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第一章
第一節 第四楽章 コンサートマスター譜
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***
「あのときのおかーさんのオムハヤシは美味しかったねぇー。あたしたちもあれ以降何度も同じ味を目指してオムハヤシ作ってたけど、全っ然おかーさんの味にならないんだよねー。」
お腹の虫を鳴らしているゆさは、あのオムハヤシの秘密を知らないらしい。
「いまだから言うけど、あれ、おかあさんが私たちのために、スロークッカーっていう調理器取り寄せて、それ使って何時間も煮込んでたんだよ?」
「なーるほど。んじゃあたしたちにゃムリだねぇ。なにしろあたしたちは作ったらすぐ食べたい派だから。」
にっしっし、とゆさは笑う。確かに私たちはこと料理に関してだけは、そんな辛抱強さというか、忍耐力は持ち合わせていない。この事実を知ったのは最近だったから、私もゆさももう作れないし食べられないんだけれど。
「……そろそろ時間かな。私、誰かに呼び出されるのあんまり好きじゃないから、行ってくるね。」
部屋の古時計を視界に掠めた私は、ゆさにそう言いながら、最低限の手荷物をポシェットにまとめ、ずっと足を伸ばしていたベッドを降りる。
「あぁ、そっか。もうお昼だもんね。ミキはいまの内に済ませといた方がいいよ。」
ゆさの言葉には寝息程度の圧しか感じられない。
「うん。」
私もこれしか返せない。……はずだった。
「ゆーさー。……なんで私が寝てたベッドのお布団に顔埋めてるの?」
私がベッドから降り立った矢先、ゆさは元々腰掛けていた椅子には浅く座り、前屈みになる体勢で上半身だけをベッドに委ねた。
「いやぁ、やっぱりミキはいい匂いするなぁーと思ってね。」
はぁ。半分本心で半分は冗談だ、ゆさのこれは。
「私の血にはサキュバスの要素が少しだけ混ざってるから、それは多分そのせいだよ。」
「それに。」と私は続ける。
「……冗談にしては声が震えすぎてる。ゆさらしくもない。」
「あはは……、ばれちゃったか。」
元気の欠片もない小さな笑いを含んだゆさの声音は、心の中で堪えていたものがいまにも湧き出してしまいそうな、そんな弱々しさだった。
「大丈夫だよ。私がこれから行くのはただの健康診断みたいなものなんだから。血液検査と、あとは血圧と脈拍を測ったり、レントゲンで全身を映したりするだけ。必ずここには戻ってくるから。」
「知ってるけど……、寂しいよ。」
私が説明してもゆさは一向にお布団から顔を離そうとしない。
「まだ最期の別れじゃないんだから、そんな顔しないで、ゆさ。」
ゆさの頭を後ろから撫でる。ゆさは昔から、髪の毛の指通りがすごく滑らかで、私としてはずっと触っていたくなる。
しばらくゆさの髪をくしゃくしゃにしていると、ようやくゆさも頭を上げた。
「……わかった。この涙はそのときまでとっとく。」
「そうしておいて。」
ゆさが突っ伏していた掛け布団には明らかに染みができている。……うーん、やっぱりか。
「私、二時間くらいで帰ってくるから、それまでにゆさが濡らしたお布団をできるだけ乾かしておいてね。」
「あぁ、それから。」と私は付け足す。
「よかったら甘いものでも用意しておいてくれると嬉しいかな。」
私の補足を聴いたゆさは、鼻を啜り、一つ嘆息を漏らす。
「はいはーい、わかったよー。まぁミキが帰ってくる時間って、ホントにちょうどおやつの時間だもんね。」
「そうそう。ゆさの手作りクッキーは甘くて美味しいもの。」
「……暗に手作りをご所望ですか。ミキ殿。」
「暗にもなにもそう伝えたつもりだけれど?」
このやりとりで、私たちの間にまた和やかな空気が戻ってきた。
「さて、それじゃあ行って来るね。」
「あたしもベッド片付けたらキッチンに行ってくるよー。ミキの頼みだし、退屈を持て余して寂しさに浸るよりも健康的な気がするしっ。」
ゆさは椅子から立ち上がり、天井に自分の掌を届かせんとばかりに大きな伸びを披露する。
古時計の隣にある部屋の扉の前に立つ私からすると、ゆさのその姿は、ほとんどストレッチをしているようにしか見えない。
これからゆさが始めることは片付けや料理などではなく、なにかしらのスポーツなのではないかとまで思えてくる。
それはさておき、部屋に同居して十五年経つこの古時計。二十歳目前になっている現在になっても、やっぱりこの大きさに慣れることはできなかった。いまの身長の私ですら、近くに寄れば、少し見上げるかつま先立ちをしないと時計盤の針の位置を知ることもできない。
残酷なトラウマと家庭の暖かさを、同時に私に刻みつけた古時計。
色々と因縁深い古時計だけれど、天井に届いている背丈や、鐘の音のボリュームに慣れないだけで、私としては、案外これ自体のことを気に入っている。
振り子の音がまるでこの時計の鼓動のようにすら感じる。学校から疲れて帰ってきたときには、部屋に入ってすぐ横にあるこの古時計の側面の木板を背もたれにして、カーペットに腰を降ろす。疲労で、「もう動けないよー」と訴える脚をそこで存分に伸ばし、時計の鼓動を背中で聴く。
振り子のリズムを身体に響かせることで、私自身の頻脈気味の心臓の鼓動を落ち着かせてあげていたことも、実はしばしばあった。
「いってきます。」
そう呟いた直後、時計の鐘の音が午後一時を知らせる。安堵したような柔らかい微笑みに合わせてゆさの口と唇は動いている。「いってらっしゃい。」と言ってくれているのだろうけれど、その声はかすかにしか聴き取れなかった。
あぁそうか、私いま古時計の真横にいるんだった。それなら仕方ない、か。
(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)
…………あれ?おかしいな。
いつもの午後一時なら、十三回その轟音を内から鳴らし続けるというのに、今日に限って六回しか響かせてくれなかった。不快ではなかったけれどいままでこんなことはなかったから、不気味とまではいかないが、少なくとも不自然には思えた。
あ、でも一時ってことは、少し急いで行かないとあの人たちに怒られそうだ。
私はまだ肌寒さが残る三月の空気にあてられないよう羽織ってきた薄手のカーディガンの襟を、片手で首元に寄せながら、玄関の扉を開け愛車に向かう。
あのとき時計の鳴った回数が、『部屋の中が完全に満たされている状態だ』と示されていたものだったなんて、このときの私は、知るどころか気に留めることもできなかった。
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「あのときのおかーさんのオムハヤシは美味しかったねぇー。あたしたちもあれ以降何度も同じ味を目指してオムハヤシ作ってたけど、全っ然おかーさんの味にならないんだよねー。」
お腹の虫を鳴らしているゆさは、あのオムハヤシの秘密を知らないらしい。
「いまだから言うけど、あれ、おかあさんが私たちのために、スロークッカーっていう調理器取り寄せて、それ使って何時間も煮込んでたんだよ?」
「なーるほど。んじゃあたしたちにゃムリだねぇ。なにしろあたしたちは作ったらすぐ食べたい派だから。」
にっしっし、とゆさは笑う。確かに私たちはこと料理に関してだけは、そんな辛抱強さというか、忍耐力は持ち合わせていない。この事実を知ったのは最近だったから、私もゆさももう作れないし食べられないんだけれど。
「……そろそろ時間かな。私、誰かに呼び出されるのあんまり好きじゃないから、行ってくるね。」
部屋の古時計を視界に掠めた私は、ゆさにそう言いながら、最低限の手荷物をポシェットにまとめ、ずっと足を伸ばしていたベッドを降りる。
「あぁ、そっか。もうお昼だもんね。ミキはいまの内に済ませといた方がいいよ。」
ゆさの言葉には寝息程度の圧しか感じられない。
「うん。」
私もこれしか返せない。……はずだった。
「ゆーさー。……なんで私が寝てたベッドのお布団に顔埋めてるの?」
私がベッドから降り立った矢先、ゆさは元々腰掛けていた椅子には浅く座り、前屈みになる体勢で上半身だけをベッドに委ねた。
「いやぁ、やっぱりミキはいい匂いするなぁーと思ってね。」
はぁ。半分本心で半分は冗談だ、ゆさのこれは。
「私の血にはサキュバスの要素が少しだけ混ざってるから、それは多分そのせいだよ。」
「それに。」と私は続ける。
「……冗談にしては声が震えすぎてる。ゆさらしくもない。」
「あはは……、ばれちゃったか。」
元気の欠片もない小さな笑いを含んだゆさの声音は、心の中で堪えていたものがいまにも湧き出してしまいそうな、そんな弱々しさだった。
「大丈夫だよ。私がこれから行くのはただの健康診断みたいなものなんだから。血液検査と、あとは血圧と脈拍を測ったり、レントゲンで全身を映したりするだけ。必ずここには戻ってくるから。」
「知ってるけど……、寂しいよ。」
私が説明してもゆさは一向にお布団から顔を離そうとしない。
「まだ最期の別れじゃないんだから、そんな顔しないで、ゆさ。」
ゆさの頭を後ろから撫でる。ゆさは昔から、髪の毛の指通りがすごく滑らかで、私としてはずっと触っていたくなる。
しばらくゆさの髪をくしゃくしゃにしていると、ようやくゆさも頭を上げた。
「……わかった。この涙はそのときまでとっとく。」
「そうしておいて。」
ゆさが突っ伏していた掛け布団には明らかに染みができている。……うーん、やっぱりか。
「私、二時間くらいで帰ってくるから、それまでにゆさが濡らしたお布団をできるだけ乾かしておいてね。」
「あぁ、それから。」と私は付け足す。
「よかったら甘いものでも用意しておいてくれると嬉しいかな。」
私の補足を聴いたゆさは、鼻を啜り、一つ嘆息を漏らす。
「はいはーい、わかったよー。まぁミキが帰ってくる時間って、ホントにちょうどおやつの時間だもんね。」
「そうそう。ゆさの手作りクッキーは甘くて美味しいもの。」
「……暗に手作りをご所望ですか。ミキ殿。」
「暗にもなにもそう伝えたつもりだけれど?」
このやりとりで、私たちの間にまた和やかな空気が戻ってきた。
「さて、それじゃあ行って来るね。」
「あたしもベッド片付けたらキッチンに行ってくるよー。ミキの頼みだし、退屈を持て余して寂しさに浸るよりも健康的な気がするしっ。」
ゆさは椅子から立ち上がり、天井に自分の掌を届かせんとばかりに大きな伸びを披露する。
古時計の隣にある部屋の扉の前に立つ私からすると、ゆさのその姿は、ほとんどストレッチをしているようにしか見えない。
これからゆさが始めることは片付けや料理などではなく、なにかしらのスポーツなのではないかとまで思えてくる。
それはさておき、部屋に同居して十五年経つこの古時計。二十歳目前になっている現在になっても、やっぱりこの大きさに慣れることはできなかった。いまの身長の私ですら、近くに寄れば、少し見上げるかつま先立ちをしないと時計盤の針の位置を知ることもできない。
残酷なトラウマと家庭の暖かさを、同時に私に刻みつけた古時計。
色々と因縁深い古時計だけれど、天井に届いている背丈や、鐘の音のボリュームに慣れないだけで、私としては、案外これ自体のことを気に入っている。
振り子の音がまるでこの時計の鼓動のようにすら感じる。学校から疲れて帰ってきたときには、部屋に入ってすぐ横にあるこの古時計の側面の木板を背もたれにして、カーペットに腰を降ろす。疲労で、「もう動けないよー」と訴える脚をそこで存分に伸ばし、時計の鼓動を背中で聴く。
振り子のリズムを身体に響かせることで、私自身の頻脈気味の心臓の鼓動を落ち着かせてあげていたことも、実はしばしばあった。
「いってきます。」
そう呟いた直後、時計の鐘の音が午後一時を知らせる。安堵したような柔らかい微笑みに合わせてゆさの口と唇は動いている。「いってらっしゃい。」と言ってくれているのだろうけれど、その声はかすかにしか聴き取れなかった。
あぁそうか、私いま古時計の真横にいるんだった。それなら仕方ない、か。
(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)
…………あれ?おかしいな。
いつもの午後一時なら、十三回その轟音を内から鳴らし続けるというのに、今日に限って六回しか響かせてくれなかった。不快ではなかったけれどいままでこんなことはなかったから、不気味とまではいかないが、少なくとも不自然には思えた。
あ、でも一時ってことは、少し急いで行かないとあの人たちに怒られそうだ。
私はまだ肌寒さが残る三月の空気にあてられないよう羽織ってきた薄手のカーディガンの襟を、片手で首元に寄せながら、玄関の扉を開け愛車に向かう。
あのとき時計の鳴った回数が、『部屋の中が完全に満たされている状態だ』と示されていたものだったなんて、このときの私は、知るどころか気に留めることもできなかった。
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