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批評会報告『バイバイ、エンジェル』
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批評会報告『バイバイ、エンジェル』
自分のやった批評会の中で最も気合の入った批評会だったと思う。僕自身かなり好きな作品で語る部分も多かったので資料作製が楽しかった。本作品は矢吹駆シリーズの一作目でもあり、この批評会が二作目以降の足掛かりになってくれれば幸いだと思っている。やはり名作中の名作だけあって批評会の受けも悪くなかったように思う。やはり王道の作品で批評会をやるのが一番だと確信するばかりだ。二年の終わり間際にして漸く自分の批評会方向性が見定まった感はある。
本作は自分のミステリー観に大きな影響を与えた一冊で、是非とも批評会をやろうと考えていた一冊だ。といっても特にそんなに体系的なミステー観を持っている訳ではないが。やはりそういったある種の思想を持つことは行動の指針に成り得るが、臆断を生むものとなる。〈善く生きる〉だなんて欺瞞的な言葉は嫌いだが、思想を主張するその外側からある程度自身を客観できるくらいのドライさが大切なんだと思う。
さてそんな僕にとっての面白いというか、積極的に触れたいと感じるのは、自身の作った謎をどこまで堀り下げられるかに挑戦的な作品だろう。ある種ミステリーとマジックには似たところがあるように感じる。分かってしまえば嗤ってしまうようなネタを過多な装飾で塗り固めて奇術として見立てる。マジシャンはあらゆる手を尽くして現実を夢に見せようとする。ある種夢想的なジャンルだと言える。ミステリーが幻想小説の派生と言うのはこういうところからも感じられる。
では謎を掘り下げるとは何だろう。僕が敬愛する森博嗣の初期作品では謎を科学的に解析する手段をとった。これがまず僕のミステリー観を培った。それまでの推理小説に対するイメージは直観的な推理によって脆弱に成り立つ欺瞞的なものだった。しかし仮説を立てて実験的に吟味するという森博嗣初期の手法はある種親近感を感じさせるものであり、漸く作中の謎を初めて真に不可解なものと感じられるようになったと思う。勿論仮説を出し切らなければ謎の真の解明に至らないことも当然だ。その部分を埋めることが出来なかった彼は、失敗作の仮説と正しい仮説との間に人間の感情、観念論を挿入する。仮説が間違っているのは、表層的に現れ出ない人間の感情を代入できていないからだ、と。今読み返すとそれ自体もやや逃げているように感じられるのだが、それでも推理を物質→観念にシフトする手法は独特かつ本当に面白いものだと思うし、この切り替えが謎の掘り下げでもあると思う。要は、物質的側面での徹底的な吟味の限界までの挑戦と、そこから転回して観念論への移行が好きなのだ。謎を精神的、形而上的な段階まで踏み込もうとすること、これが謎の掘り下げだと僕には感じられるのだ。勿論、謎の掘り下げが一義的にこれと決定されるものでないのも分かっている。例えばクイーンの様に不可解な現象を論理だけを武器に解き明かすスタイルなども謎を徹底的に考察する意味では僕の好きな範疇だ。(ちなみにこの段落で書いたことは大体他の会誌の流用。許せ。)
そして『バイバイ、エンジェル』によって僕のミステリー観は大きく転回した。と言うのも探偵役の矢吹駆の事件に対する試みが徹頭徹尾形而上な観点から為されているところが余りにも衝撃的だった。現象学的還元による本質直観を行い首切りの本質を『犯罪の意志の隠匿』だと見抜く。余りにも斬新だった。批評会内でも挙げたように本作での現象学はあくまで推理法のガジェットであり、厳密な現象学の定義とは異なるところがある。しかし、形而上で推理を完結させようとする試み自体が面白い。そして現象学的還元による本質直観を最後に必殺技的に持ってくるために、ナディアや警察にそれぞれ推理をさせるところが良い。それぞれのキャラクターの目線から、その個性が出ている推理を提出するところに謎の多面性、多層性を感じられて良い。会員の皆様にもここら辺についてはある程度同意を得られたように思う。
次に論理の不完全性について。本作では事件の手がかりと言うものが現象の持つ多層性、多義性から一義に決定出来ないことに自覚的なセリフが多い。しかし本作ではそれ自体に何か措置をするというよりは、先ほども述べたような必殺技的な感覚で本質直観を行い一意的な解決を付けている。(ある種上位メタレベルからの介入に近い)シリーズの内、天使、黙示、薔薇は論理の不完全性に同様の手法で解決をさせている。『哲学者の密室』以降から手段の地点から論理を突き詰めようとする方向性になっている。しかし作者がデビュー作の本作の時点で論理の問題を提起的なのはやはりミステリーの欺瞞的で脆弱的な部分が魅力でもあることを無意識に知覚していたのに他ならないだろう。論理という概念への思索が本作の段階ではまだ煮詰まり切っていなかったのだろう。だが作者の論理への飽くなき追究はここから始まっている。是非とも皆さんには本作以降の作者の飛翔をその眼で確認してもらいたい。
そして次が最も今回の批評会でやりたかった内容の大量死理論だ。
内容としては、以下のようなものだ。
人類がはじめて体験した大量殺戮戦争である第一次世界大戦と、その結果として生じた膨大な屍体の山が、ポオによるミステリ詩学の極端化をもたらしたのである。戦場の現代的な大量死の体験は、もはや過去のものかもしれない尊厳ある、固有の人間の死を、フィクションとして復権させるように強いた。
機関銃や毒ガスで大量殺戮され、血みどろの肉屑と化した塹壕の死者に比較して、本格ミステリの死者は、二重の光輪に飾られた選ばれた死者である。犯人による、巧緻をきわめた犯行計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪。第一次大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗したからではないか。
(『大量死と探偵小説』より引用)
ここで『哲学者の密室』の解説における笠井潔論に着目したい。(以下、要約)
笠井潔は『物語とウロボロス』において、中井英夫論を展開している。ここら辺から、笠井は重要な転回を迎えている。『虚無への供物』に登場する犯人の観念倒錯的な動機の背景に洞爺丸の海難事故(無意味な大量死)が置かれていることに注視した。そしてこれが大量死を『本格形式』のままあつかった『哲学者の密室』が生まれるきっかけとなるのだ。
その後、笠井は、本格探偵小説ジャンルが確定された時期を英米の黄金期(ドロシー、クイーン、クリスティ、ヴァン・ダイン)に置いて、その理由を第一次世界大戦の大量死から見出している。
『哲学者の密室』では、『密室』というものが持つ本質を解き明かそうとする。
駆は密室殺人という現象の本質を『特権的な死の封じ込め』と語る。
つまり、施錠された個室と近代的自我が相即したものであることを言及している。密室に於ける死は事故死であれ、他殺であれ、自殺と関連付けられる。自殺の近代的な意味―近代的な主体が死を自身に固有な所有物として扱うことで、自分が死ぬという不可能性を隠蔽することが出来る。これが密室の本質だと言及する。(分かりやすく言うならば自分の死を唯一無二のものとしようとする意志こそが密室を作る意味と言ったところだろうか。)
これはハイデガーの死の哲学に基づいたもので、中盤以降のハイデガー批判を経て、駆は密室殺人という現象の本質を『特権的な死の“夢想”の封じ込め』と考えを改める。
つまり駆は死を固有な所有物という近代的な姿勢を“夢想”という二文字で断ち切っているのだ。
特別の死など夢想でしかない、つまり『特権的な死』を生み続けた黄金期批判的側面を『哲学者の密室』は持っているのだ。
この笠井潔論は非常に興味深い内容で、これによれば大量死理論を打ち立てておきながら、『特権的な死』の虚構性を直近の作品で批判しているのだ。
この行為故に僕は、そもそもミステリーにおける死は『特権的な死』なのかが分からなくなってしまった。むしろミステリーにおける死は、大量のキャラクターの中から無作為に抽出された物語のために消えていった無個性な死、つまり大量死なのではないか?と考えた。
少し話がズレてしまう感が否めないが、僕は推理小説読了後、時間が経ってしまうとほとんどの被害者を上手く思い出せない。探偵の推理や犯人のトリックや動機は思い出せても、被害者は脇役たちと同じような没個性と認識してしまうのだ。果たしてこのような存在が、『特権的な死』を迎えた存在だといいのだろうか?
これはもちろん個人的な話であって、万人に総意を得られる意見だとは思わない。そこで僕が出した議論は次のようなものだ。
議題. ミステリーで出てきた被害者を覚えているか?
また、ミステリーで出てくる死は『特権的な死』なのか?
この大量死論に脆弱性があるのではないかとは思う。
まず、大量死理論に倣って言うならば、60年代に台頭した社会派推理小説の流行後に、大戦などない時期にほぼ消えかけていた新本格ブームが訪れたのは一体何故なのだろうか?このように、大量死理論は矛盾を孕んだ部分がある。では、一体どこに矛盾が存在するのだろうか?
僕は本作『バイバイ、エンジェル』の読了後に気が付いた。そもそも本格ミステリーの死体は、二つの光輪に飾られた死者なのだろうか?というものだ。
ここで、『それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪』という箇所を思い出してほしい。後期クイーン問題は論理の不完全さを指摘する。完全無欠の精緻極まりない推理を組み立てるのは不可能なのだ。それ故に、第二の光輪は光を失ってしまう。ミステリー内の死体はすでに腐敗しきった蛋白質の塊に過ぎないのではないだろうか。大量死理論は後期クイーン問題によって完全な理論たり得なくなったのではないだろうか?
それ以外に僕は『バイバイ、エンジェル』にも、笠井潔の大量死理論にたいする無意識的な懐疑を見出している。思想対決部分で、探偵自身が探偵と犯人を貶めるところだ。最上位にいるべき探偵と犯人を、豚以下、虫けら以下だというのだ。これもまた、犯人が行った観念の殺人による首を切られた死体の無価値さを、如何にそれが『大量死』の中に埋もれた屍に過ぎないことを指し示しているのではないだろうか?
さてここまでが僕の考えで、ここの議論は結構盛り上がったように思う。特にかなり面白い意見が出た。
それは推理小説が死体に二重の光輪を授けるだけでなく、犯人にも光輪を授けるという意味を持つという観点だ。
大量死理論では〈匿名の山積みの戦死体〉↔〈あらゆる技巧を尽くして殺された死体〉という二項を比較しているが、更に〈匿名の戦士〉↔〈あらゆる技巧を尽くして殺す犯人〉という二項も同時に成立しているのではないか?国家と言う巨大な組織の傀儡として銃を握りしめていた戦士に特権性を与える行為自体が推理小説なのではないか。
推理小説の展開として多いのが〈悪人として裁かれる被害者〉↔〈正義の執行を為す犯人〉の関係だ。推理小説読後に犯人や探偵、トリックや事件状況は強く印象に残るが、被害者の名前は記憶に残らない。この感覚を僕はずっともっていて、今回の批評会で他の会員にも聞いてみた所同様の意見を持っている方が多く僕は確信を持てた。ある種推理小説というのは権威に対する反逆行為であり、特権性の蘇生を道徳心の反対のところから試みているのではないか。
そうなると本作の犯人の過去の描写が丁寧で、探偵がそれを執着的なレベルで否定して見せるのも当然の行為なのだと分かる。
そして犯人へ特権性を与える部分が推理小説における文学性を生んでいるのではないか。殺人と言う社会契機を自ら破る行為を厭わず、探偵と言う光と犯人という闇が干渉縞の様に羅列されることこそが〈探偵というヒーロー〉と〈犯人というダークヒーロー〉という二重の物語が完成させるのだ。人間が描けていないと言われがちな推理小説だが、こういった側面を鑑みれば十分に人間は描けられてきているし、描かれているのではないか。
そして最後に本作の肝とも言うべき思想対決部分について。会員の中にはいまいち理解できなかったという声もあったが多分二回目読めば理解できると思います。という僕も『テロルの現象学』を読めていないので完全に理解できているかと言うと怪しいのだが。
昔どこかで見かけた評論に『処女作『バイバイ、エンジェル』には著者の苦闘と失敗の痕跡が明らかに見てとれる。敢えてあげつらうならば、思想的対立をなすべき探偵と犯人の対決が全体の筋から浮かび上がってしまった欠点は否みようがない。』というものがあったがむしろ僕は先ほどの話を振り返ると、本作こそが大量死を作者が本作の段階で感じ取っていた所以だとすら思っている。本作の思想対決部分は〈探偵と言うヒーロー〉と〈犯人と言うダークヒーロー〉の二項対立だと言えるし、もっと言ってしまえばそのヒーローが自分と相手を同時に無碍に貶めて〈ヒーロー〉↔〈ヒーロー〉、あるいは〈ダークヒーロー〉↔〈ダークヒーロー〉という発展性としても捉えられる。むしろ思想対決の異様さこそが本作が傑作たる所以だと言ってもいい。
やはりこういう一対一の思想対決、犯人と探偵の一騎打ちは推理小説の醍醐味だと思う。思想対決は間違いなく推理小説の魅力だと思うし、そういう部分があればある種どんな話でも推理小説だと言えるのではないかとすら思う。最近カミュの『異邦人』とかドストエフスキーの『罪と罰』『地下室の手記』等々すらも推理小説的な読み方が出来るのではないかと思い始めた。
色んな読み方が出来るという点からも本作は傑作だし、批評会で取り上げて正解だったように思う。
(A・S)
自分のやった批評会の中で最も気合の入った批評会だったと思う。僕自身かなり好きな作品で語る部分も多かったので資料作製が楽しかった。本作品は矢吹駆シリーズの一作目でもあり、この批評会が二作目以降の足掛かりになってくれれば幸いだと思っている。やはり名作中の名作だけあって批評会の受けも悪くなかったように思う。やはり王道の作品で批評会をやるのが一番だと確信するばかりだ。二年の終わり間際にして漸く自分の批評会方向性が見定まった感はある。
本作は自分のミステリー観に大きな影響を与えた一冊で、是非とも批評会をやろうと考えていた一冊だ。といっても特にそんなに体系的なミステー観を持っている訳ではないが。やはりそういったある種の思想を持つことは行動の指針に成り得るが、臆断を生むものとなる。〈善く生きる〉だなんて欺瞞的な言葉は嫌いだが、思想を主張するその外側からある程度自身を客観できるくらいのドライさが大切なんだと思う。
さてそんな僕にとっての面白いというか、積極的に触れたいと感じるのは、自身の作った謎をどこまで堀り下げられるかに挑戦的な作品だろう。ある種ミステリーとマジックには似たところがあるように感じる。分かってしまえば嗤ってしまうようなネタを過多な装飾で塗り固めて奇術として見立てる。マジシャンはあらゆる手を尽くして現実を夢に見せようとする。ある種夢想的なジャンルだと言える。ミステリーが幻想小説の派生と言うのはこういうところからも感じられる。
では謎を掘り下げるとは何だろう。僕が敬愛する森博嗣の初期作品では謎を科学的に解析する手段をとった。これがまず僕のミステリー観を培った。それまでの推理小説に対するイメージは直観的な推理によって脆弱に成り立つ欺瞞的なものだった。しかし仮説を立てて実験的に吟味するという森博嗣初期の手法はある種親近感を感じさせるものであり、漸く作中の謎を初めて真に不可解なものと感じられるようになったと思う。勿論仮説を出し切らなければ謎の真の解明に至らないことも当然だ。その部分を埋めることが出来なかった彼は、失敗作の仮説と正しい仮説との間に人間の感情、観念論を挿入する。仮説が間違っているのは、表層的に現れ出ない人間の感情を代入できていないからだ、と。今読み返すとそれ自体もやや逃げているように感じられるのだが、それでも推理を物質→観念にシフトする手法は独特かつ本当に面白いものだと思うし、この切り替えが謎の掘り下げでもあると思う。要は、物質的側面での徹底的な吟味の限界までの挑戦と、そこから転回して観念論への移行が好きなのだ。謎を精神的、形而上的な段階まで踏み込もうとすること、これが謎の掘り下げだと僕には感じられるのだ。勿論、謎の掘り下げが一義的にこれと決定されるものでないのも分かっている。例えばクイーンの様に不可解な現象を論理だけを武器に解き明かすスタイルなども謎を徹底的に考察する意味では僕の好きな範疇だ。(ちなみにこの段落で書いたことは大体他の会誌の流用。許せ。)
そして『バイバイ、エンジェル』によって僕のミステリー観は大きく転回した。と言うのも探偵役の矢吹駆の事件に対する試みが徹頭徹尾形而上な観点から為されているところが余りにも衝撃的だった。現象学的還元による本質直観を行い首切りの本質を『犯罪の意志の隠匿』だと見抜く。余りにも斬新だった。批評会内でも挙げたように本作での現象学はあくまで推理法のガジェットであり、厳密な現象学の定義とは異なるところがある。しかし、形而上で推理を完結させようとする試み自体が面白い。そして現象学的還元による本質直観を最後に必殺技的に持ってくるために、ナディアや警察にそれぞれ推理をさせるところが良い。それぞれのキャラクターの目線から、その個性が出ている推理を提出するところに謎の多面性、多層性を感じられて良い。会員の皆様にもここら辺についてはある程度同意を得られたように思う。
次に論理の不完全性について。本作では事件の手がかりと言うものが現象の持つ多層性、多義性から一義に決定出来ないことに自覚的なセリフが多い。しかし本作ではそれ自体に何か措置をするというよりは、先ほども述べたような必殺技的な感覚で本質直観を行い一意的な解決を付けている。(ある種上位メタレベルからの介入に近い)シリーズの内、天使、黙示、薔薇は論理の不完全性に同様の手法で解決をさせている。『哲学者の密室』以降から手段の地点から論理を突き詰めようとする方向性になっている。しかし作者がデビュー作の本作の時点で論理の問題を提起的なのはやはりミステリーの欺瞞的で脆弱的な部分が魅力でもあることを無意識に知覚していたのに他ならないだろう。論理という概念への思索が本作の段階ではまだ煮詰まり切っていなかったのだろう。だが作者の論理への飽くなき追究はここから始まっている。是非とも皆さんには本作以降の作者の飛翔をその眼で確認してもらいたい。
そして次が最も今回の批評会でやりたかった内容の大量死理論だ。
内容としては、以下のようなものだ。
人類がはじめて体験した大量殺戮戦争である第一次世界大戦と、その結果として生じた膨大な屍体の山が、ポオによるミステリ詩学の極端化をもたらしたのである。戦場の現代的な大量死の体験は、もはや過去のものかもしれない尊厳ある、固有の人間の死を、フィクションとして復権させるように強いた。
機関銃や毒ガスで大量殺戮され、血みどろの肉屑と化した塹壕の死者に比較して、本格ミステリの死者は、二重の光輪に飾られた選ばれた死者である。犯人による、巧緻をきわめた犯行計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪。第一次大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗したからではないか。
(『大量死と探偵小説』より引用)
ここで『哲学者の密室』の解説における笠井潔論に着目したい。(以下、要約)
笠井潔は『物語とウロボロス』において、中井英夫論を展開している。ここら辺から、笠井は重要な転回を迎えている。『虚無への供物』に登場する犯人の観念倒錯的な動機の背景に洞爺丸の海難事故(無意味な大量死)が置かれていることに注視した。そしてこれが大量死を『本格形式』のままあつかった『哲学者の密室』が生まれるきっかけとなるのだ。
その後、笠井は、本格探偵小説ジャンルが確定された時期を英米の黄金期(ドロシー、クイーン、クリスティ、ヴァン・ダイン)に置いて、その理由を第一次世界大戦の大量死から見出している。
『哲学者の密室』では、『密室』というものが持つ本質を解き明かそうとする。
駆は密室殺人という現象の本質を『特権的な死の封じ込め』と語る。
つまり、施錠された個室と近代的自我が相即したものであることを言及している。密室に於ける死は事故死であれ、他殺であれ、自殺と関連付けられる。自殺の近代的な意味―近代的な主体が死を自身に固有な所有物として扱うことで、自分が死ぬという不可能性を隠蔽することが出来る。これが密室の本質だと言及する。(分かりやすく言うならば自分の死を唯一無二のものとしようとする意志こそが密室を作る意味と言ったところだろうか。)
これはハイデガーの死の哲学に基づいたもので、中盤以降のハイデガー批判を経て、駆は密室殺人という現象の本質を『特権的な死の“夢想”の封じ込め』と考えを改める。
つまり駆は死を固有な所有物という近代的な姿勢を“夢想”という二文字で断ち切っているのだ。
特別の死など夢想でしかない、つまり『特権的な死』を生み続けた黄金期批判的側面を『哲学者の密室』は持っているのだ。
この笠井潔論は非常に興味深い内容で、これによれば大量死理論を打ち立てておきながら、『特権的な死』の虚構性を直近の作品で批判しているのだ。
この行為故に僕は、そもそもミステリーにおける死は『特権的な死』なのかが分からなくなってしまった。むしろミステリーにおける死は、大量のキャラクターの中から無作為に抽出された物語のために消えていった無個性な死、つまり大量死なのではないか?と考えた。
少し話がズレてしまう感が否めないが、僕は推理小説読了後、時間が経ってしまうとほとんどの被害者を上手く思い出せない。探偵の推理や犯人のトリックや動機は思い出せても、被害者は脇役たちと同じような没個性と認識してしまうのだ。果たしてこのような存在が、『特権的な死』を迎えた存在だといいのだろうか?
これはもちろん個人的な話であって、万人に総意を得られる意見だとは思わない。そこで僕が出した議論は次のようなものだ。
議題. ミステリーで出てきた被害者を覚えているか?
また、ミステリーで出てくる死は『特権的な死』なのか?
この大量死論に脆弱性があるのではないかとは思う。
まず、大量死理論に倣って言うならば、60年代に台頭した社会派推理小説の流行後に、大戦などない時期にほぼ消えかけていた新本格ブームが訪れたのは一体何故なのだろうか?このように、大量死理論は矛盾を孕んだ部分がある。では、一体どこに矛盾が存在するのだろうか?
僕は本作『バイバイ、エンジェル』の読了後に気が付いた。そもそも本格ミステリーの死体は、二つの光輪に飾られた死者なのだろうか?というものだ。
ここで、『それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪』という箇所を思い出してほしい。後期クイーン問題は論理の不完全さを指摘する。完全無欠の精緻極まりない推理を組み立てるのは不可能なのだ。それ故に、第二の光輪は光を失ってしまう。ミステリー内の死体はすでに腐敗しきった蛋白質の塊に過ぎないのではないだろうか。大量死理論は後期クイーン問題によって完全な理論たり得なくなったのではないだろうか?
それ以外に僕は『バイバイ、エンジェル』にも、笠井潔の大量死理論にたいする無意識的な懐疑を見出している。思想対決部分で、探偵自身が探偵と犯人を貶めるところだ。最上位にいるべき探偵と犯人を、豚以下、虫けら以下だというのだ。これもまた、犯人が行った観念の殺人による首を切られた死体の無価値さを、如何にそれが『大量死』の中に埋もれた屍に過ぎないことを指し示しているのではないだろうか?
さてここまでが僕の考えで、ここの議論は結構盛り上がったように思う。特にかなり面白い意見が出た。
それは推理小説が死体に二重の光輪を授けるだけでなく、犯人にも光輪を授けるという意味を持つという観点だ。
大量死理論では〈匿名の山積みの戦死体〉↔〈あらゆる技巧を尽くして殺された死体〉という二項を比較しているが、更に〈匿名の戦士〉↔〈あらゆる技巧を尽くして殺す犯人〉という二項も同時に成立しているのではないか?国家と言う巨大な組織の傀儡として銃を握りしめていた戦士に特権性を与える行為自体が推理小説なのではないか。
推理小説の展開として多いのが〈悪人として裁かれる被害者〉↔〈正義の執行を為す犯人〉の関係だ。推理小説読後に犯人や探偵、トリックや事件状況は強く印象に残るが、被害者の名前は記憶に残らない。この感覚を僕はずっともっていて、今回の批評会で他の会員にも聞いてみた所同様の意見を持っている方が多く僕は確信を持てた。ある種推理小説というのは権威に対する反逆行為であり、特権性の蘇生を道徳心の反対のところから試みているのではないか。
そうなると本作の犯人の過去の描写が丁寧で、探偵がそれを執着的なレベルで否定して見せるのも当然の行為なのだと分かる。
そして犯人へ特権性を与える部分が推理小説における文学性を生んでいるのではないか。殺人と言う社会契機を自ら破る行為を厭わず、探偵と言う光と犯人という闇が干渉縞の様に羅列されることこそが〈探偵というヒーロー〉と〈犯人というダークヒーロー〉という二重の物語が完成させるのだ。人間が描けていないと言われがちな推理小説だが、こういった側面を鑑みれば十分に人間は描けられてきているし、描かれているのではないか。
そして最後に本作の肝とも言うべき思想対決部分について。会員の中にはいまいち理解できなかったという声もあったが多分二回目読めば理解できると思います。という僕も『テロルの現象学』を読めていないので完全に理解できているかと言うと怪しいのだが。
昔どこかで見かけた評論に『処女作『バイバイ、エンジェル』には著者の苦闘と失敗の痕跡が明らかに見てとれる。敢えてあげつらうならば、思想的対立をなすべき探偵と犯人の対決が全体の筋から浮かび上がってしまった欠点は否みようがない。』というものがあったがむしろ僕は先ほどの話を振り返ると、本作こそが大量死を作者が本作の段階で感じ取っていた所以だとすら思っている。本作の思想対決部分は〈探偵と言うヒーロー〉と〈犯人と言うダークヒーロー〉の二項対立だと言えるし、もっと言ってしまえばそのヒーローが自分と相手を同時に無碍に貶めて〈ヒーロー〉↔〈ヒーロー〉、あるいは〈ダークヒーロー〉↔〈ダークヒーロー〉という発展性としても捉えられる。むしろ思想対決の異様さこそが本作が傑作たる所以だと言ってもいい。
やはりこういう一対一の思想対決、犯人と探偵の一騎打ちは推理小説の醍醐味だと思う。思想対決は間違いなく推理小説の魅力だと思うし、そういう部分があればある種どんな話でも推理小説だと言えるのではないかとすら思う。最近カミュの『異邦人』とかドストエフスキーの『罪と罰』『地下室の手記』等々すらも推理小説的な読み方が出来るのではないかと思い始めた。
色んな読み方が出来るという点からも本作は傑作だし、批評会で取り上げて正解だったように思う。
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