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解答編

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「悟さんはあの二人がなにか良くないことに関わっていると思うんですか」

  僕が問うと、悟さんは地面に目を落とし、あごをなでながら言った。

「ああ、そう思う。ただ、僕としてもまだ考えがまとまっていないんだ。話しながらまとめさせて欲しい」

「分かりました。久しぶりに付き合いますよ。で、さっきのうちのなにが特に気になったんですか」

「一つは『は(wa)』だ」

「は?」

 僕は「わ」の方ではなく、なに言ってるか分かりませんという意味を表すために、素で「は」と聞き返してしまった。そもそもこの時は「わ」でなく「は」だということに気づいていなかった。

「合計かなにかのことですか」

「いや。『はひふへほ』の『は』だ。彼は名乗るとき『私が』ではなく『私は』と言ったんだ。女は今まで金という男の存在そのものを知らなかったことになる。駅で待っている男の名前を女が知っていることが前提なら、男は『私が』と名乗ったはずだ。男の方は、『相手の女は私の名前を聞いたこともないだろう』と思っていたということだ」

「ああ、主格を表す『は』のことですか。確かに男はそう思いながら自己紹介したんでしょうね」

「おや、主格という言葉を知ってるのかい。なら最初から主格という言葉を使うべきだったね。すまない」

 失礼な。僕は中学三年生で勉強も比較的できるほうだ。主格という言葉を知らないと思われていたとは心外である。今まで遠くで暮らしていた分の時間を埋める必要がありそうだ。

「にしても、よく他人の言葉を文字単位で覚えてますね」

「まあね。話を戻そう。女は男のことを知らなかった。ただ、男は女のことを知っているように見えた。女の名前だけでなく、少なくとも健康状態のことを含む個人情報を持っていた。わざわざ健康だなんてふつう言わない」

 僕のささやかな賞賛は軽く受け流されてしまった。もともと興味がないのか、それともついさっき目の前で起こったことに心がかかりきりなのか。なんとなく前者のような気がする。僕の古い記憶によると、この人は自分が優れていることを自分で分かっているようなそぶりがある。決して嫌味ではないが、僕にはそう見える。

「僕はこう思う。女は男をなんらかの団体の構成員として見ている。そして、それは当たっているか、男はなにかの構成員であるように振舞っている」

「は、はあ」

「簡単な話だよ。個人の情報が一方通行でしか伝わっていないなら、間に第三者の仲介があったと考えるのが自然だ。健康状態の情報まで伝わっているんだからなおさらそう思える。一対一でやりとりをして会ったりするなら、ふつうお互いに名乗るだろう。また、非常に単純なことになるけど、男が自分のことを『担当』と言ったことからもそれが分かる」

「あ、そうですよね。実は僕もそうなんじゃないかなあと思ってました」

「あと二人の言葉づかいだ。二人とも、どちらが上とも取れない言葉で話していた。男の方は顧客に対するような調子で、女の方はなにかを頼んだ相手に対するような調子で。君は見ていないからイメージできないかもしれないが、あのおろおろした様子からして、少なくとも女の立場が上というわけではない。団体に属す男が敬語を使っているということは、女は団体にとって客のようなものなんじゃないだろうか」

 悟さんの思考は非常に慎重だと思う。僕もおそらく「女の相手は個人か、団体か」と問われれば団体と答えたのではないかと思う。雰囲気から漠然とそう思うからだ。しかし悟さんは自分の中で一つ一つ、いや、一つにつきいくつも、確実に理由付けをしている。悟さんは今、なにに理由をつけているのだろうか。

「言われてみると、女性が一人でなんらかの怪しげな団体を相手にしているのはちょっとまずそうですね」

 僕がそう言うと悟さんは断言するようにこう言った。
 
「そうじゃない。非常にまずい」

 悟さんの目はまだ先ほどの冷たい光を放っている。

「は、はい! 非常にまずいですね」

 言ってはみたものの、悟さんは男の団体がまずいとなぜ分かるのだろう。

「どうも納得のいかない顔をしているね」

「なぜ男の団体がまずいとはっきり分かるんですか。もしかしたら被験者バイトとか整形とかそういう話かもしれないじゃないですか」

 分からないので直接聞いてみた。悟さんはまじめなことをストレートに聞くと答えてくれるのだ。

「善太朗はあのやりとりの中でなにか足りないものに気づかなかったかい」

 足りなかったもの。初対面の男女が挨拶をする場に足りなかったもの。果たしてあるだろうか。

「名刺だよ」

 なるほど。初対面で団体の人間が相手に渡すとすれば名刺か。

「確かに! あの場には名刺がなかったです。悟さんはそのことが事態の悪さを表していると思うんですね」

「そういうこと。名刺がないことが、あの男の非公式性を表しているように思えるんだ。被験者バイトや整形手術はいわゆる公式の団体でなければ行わない。それにあの男は自分のことを『担当』と言った。泊まる場所まで用意する担当者ともあろうものが名刺を渡さないはずがない。どう考えても被験者バイトや整形手術ではない」

「確かに、公式な団体なら名刺を渡しますよね。あ、もしかしたら違法な整形手術かもしれません!」

 僕がそう言うと悟さんはゆっくりと首を振った。知的な印象の悟さんがやると、本当に様になる。

「善太朗、健康だ。あの女は『健康』なんだよ」

 そんなことは分かっている。男が言っていたとさっき悟さんが説明してくれた。健康だから手術を受けるのに問題がないという意味で僕は言ったのだが……。

「団体側が健康な人をわざわざ探して、これ幸いと自分たちに特に利益がない整形手術やなんかをすると思うかい。男は健康な人が見つかったことを喜んでさえいたんだ。ついでに言うと、健康が重要であるという理由から、おそらく性的な目的ではないということも導かれる」

 ここで悟さんは口を開くか迷うそぶりを見せたが、「やはり決めた」というような引き締まった表情をしてこう言った。

「これはあくまで僕の想像だ。正しいかどうかの保証はない。ただ結構当たっているんじゃないかという仮説がある。女がもし経済的に貧しいのだとすれば、着ているものが貧しいことや、化粧をしていないことも違和感がない。この場合、女は『団体は自分から搾り取るつもりだなー』と分かったうえで今日ここに来たとは思えない。女と『担当』が初対面であることと、二人の会話の様子から、女が団体に関わるのはおそらくこれが初めてだ。そして、両者ともに、何らかの利益を期待して会ったんじゃないかと思うんだ」

 被験者バイトや整形手術は否定され、性にまつわることでもない。団体も女も利益を得ることができ、女の健康が重要になること。そしてそれは決して公式に行われることではない。

「臓器売買……とか」

 僕は上目遣いに悟さんの方を見ながら言った。その時、なぜか悟さんの目はもう冷たい光を放ってはいなかった。

「僕もそれが真相だと思うんだ」

 なんということだ。僕たちは臓器売買のドナーがおそらく手術室に案内される現場に遭遇してしまったらしい。僕はそっとあたりを見回す。改札から吐き出され、また、吸い込まれていく人々は自分のすぐそば、手の届きさえしそうなところに不穏なものがあるなどとは思っていないだろう。サラリーマンは電話をしながら、女子大生のように見える人は時計を見ながら、ブレザーを着た男子高生はうつむき気味に、ただただ歩いていく。背後の不穏に気づかずに。他も同様、異変に気づいている人なんていない。よく見ると、改札周りの人の数は先ほどより減りすらしたようだ。

「って、大変じゃないですか。早く通報しましょう!」

 と僕が慌てて悟さんをしっかり見ると、彼はスマートフォンを耳に当てていた。さすが悟さんだ。行動が速い。と、思いきや……。

「なんだ水莉。ああ、悪い。ついさっき善太朗と合流したところだ。仕方ないだろう。緊急事態かもしれなかったんだ。いや、解決したよ。すまないが、長くなるからあとで説明する。え、善太朗に変われって」

 そこまで話すと悟さんは僕にスマートフォンを差し出して言った。

「水莉だ。善太朗と話したいらしい」

 水莉というのは悟さんの妹で、僕と同い年だ。

「悟さん! そんなこと言ってる場合じゃ……」

 僕が抗議の声を上げようとすると悟さんは、まるで最初に僕をあしらった時のような笑顔を浮かべてこう言った。

「さっきまでの思考は一部正しくて、一部間違っていることに気づいた。少なくともあの女性に危険が及ぶことはないはずだよ」

「え、そんな。さっきまでの話があるのにどうしてそんなことが……」

「無事なのは僕が保証するから。ほら、水莉が話したがってる」

 悟った上に、僕を諭す悟さん。どこでそんな思考の転回を迎えたのか全く分からない。諭されてしまった僕は力の入らない手をなんとかスマートフォンに伸ばしてつかみ、耳に当てた。

「もしもし」

「ちょっと悟、善太朗に代わりなさいよ……あれ、善太朗」

 待たされた時間が長かったせいで、僕に代わったと分からなかったらしい、問いかけるような呼びかけに答える。

「ああ、僕だよ。葦田善太朗。ごめん。今なにがなんだかよく分からないんだ……」

 そう言うと水莉は心配するなといった調子で言う。

「たぶん大丈夫じゃないの。兄さんさっき、緊急事態『かもしれなかった』って言ってたし。きっと本当は緊急事態じゃないんだわ。ところで、高校のこととか調べてるの。中三の秋で転校とかバタバタしてるんじゃないの」

 先ほどまでの非日常的な事態から一転、非常に現実的なことを聞かれた僕は気持ちが一回りして、逆に冷静になってしまった。

「まあ、悟さんが言うんだから大丈夫なんだろうね。高校のことはネットで調べたりはしてるけど、雰囲気とかいまいちわからないって感じかな」

「今晩はうちに泊まるんでしょ。そこらへんも話すことになりそうね。家で待ってるわ。兄さんに代わってくれる」

 僕はスマートフォンを悟さんに返す。冷静になったと思ったのに、手渡した瞬間、悟さんが通話を切った瞬間、非日常が戻ってくるかのような感覚に襲われた。

「ああ、分かってる。じゃあ、また後でな」

 もちろんそんなことはなく、悟さんは落ち着いている。

「悟さん、あの……」

「ああ、さっきのことだろう。今水莉からも説明するように言われたんだ。さっきは驚かせてすまなかった」

「じゃあ、あれは臓器売買の現場ではなかったということですか」

「いや、あれは臓器売買の現場だったと思う。それに変わりはないよ」

「それ、駄目じゃないですか」

 ドキドキハラハラである。次はなにがその口から飛び出すのか。アトラクション料を払うのもやぶさかではない。

「話している途中で思い出したんだ。あの女性、以前会ったことのある警察官だ。その上、それに気づいてあたりを見回すと、今まで見たことのある警察官を他にも何人か見つけたんだ。多分別の場所にももっといたんだろう」

「え、つまりあれはおとり捜査……」

「ごめんよ。ほんとに雰囲気が違って気づかなかったんだ。耳が隠れる髪型してたし、歩き去るとき口が動いてたし、たぶんイヤホンとか装備してたんじゃないかな」

 では、人が減ったと思ったのは見張りの私服警官が男について出て行ったこともあるのだろうか。それにしても、顔見知りの警察官がいるとは、悟さんは僕がいない数年間、いったいどんな体験をしていたのだろうか。

 僕がぐったりと疲れた様子を見せると、悟さんは僕にねぎらいの言葉をかけ

「露原家の場所は変わっていないよ。ここから徒歩八分ほどだ。荷物は僕が持とう」

 と言い、荷物を僕からとって歩き出した。親より一足先に到着した僕だが、新居を見るのは少し先になる。それにしても、悟さんに水莉、そしてその両親であるおじさん、おばさんのお世話になると考えるとなかなか……。いや、楽しみという気持ちに微塵の揺らぎもない。ただ、今はそこに絶叫マシンに乗る前の気持ちというか、一種の「怖いもの見たさ」が混じっているのは間違いなかった。
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