騙されやすい先輩と、噓つきな後輩

七嶋凛

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橋の上で

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「幽霊でも見たような顔ですね、先輩」
 そう言って、あの日と変わらない笑顔を向けたのは、死んだはずの後輩だっだ。



 ーー未練があって、成仏できないんです。
 夜明け前。
 まだ暗い橋の上で、私は冷たいアイスのパッケージを手にぶら下げたまま、高校時代の後輩・志木くんと向き合っていた。

 高校から大学へ進学し、卒業後に地元で就職をして、数年。高校の卒業からは、十年が経っていた。
 志木くんと最後にしゃべったのは、卒業式よりも前のことだ。

 十年振りに再会した後輩は、未練があると言うわりに、さっぱりとした表情を浮かべていた。

 深夜、人も車も通らないような、橋の上。街灯に照らし出されていても、たたずむ彼の姿はどこか、現実からは遠く離れて見える。シンプルな白いシャツは、夜にくっきりと浮かび上がっているのに。

「今も好きなんですね、それ」

 志木くんの視線が、手にしていたアイスのパッケージへと向けられる。どこにでもある、チョコとバニラのアイス。
 どうしても食べたくなって、コンビニに買いに行った帰りだった。

 きまぐれな、深夜の散歩。
 それからやっぱりきまぐれな遠回りが、思わぬ再会につながった。

 もっと早い時間なら、家を出ることはなかっただろう。
 もう、夜よりも朝の方が近い。暗さの中に、明るい気配がある。

 だから、きまぐれに。
 それでも、大通りを選んで歩いた。
 橋を通ろうとしたのも、ずっと街灯が続いているからだ。

 まさか、その上で、幽霊に会うとは思わなかった。

「……食べる?」

 そっとアイスのパッケージを差し出すと、志木くんは声を上げて笑った。

「食べられると思います?」

 からかうように、舌を出して見せる。
 それもそうか、と私は手を引っ込めた。

「驚かないんですね、先輩」

 志木くんの目が、まだ笑っている。

「って、意外性はないか……」

 こぼしたため息を笑い飛ばすように、軽い調子で続ける。

「そのうち刺されるぞって、よく言われてましたもんね」

 美しさは、それだけで人を惑わす。
 高校生だった彼は、そうした美しさを持っていた。視線のひとつで、人を左右した。生徒も、教師も。

 天使のようだと言う人も、悪魔のようだと言う人もいた。
 別の学校から、彼に会いに来る人もいたらしい。

 みんなとおなじ、ありふれた制服を着ていても、そこに特別な人がいるということは誰にでもわかった。

「驚いてるよ」

 驚かないはずがない。思わぬ再会に。
 少年ではなくなったけれど、今も美しい彼に。

「先輩も、聞いてるんじゃないですか」

 志木くんは、何でもないことのように言う。

「俺が死んだって」

 地元で就職したからといって、高校時代の友人と連絡を取り合っているわけではない。
 それでも、志木くんがどこでどうしている、という話は入ってくる。
 東京で、忙しく働いているはずだった。

「事故だって聞きましたか。それとも、刺されたって?」

 原因までは、知らなかった。あえてたずねることもなかった。
 だって、信じられなかったのだ。

 私はあらためて、目の前の男性を見上げる。

 志木くんは背が高い。高校生の時には、それだけだった。今は、それだけではない。
 均整の取れた身体。きっと健やかで、しなやかで、力強い。
 彼も、病気とは言わなかった。

 私が首を横に振ると、志木くんは口元に手をあてて、囁いた。

「ーー呪われたんです」

 呪い。
 ナイフよりも、重たい何か。

 ひゅっと息を吸うと、星と夜空を映したような瞳がらんと光った。

「嘘ですよ」

 あはは、と明るい志木くんの笑い声が、橋の上で響く。

「ほんとに変わらないですね、先輩」

 そうだ。

 私は疑う気になれなかった。
 彼の明るい声と、表情を。

「変な壺とか、あやしい水とか、買わされてません?」

 幽霊になった後輩は、心配そうにこちらを覗き込む。
 心配するのは、私の役目だ。

「どうして、ここに来たの?」

 噂をする人には、何もたずねることはなかった。
 でも、本人が目の前にいるのだ。

 志木くんは、川の水面に目を向けた。

「もう一度、ここの景色が見たかったんです」

 遠くを見やる、美しい横顔。彼の美しさは、変わらない。もう少年の面影はないとしても。その上を、十年の月日が過ぎ去ったことがわかる。どこまでも明るかった表情に、影があるように見えるのは、空の暗さのせいだろうか。

「先輩に会えるとは、思ってませんでした」

 振り返って、また微笑む。

「でも、会えるとしたら、ここしかなかったですね」

 はじめて間近で彼を見たのは、この橋の上だった。

 季節は、秋から冬になろうとしていた。川からの風が冷たく吹きつけ、志木くんがはおった制服のシャツをはためかせていた。少年は橋のすぐ下の川面を、静かに見つめていた。

 私は彼に目をとめたけれど、それだけだった。ただ通り過ぎたのだ。
 予備校か、バイトか。時間に追われていたから。理由があろうと、彼にはめずらしいことだったのだろう。

 以来、志木くんは橋の上で、私に声をかけるようになった。

「学校では、ほとんど話せませんでしたから」

 学年も違ったし、2人とも部活には入っていなかった。委員会で関わることもなかった。
 それでも、私と彼は、先輩と後輩だった。

「ねえ、先輩」

 あの時のように、志木くんが呼びかける。

 私は人付き合いが得意ではない。部活にも入っていなかった。
 そんな私を「先輩」と呼ぶのは、志木くんくらいだ。

 だから、私は「先輩」として彼に向き合う。
 生まれてから、死にたくなるほど言われてきたことを、口にしない。
 できることがそれだけでも。

 見上げた先で、明るい瞳が微笑んでいる。
 いつだって美しいと思っていた、そこに自分の姿が映っている。

「キスさせてください」

「……え?」

 ぱちくり、自分のまばたきの音が聞こえたような気がした。

「そうしたら、成仏できるんで」

 ーー未練があるんです。

 もっと、重大な何かがあるのだと思っていた。

(そんなことで?)

 というのが、正直な気持ちだった。

 私が、ぽかんとしていたからだろう。

「いつだって、キスは一番の魔法でしょう」

 志木くんは、おとぎ話のお姫さまよりも美しく微笑んだ。

「呪いみたいなものですよ」

 甘く、苦い声がこぼれる。

「初恋なんて」

 はつこい。
 その響きは、すとんと胸に落ちてきた。

(あぁ、それはーー)

 成仏させてやらねば。

 背伸びして、唇を重ねた。
 ふっと、一瞬のこと。

「……」

「……」

(あれ?)

 変だな。

 かかとを下ろして、手を伸ばした。
 ぺたぺた、志木くんの身体をさぐる。

(触れる……)

 シャツのさらりとした感触。その向こうのぬくもりが、てのひらに伝わる。
 降ってきた小さな声は、わずかに震えていた。

「……させてくださいって、言ったんですけど。してください、じゃなくて」

「え?」

(ちがうの?)

 思わず見上げると、もう一度唇が重なっていた。

 やわらかく、少しだけ震えていた唇が、そっと離れる。

「……できそう? 成仏」

 変だなあと思いつつ、たずねた。

「……よけいに」

 志木くんは低く唸りながら、額を私の肩にあずけるようにして、小さくなる。
 そして、弱々しく呟いた。

「こじれたかも……」

 いつの間にか、夜が明けようとしている。

 暗闇が、少しずつ溶けていく。
 空に触れた端から、水面が明るい色に輝きはじめた。

 少年のような男の頬が、朝日に薄く、赤く、染まっていく。
 十年の月日。変わったもの、変わらないもの。

 朝の光は、私の頬もあたたかく染めていく。

 私たちはあの時よりも、ずっと近い距離で視線を交わした。



 新しい一日が、はじまる。
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