行動……」

「聞いたことねぇか? ──『のっぺらぼうに遭うと顔を盗られる』て」

「──!?」


 ──〝折角めんこい顔で生んでもろうたんや。こげとこで盗られたら勿体無い。……ちゃんと大事にしぃよ?〟

 彼女の言葉が甦る。ああ、そうか──あの人は。


「のっぺらぼう──顔亡共は人間を訪ねてはその顔を奪っていく。〝人間〟として生きる為にな。そして顔を盗られた人間〝だったモノ〟は囚われる。顔亡として。──成り代わるんだよ。顔だけじゃなくその人間の人生すらも奪うんだ。……もしかしたら、お前の周りにも『成り済まし』がいるかもな」


 ニッタリと、悪魔みたいに時政さんは笑った。鳥肌が立つ。
 それって──知り合いが本当は別人かも知れない、てこと? 何食わぬ顔でそいつのフリをした他人と、僕達は笑い合っているのか?

 途方もない恐怖に血の気が引いた。


「……っと、悪い。脅かしすぎた。大丈夫だから、んな顔すんな。そんなこと滅多にねぇから」


 自覚する程に蒼くなっていた僕を見て、時政さんが慌てた様子でポンと頭を軽く撫でてきた。……そろそろわかってきたぞ。これはこの人の、誤魔化したいものがある時の癖だ。甘んじて誤魔化されてしまう僕も、僕なんだけど。


「時代は変わった。あいつ等が〝こちら側〟に出てくる事は早々ねぇよ。だから、ああして迷い込んだ人間から奪っていたんだろうな。顔を」

「…………」


 慰めにもならない言葉に再びゾッとする。つまり、もしもあの人がいなければ、今頃、僕は──


「あの人は……」

「あいつもきっと、元々は迷い込んだ被害者なんだろう。だから、同じ境遇に立たされたお前に同情してくれた。良かったな、他だとこうはいかねぇぞ。問答無用だ。やっとまた人間に戻れるチャンスなんだから。……ま、ただたんに自分の顔を取り戻す為にあそこで待ち続けてるだけかも知んねぇけど」


 一息ついてマグカップを傾ける時政さんの単調な言葉を脳内で反芻させる。じわじわと今更になって体が震え出した。

 僕、本当に危なかったんだ。もしも僕を見付けたのがあの人じゃなかったら──────いいや、待て。
 そもそもだ。何故、僕は『声』に気付かれなかった? 体感時間ですら一時間は間違いなくソコを彷徨っていたのに。そして、現実とこれほどに〝ズレて〟いたのは、何故?


「あの、僕──結構な時間、あそこにいた筈なんです。一時間……もしかしたら二時間とか、それくらい。でも……」

「まず、お前から遅刻の連絡をもらった時点でこっちはとっくに夜だったな」


 時政さんが淡々と僕の戸惑いの先を引き継ぐ。──ああ、やっぱり。失望に近い倦怠感から肩を落とす。時間の流れが明らかに違う。
 ならば────僕は今まで〝何処〟にいた?


「迷い込んでたんだよ、お前は。あの女が言ったように──〝アチラ側〟にな。景色、違ったんだろ?」


 まるで僕の心を読んだかのようなタイミングで時政さんが答えるので、ぐっと喉が詰まった。いけない。このままじゃいつまで経っても緊張がほぐれない。カフェオレだ。カフェオレを飲もう。……僕が窒息したら、時政さんの所為ですからね。

 すっかり熱の冷めたカフェオレに縋りつつ、例の光景を頭に浮かべ直す。ほんの一昔前を再現したような世界は、状況が状況でなければゆるりと自然を堪能して回りたくなるくらいには長閑でありふれていた。
 河原があって、子供が遊ぶのに程好さそうな空き地もあって。茜色が容赦なくノスタルジーを刺激する。少し前なら、おそらくごく当たり前だった光景だ。
 きっとこの町も、あの場所にも、そんな時代があったわけで────ああ、そうか。漸く理解する。彼処って。


「そのまんま、昔なんだ。まだ『のっぺらぼう』がいた頃の町」

「子供は発想力が豊かで結構。大正解だ」


 ニッと口角を上げる時政さんに、さて素直に喜んでいいものやらとマグカップを間に挟んで盾にする。だって、話がめちゃくちゃになってきたんだもの。荒唐無稽だ。もしも今、向かいに座るのが佐竹だったなら、確実に僕は目を開けたまま寝言を言うなこのアホぅと呆れ返っていただろう。
〝不思議〟を語るのが時政さんだから────信じられる。


「つまり、僕、タイムスリップしてたってことですか?」

「まさか。時空からして違ったんだろうよ」

「…………」


 ──時空、だとか。とうとう時空なんて大袈裟な単語も飛び出してきて、いよいよ僕の脳みそはキャパシティオーバーを迎えた。
 情報整理の為なのか、あるいは無意識的拒絶か、黙り込むしかない僕に時政さんは続ける。


「世界は一つじゃない。この世は鏡と同じなんだ。視えない裏側が幾つもある。そしてそれ等は極稀に繋がる事がある。今回で云えば──『橋』。橋とは『端』だ。あの橋は時代の変化の中も変わらずにあり続けた〝象徴〟なんだろう。だから、もう無い場所に渡すという〝概念〟を持ってしまった────」

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