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2.雪の降る国
4
エリザの自室に、乾いた張り手の音が響いた。
「っ……」
赤くなった頬を押さえて床に倒れ込んだミレイニアを、冷たく見下ろすのは血を分けた母親であるはずのエリザであった。
「何かしら、その反抗的な目は」
美しいと評判な白い肌が熱に染まる様に心を痛める素振りも見せず、エリザはミレイニアの金糸の髪を乱暴に掴み上げた。
鋭く刺すような痛みに表情を歪めながらも、ミレイニアは恨み言一つ言わずに頭を下げる。
「申し訳ありません、お母様」
「私に謝ったところで貴方があの女に負けたという事実は覆らないのよ」
エリザの手が離れ、ミレイニアの金糸の髪が深紅の絨毯の上に波を打った。頭を押さえてその場に座り込むミレイニアに目もくれず、エリザは苛立ちを隠すことなく室内を慌ただしく歩き回る。
「ああもう……これじゃあの女の勝ち逃げじゃない。いくら貴方が今まで優秀だったとしても、最後に負けてしまえば周りはその印象の方が強く残ってしまう……。本当になぜ貴方はあの女と勝負なんてしてしまったの! 勝てない勝負は挑むなと昔から言っていたじゃない!」
正妃とは思えない鬼気迫る雰囲気と足音に、直視が出来ずミレイニアは頬を押さえながら俯いた。
ミレイニアはリーゼロッテへの敗北に後悔などはしていなかった。エリザの足音に耳を傾け、床を叩きつける靴音が響く度に怒りの度合いを思い知らされ、自分の中にある感情との落差を目の当たりにする。
エリザは、ミレイニアの胸に秘められていた妹としての想いを知らない。厳重に鍵を掛け、決して母親には悟られぬようにしていた幼き想いは、簡単には消えてくれない。
そして、ミレイニアはエリザの胸を占める感情の名を知っていた。
それはリーゼロッテへの底知れぬ憎悪であり、同時にリーゼロッテに敗北した自分自身に対する怒りと落胆であることは容易に想像できる。
「勝負を見ていた娘たちは大勢いるようだし、これでは口止めも大した意味を持たないわ……」
エリザの眉間に刻まれた皺は深い。リーゼロッテを貶めるために長い間ミレイニアが勝利し続けてきたことも、たった一度の敗北によって台無しとなってしまった。
実際、勝負はつい先程行われたものであるというのに、ミレイニアが敗北したという話は瞬く間に城中に広まってしまった。
社交界に話題が上がるのも時間の問題だろう。その上、既にリーゼロッテはアカネースにいないため注目は全てミレイニアに注がれる。
「本当にあの女は最後まで私の足を引っ張るというの……!」
刺々しい母の声を耳に、ミレイニアは大きく肩を落とす。エリザにとってミレイニア自身はエリザの地位を固めるための駒でしかないと知る度に、胸が締め付けられるのだ。
「それでも、お姉様はもうこの国から出ていきます。……もう、お母様が恐れるような事態には」
「……本気で言っているの?」
若き日のエリザよりも美しく育った娘に、自分の娘に向けるとは思えない声で振り返る。
「元はといえば貴方があの女に負けたからこんなことになってしまったの。必ず勝てる勝負しか挑むなと昔から言ったでしょう」
「必ず勝てる勝負なんて……」
そんなものはあるはずがないと言い掛けたミレイニアの前に、エリザが立ち塞がった。まるで薄汚い孤児でも見るような母の視線に耐えきれず、ミレイニアは唇を噛み俯いた。
「何を言っているの。貴方が今まで競った勝負の全てがそうだったでしょう?」
「それはどういうことですか……?」
「楽器や裁縫のように見た人間の感性で優劣が付くもので、この私の娘である貴方が負けることはないということよ。……チェスだって今まではあの女がわざと貴方に勝たないようにしていたのでしょう。妙なプライドを優先させて貴方を負かしたところであの女には不利益しかないわ」
エリザの言葉は、ミレイニア自身も心のどこかでは理解していたことだった。
しかし、それを母親の口から聞かされてしまえば理解とは別で頭を思いきり殴られるような衝撃を受ける。
何も言えないミレイニアを気遣うことなく、エリザは刺々しく言葉を続けた。
「自分が勝たせてもらっていることなんてとっくに知っていたと思っていたのに。随分と頭の回らない娘だったようね。がっかりだわ」
リーゼロッテに劣っていることなど、ミレイニア自身言われるまでもなくよくわかっていた。それでも、努力はしてきたつもりだ。
顔だけの姫だと陰口を叩かれたこともある。周囲を見返したくて、料理も刺繍も躍りも練習した。
周りから称賛の言葉が聞こえるようになったのは、決してお世辞だけではなかっただろう。お世辞を使う必要のないエリザにも誉められることはあったのだから。
ミレイニアは血が滲むほどにきつく唇を噛んだ。
どれ程の努力を重ねたところで、ミレイニアはただの一度もリーゼロッテよりも自分の方が優秀であると感じることはなかった。周囲に認められたい一心で披露するための才能として努力を重ねたミレイニアと、決して人前には晒さぬいざというときの牙として技術を磨き続けたリーゼロッテでは志から必死さが異なっている。
涙を流さなかったのは、ミレイニアの意地だ。
「下がりなさい。しばらくは敗北を惨めに思いながら過ごすことね」
「っ……」
赤くなった頬を押さえて床に倒れ込んだミレイニアを、冷たく見下ろすのは血を分けた母親であるはずのエリザであった。
「何かしら、その反抗的な目は」
美しいと評判な白い肌が熱に染まる様に心を痛める素振りも見せず、エリザはミレイニアの金糸の髪を乱暴に掴み上げた。
鋭く刺すような痛みに表情を歪めながらも、ミレイニアは恨み言一つ言わずに頭を下げる。
「申し訳ありません、お母様」
「私に謝ったところで貴方があの女に負けたという事実は覆らないのよ」
エリザの手が離れ、ミレイニアの金糸の髪が深紅の絨毯の上に波を打った。頭を押さえてその場に座り込むミレイニアに目もくれず、エリザは苛立ちを隠すことなく室内を慌ただしく歩き回る。
「ああもう……これじゃあの女の勝ち逃げじゃない。いくら貴方が今まで優秀だったとしても、最後に負けてしまえば周りはその印象の方が強く残ってしまう……。本当になぜ貴方はあの女と勝負なんてしてしまったの! 勝てない勝負は挑むなと昔から言っていたじゃない!」
正妃とは思えない鬼気迫る雰囲気と足音に、直視が出来ずミレイニアは頬を押さえながら俯いた。
ミレイニアはリーゼロッテへの敗北に後悔などはしていなかった。エリザの足音に耳を傾け、床を叩きつける靴音が響く度に怒りの度合いを思い知らされ、自分の中にある感情との落差を目の当たりにする。
エリザは、ミレイニアの胸に秘められていた妹としての想いを知らない。厳重に鍵を掛け、決して母親には悟られぬようにしていた幼き想いは、簡単には消えてくれない。
そして、ミレイニアはエリザの胸を占める感情の名を知っていた。
それはリーゼロッテへの底知れぬ憎悪であり、同時にリーゼロッテに敗北した自分自身に対する怒りと落胆であることは容易に想像できる。
「勝負を見ていた娘たちは大勢いるようだし、これでは口止めも大した意味を持たないわ……」
エリザの眉間に刻まれた皺は深い。リーゼロッテを貶めるために長い間ミレイニアが勝利し続けてきたことも、たった一度の敗北によって台無しとなってしまった。
実際、勝負はつい先程行われたものであるというのに、ミレイニアが敗北したという話は瞬く間に城中に広まってしまった。
社交界に話題が上がるのも時間の問題だろう。その上、既にリーゼロッテはアカネースにいないため注目は全てミレイニアに注がれる。
「本当にあの女は最後まで私の足を引っ張るというの……!」
刺々しい母の声を耳に、ミレイニアは大きく肩を落とす。エリザにとってミレイニア自身はエリザの地位を固めるための駒でしかないと知る度に、胸が締め付けられるのだ。
「それでも、お姉様はもうこの国から出ていきます。……もう、お母様が恐れるような事態には」
「……本気で言っているの?」
若き日のエリザよりも美しく育った娘に、自分の娘に向けるとは思えない声で振り返る。
「元はといえば貴方があの女に負けたからこんなことになってしまったの。必ず勝てる勝負しか挑むなと昔から言ったでしょう」
「必ず勝てる勝負なんて……」
そんなものはあるはずがないと言い掛けたミレイニアの前に、エリザが立ち塞がった。まるで薄汚い孤児でも見るような母の視線に耐えきれず、ミレイニアは唇を噛み俯いた。
「何を言っているの。貴方が今まで競った勝負の全てがそうだったでしょう?」
「それはどういうことですか……?」
「楽器や裁縫のように見た人間の感性で優劣が付くもので、この私の娘である貴方が負けることはないということよ。……チェスだって今まではあの女がわざと貴方に勝たないようにしていたのでしょう。妙なプライドを優先させて貴方を負かしたところであの女には不利益しかないわ」
エリザの言葉は、ミレイニア自身も心のどこかでは理解していたことだった。
しかし、それを母親の口から聞かされてしまえば理解とは別で頭を思いきり殴られるような衝撃を受ける。
何も言えないミレイニアを気遣うことなく、エリザは刺々しく言葉を続けた。
「自分が勝たせてもらっていることなんてとっくに知っていたと思っていたのに。随分と頭の回らない娘だったようね。がっかりだわ」
リーゼロッテに劣っていることなど、ミレイニア自身言われるまでもなくよくわかっていた。それでも、努力はしてきたつもりだ。
顔だけの姫だと陰口を叩かれたこともある。周囲を見返したくて、料理も刺繍も躍りも練習した。
周りから称賛の言葉が聞こえるようになったのは、決してお世辞だけではなかっただろう。お世辞を使う必要のないエリザにも誉められることはあったのだから。
ミレイニアは血が滲むほどにきつく唇を噛んだ。
どれ程の努力を重ねたところで、ミレイニアはただの一度もリーゼロッテよりも自分の方が優秀であると感じることはなかった。周囲に認められたい一心で披露するための才能として努力を重ねたミレイニアと、決して人前には晒さぬいざというときの牙として技術を磨き続けたリーゼロッテでは志から必死さが異なっている。
涙を流さなかったのは、ミレイニアの意地だ。
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