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2.雪の降る国
18
腹に思いきりリーゼロッテの体重が掛かり、少年はくぐもった声を漏らしてリーゼロッテの手を離した。
「うぐっ」
派手な音が室内に響く。廊下にいるはずの警備兵達の耳にも、この音は届いているだろう。
「くそ! 大人しくしていろ!」
青年は慌てて床に転がるリーゼロッテの腕を掴まえようと手を伸ばした。しかし、間一髪でリーゼロッテは身を翻し、その手から逃れる。
一国の姫なのだから、護身術として何かしらの武術を学んでいてもおかしくはない。青年はそのことについては欠片も考えてはおらず、思わぬ反撃に戸惑いながらなんとかリーゼロッテの動きを封じようとした。
身を起こしたリーゼロッテは迷わずに備え付けられた窓へと駆け出した。進路を邪魔する丸テーブルを押し退け、ティーカップが割れるのも構わずに窓へと手を伸ばす。
「逃がすか!」
青年は駆け出した。鍵を開けようとするリーゼロッテの背中へと手を伸ばし、逃亡を阻止しようとする。
小さな施錠音と共に、窓が開いた。開け放たれた窓の先には、街の明かりと暗い空が広がっていた。
「この……」
青年の手がリーゼロッテの腕を掴もうとした瞬間、振り向いたリーゼロッテは青年の手を避けるとバランスを崩した彼の体に体当たりをする。手を伸ばした不安定な体に、横から思いきりぶつかられたことで青年はその場に転んでしまった。
しかし青年も一人の騎士として長年城に仕えているのだ。女を相手にして、簡単に転がされているわけにはいかない。
すぐに体勢を立て直すと、今度は扉へと駆け出すリーゼロッテの姿を捉えた。
「ちっ。そっちに逃げたって無駄だって言っただろ!」
外からは足音が聞こえ始めた。警備兵が集まってきたのだろう。
彼らを丸め込むのは容易だ。外に逃げるのならば青年の勝ちだ。
「何事ですか! お客様、開けてください!」
荒々しく扉を叩く音と、ドアノブを回す音が廊下からの声と共に響く。
扉の前で鍵を開けようとするリーゼロッテを止めようと、青年は彼女の肩を掴み扉から引き剥がした。しかし、それは間に合わず鍵の開いた扉は外側から警備兵によって勢い良く開かれる。
「お客様、ご無事ですか!」
警備兵は乱れた部屋とリーゼロッテの格好に目をやり、そして二人の騎士の姿を察すると何が行われていたかをそれとなく察した。
青年は僅かに口元に弧を描く。警備兵の安堵した表情から、説得可能な相手だと確信したからだ。
「すみませんが……」
「先ほど、見知らぬ男が窓からこの部屋に侵入し、私を襲おうとしました」
青年の声を遮り、リーゼロッテは警備兵と青年の間に立つ。開いた胸元を片手で隠しながら、反対の手で開け放たれた窓を開く。
「偶々部屋にいてくれた二人が応戦をしてくれましたが、その不審な男は窓から逃げていきました……。この宿は国内でも最高峰の安全性を誇っているというのは、本当でしょうか? 責任者と話をさせてください」
青年はリーゼロッテの口を塞ごうとしたが、責任者という言葉が出てきてしまい動き掛けた手が止まる。
警備兵を丸め込むのは簡単だ。しかし、店の主人はそうではない。
国内で最も安全であることを売り文句としている宿なのだ。些細な争いであっても、屋根の下で行われることを許さない。
「は、はい! 今すぐに呼んで参ります!」
「急いでください。こちらは怪我をさせられた者がいるのです」
「ま、待て! 彼女の言葉は嘘だ」
青年は警備兵を引き止めた。警備兵は青年とリーゼロッテの顔を見比べ、判断に迷いながらも足を進めようとする。
このままでは店主を呼ばれてしまう。青年は懐に手を入れて、すぐにでも渡せる金を掴む。早々に警備の男を買収し、リーゼロッテを室内に戻さなければさらに人が集まってしまう。
「貴方が行かないのでしたら、私が一人で店主に話を付けに行きます。この宿の警備を見直した方がいいと進言させていただきますから」
歩き出したリーゼロッテの肩を警備兵が慌てて掴んだ。
「お、お待ちください。すぐ、すぐに主を呼んで参りますので、窓を閉め鍵を掛け、部屋でお待ちください」
男を振り返り、リーゼロッテは黙って彼の瞳を見つめる。もしこのまま主人を呼びに行かなければ、自分の立場が危うくなる。彼女の瞳には、それだけの威圧感があった。
「すみませんが、店主が来る前に着替えておきたいので彼を連れて部屋を出ていって頂けますか?」
青年を振り返るリーゼロッテは、先ほどの出来事などなかったように微笑んだ。騎士達はリーゼロッテを守るために奮闘したという嘘を貫き通す微笑みだった。
吐き捨てるように舌打ちをし、青年は倒れたままの少年を抱え起こすとそのままリーゼロッテの部屋を出ていった。これ以上、青年に出来ることはない。店主を敵に回してしまえば、この宿にいる間は彼女に手出しできないだろう。
背後で扉が閉まり、内側から鍵が掛けられる。
そもそも、この街に来るまでリーゼロッテに手を出せなかったのもジョルジュが彼女の側を離れなかったためだった。
本来なら賊の出没が噂されている道を通り、道中で賊を装ってリーゼロッテを汚すつもりであったのに、その企みもジョルジュのせいで実行に移すことも叶わなかった。このまま城に戻れば、依頼主によって処罰を受けるだろうか。それとも、表面化されることを恐れて何も接触なしとなるか。それは青年にもわからない。
男たちが出ていった部屋の中で乱れた衣服を着替えると、リーゼロッテは足音を立てずに開け放たれたままの窓際へと足を進めた。
眼下に広がる街の景色を目に焼き付け、目蓋を落として暗い世界に身を委ねると、唇にそっと言葉を乗せる。
「……貴方のお眼鏡にはかないましたか?」
彼女の言葉は夜に溶けた。
しかし、リーゼロッテは構うことなく言葉を続ける。
「護身術は昔から私の従者が徹底的に叩き込んでくれましてね。相手を倒すためのものではなくて、自分の身を守ったり、時間を稼いだりするためだけのものなので、あまり頼りにはなりませんが」
しばらくの沈黙の後、屋根の上で夜が動いた。
「怒らせてしまいましたか? すみませんね、私も将来仕える相手になる人がどのような方か知りたくなってしまいまして」
人の気配を感じながらも、リーゼロッテは目を開けることはしなかった。しかし、声だけで屋根の上に控えていた人物が誰かすぐにわかる。
言葉の中に笑みを含んだ軽やかな声は、道中で彼女が最も近くにいた声。
「……それで、ジョルジュ。満足出来ましたか?」
「えぇ、安心しました」
あぁでも、とジョルジュは続ける。
「護身術は合格には少し足りないですね。リーゼロッテ様がお望みでしたら私の方でご指導させていただきますよ」
「是非お願いします」
リーゼロッテがくすくすと笑えば、ジョルジュもふっと笑みを溢した。
「……貴方の事を試すような真似をして申し訳ございませんでした。二度とこのような無礼は働きません」
屋根の上の気配が消えて、リーゼロッテは目を開いた。
曇り空の隙間から覗く星空に月が見える。この調子ならば、明日もきっと晴れるのだろう。
「レオナルド様……」
ようやく明日、リーゼロッテはレオナルドの妻となる。明日からは、新しい日々が始まる。
不安の種は足元に数えきれないほどに撒き散らされている。しかし、リーゼロッテはその中で咲いていくことを決めた一輪の薔薇だ。枯れることは許されなかった。
「うぐっ」
派手な音が室内に響く。廊下にいるはずの警備兵達の耳にも、この音は届いているだろう。
「くそ! 大人しくしていろ!」
青年は慌てて床に転がるリーゼロッテの腕を掴まえようと手を伸ばした。しかし、間一髪でリーゼロッテは身を翻し、その手から逃れる。
一国の姫なのだから、護身術として何かしらの武術を学んでいてもおかしくはない。青年はそのことについては欠片も考えてはおらず、思わぬ反撃に戸惑いながらなんとかリーゼロッテの動きを封じようとした。
身を起こしたリーゼロッテは迷わずに備え付けられた窓へと駆け出した。進路を邪魔する丸テーブルを押し退け、ティーカップが割れるのも構わずに窓へと手を伸ばす。
「逃がすか!」
青年は駆け出した。鍵を開けようとするリーゼロッテの背中へと手を伸ばし、逃亡を阻止しようとする。
小さな施錠音と共に、窓が開いた。開け放たれた窓の先には、街の明かりと暗い空が広がっていた。
「この……」
青年の手がリーゼロッテの腕を掴もうとした瞬間、振り向いたリーゼロッテは青年の手を避けるとバランスを崩した彼の体に体当たりをする。手を伸ばした不安定な体に、横から思いきりぶつかられたことで青年はその場に転んでしまった。
しかし青年も一人の騎士として長年城に仕えているのだ。女を相手にして、簡単に転がされているわけにはいかない。
すぐに体勢を立て直すと、今度は扉へと駆け出すリーゼロッテの姿を捉えた。
「ちっ。そっちに逃げたって無駄だって言っただろ!」
外からは足音が聞こえ始めた。警備兵が集まってきたのだろう。
彼らを丸め込むのは容易だ。外に逃げるのならば青年の勝ちだ。
「何事ですか! お客様、開けてください!」
荒々しく扉を叩く音と、ドアノブを回す音が廊下からの声と共に響く。
扉の前で鍵を開けようとするリーゼロッテを止めようと、青年は彼女の肩を掴み扉から引き剥がした。しかし、それは間に合わず鍵の開いた扉は外側から警備兵によって勢い良く開かれる。
「お客様、ご無事ですか!」
警備兵は乱れた部屋とリーゼロッテの格好に目をやり、そして二人の騎士の姿を察すると何が行われていたかをそれとなく察した。
青年は僅かに口元に弧を描く。警備兵の安堵した表情から、説得可能な相手だと確信したからだ。
「すみませんが……」
「先ほど、見知らぬ男が窓からこの部屋に侵入し、私を襲おうとしました」
青年の声を遮り、リーゼロッテは警備兵と青年の間に立つ。開いた胸元を片手で隠しながら、反対の手で開け放たれた窓を開く。
「偶々部屋にいてくれた二人が応戦をしてくれましたが、その不審な男は窓から逃げていきました……。この宿は国内でも最高峰の安全性を誇っているというのは、本当でしょうか? 責任者と話をさせてください」
青年はリーゼロッテの口を塞ごうとしたが、責任者という言葉が出てきてしまい動き掛けた手が止まる。
警備兵を丸め込むのは簡単だ。しかし、店の主人はそうではない。
国内で最も安全であることを売り文句としている宿なのだ。些細な争いであっても、屋根の下で行われることを許さない。
「は、はい! 今すぐに呼んで参ります!」
「急いでください。こちらは怪我をさせられた者がいるのです」
「ま、待て! 彼女の言葉は嘘だ」
青年は警備兵を引き止めた。警備兵は青年とリーゼロッテの顔を見比べ、判断に迷いながらも足を進めようとする。
このままでは店主を呼ばれてしまう。青年は懐に手を入れて、すぐにでも渡せる金を掴む。早々に警備の男を買収し、リーゼロッテを室内に戻さなければさらに人が集まってしまう。
「貴方が行かないのでしたら、私が一人で店主に話を付けに行きます。この宿の警備を見直した方がいいと進言させていただきますから」
歩き出したリーゼロッテの肩を警備兵が慌てて掴んだ。
「お、お待ちください。すぐ、すぐに主を呼んで参りますので、窓を閉め鍵を掛け、部屋でお待ちください」
男を振り返り、リーゼロッテは黙って彼の瞳を見つめる。もしこのまま主人を呼びに行かなければ、自分の立場が危うくなる。彼女の瞳には、それだけの威圧感があった。
「すみませんが、店主が来る前に着替えておきたいので彼を連れて部屋を出ていって頂けますか?」
青年を振り返るリーゼロッテは、先ほどの出来事などなかったように微笑んだ。騎士達はリーゼロッテを守るために奮闘したという嘘を貫き通す微笑みだった。
吐き捨てるように舌打ちをし、青年は倒れたままの少年を抱え起こすとそのままリーゼロッテの部屋を出ていった。これ以上、青年に出来ることはない。店主を敵に回してしまえば、この宿にいる間は彼女に手出しできないだろう。
背後で扉が閉まり、内側から鍵が掛けられる。
そもそも、この街に来るまでリーゼロッテに手を出せなかったのもジョルジュが彼女の側を離れなかったためだった。
本来なら賊の出没が噂されている道を通り、道中で賊を装ってリーゼロッテを汚すつもりであったのに、その企みもジョルジュのせいで実行に移すことも叶わなかった。このまま城に戻れば、依頼主によって処罰を受けるだろうか。それとも、表面化されることを恐れて何も接触なしとなるか。それは青年にもわからない。
男たちが出ていった部屋の中で乱れた衣服を着替えると、リーゼロッテは足音を立てずに開け放たれたままの窓際へと足を進めた。
眼下に広がる街の景色を目に焼き付け、目蓋を落として暗い世界に身を委ねると、唇にそっと言葉を乗せる。
「……貴方のお眼鏡にはかないましたか?」
彼女の言葉は夜に溶けた。
しかし、リーゼロッテは構うことなく言葉を続ける。
「護身術は昔から私の従者が徹底的に叩き込んでくれましてね。相手を倒すためのものではなくて、自分の身を守ったり、時間を稼いだりするためだけのものなので、あまり頼りにはなりませんが」
しばらくの沈黙の後、屋根の上で夜が動いた。
「怒らせてしまいましたか? すみませんね、私も将来仕える相手になる人がどのような方か知りたくなってしまいまして」
人の気配を感じながらも、リーゼロッテは目を開けることはしなかった。しかし、声だけで屋根の上に控えていた人物が誰かすぐにわかる。
言葉の中に笑みを含んだ軽やかな声は、道中で彼女が最も近くにいた声。
「……それで、ジョルジュ。満足出来ましたか?」
「えぇ、安心しました」
あぁでも、とジョルジュは続ける。
「護身術は合格には少し足りないですね。リーゼロッテ様がお望みでしたら私の方でご指導させていただきますよ」
「是非お願いします」
リーゼロッテがくすくすと笑えば、ジョルジュもふっと笑みを溢した。
「……貴方の事を試すような真似をして申し訳ございませんでした。二度とこのような無礼は働きません」
屋根の上の気配が消えて、リーゼロッテは目を開いた。
曇り空の隙間から覗く星空に月が見える。この調子ならば、明日もきっと晴れるのだろう。
「レオナルド様……」
ようやく明日、リーゼロッテはレオナルドの妻となる。明日からは、新しい日々が始まる。
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