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浦登みっひ

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dependence

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 婆ちゃんの家からの帰りの電車の中で、僕は洋一さんのことを考えていた。
 彼が残した手記にも少し目を通してみた。とは言っても、旧い漢字や仮名使いで記された文章は僕にはあまりにも難しすぎて、完全に読解するのは始めの数行で諦めてしまったけれど。
 だが、内容がほとんど理解できなくても、彼の苦悩を窺い知ることはできた。洋一さんの手記は、最初のうちは几帳面そうな整った字で記されていたのだが、ページを捲るごとに少しずつ、しかし明らかに筆跡が乱れていったからだ。

 今川家に生まれた数少ない男子である洋一さんは、やはり僕と同じように、お紺の呪いに苦しめられていた。呪いのせいで身近な女性が死に、そのために、最も愛しい女性を愛することができない苦しみ。それでも、洋一さんと美枝さん、燃えたぎる二人の愛の炎は消えることはなかった。
 二人の激しい恋と、悲しい結末。そして何より、全てを投げ打って愛した女性が、自分を呪うお紺の生まれ変わりだったかもしれないという疑念。そのことに気付いてしまった時の洋一さんの心境は、どんなものだっただろう。『辛い』なんて一言では表しきれない複雑な感情が、そこにはあったように思う。まだそれほど深く誰かを愛したことのない僕には想像もできないような、深い悲しみと共に。

 そして何より恐ろしいのは、それと同じ苦しみが、これから僕の身にも降りかかってくるかもしれないということ。
 お紺の生まれ変わりが、僕の近くにいる――そう考えると、僕の視界に入る全く無関係の女性までもが、何だか怪しく思えてきてしまう。向かいの席で、ドアの近くで、吊り革に掴まりながら、あの人が、この人が、その人が、もしかしたら。そんなこと有り得ない、と頭ではわかっているのだけれど、それだけでは割り切れない得体の知れない恐怖が、僕の心に巣食い始めていた。

「葉太郎?」
「……わっ!」

 隣に座った姉貴に突然話しかけられて、僕は心臓が縮み上がるほど驚いた。周りの乗客たちの視線が一斉に僕に集まり、二、三秒後、まるで誰かがリモコンで操作したように、ほぼ同時に逸らされる。
 姉貴はやや苛立たしげに僕の顔を覗き込んだ。

「何? そんなに驚くことないじゃん」
「……ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてたからさ」
「あんまり変に女の人ばっかりキョロキョロ見てると、怪しまれるよ」

 姉貴は僕の目の動きに気付いていた。いや、視線だけじゃない。きっと、僕が考えていたことまで、姉貴は全てお見通しなのだろう。いつもそうなのだ。それを証明するかのように、姉貴は言った。

「……さっきの、呪いの話のこと考えてたの?」

 やっぱり、姉貴に隠し事はできない。

「……うん」
「あんまり気にしちゃだめだよ。そりゃ、洋一さんって人の話は、お紺のと違って完全な実話みたいだし、気の毒な話でもあったけどさ。それが呪いのせいだなんて根拠はどこにもないんだし。ご先祖様はご先祖様、葉太郎は葉太郎なんだから」
「でも実際、呪いの影響もなく、身の周りの女の人が全く偶然に大勢亡くなるなんてこと、あると思う?」
「う~ん……有り得ないこともないんじゃない? そこはさ、人それぞれの価値観の違いだと思うよ。呪いなんて迷信だ、有り得ない――と思うか、呪いの影響なしでそんな偶然は有り得ないと思うか。どっちにしても信じがたいことではあるけど、あたしは呪いのほうが有り得ないと思うな」
「そっか……」
「それにさ……」

 姉貴はそう言うと、僕の肩をぐいと抱き寄せた。姉貴の髪からふわりと花のような優しい香りが漂って来て、それだけで、僕の不安はほんの少し和らいだ。香水なんてつけてないはずなのに、姉貴からは何故いつもこんなにいい匂いがするのだろう。いや、もしかしたら、姉貴が着ている母さんのお下がりの茶色いトレンチコートから、懐かしい母さんの匂いを無意識のうちに思い出しているのかもしれない。
 こうして人前でくっついていると、僕たちは周りからどんな関係に見られているのだろうか、といつも考えてしまう。仲のいい姉弟か、それとも――。客観的に見れば、僕たちの関係はやはり異常なのだろうか?

「呪いだろうが何だろうが、葉太郎のことはあたしが絶対に守るから。たった一人の弟だもん。そんな得体の知れないもんにどうにかされてたまるもんか」
「姉貴は怖くないの? 僕に近づきすぎると、もしかしたら、姉貴にだって……」
「な~に言ってんの? あたしは葉太郎の実の姉だよ? いくらそいつが嫉妬深い幽霊でも、さすがに血の繋がった姉妹にまでは妬かないでしょ」
「わからないよ。ないとは言い切れないじゃないか……」
「ないない。そんなこと心配しなくていいから」

 姉貴にそう言われると、本当に大したことがないように思えてしまうから不思議だ。
 父さんと母さんが死んだときもそうだった。当時は姉貴もまだ中学生。今の僕よりも年下なのだ。悲しくて不安で仕方がないはずなのに、大丈夫、大丈夫、と何度も囁きながら、ずっと僕の頭を撫でてくれた。
 姉貴は僕の前では決して泣かなかった。けれど、僕が夜中に目を覚ますと、姉貴の枕はいつも湿っていた。それでも姉貴は、『大丈夫』の一言で麻酔のように僕の悲しみを癒し、僕を守り続けてきてくれたのだ。

 この細い腕で。
 この華奢な体で。
 この薄い唇で。

 教師や上級生に信頼され、後輩にも慕われて、年の割にはしっかりした女性だと思われているらしいけれど、姉貴が決して強い人間じゃないことは、僕が誰よりも知っている。女性にしては表情の変化が乏しく、感情があまり顔に出ないタイプだから強く見えるだけで、姉貴も本当は繊細な心を持つ乙女なのだ。
 いつまでも守ってもらうだけじゃない。僕だって、いつかは姉貴を助けたり守ってあげたいと思う。今はまだ何もできない、無力な存在ではあるけれど。

 でも、せめて、ただ今川家に生まれてしまったということだけのために僕に降りかかってきたお紺の呪いからは、絶対に姉貴を守りたい。それができるのは、きっと僕しかいないのだ。

 ……なんて強がりながらも、姉貴の温もりに抱かれ、電車の心地よいリズムに揺られて、僕は猛烈な睡魔に襲われていた。



 気付くと、僕は父さんと母さん、そして姉貴と一緒に食卓を囲んでいた。
 今では人手に渡ってしまった、昔の家のダイニング。今はどうなっているのだろうか。現在住んでいるアパートに引っ越してからは、一度も足を運んでいない。
 姉貴は中学校の制服を着て、父さんはスーツで、窓からは朝日が差し込み、どこかで雀が泣いている。つまり、みんなで朝食を摂っているのだ、と僕は理解した。
 夢と呼ぶにはあまりにもリアルな感覚。これは記憶かもしれない。今ではすっかり遠く色褪せてしまった、ありふれた日常の朝の一コマ。僕たちが一番幸せだった頃の記憶。

 いや、そうじゃない。逆の可能性はないだろうか。つまり、父さんと母さんの死も、お紺のことも、全てが悪い夢だったのだ。そうだ、そうに決まってる。
 物知りで、尋ねたことには何でも答えてくれる父さんと、美人で優しくて料理上手な母さん。そして、ちょっとワガママな姉貴。姉貴は髪が短くて、後ろで結えるか結えないかぐらいの長さをいつもキープしているんだ。

 ここには全てが揃っている。
 あまりにも長い夢を見すぎた。
 何一つ欠けているものはない。ここが僕の居場所なんだ。

 そう思ったのも束の間。
 不意に場面が暗転し、気が付くと、僕はお通夜の会場にいた。

 視界全体がぼやけていて、何が何だかよくわからない。きっと泣いているのだと思う。それに、両親が死んだと聞かされた前後の記憶はおぼろげで、はっきりと思い出すことができない。ただ、いつもと何ら変わらない様子で買い物に出掛けた父さんと母さんが、帰ってきたときには既に小さな骨壺に入っていて(婆ちゃんが一応遺体の確認はしたそうだけれど、とても子供に見せられるような状態ではなかったらしい)、そのあまりのあっけなさに、全く実感が湧かなかったことだけはよく覚えている。

 更紗の通夜で彼女の両親がそうしていたように、僕と姉貴も婆ちゃんと共に遺族席に座っていた。わけもわからず、ぼんやりと。
 遺族席に座った僕たちを、通夜に参列した大勢の大人たちが、哀れみの目で見下ろしていく。まるで見世物になったような気分だった。

 しかしその時、他の参列客に交じって、一際目を引く、着物姿の美しい女が僕の目の前に現れた。喪服に身を包んだ参列客の中、その女だけはやや日に褪せた若草色の着物を纏い、日本髪に結った髪型も相俟って、非常に目立っている。それなのに、婆ちゃんも姉貴も他の参列客たちも女には見向きもせず、まるで僕にしかその姿が見えていないみたいだった。
 会ったことはないはずだ。でも、どこかで見覚えがある顔。
 一体どこで――と、記憶を辿っているうちに、女は僕の前までやってきて、嫋やかに微笑みながら、言った。

「ようやく、またお会いできましたね、杳之介さま……」

 そしてその刹那、僕は全く無意識のうちに呟いていた。

「お紺……」

 お紺。お紺だ。どうしてこいつが僕の目の前に?
 お紺の大きな瞳に映り込んだ僕の幼い顔は、恐怖で醜く歪んでいた。
 金縛りにあったように体が動かず、声を上げることすらできない。
 そして、お紺は僕の隣に座っている姉貴へと視線を移し、姉貴の肩に両手を伸ばす――。



「ああああああああああああっ!!!」

 絶叫と共に僕は目覚めた。

「ち、ちょっと葉太郎、どうしたの?」

 姉貴の戸惑ったような顔が目の前に。夢の中で会った可憐な少女の面影は最早なく、大人の女性に限りなく近づいた十八歳の姉貴だ。

 姉貴が傍にいることの安堵と共に、ああ、やっぱり、これが現実なのだ――と、少し落胆した自分がいた。父さんと母さんはもうこの世にいない。姉貴はぐっと大人になった。変わらないのは僕だけだ。
 ふと周囲を見渡すと、周りにいる乗客たちは皆、何事かと驚いたような表情で僕を見ていた。よく見ると、乗客の顔ぶれがだいぶ変わっていて、僕が何駅もの間眠りこけていたことに気付く。『すみません』と謝りながら頭を下げると、僕の方を向いていたたくさんの顔は、何事もなかったかのように、窓の外の景色やデジタルサイネージの広告、手元のスマートフォンなどに向けられていく。
 姉貴が僕の頭を撫でながら言った。

「なにか、怖い夢でも見た?」

 僕は、ゆっくりと動悸と呼吸を鎮めながら答える。

「……父さんと母さんの夢を見てたよ。皆で一緒に朝ごはんを食べてる夢……でも、その後は、お通夜の夢だった……そして、お通夜に来たお紺が……笑いながら姉貴の首に手をかけようと……」

 夢の記憶はまた急速に失われていて、お紺の顔ももう思い出せなかったけれど、姉貴の肩に触れた両手、その映像だけは、脳裏にくっきりと焼き付いていた。やっぱり姉貴も無関係だとは思えない。いくら実の姉だからといっても。
 夢の内容を話す僕の姿が、ひどく憔悴して見えたに違いない。姉貴は僕の不安を拭い去るように、再び優しく微笑んで見せた。

「もしも仮に、仮にだよ? その呪いってやつが実在するとして、あたしにも何か影響があったとしてもさ。あたしは大丈夫。そんな得体の知れないものに殺されたりなんかしないから。たった一人の大切な弟を残して死ねるもんですか」

 姉貴のその言葉には不思議と確かな説得力があった。根拠なんてどこにもない。でも、根拠がないからこそ心強い、そう感じられることが、世の中にはごく稀にあるのだと僕は思う。僕にとって、それは姉貴なんだ。
 僕は溢れる涙を抑えることができなかった。どうして僕は泣いているのだろう。姉貴はそんな僕を再び強く、そして柔らかく抱きしめてくれた。
 でも、姉貴は普通の人間なのだ。さっきの夢の中で、お紺が姉貴に手を触れた瞬間に感じた恐怖が、何度も何度もフラッシュバックしてくる。

 もしも姉貴を失ったら――それが怖くて仕方がなかった。
 姉貴の胸に顔を埋めて突然ボロボロと泣き出した僕を、周りの乗客数人がまた怪訝そうな目で見ている。急に叫んだり泣いたり騒々しい奴だと思われているのだろう。それでも、涙は止められなかった。

 僕が姉貴を守らなきゃいけないのに。強くならなきゃいけないのに。
 でも、今だけは。

 結局僕は、アパートの最寄り駅に着くまでずっと、姉貴の胸の中でコートを濡らし続けた。
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