桜の樹の下に君を埋めるといふこと

浦登みっひ

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四月十四日 真紀

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 その日の夜、私は経済学部棟の図書室で、卒論のための調べものをしていた。

 三年になったばかりのこの時期に卒論の準備を始めている同級生は、私の周りには一人もいない。時間はまだまだあるのだから、それが普通なのだろう。ただ、私はそのまま修士課程、つまり大学院に進むつもりだから、来年は卒論に加えて院試の準備もしなければならない。どちらも手は抜けないし、十分に余裕を持って進めたい。そのためにも、テーマぐらいは速やかに決めておきたかった。早く始めて困ることはないはずだ。

 私は決して天才肌のタイプではなく、どちらかというと努力型の人間だと思う。その一方で、私の中にいるもう一人の私は間違いなく天才型。同じ脳を使っているはずなのに、私と彼女とでは、想像力やインスピレーション、頭の回転の速さに極めて大きな開きがあるのだ。彼女が素人探偵として解決してきた(一昨年のものが事件と呼べるかどうかは別として)二つの事件が、その洞察力を証明している。

 だから、卒論だって彼女に任せてしまえばあっという間に終わってしまうのかもしれない。でも、それは私のプライドが許さないというか、自分の無能さを認めてしまうみたいで、やっぱり嫌なのだ。

 彼女に対してライバル意識を持つなんて、以前の自分では考えられなかった。
 私という人格は、今から三年ほど前に作られた。神は塵から人間を造りたもうたというが、私は塵ですらない、完全な無だったのだ。
 彼女は私という人格を産み出した母のような存在でもあり、また親友でもあり……とにかく、自分自身に等しい、或いはそれ以上に大切な存在だ。それは今も変わっていない。変わっていないはず。
 なのに、どうしたことだろう。一般的に、人間は年を取るほど生に執着するというけれど、彼女の代わりに日常生活を送っていく中で、私も我が強くなってきたのだろうか。だとしたら、これは良い傾向か、それとも……。

 ふと時計を見ると、時刻は既に午後七時五十八分になっていた。図書室の閉室時間は午後八時だから、いい加減帰り支度をしなければ。瞬には先に帰ってもいいとLINEで伝えておいたはずだが、今どうしているだろう。今日は講義が午後からだったため、朝はゆっくりと起きて、大学に着いたのはお昼過ぎ。大体いつも昼食は一緒にとっているのに、今日に限ってはそれもなく、彼とはまだ一度も会えていない。
 気が付くと、図書室にはもう誰もいなかった。今はちょうどサークルの新歓コンパが盛んに行われている時期で、おそらく皆新入生を捕まえて繁華街に繰り出したのだろう。ちなみに、私は特定のサークルに所属したことがない。
 しぃん、という音にならない音が、影のように静かに私の耳へと忍び込んできた。

 ああ、なんだか疲れたな。
 一つ大きく伸びをして(はしたないけど誰も見てないからOK)、資料を元の位置に戻して図書室を出たところで、心美ちゃんとばったり出くわした。

「あら、心美ちゃん?」
「真紀さん、お疲れ様です。さっき学部棟の入り口のところで瞬さんに会って、真紀さんがまだ図書室にいるって聞いて……」
「えっ、瞬、まだ帰ってないの? 先に帰ってていいって言ったのに……」
「ずっと待ってるみたいですよ。彼女想いの彼氏さんで、羨ましいです」
「ふふふ。ありがとう」

 それから私と心美ちゃんは、学部棟を出るまでの短い間、歩きながら少し話をした。
 考えてみれば、二人きりで話をするのはこれが初めてかもしれない。彼女はシンプルなデザインの白いワンピースで、メイクも普段とは少し違うように見える。ほのかに香る甘い匂い――優雅で官能的な、これは蘭だろうか――随分大人っぽい香水を使っているな、と思った。
 もしかして、これからデートかしら。心美ちゃんぐらいかわいい子なら、きっと男が放っておかないだろう。でも、それにしてはワンピースのデザインが妙にシンプルすぎて、そのギャップが何となく気になった。

 彼女の今夜の予定について、それとなく聞いてみたいような気もしたけれど、私たちは再会してまだ一週間。あまり個人的なことを詮索するのも気が引ける。彼女は私と同じ経済学部なので、話の内容は専ら今後のカリキュラムやゼミに関することだった。

 一昨年あんなことがあったせいで、瞬や小雨が彼女に対して少し警戒しているのはよく理解できる。けれど、彼女があの事件を起こしたという証拠は何もないのだし、警察が公式に自殺という結論を出した以上、疑わしきは罰せずが大原則のはず。
 私自身、一昨年はちょっと大人げなく彼女に対抗心を燃やしてしまうようなところがあったから、その埋め合わせというわけではないけれど、今は蟠りなく接してあげたい。私にとって心美ちゃんは同じ学部の後輩なのだから。

 二階にある図書室から一階に降り、エントランスまでやってくると、ガラスの扉の向こうに、少し寒そうに身を縮こまらせながらこちらに背を向けてぽつんと立っている瞬の姿が見えた。全身黒で統一されたいつもの服装に、今日はワンポイントで青いストールを巻いている。
 私は心美ちゃんに、唇に人差し指を当てたポーズ、つまり『秘密』のジェスチャーをして見せてから、音を立てないようにそっと入り口のドアを出て、彼に気付かれないよう背後からそっと近付き、後ろから突然目隠しをした。もちろん、ちょっとした悪戯のつもりで。

「だ〜れだ?」
「わっ!」

 それは随分大袈裟な反応だった。瞬は素っ頓狂な声を上げて私の手を振りほどき、逃げるように飛び退いた挙句、どすんと尻もちをついたのだ。私の後ろに控えていた心美ちゃんが慌てて瞬のもとへ駆け寄り、大丈夫ですか、と声をかけた。

「……ご、ごめん、そんなにびっくりするとは思わなくて……」
「な、なんだ、真紀か……いや、こっちこそ、なんかごめん」

 瞬がこんなに狼狽えるなんて珍しい。まるで私がデスボイスでも出したみたいじゃないの。

「瞬さんって、意外と怖がりなんですね」

 瞬は心美ちゃんの手をとって立ち上がり、ズボンについた汚れを払いながら答えた。

「はは、面目ない」
「そういえば瞬、ご飯まだ?」
「ああ。まだ食べてない」
「じゃあ、どっか寄って行こうよ。心美ちゃんも一緒にどう?」
「いえ、私がいたらお邪魔になりそうだし……これからまだ寄るところもあるので、今日はこれで失礼します。せっかく誘っていただいたのに、とても心苦しいんですけれど……」

 心美ちゃんはそう言うと、本当に申し訳なさそうな顔で両手を合わせた。ああ、やっぱりデートなのかな、とは思ったけれど、それは言わぬが花というものだろう。

「いいのいいの、気にしないで。また今度機会があったら一緒にお食事しましょう。じゃあ、またね、心美ちゃん」
「はい、いつかきっと。それでは、おやすみなさい」

 心美ちゃんは丁寧にお辞儀をして去って行った。彼女の背中に密かなエールを送りながら、私は隣の瞬に話しかける。

「さて、私たちはどうしましょうか。何が食べたい? ラーメン?」
「真紀はもしかして、俺が四六時中ラーメンのことしか考えてないと思ってるんじゃない?」
「あら、違ったかしら?」

 私がほんのり芝居がかった口調で問うと、瞬は少し口を曲げて答えた。

「……まあ、違わないけど」
「でしょう? キャンパスの近くに、最近また新しいラーメン屋ができたらしいよ。行ってみたいよね?」
「へえ、そうなの? 知らなかった。なんでいつもそんなに情報早いわけ?」
「『彼を知り己を知れば百戦危うからず』よ。さ、行こ行こ」

 私は彼の腕を取り、新しくできた恋敵、つまりラーメン屋のもとへと歩き出す。その時、さっき嗅いだばかりの、あの甘い蘭の香りがふわりと漂ってきた。さっき心美ちゃんが駆け寄ったときに、彼女から移ったのかもしれない。それがほんの少し気に障り、いや、大人げないぞ、と自らを戒める。本妻の余裕がなかなか身に付かない私である。

「ねえ、そういえば、そのストールどこで買ったの?」
「ひみつ」



 ラーメンはまあまあ可も不可もなく、といった感じの味で、不味くはないけれど、瞬が夢中になるほどではなかった。彼は新しくハマる店を見つけると一週間でも二週間でもその店に通い詰めるようなところがあるから、どうなるかとは思っていたのだけれど、その心配は無用だった。まあ、それは食べログの評価を見て大体わかっていたことで、本当にほっぺたが落ちるほどおいしいラーメン店だったら、わざわざ私の方から教えたりはしない。敵に塩を送る行為に等しいからだ。

 ラーメン屋を出た私達は、そのまま私のマンションへと歩いた。帰りが夜になると、彼は自分のバイトの予定と重なったりしない限り、いつもマンションまで私を送ってくれる。いや、ただ送り届けるだけではなく、最近はそのまま私のマンションに泊まっていくことも多くなった。
 数ヶ月前まで、彼を部屋に入れることを何か特別な儀式のように重く捉えていたけれど、今では全てが流れ作業のように滑らかに進んでいった。ストリーミングの映画を一緒に見たあと、シャワーを浴び、ほんの少しカロリーを消費してから、同じベッドで眠る。そのルーチンワークが、すっかり日常生活の一部になった。

 マンションの前まで来て、私は訊ねる。

「今日は泊まっていく?」
「いや、今日は帰ってから、ちょっと今後のことについて親父と話し合うことになってて……」
「……そっか。それじゃあ仕方ないね……」
「……ごめんな」
「え、なにが?」
「寂しがり屋だから、真紀は」
「……そんな、大丈夫だってば」
「明日は泊まりに来るよ」
「……わかった」
「じゃあ、おやすみ。また明日」
「おやすみなさい」

 こんな短い会話のあと、彼の背中は、一瞬で夜の闇に溶けていった。

 私は一人でマンションの最上階にある自分の部屋へと帰る。
 リビングがやたらと広い2LDK。相変わらず一人で住むには広すぎる部屋だ。彼がいる風景に慣れてしまったせいか、一人の夜は前よりずっと淋しさが募るようになった。彼が居ると居ないとでは、部屋の広さが倍ぐらい違うような錯覚に陥る。

 瞬がよく泊まるようになってから、この部屋も少しずつ様変わりしている。洗面台には二本の歯ブラシが立っているし、クローゼットには男物の下着や着替えも何着か入っている。蛍光灯の明かりが苦手な蝋燭愛好家の彼のためにキャンドルも色々揃えてみたし、埃を被っていたキッチンや調理用具も、最近は活躍の機会がとみに増えた。
 一人暮らしの時にはなかった生活感。それら全てが彼の痕跡であって、一人の夜でも否応なく目に入ってしまうのだ。

 こんな夜は決まって、良くないことばかり考える。

 幸せって、思っていたより満たされないものだな、と最近よく思う。
 彼に不満があるわけではない。優しいし、私を大事にしてくれるし、夜の生活にだって満足している。ただ、私が彼に対して冒したリスクに十分見合うだけのリターンを、私は彼から得られているのか、不安になることがあるのだ。私は彼に全てを曝け出しているというのに、未だに時々、瞬が何を考えているのかわからなくなる。私が隣にいるのに、もしかしたら私以外のことを考えているかもしれない、そう考えると、言葉では語り尽くせないような苛立ちを覚えるのだ。

 期待値と現実のズレは体を重ねるたびに広がっていくように思える。
 彼だって人間なんだし、全てを理解するなんて難しい。彼の意思に反して、思考や感情まで何もかもを束縛するような行為は許されない。だからといって、それをフィジカルな接触で埋め合わせようとすること自体が、そもそもの間違いなのだ。セックスで得られる束の間の多幸感と充足感は極めて特殊なもので、あの感覚を普段の生活と混同してはならない……そう自分に言い聞かせている。

 じゃあ、この孤独感、そして今にも世界が崩れ落ちてしまいそうな恐怖は、いったいどう埋めたらいいのだろう。
 ベッドに染み着いた彼の匂いが、さらに淋しさを煽り立てる。

 私という人格が生み出される以前、私は犬を飼っていた。アンジュという名前のホワイトテリアの女の子で、引きこもりがちで友達のいなかった私にとって、アンジュは唯一心を開ける相手だった。
 私はアンジュを溺愛した。引きこもりだった私でもアンジュと遊ぶためなら庭に出られたし、夜は毎日一緒に寝た。一日中、片時も離れることはなかった。
 でも、人間と犬とでは流れる時間の早さが違う。私が子供の頃に同じく子犬だったアンジュは、私が思春期を迎えるころには、すっかりおばあちゃんになっていた。

 そしてある朝、私のベッドの中で、アンジュは冷たくなっていた。私が十八歳の頃のことだ。
 私、私と言っているけれど、これらは全て、一人の西野園真紀としての共有された記憶。アンジュが亡くなってから、彼女の話し相手は鏡に映った自分の姿……つまり、私になった。西野園真紀という人間の中に私という人格が形成されたのが具体的にいつだったのかは、もうはっきりとは覚えていない。

 一つの人格が二つに分裂する過程で、きっと西野園真紀の寂しがり屋の部分が私だけに押し付けられてしまったのだと思う。そうでなければ説明がつかない。どうして私だけがこんなに面倒くさい性格になってしまったのか、その理由について。
 もしかしたら私は、アンジュのように、一日中ずっと、朝から晩まで一緒にいてくれる存在を心のどこかで求めているのかもしれない。
 瞬に首輪を付けてずっとこの部屋に閉じ込めておけたらどんなに幸せだろう――私はよくそんな想像をする。でもそれを彼に話してしまったら、彼は私のことを恐れるようになるかもしれない。ドロドロした女だと思われるのがたまらなく怖い。彼の前ではずっとお人形のように綺麗な私でいたいと思う。

 でもその反面、もっと私のことを知ってほしい、伝えたい、そう思っている私もいて、相反する二つの感情の間で私は常に揺れ動いている。
 私自身がこんなに矛盾しているのだから、いくら同じ夜を過ごしても、完全に満たされるなんてどだい無理な話じゃないか。

 こうして、私の思考はいつも堂々巡りに陥る。
 一年付き合ってもこれなのだ。友達すら上手に作れない私が、恋人との距離感だけは上手く詰められるなんて、そんなライトノベルみたいなご都合主義はありはしない。本妻の余裕なんて都市伝説だ。

 何かペットを飼いたい。最近強くそう思うようになった。
 このマンションは基本的にペットを飼うことが禁止されている。でも、周りの迷惑にならないような小動物でもダメなのだろうか……?

 今度、管理人の田中さんに聞いてみよう。

 考え疲れた私は、いつもより早めに洗面台に向かい、メイクを落とす。私の意識はそこで途切れた。
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