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Section2:赤の異端者
10:赤の異端者 - 2
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帰宅すると、薄暗い部屋からアイリッシュ・セッターのゾーイがのそのそと姿を現した。私は疲れ切った体に鞭を打って彼女の首に腕を回し、その見事な赤毛の頭と背をよしよしと撫でた。
大きな妹は尻尾を振りながら私の後ろを付いてくる。ご飯が貰えると期待しているのだろう。棚の上からドッグフードの軽い袋を下ろして餌皿にじゃらじゃらと注ぎ込むと、彼女は直ぐに食らいついた。よほどお腹が空いていたと見える。
私は、まだ左手に持っていた封筒から無人のパスを取り出した。
プルステラに旅立てば、ゾーイはどうなってしまうんだろう。この汚染されたロンドンで放つわけにもいかないし、かと言って、連れて行くにしても、これでは安楽死と変わらないじゃないか。
パスの上部を両手二つずつの指で挟み持ち、力を込めた。
そのまま縦に引き下ろせば、全ては水の泡となり、終わるだろう。
――なのに、出来なかった。
「ごめんね……ゾーイ」
ガクンと膝を崩し、食事に夢中になっているゾーイの横で、さめざめと泣いた。
そして今更、あんな学生運動をしていた理由が自分の中で明白になった。
ただ、仲間が欲しいだけなのだ。
同じ運動をする仲間じゃない。仮想世界で共に生きる仲間でもない。
この地球上で共に生き、正しい理の中で共に滅びる仲間が欲しかった。
世界で独りぼっちになるということが、とてつもなく怖かった。
オーランドはそんな私の弱さを見抜いていた。
たった一枚の紙切れで、私を狂信者共の仲間に引き込んでやろうと誘ったのだ。
断れなかった。仮想世界への移住なんて信じない、と言いながら、心のどこかではそれでいいと諦めてしまっていた。
では、ゾーイは? 彼女だって独りぼっちになる。一人が嫌だと言って逃げる私に逆らえずに見捨てられるのだ。自分が同じ目に遭いながら、同じことを家族に強要する自分を、赦せるわけがない。
頬の涙が掬い取られる。ゾーイが私の頬を嘗めていた。
「ああ、ゾーイ……」
彼女を抱くと、冷め切った私の心に温もりが伝わっていく。
生命。私が唯一、最後まで守り続けてきたもの。
――そうだ。これからもゾーイを守ってやらねば。
腕を放し、細く絞った目で左手に握られたパスを見つめた。
あの日、友人も家族も皆、同じようなパスを片手にプルステラへと旅立った。
去り際に家族はこう言っていた。
迷う気持ちは分かる。遅くなってもいいから、お前も来なさい。一緒に暮らそう、と。
私は頑なに拒んだ。理に反する行為だから。
家族はとても残念そうな顔を向けたが、あなたが決めたことなら、もう口出しはするまい、と、それ以上何か言うことはなかった。
世間は、私のような異端な抵抗を受け流す。
誰から見ても、私の言うことは正論に違いない。
だが、どんなに人道に外れた道であれ、皆が同じ方を向けば正しい道と変わる。それが世の理というものなのだ。
残り三カ月。パスを改変する手続きは直ぐに行わなくてはならない。
私は、ついに悪魔に魂を売ることに決めた。
翌日。今度はただの一般客としてアニマポートを訪れた私とゾーイは、申請所で書き換えの手続きを行った。
必要な書類に記入、とは言われたが、それ以上に説明が多く、これまで一切アニマリーヴに興味を示さなかった自分を呪いたいぐらいだ。
家族構成の欄にゾーイの名を記すと、係員が説明に入った。
「ペットをお連れですか?」
「はい。犬です」
カタカタとキーボードでデータを打ち込む係員。
「同じ日に一緒に行かれる予定、ということでいいですか?」
「はい」
「でしたら、お手数ですが、こちらのペット登録申請書にご記入をお願いします」
ベージュの薄い紙が渡された。また記入か、とうんざりする。
……いや、文句は言うまい。ゾーイの為である。
いつも励まし、慰めてくれた妹を、こんなところに置いていくことは出来ない。
ペットの名前、種類、歳、性別などを細かく記入し、提出する。
その間、二人目の係員がゾーイの体に丸いものを取り付け、必要なデータをかっさらっていった。
ゾーイは大人しく、私の顔色を伺いながら尻尾を揺らし、立ち上がったままじっと待っていた。
彼女は怖くないんだろうか。これから起きることなんて、何も解りゃしないというのに。
「大人しいワンちゃんですね。きっと、凄く賢いんでしょう」
と、係員も褒めていた。
かれこれ、もう十年程の付き合いになる。しつけを徹底したし、お互いに思いやり、愛し合ってきた。私にちゃんとしたカレシがいれば、ゾーイに妬けるんじゃないだろうか。
「ペットの申請は以上です」
様々なスキャンを終えた係員が礼儀正しく言った。
「後は、アニマリーヴ時の注意事項に付きまして何点かご説明させて頂きます」
要約すると「ペットは別室からアニマリーヴで送り出される」というものだった。
それ自体、何の不思議なこともない。人間は人間、ペットはペットということである。
ただ、今際の際に一緒にいられないということが、唯一残念なことではあった。
大きな妹は尻尾を振りながら私の後ろを付いてくる。ご飯が貰えると期待しているのだろう。棚の上からドッグフードの軽い袋を下ろして餌皿にじゃらじゃらと注ぎ込むと、彼女は直ぐに食らいついた。よほどお腹が空いていたと見える。
私は、まだ左手に持っていた封筒から無人のパスを取り出した。
プルステラに旅立てば、ゾーイはどうなってしまうんだろう。この汚染されたロンドンで放つわけにもいかないし、かと言って、連れて行くにしても、これでは安楽死と変わらないじゃないか。
パスの上部を両手二つずつの指で挟み持ち、力を込めた。
そのまま縦に引き下ろせば、全ては水の泡となり、終わるだろう。
――なのに、出来なかった。
「ごめんね……ゾーイ」
ガクンと膝を崩し、食事に夢中になっているゾーイの横で、さめざめと泣いた。
そして今更、あんな学生運動をしていた理由が自分の中で明白になった。
ただ、仲間が欲しいだけなのだ。
同じ運動をする仲間じゃない。仮想世界で共に生きる仲間でもない。
この地球上で共に生き、正しい理の中で共に滅びる仲間が欲しかった。
世界で独りぼっちになるということが、とてつもなく怖かった。
オーランドはそんな私の弱さを見抜いていた。
たった一枚の紙切れで、私を狂信者共の仲間に引き込んでやろうと誘ったのだ。
断れなかった。仮想世界への移住なんて信じない、と言いながら、心のどこかではそれでいいと諦めてしまっていた。
では、ゾーイは? 彼女だって独りぼっちになる。一人が嫌だと言って逃げる私に逆らえずに見捨てられるのだ。自分が同じ目に遭いながら、同じことを家族に強要する自分を、赦せるわけがない。
頬の涙が掬い取られる。ゾーイが私の頬を嘗めていた。
「ああ、ゾーイ……」
彼女を抱くと、冷め切った私の心に温もりが伝わっていく。
生命。私が唯一、最後まで守り続けてきたもの。
――そうだ。これからもゾーイを守ってやらねば。
腕を放し、細く絞った目で左手に握られたパスを見つめた。
あの日、友人も家族も皆、同じようなパスを片手にプルステラへと旅立った。
去り際に家族はこう言っていた。
迷う気持ちは分かる。遅くなってもいいから、お前も来なさい。一緒に暮らそう、と。
私は頑なに拒んだ。理に反する行為だから。
家族はとても残念そうな顔を向けたが、あなたが決めたことなら、もう口出しはするまい、と、それ以上何か言うことはなかった。
世間は、私のような異端な抵抗を受け流す。
誰から見ても、私の言うことは正論に違いない。
だが、どんなに人道に外れた道であれ、皆が同じ方を向けば正しい道と変わる。それが世の理というものなのだ。
残り三カ月。パスを改変する手続きは直ぐに行わなくてはならない。
私は、ついに悪魔に魂を売ることに決めた。
翌日。今度はただの一般客としてアニマポートを訪れた私とゾーイは、申請所で書き換えの手続きを行った。
必要な書類に記入、とは言われたが、それ以上に説明が多く、これまで一切アニマリーヴに興味を示さなかった自分を呪いたいぐらいだ。
家族構成の欄にゾーイの名を記すと、係員が説明に入った。
「ペットをお連れですか?」
「はい。犬です」
カタカタとキーボードでデータを打ち込む係員。
「同じ日に一緒に行かれる予定、ということでいいですか?」
「はい」
「でしたら、お手数ですが、こちらのペット登録申請書にご記入をお願いします」
ベージュの薄い紙が渡された。また記入か、とうんざりする。
……いや、文句は言うまい。ゾーイの為である。
いつも励まし、慰めてくれた妹を、こんなところに置いていくことは出来ない。
ペットの名前、種類、歳、性別などを細かく記入し、提出する。
その間、二人目の係員がゾーイの体に丸いものを取り付け、必要なデータをかっさらっていった。
ゾーイは大人しく、私の顔色を伺いながら尻尾を揺らし、立ち上がったままじっと待っていた。
彼女は怖くないんだろうか。これから起きることなんて、何も解りゃしないというのに。
「大人しいワンちゃんですね。きっと、凄く賢いんでしょう」
と、係員も褒めていた。
かれこれ、もう十年程の付き合いになる。しつけを徹底したし、お互いに思いやり、愛し合ってきた。私にちゃんとしたカレシがいれば、ゾーイに妬けるんじゃないだろうか。
「ペットの申請は以上です」
様々なスキャンを終えた係員が礼儀正しく言った。
「後は、アニマリーヴ時の注意事項に付きまして何点かご説明させて頂きます」
要約すると「ペットは別室からアニマリーヴで送り出される」というものだった。
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