薬局の怪談

睦良 信彦

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主な登場人物と目次、全文

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主な登場人物

谷仲 霊華(たになか れいか):水野病院薬局薬剤師
杉崎 妖音(すぎさき あやね):信濃大学医学部附属病院薬剤師
圓 魂緒(まどか たまお): 水野病院薬局薬剤師
木村 漣 (きむら れん):水野病院総合診療科医師
沼尾(ぬまお):水野病院薬局長



目 次

序章  
第一章 霧に沈む沼
第二章 水回りの怪異
第三章 学校のプールの怪
第四章 水が怖い
第五章 嵐の夜の戦慄
終章




序 章


 一

 恐水病の患者は水を極度に恐れる。

 水を見ただけでも、水の音がしただけでも、恐れ慄き、悲鳴を上げ、部屋の隅に隠れる。やがて水だけでなく、風の音や誰かがすすり泣く声を聴いただけでも、患者の顔は恐怖の表情に変わり、眼球が零れ落ちるほど目を剝き、全身震えながら両耳をふさぐ。

 人体の水分率はおよそ六十パーセントで、水がなければ人は死ぬ。しかしその水を恐れ、水を見たり水に触れたりすると慄く恐水病の患者は、ただひたすら死を待つ運命にある。

 恐水病を引き起こすのは狂犬病ウイルスである。

このウイルスに感染した犬などにかまれた人は、徐々に神経を侵され恐水病の症状を呈しながら、ついには九十九、九パーセント死に至る。二十一世紀の現代でもこの病気を治す薬はなく、狂犬病ウイルスの侵攻を止めるすべもない。

狂犬に手指を咬まれた少年を治療した外科医が、手先から這い上がってくる狂犬病ウイルスを阻止するために掌から順に上部へと少年の腕を切り落としていったが、それでもウイルスは体の中心に向けて浸潤して行き、ついには少年の胸部から脳に侵入して少年の命を奪った。そんな症例もある。

 さてここに幕を開けるのは、恐水病の患者のように水を恐れ水から変化した何物かに幻惑されて命を落とした女たちの、恐ろしくも哀れな怨念の物語である。

しかし彼女たちを死に貶めたその物は、ウイルスでもなく病気でもない。それは人間から発した何かであることは確かだが、その正体を知る者はいない……

発端は、長野県中信濃の小さな町の古びた病院にある院内薬局だった。

 水野病院は、中信地方のある町を見下ろす丘に建つ、病床数五十床程度の小さな病院であった。
水野病院の主な棟は築三十年を経た木造二階建てで、昭和の戦後に建てられた小学校を病院に改築したものである。そのため廊下や診療室、病室などに、掲示板や作り付けの道具入れといった昔の小学校の教室の名残が見られた。
また木材でできた古い壁が、くすんだ天井が、そして傷ついた床が、当時の面影を今に残していた。だがそれらは昔の懐かしさというよりも、どこか古臭い陰気な印象を患者や医療者たちに与えた。

病院の地下には病理解剖を行う解剖室があった。だが三十年ほど前から、病院で亡くなった患者の病理解剖は県内の大学病院に依頼するようになり、その後解剖室は未使用のまま当時の姿を変えずに放置され、現在に至っている。
解剖室の奥には古めかしい標本室があって、室内の壁一面に設けられた朽ちかけた木の棚には、何やら臓器や人間の胎児と思しき得体のしれない標本が、くすんだガラス瓶の中にホルマリン漬けになって並べられていた。

 病院の裏庭には、小学校の設立以前に植えられた桜の古木が、今は青々とした葉をたたえて空にそびえていた。かつてこの木の大きく横に伸びていた枝は、患者たちの通行の邪魔になるという理由で切り落とされており、そのせいかこの古木は縦に長い妙な格好をしていた。

だが一方で、枝が切り落とされる前にその枝に縄を垂らして首を括る患者が相次ぎ、とうとう当時の病院の院長が職人に銘じて枝を切り落とさせたのだという、まことしやかな言い伝えまで残っている。

 この桜は、春になると一面見事な花を咲かせ、裏庭の景色を一変させる。その妖艶なさまを見上げながら、樹が患者の命を糧に怪しく咲き乱れているのだと、往時を知る人は噂する。

 病院の診療科には内科と外科があって、それぞれ一名ずつ医師が常在し、七名の看護師が外来、入院患者の診療を助けた。また二週間に一度、信濃大学附属病院から内科の若い医師が一名診療の応援に来ていた。

水野病院のあるこの町には三百戸が役場を中心に点在し、そこに千人ほどがひっそりと暮らしていた。

戦前は養蚕が盛んであったが、やがて絹が廃れると米作やりんご栽培を中心とする農家にとってかわり、現在ではそれらが町の主な産業になっていた。

町は高齢化が進んでいたが、郊外に大手食品製造会社の工場ができたこともあって、最近では比較的若い世代も移り住んできていた。

この地方では、乾季の水不足に対応するため、江戸時代から町のあちこちに貯水池が作られ、そこから田畑に水が供給されていた。貯水池はみな大して深くはないものの、広さは大きいものでは直径二百メートルをゆうに超えた。貯水池には常に水が湛えられ、さまざまな種類の魚や水鳥の生息場所にもなっていた。

周りを山に囲まれ盆地の構造をしていたこの地方の夏は暑く、一方で秋は短くて冬の訪れが早い。そして冬にはこの辺一帯が、しばしば深い雪に覆われた。

 水野病院の診療科の待合室は、以前の小学校の職員室を改築した横長の部屋で、そこにはいつも十数名ほどの常連患者の老婆たちが顔を突き合わせてひそひそ声で何かを話していた。薬局は、受付と待合室のさらに奥、鍵の手廊下を右に入ったところにあって、初診の患者には場所が少しわかりにくい。

薬局には薬局長室、六十平米ほどの調剤室、シャワー付きの三畳間ほどの当直室などが備わり、調剤室には簡単な製剤や散剤の分包ができる近代的な機材などもあった。

 二

ある夏のじめじめした暑い晩のことであった。

この地方にはよく雷雨があった。その日も陽が傾きかけたころから空はにわかにかき曇り、遠くで雷音が頻繁に轟いていた。

風はなく空気は湿気を帯び、目に見えない何かが肌にまとわりついてくるような気配があった。ざあっと降れば少しは冷気が下りてくるのであろうが、雨雲はじらすように雨をたたえたまま空に低く淀んでいた。

帰り支度を済ませた薬局長の沼尾は、左肩にカバンを下げ、右手に持った鍵で薬局長室のドアの錠を閉めた。そして薬局長室に続く調剤室の奥の薄暗い調剤カウンターあたりを見やると、一人の女性薬剤師の姿を探した。そこには、その日当直の谷仲霊華がいるはずだった。

「谷仲さん。それじゃあ私はこれで帰るからね。今夜の当直、頼んだよ」
薬剤棚の影になって、その向こう側は見えない。谷仲の姿を見つけることはできなかったが、沼尾は細長い調剤室の隅にまで届くように、やや大きな声で声がけした。だが返事はなかった。
「いつものことだ」
と沼尾は思った。

谷仲霊華は、仕事はきちんとこなす薬剤師だが、愛想がない。だがそれをいちいち咎めるつもりも沼尾にはない。
自分の声が聞こえたものと勝手にとらえ、沼尾は帰宅の途に就いた。

その沼尾とちょうど入れ違いに、白衣を着た一人の女が気配を消すように通用口から病院の中へ静かに入った。谷仲霊華だった。

残照のおぼろな明りの中にあって、霊華の影は薄かった。

霊華は裾の長い白衣を着ていた。背がすらりと高く、姿勢もよかったが、足をあまり動かさず体の揺れもない妙な歩き方をする。

真っすぐの黒髪を肩のあたりまで下げていたが、どうしたことかその髪はぐっしょり濡れていた。遠くに雷鳴が鳴り響いていたが、そのときまだ雨は降っていなかった。

沼尾は少しだけ振り返るようにして、霊華が通り過ぎて行った方向に顔を向けた。だが彼女の姿に全く気付かぬかのようにすぐに自分の行く手の方へ向き直ると、沼尾はそのまま正面玄関から駐車場へと去って行った。
その背を見送りながら、霊華は心の中でつぶやく。
「薬局長は確かに私の方を見た。それなのにまるで知らんぷり」
首をかしげながら、霊華は病院通用口から薬局裏口へと回って行った。

調剤室は明かりが消えていて薄暗かった。

霊華は薬局の仕事に戻ろうと調剤室の入り口を入った。濡れた髪から、ぽたりぽたりと水滴が落ちた。
ふと奥を見ると、誰かいる。
調剤室の窓からは外からの薄明りが入って、ぼんやり部屋の隅のあたりを照らしている。そこに、白衣を着た女性が一人たたずんでいた。
「誰?」
 霊華がささやくような声で聴くと、女はゆっくりとこちらを振り返って、霊華を見た。
「あなたは……」
 それは霊華が初めて見る女性であった。

霊華と同じような、薬剤師が着る白衣を身に着けている。そして霊華と同じように髪が長く、そのつややかな黒髪を背中に広げている。しかしその髪は、霊華の髪のように濡れてはいなかった。

「勝手に入ってきちゃってごめんなさいね。声をかけたのだけれど、お返事がなかったので」
 女性は、細面の色白の顔に似合わぬような、かすれた低い声で言った。
「杉崎妖音といいます。信濃大学附属病院の薬剤部から来ました。よろしくね」
 女性はさらにそう名乗って、薄い唇に笑みを作った。
「わたしは谷仲霊華といいます。でも信濃大学病院の薬剤師の方が、いったいどのようなご用件で……」
 問われた杉崎妖音は、いぶかしそうな表情でやや顔を傾け、霊華をじっと見やった。
「沼尾先生から聞いていなかったの? 水野病院の今夜の当直は若い女性一人だから、信濃大学病院から助っ人を一人回してくれないかという要請が私の薬剤部に来たのよ。それで私がその役を任されたというわけ」
 そんなことは何も聞いていない。霊華は困った顔をして杉崎妖音を見つめ返した。
「私は何も聞いていません」
(まったく沼尾薬局長はスタンドプレイが過ぎる。応援を要請したのなら、そのことを私に言っておいてくれないのはなぜ? 第一、薬局の当直が私一人で不安だとは、どういうことかしら)
霊華は心の中でつぶやいた。
「ともかく」
 妖音は苦笑すると言葉をはさんだ。
「私はそのつもりで来たのだから、何でもお手伝いするわ。今更帰れ、なんて言わないでね」
 霊華はやや膨れ面をして見せたが、ここはとりあえず彼女を受け入れるしか無さそうだ。
「あなたどうしたの。髪の毛が濡れたままのようだけれど」
 不意にそう言われ、霊華は思わず頭に右手を当てた。確かに、じっとりと濡れていた。
「そのままじゃ風邪をひくわ」
 言いながら妖音は白衣のポケットから白いハンカチを取り出し、霊華のそばに歩み寄るとそれで丁寧に濡れた髪を拭いてくれた。
(おかしいな。どうして濡れたのだろう)
また心の中でつぶやく。
今になってもまだ雨は降っていなかった。にもかかわらず、霊華の髪は水がしたたり落ちるほど濡れていた。白衣の襟や胸元あたりも少し濡れている。
「あ、もう大丈夫です」
 妖音の親切にやや心を開いた霊華は、初めて微笑みを見せながら言った。さっきまでは、さぞかし愛想の悪い仏頂面をしていたことだろう。
そんな霊華の心の中を見透かしたように、妖音は返す。
「顔色が悪いわ。あなた、体調は大丈夫」
「ええ、大丈夫です」
「無理しない方がいいわよ……」
 確かにあまり調子は良くない。でも今日は薬局長から当直を任されているのだから、弱音を吐いてなどいられない。
霊華は無理に笑って妖音の視線をすり抜けると、さらに何か言われないうちに、逃げるようにして調剤室の奥の調剤カウンターの前に移った。
「それでは、そこに何枚か来ている院内処方せんの調剤をお願いします」
 調剤カウンターの端に重ねて置いてある十枚ほどの処方せんを指し示しながら妖音に調剤の手伝いを頼むと、霊華はさっさと自分の調剤業務に入った。
「わかったわ。ほかにも何かお手伝いすることがあったら遠慮なく言ってね」
 妖音は微笑みながら返すと、早速積んであった処方せんの一番上の一枚を手に取り、調剤を始めた。

 三

 霊華と妖音は、三メートルほどの間隔を置いて横に長い調剤カウンターに並ぶように立ち調剤業務を続けていた。調剤室の天井に取り付けられた明かりはLEDではなく蛍光灯で、しかも一本が切れかかってゆらゆらと室内の影を揺らしていた。

 小さな町の小さな病院であるが故、その財政事情は決して潤沢なものではない。分かってはいるが、これでは調剤過誤も起きかねない。やはり少なくとも調剤室の照明は、全部LEDに替えるべきだろう。

 そんなことを口の中でぶつぶつつぶやきながら、霊華は黙々と手を動かす。

そうして小一時間、どちらからも言葉はなく二人は並んで調剤の作業を続けていた。

さっきまで遠くに聞いていた雷鳴が、にわかに近くなってきた。
ぱっと戸外に広がった雷光は窓を通して調剤室内に光と影のコントラストを作り、かと思うと、それからほとんど間を置くことなくドドーンという地響きのような雷鳴が鳴り響く。
 その音にびくりとした霊華がふと右横を見やると、雷の音など全く意に介さぬように調剤カウンターに向かって涼しい顔をし、相変わらず黙々と手を動かしている妖音の姿がそこにあった。
「この人は雷が怖くないのかしら」
 雷鳴にびくつくどころか、妖音は持ち前の白い肌の色を変えることなく、ただ淡々と細長い指で薬棚から錠剤シートを取り出したり、それを計数してシートを輪ゴムで束ねたりしている。

だがその姿が一瞬、ゆらりと前後に揺れる様子を、霊華の目が確かにとらえた。

と思った瞬間、妖音の姿は二メートルほど向こうに遠ざかった。霊華は目を疑う。

 気のせいだろうか。妖音の体が瞬間移動したような……

むろん錯覚に違いない。そう思いながらも、霊華は調剤カウンターの端の方に動いて行った妖音の姿を凝視した。
 だがそういう自分の体も、さっきからどこかがおかしい。
時々ふらついたり、ほんの数秒だが意識が飛んだり、まるで自分じゃないみたいだ。

「私は病気だろうか。さっきの瞬間移動のような妖音さんの動きは、私の錯覚だったのかしら」
 霊華が何気なく額に手を当てていると、不意に声がした。
「どうしたの」
霊華の様子がおかしいのに気づいた妖音が、じっとこっちを見ている。どこか冷たい目だった。
「なんでもありません」
 霊華は突き放すように言って、また自分の仕事に戻った。
「お前は愛想がない」
 と、良く沼尾薬局長から言われる。別に気にしていないが、それに続く沼尾の言葉は胸に刺さる。
「あのことなら引きずるな。業務に差し障る」
(引きずるな、ですって?) 
霊華は眉根を寄せる。
(何の精神的なフォローもなく、簡単に「あのことを引きずるな」なんて、部下を持つ身のあなたがよく言えたものだわ)
……
(もっとも、悪いのは私。罪は私が被るしかなかった)
霊華はうつむく。
 ドーンと、近くで雷が落ちる大きな音がした。
同時に照明が一瞬消え、手元が見えなくなるほど調剤室の中は光を失った。その場で固まる二人。
「妖音さん」
 ゆらゆらと揺れながらたたずむ妖音の影におびえるように、霊華はその名を呼んだ。
「なあに……」
 しばしの間があって、妖音のかすれるような低い声が聞こえた。
ピカッ……また稲光がした。続いて地響きのような音。
霊華は雷が嫌いだった。
稲光は怖くはないが、次に来る雷鳴までが戦慄の時間で、まだ音がしないのに思わず両手で両耳をふさいでしまう。
 間もなく明かりがついた。霊華は気を取り直すと、さらに気持ちを静めるべく妖音に尋ねた。
「妖音さんは、この病院は初めてですか」
「いいえ」
 今度はすぐに答えが返ってきた。
「もう何回か当直のお手伝いに来ているのよ。あなたにお会いするのは今日が初めてだけれど」
「どうりで。この薬局の中のことを、よく知ってるみたいだから……」
「ふふふ、そうかしら」
「ええ。まるでもう何年もここに勤めているみたい」
「そんなことはないわよ」
「いいえ……」
 そんな会話を交わしているうちに、オーダーされた十枚の処方せんの調剤が終わった。

 四

霊華は少しだけ妖音のそばに近寄った。
「少し休みませんか」
 妖音は黙ってうなずき、むこうを向くと、無言のまますうっと消えるように調剤室から出て行った。

霊華は良く空を飛ぶ夢を見た。

だが空を飛ぶと言っても、鳶のように高いところから大地を俯瞰するように飛ぶのではない。
霊華が宙を飛ぶときは、地面に対して体は直立したままで、足裏と地面の間にはほんの十センチメートルほどしか間隔を置かぬようにして飛ぶ。それでも体は宙をすべるようにして、自在に速く移動できるのだ。
風にたなびく草原、底までも透けて見えそうな沼の水面、点在する灌木や林。その上空すれすれを、霊華は両手を真横に広げ真っすぐ立ったまま風を切って飛び回った。
それは多分夢の中の世界のことではあったのだが、どこか現実に起こった奇跡であったような感覚を霊華に与えた……。
ふと我に返ると、霊華は辺りを見回した。
だが妖音の姿はもう調剤室にはなかった
霊華が妖音を追うように当直室に行ってみると、そこに椅子に掛けてくつろいでいる妖音の姿を見出した。
霊華はなぜかほっとした気持ちになると、小さなテーブルをはさんで妖音の正面の椅子に座った。
「この病院の当直は忙しいの?」
 霊華が座るのを待ってから、妖音が訊ねた。
「いいえ。季節などにもよるけれど、救急の患者さんが続かない限り、そうでもないです」
 当直室といってもそこは三畳間ほどの小さな部屋で、フロアの隅に横になれるソファーが一つ、小さなテーブルと今二人が着いている椅子が二脚、そして奥に狭いシャワー室が付いているだけだ。
二人はめいめい、くすんだ床やところどころひびが入っている天井を眺めながら、黙り込んでいた。
するとおもむろに妖音が口を開いた。
「ねえ霊華さん。少しお話しない? もっとも、お話といってもただ二人で世間話をするのではなくて、それぞれが交代で怪談話をするの」
「怪談話?」
 思わず聞き返すと、妖音の顔がわずかに笑った。そしてその顔の左右が瞬間ずれてゆがんだように見えた。
霊華は目を見張る。
「ええそうよ。当直の夜って、何もしないと眠気に襲われるでしょう。だから私、話相手がいる時にはよくそうするの」
 言ってから妖音は、何もなかったように静かにうつむく。
(さっきは確かにこの人の顔が、何か別のものにでも変わったような気がしたのだが、あれは気のせいだったのかしら)
霊華は目をしばたたいてもう一度妖音の顔をよく見たが、その白く美しい顔に今は何の変化も見られない。
「何をそんなに見つめているの。私の顔を見ていたって、何も起こらないわよ」
「ああ、いやそういうわけでは……」
(また心の中を見透かされてしまった。これは妖音さんの特技なのかな)
「それよりどう? さっきの話。夜は長いわ。退屈しのぎに……。あなた、怖い話は嫌い?」
「いえ、聞くのは決して嫌いではありません。でも、こちらからお話しするような怪談話は……」
「ないはずないわ。人は二十年、三十年と生きていると、必ず何度かは解釈不能な不思議な出来事に遭遇するものよ」
 霊華は黙った。
確かに彼女はこれまで何回か不可解な経験をしていたし、また人から聞いた話ではあるが恐ろしい体験談や物語を知っている。
「ほうら、やっぱり」
 霊華の沈黙を見て妖音は、霊華の心中にあるものを言い当てたように得意そうな顔になって、口元をほころばせた。
だが霊華はその笑顔の中になぜかぞっとするものを垣間見た気がして、思わず顔をそむけた。
妖音の低くかすれたような声が続く。
「……それではまず、言い出した私の方からお話を始めましょうか」
 何かをためらっているような霊華の様子にも構わず、妖音は半ば勝手に次のような奇怪な話をとつとつと語り出した。




第一章 霧に沈む沼


  一

 中信地方(長野県の中央部)の山間には、早朝や晩などによく深い霧が発生します。
 山の麓に現れた霧は、静かに人里に降りてきて、左右に広げたその大きな白い翼で畑や林や民家を包み込みます。もやがかかってきたなと戸外を見ていると、霧はあたかも生き物のように瞬く間に周囲に広がり、やがて人の視界を遮るほどにまで育って行くのです。
 桃の節句も間近いある晩のこと。
ほんの数メートル先の人の顔も判別がつかないくらい、あたりには深い霧が立ち込めていました。遠くにおぼろげながらに見える車のヘッドライトが、まるで海底から巻き上げられた細かな堆積物の中を進む潜水艦の探査灯のように、黒い空に浮き上がっては消えていきました。
 この地方は民家も少なく、夕方を過ぎるとただでさえ早くから闇に包まれるのに、その晩は濃霧がさらに視界を遮り、道行く人の足元もおぼつかぬ有様でした。
 その女性は、手元に小さな懐中電灯を持って、足元を照らしながらゆっくりゆっくり山間の道を歩いていました。彼女は隣の集落に住む体の不自由な母親の面倒を見た後、街の自宅に戻る途中でした。
 女性は名を寺島琴代といいました。
母一人子一人の家庭でしたが、母が住む山間の生家から勤め先の会社のある街までは、バスが通っていないので通うのはむずかしいことでした。琴代は車も持っていなかったため、仕方なく会社も近い街のアパートに越して住んでいたのです。
琴代はまだ独身でした。
背がすらりと高く、肌の色や目鼻立ちはまるで日本人形の様で、髪もつやがあってかぐわしい香りを放っていました。
 その日は母親の様子があまりすぐれなかったので、山間の実家に母を見舞ってからついつい長居をしてしいました。
そうして隣町のアパートに帰るため家を出た時には、もう日も沈んでいました。
それに加えてこの霧です。夜家路を急ぐ女性の心中は察して余りあるものですが、あたりは闇に包まれているうえに霧が視界を遮り、どうしても足運びは鈍りがちです。
 あたりは深々と冷えていました。
霧にはかすかににおいがありました。青臭いような、かび臭いような、それは決していい匂いではありませんでした。
耳には、自分の足音と自ら吐く息以外は何も聞こえません。
ときおり肩や背中を何かが触って行きます。そのたびにはっとして身を引くのですが、それが狭い山道の上まで伸びてきたブナや樟の枝だと気づくと、琴代は安堵します。
そうしてオーバーコートの襟を寄せ、身をこごめながら足元を照らす懐中電灯の光を頼りに、琴代は家路を急ぎました。
遠くに街の明かりが、霧を通してぼうっと揺らめいて見えたその時でした。
突然、琴代の歩いていた道の右奥の方で、ドボンッ、ドボンッという、泳ぎのへたな誰かが水におぼれているような音が聞こえてきました。
音は意外に大きく近くに聞こえたので、琴代は思わず足を止め、恐る恐る音のする方角にゆっくりと懐中電灯の明かりを滑らせました。
水中で人がもがくような見苦しいその音は、決して断続的ではないにしても、二、三回して静まったあと少し間を置くとまた始まります。
それは、いったん沼の中に沈んでしまった人が、息が苦しくなってもがきながらやっとの思いでもう一度水面に浮かび上がって顔を出すと、再びバタつきながら沈んでいく様に想像されました。
その時の琴代の頭の中には、なぜか小さかった子供のころの、ある戦慄的な記憶が疼き出していました。
琴代の住んでいた家は農家で、米蔵のコメを狙ってネズミがよく家の中にも出没していました。猫を飼ってネズミを退治させてはいたのですが、それでも被害は止まず、家人を悩ませていました。そこで家のあちこちにネズミ捕りを仕掛け、ネズミの駆除を図っていたのです。
時々それにネズミが捕まると、琴代は母親からその処理を任されました。どうするかというと、バケツにあふれんばかりの水を張り、その中に針金を編んで作ったネズミ捕りの籠ごとネズミを突っ込むのです。
水中に没したネズミは、浮き上がろうと必死にもがくのですが、ネズミ捕りの金網が邪魔して水中から空気のある水上まで鼻を突き出すことができません。そうして苦しそうにもがくネズミを見ているうちに、ネズミの口からはポコポコと泡が出てきます。それがネズミの最期でした。
溺死したネズミをネズミ捕りごと水から引き上げると、ぐしょぬれのままのネズミの死骸をネズミ捕りの網かごから地面に落とし、棒切れでつつきます。動かないことを確認してから、土に埋めたのです。
溺死したものは生き返らない。
当たり前のことですが、さっきまでネズミ捕りの中を忙しく動き回っていた動物がほんの十分ほど水中に没しただけで死んでしまう。小さな琴代にとって、それはとても不思議な体験でした。
なぜあの衝撃的な思い出が、今自分の脳裏に浮かんだのか。それはほんの数秒かそこらの時間の中に現れた過去の幻でしたが、琴代は我に返るとゾッと身震いしながら、右手に持つ懐中電灯をこわごわ前方にかざしました。
琴代の懐中電灯の光は深い霧を通してさほど奥まで届かず、やっと足元の草木を浮かび上がらせるもののその先は杳として見えません。
琴代は何か空恐ろしいものを感じて、そのまま踵を返して逃げ出したい思いに駆られました。
しかしそうこうしているうちにも、また下手に水をかく音がドボン、ドボンと聞こえてきます。するとその音に交じって、水の底の方から突然声がしました。
「助けて、助けて……」
 若い女性の声だ、と琴代は思いました。
「誰かがこの先の沼でおぼれている」
 そう思うと、琴代は急に勇気が湧いてきました。そして懐中電灯の光を頼りに、草をかき分けながら音と声のする方に入っていきました。
 葦の茂みを分け入って進むと、いきなりくるぶしまで水に浸ってしまいました。
琴代が懐中電灯を向けると、目の前には沼が広がっていました。しかし沼の向こう側は霧と闇に包まれていて見えないので、その沼がどれくらいの大きさなのかも見当が付きません。
水面に光を当て、目をこらして沼の中を覗こうとしましたが、水の中までは光が届かず、何も見えませんでした。
 その時沼の水は恐ろしいほどに静まり返っていて、さっきの誰かがおぼれかけているような水にもがく音や助けを求める女の声などまるで空耳だったかのように、あたりはしんと静まり返っているのです。
「さっきの水の音や女の人の声は、いったい何だったのかしら」
 急に不安に襲われ、沼から引き返そうとした時でした。
 突然何かが琴代の右足首を捕まえ、沼の中に引きずり込むように強い力で引っ張ったのです。悲鳴を上げる暇もなく、琴代の体は水の中に没しました。
 足首を捕まえている何かは、ぐんぐん沼の底へと琴代を連れていきます。琴代の体はもはや首まで水の中でした。
恐怖に駆られながら、琴代が夢中で右手に持っていた懐中電灯の光を水中の足元に当てた時、そこに恐ろしいものが見えました。
水の奥底で血走った両目を見開き、赤い大口を開け、海藻のような長いざんばら髪を漂わせた若い女の顔がそこにあったのです。
女の首から下は見えませんでしたが、その右手が、琴代の右足首をしっかりとつかんで離さず、ますます沼の底へと琴代を引きずり込んでいきます。足首を引きちぎられんばかりの痛みに悲鳴を上げようとしましたが、琴代の顔はすでに水中に没していて息さえできません。
「殺される」
 琴代は必死にもがきました。もがけばもがくほど、水の中の女が琴代の足首を引っ張る力は威力を増していきます。
「もうだめだ」
 と思いながらも、琴代は自由な方の左足を必死にばたつかせていました。すると幸運にも、そのうちの何発かが水の中の異形の女の顔面に当たりました。
一瞬女が足首を引っ張る力が緩んだすきに、力いっぱい右足を引っ込めると、女の手が緩みました。そこで今度はもう一度、左足で女の顔をけりつけると、琴代の右足はようやく自由になりました。
 それからはもうどうやって水面まで上がったのか覚えていません。水泳が決して苦手ではなかった琴代は、手足をばたつかせながら、息も絶え絶えにようやく葦の繁る沼の浅瀬にたどり着きました。

  二

気が付くと、あたりはしんと静まり返っていました。
沼のほとりで、琴代はしばらく気を失っていたようです。見ると、体中がずぶぬれになっています。
春先といえども、この季節の信州の夜は思いのほか冷えます。
しかしながら、寒さよりさっきの恐ろしい体験に慄く琴代は、震える思いで立ち上がると勇気を振り絞り、振り返って懐中電灯の光で沼の水面を洗いました。
だがそこは何事もなかったかのように、ただ淀んで動かぬ鈍い光を反射しているだけです。
琴代は再び首をひねります。いったいあれは何であったのか?
にわかに激しい恐怖が全身を貫き、琴代は沼から離れようといきなり駆け出しました。バシャバシャと足元で水音がしましたが、やがて雑草が繁る山道に出ると、もはや振り返ることなく琴代は必死で走りました。
懐中電灯で照らし出された足元を見ながら、琴代は息つく間もなく道を下りました。すぐ後ろから、あの異形の女の「待て」という声が聞こえてきそうでしたが、振り返らず駆け抜けます。
すると間もなく、漆黒の闇と靄の中にぼんやりと橙色の明かりが見えてきました。山の中にぽつんと立つ民家の様です。
そのたった一つのぼやけたような明かりに、琴代がどれだけ勇気づけられたか知れません。琴代のアパートがある町まではまだ距離がありましたが、そこにうっすら灯る一軒家の明かりは、琴代の恐怖を拭い去って余りあるものでした。
そのたたずまいは霧に隠れてはっきりは見えませんでしたが、明かりを頼りに民家の入り口と思しき戸口にたどり着いた琴代は、必死になって入口の戸をたたきました。
「お願いです。ここを開けてください」
 そうしてしばらく戸を叩きながら叫んでいると、中から戸を開くごとりという重い木の音がしました。
間もなく戸の隙間から、中の明かりとともに、丸顔の優しそうな初老の男が顔を出しました。黒っぽいズボンによれよれのセーターを着た男は、少し背をこごめながら上目遣いに琴代を凝視しました。
男は全身水浸しになった琴代の姿を見て驚いたようで、しばし言葉もなくその場に立ち尽くしていました。
が、やがて男は二、三回瞬きすると言いました。
「どうしたんだい、お前さん。ずぶぬれじゃないか」
「沼の物の怪に襲われたのです。助けてください」
 琴代は、今にも後ろからあの女の手が自分をとらえて沼に引き戻すのではないかという恐怖に駆られながら、必死の思いで訴えました。
「物の怪だって。いったい何のことだ……」
 すると男の後方から、かすれた女の声がしました。
「あんた、誰か来たのかい」
どうやら男の女房の様です。だがそうしているうちにも、沼の物の怪は琴代のすぐ背後に来ているかもしれません。
いてもたってもいられず琴代は家人たちの承諾もなく、空いた戸の隙間から命からがら家の中に飛び込みました。
 女房と思しき女はまだ四十代前半の様相で、うりざね顔に鼻筋が通って若い時の美貌をほうふつとさせましたが、化粧はなく身なりも貧しそうでした。
「この娘が、沼の物の怪に襲われたと……」
 男が説明すると、女房の顔がたちまち真っ青になりました。
そうして二人はしばし、黙って顔を見合わせていました。が、やがて女房の方が言いました。
「物の怪とは、どうやらこの霧に化かされたようだね。それよりお前さん、まるで濡れねずみだよ。そのままじゃ風邪をひく。さあ、早く上がりなさい」
 そう言いながら女房は琴代の肩をやさしく抱いて、座敷に招き入れました。
(化かされた……? いいえ、あれは確かに実態のある物。化かされてなんかいないわ)
 心の中で叫ぶ琴代。
でも、暖かい部屋に招じ入れられ、優しく声をかけられると、さっきの恐ろしい体験も、もしかしたら濃霧の中で何かに化かされたのかもしれないと思えてくるのでした。
 座敷では囲炉裏の火が赤々と燃えていました。
女房が持ってきたバスタオルで髪や顔を拭き囲炉裏端に座ると、凍えていたからだがようやく暖まってきました。
 だが琴代の動悸はまだ治まっていませんでした。それどころかますます体は緊張でこわばっていました。
こうして琴代が囲炉裏端で動けずにいると、隣の部屋にいた男とその女房が厚手の上着を羽織って琴代の前に現れました。そして男は、琴代のわきに立つとその顔を覗き込むようにして訊ねました。
「沼で物の怪を見たのだな」
 琴代は顔も上げられず、黙って下を向いたままうなずきました。
すると二人は琴代をそのままにして、重い足を引きずるように囲炉裏の部屋から戸外へと出て行ってしまいました。
外は冷えていましたので、男は帽子をかぶり、女房は毛糸の手袋を手にはめていました。
「どこへ行くのですか」
 二人の背に向かって琴代は叫ぶように訊いたのですが、二人から返事はありませんでした。
 そうして部屋に一人取り残された琴代は、わけも分からぬ恐怖に再びさいなまれながらその細い体を両腕で抱きしめると、もっと体を温めようと囲炉裏の火ににじり寄って行きました。



 霧は相変わらず一帯に深く垂れこめていました。
しかし老夫婦の足取りは、重いながらもその道を歩きなれた様子で、男が女房を支えるようにして黙々と進みます。
「あんた。あの娘(こ)が沼に落ちてからもうひと月になるのだよ。まさか今頃になって」
「分かっているよ。でもいまだに遺体は見つかっていないんだ。もしや、と思うじゃないか」
「村の消防団や警察の人も、沼をさらったりまでして何日もかけて探してくれたんだ。あの娘(こ)が生きているはずないじゃないか」
「じゃあ、さっきうちに転がり込んできた女は、沼でいったい何を見たというんだ」
「さあ、あたしにゃさっぱり……」
女房は首をかしげる。
「だけどね。さっきの女が沼の中で見たというのは、小さな娘っこじゃあないようだ。私たちの娘は、沼で行方不明になった時まだ中学生だったんだよ。あの女が見た物の怪が、うちの子のはずはないじゃないか」
「……」
 老夫婦はこんな会話を交わしながら、深い霧の山道をあの沼の方へ向かって進んで行きます。
そうして、例の沼まであとわずかというところまで来たとき、男が急に立ち止まりました。それに合わせて女房も歩を止めました。
「あんた、どうしたんだい」
 怪訝な顔をして女房が訊きます。男はそれを戒めるように、低い声で囁きました。
「しっ……。聞こえる。沼からだ」
「何のこと?」
「ほら、お前には聞こえないか? 沼から水をたたくような音が」
 女房は耳をすませました。
すると確かに、ドボン、ドボン……という、誰かが水の中でもがいているような音が、濃霧に隠された視界のすぐ向こう側から聞こえてきます。
 二人は顔を見合わせました。
そして次の瞬間男が、さらにそのあとを追うように女房が、歩を速めながら順に葦の浅瀬をかき分けて沼へと入って行きました。
「おうい」
「おうい」
 不規則な水音に交じって初老の夫婦が娘を呼ぶ哀しい声が、霧に溶け込む深い森一帯を震わせます。
 するとそれに呼応するように、沼からは若い女のかすかな声が帰って来ました。
「助けて、助けて……」
 そしてあのもがくような水音。
 ドボン、ドボン、ドボッ…… 
だがその声も音もだんだんと細くなり、やがてそれらは夜霧に紛れて消えていきました。
そして辺りは深い霧に包まれたまま、再び静寂の闇となったのです。

 四

 翌日の朝になると、昨夜の霧はすっかり晴れていました。
山間の集落から町役場に通う男が一人、山道を下って行きます。
するとあの沼の近くの道が細くなっているところで、男は道端に落ちている手袋を一つ見つけました。女ものの、どこにでもあるような毛で編んだピンク色の手袋です。
さらに男が沼の方角を見ると、そちらには男物の帽子が落ちていました。不審に思った男は、沼の方に近づいて行きました。
そして葦の茂みから沼を覗いた男が見たもの……。
それは、老夫婦の溺死体でした。
二人ともうつぶせになって、寄り添うように沼に浮いていました。手袋は女房の、そして帽子はその夫のものでした。
二人は仲の良い夫婦でしたが、最近中学生の娘があの沼でおぼれて亡くなり、とてもがっかりしていたと同じ集落の住民たちが口をそろえます。
「もしかしたら、娘の後を追って二人して入水したのかもしれないね」
 と、近所の話好きのおばさんが言っていました。
しかし亡くなった夫婦の形相はそれは恐ろしいもので、夫婦いずれも何かに驚いたように両目を見開き、また苦しさからか大口を開けてもんどりうっているようでした。それを知った別の隣人の男性は、
「亡くなった娘が、一人では寂しいからと、おっとさんとおっかさんをあの世に呼び寄せたんじゃないか」
 などとうそぶいていました。
しかし、あの霧が深い晩に、悲しい事故のあった底なし沼に夫婦して出向いて行くなんて、その理由が誰にもわかりませんでした。

 ところが、事件はそれだけでは終わらなかったのです。
夫婦の遺体を沼から引き揚げたあと、警察が夫婦の家を調べた時のことでした。
 老夫婦には沼で溺死した娘の他に子供がなく、娘がいなくなってからの夫婦は、ずっと二人きりでその家に住んでいました。
しかしながら警察が家の中を調べたところ、玄関を入って真っすぐ進んだ奥の囲炉裏のある居間に、一人の女がずぶぬれになって倒れていたのです。警察関係者が発見した時には、女はすでに亡くなっていました。
さらに警察が家の中をくまなく捜査したところ、風呂場の風呂桶には水がたたえられ、その中に黒く長い女の髪の毛が数本浮いていました。そして鑑定の結果、この髪の毛が囲炉裏の傍で亡くなっていた女のものであることが判明したのです。
 以上の状況は、何者かが女をふろ場で溺死させたのちに、女の遺体を居間まで運んで放置したという可能性を物語っていました。
 持ち物などから溺死した女の身元が判明し、女がふもとの街のアパートに一人住まいしている寺島琴代という名の会社員であることがわかりました。
琴代には、母一人子一人の実の母親がおり、警察がのちにこの母親から聞いた話によれば、琴代は山間の集落に一人住む母親の様子を見に実家に寄ってから、夕方家を出てふもとの街のアパートに帰ったということでした。
その娘がどうしてこんなことになったのか、皆目見当もつかないと言って、母親は泣き崩れたそうです。
この事件にはいろいろと不可解な点があったため警察が事情を調べていくうちに、事態はさらに奇妙な展開を見せ始めたのです。
まず、沼で溺死していた老夫婦と琴代とは何の関係もなく、これまで互いに知り合ってもいなかったであろうというのが、琴代の母親の説明からわかってきました。その琴代がどうして老夫婦の家の居間で死んでいたのか。これがまず第一の不可解な点です。
次にもっと大きな謎として、老夫婦と琴代の死亡推定時間に関する問題が浮かび上がってきたのです。
どういうことかといいますと、まずこの事件の全容として、老夫婦が何らかの理由があって自宅で琴代を溺死させ、その後になって事の重大さから二人して沼に身を投げたという可能性が考えられました。
しかしその線で捜査を進める場合にどうしても説明できない問題があるのです。
琴代の死亡推定時間は前日の午後九時から十時の間と割り出されました。ところが、一方の老夫婦の死亡推定時間は、同じ晩の午後八時から九時でした。
つまり、老夫婦の方が琴代より先に亡くなっていたわけです。この事実は、琴代を殺害した犯人が老夫婦であるという仮説を根底から覆すものでした。
一方、琴代が老夫婦を底なし沼に突き落として殺したのちに老夫婦の家の風呂場で自殺したと考えると、状況的にはつじつまが合います。しかしこの場合、風呂の中で水に浸かって溺死するという琴代の自殺の仕方に、大きな不自然さが感じられるのです。
考えてもごらんなさい。そんな風に自殺を試みても、途中で苦しくなって自ら顔を上げてしまうのが落ちです。
琴代が睡眠薬を多量に飲んでいたら、あるいはそんなこともあり得たかもしれません。ですが、司法解剖の結果琴代の身体には、薬物を服用した形跡など一切見つかりませんでした。
そう考えていくと、一番可能性が高いのが、第三者としての殺人犯の存在です。
この殺人犯は、まず老夫婦を沼に突き落とし、その後琴代をふろで溺死させてから、老夫婦の家から逃走した。
恐らくこれが、この事件の真相をえぐる最も合理的な考え方だとは思うのですが、それでもみなが納得いかない点は多々残されました。
老夫婦も寺島琴代も人から恨まれるような人物ではないと、彼らの知人や関係者は口をそろえます。また老夫婦の家からは何かが盗まれた形跡はなく、もしこれが第三者による殺人であったとしても、犯行が物取り目的でなかったことは確かなようです。
このように、老夫婦と寺島琴代を共に殺害した人物の存在を考えた場合、事件にはどうしても説明がつかない部分が残ってしまうのです。
ともあれ警察は被害者以外の殺人犯による犯行の可能性も考慮し、沼の周辺の足跡をはじめ、夫婦の家に第三者としての犯人の痕跡がないか徹底的に捜査しました。
しかしながら、夫婦の家の中はおろか家の敷地から半径十メートル以内には、溺死していた寺島琴代と老夫婦の足跡以外誰の足跡もなく、何者かが夫婦の家に侵入して殺人を行ったというような証拠は一切見つかりませんでした。

  五

「その殺人犯がまだ捕まっていないとしたら、とても怖いことですね」
 霊華は椅子の背に真っすぐ体を押し付けて座ったまま、身じろぎもせずその視線を妖音に向けていた。見つめられて圧力を感じたのか、妖音はふっと息を吐くように笑うと、霊華の目を見返しながら言う。
「あなたは人間を怖がっているようね」
「どういうことですか」
霊華が返す。
「人間がやったことだとしたら、結局ただの殺人事件でしょ」
霊華には、まだ妖音の言っていることの意味が分からない。
「妖音さんは、罪もない人たちを三人も殺した殺人犯がいまだに野放しになっているとしたら、怖くはないのですか」
「それはそれで怖いわ。でも私が恐ろしいのは……」
「何ですか? まさかあなたは……」
 しかし妖音の言う恐ろしさを霊華もうすうすわかっていて、それ以上は訊けない。
「そのお話、誰から聞いたのですか」
 霊華は耐えられず質問の方向を変えた。
「忘れたわ。でもなぜそんなことを訊くの」
「だって……今のお話の中で、琴代さんという女性と老夫婦は結局その晩に何があったのかを誰にも話さず亡くなってしまったわけでしょう。それなのになぜ妖音さんは、その人たちが見たり感じたりしたことを知っているの? あなたがその現場にいたわけではないでしょう。
そもそも、もしあなたがそこにいたのだとしたら、殺人犯が誰かもあなたにはわかっているはずよ」
 霊華が口にした疑問を、視線を落として聞いていた妖音は、その顔にうっすらとどこか怪しげな微笑みを浮かべながらゆっくりと面を上げた。
「もしそこに私が居たと言ったら?」
「え? ……」
 遠くに雷鳴がとどろいた。霊華が言葉を継げずに固まっていると、妖音は急に声を上げて笑った。
「冗談よ。そんなわけないでしょう。あなたの言うことはもっともだけれど、でも怪談話ってそういうものでしょ。 
物語の語り手は、必ずしも恐ろしい出来事が起きた現場にいた人物とは限らない。いいえ、むしろ会談の語り部は、誰からともなく耳にした話をさも自分が体験したことのように話すのが玄人というものでしょう。その方が話に臨場感が出て、聞き手にとってはただでさえ怖い話が益々怖くなる」
 霊華は口を噤んだ。
時々雷の音がする他、薬局内はしんと静まり返っている。
当直の晩に薬局に入る仕事は、ほとんどが救急外来患者の院内処方だ。入院患者が緊急で処方薬を必要とするケースは少ない。
時には救急患者がやけに多い晩もあるが、この薬局ではおおかた手が空く時間帯の方が長い。
今夜も入院患者の調剤はすでに済ませ、薬局内は受付カウンターの下の明かりのみを点灯させて天井の照明は消していた。
さっきの妖音の話には、臨場感がありすぎた。まるで彼女自身が体験した出来事であったかのように。
霊華は妖音の話の出所をさらに尋ねてみようかどうか迷っていた。
中信の山間にある寒村で起きた出来事とはいえ、三人の人が亡くなったのだからそれがもし殺人事件であったら、その時世間は大騒ぎになっていたはずだ。だが、霊華の記憶の中にそんな大事件はなかった。
 すると霊華の心中を見透かしたのか、妖音は再びふふふ…と小さく笑ってから声色を変えて言った。
「さあ、今度はあなたの番よ。人間二十何年も生きていれば、恐ろしいあるいは不思議な体験をいくつか持っているものよ。それを思い出して、私に話してちょうだい」
 それで霊華はさらなる質問の機会を失った。
ふいに話を振られ、霊華は戸惑っていた。
確かに何もないわけではないのだが、霊華にとってはその話を思い出すこと自体が恐ろしく、口を開く勇気が出てこない。
そんな霊華の様子をじれったく思ったのか、妖音が呼び水を出した。
「あなたの話も、水が関わっていることでしょう?」
 霊華ははっとして目を上げ、妖音の顔を見つめた。
(どうして分かったの……)
 霊華の動揺を面白がるように微笑むと、妖音は黙って一つゆっくりとうなずいた。その無言の強要に促され、霊華は仕方なさそうに重い口を開いた。




第二章 水回りの怪異
 

  一

 これは私が以前勤めていた病院で本当に起こった、私にとって決して忘れられない恐ろしい出来事です。
 私は、ここ水野病院に転勤になる前、東京のある大きな病院の薬剤部に薬剤師として勤務していました。その病院は大学医学部附属の第二病院で、病床は七百余あり、一日に六百人以上の外来患者さんが来院して来る、当該地域でも中核をなす病院でした。
 しかし病院の建物の多くは、昭和の頃に建てられた古い建造物群で、施設も老朽化が進んでいました。床や天井などもどこかくすんでいて薄暗く、陰気臭い雰囲気が漂っていました。
 最初にそのものが現れたのは、リネン室でした。
御承知のようにリネン室は、病院内で毎日出る汚れた病衣、タオル、シーツ、手術帽などが大量に集まるところです。
このうち、病原微生物や血液などで汚染されたリネン類は廃棄のため通常は業者に引き取ってもらいますが、その費用は馬鹿になりません。そこで私のいた大学病院では、経費節約のためにリネン類の多くはリネン室で洗浄し、あるいは蒸気滅菌して再利用していたのです。
リネン室には、洗浄滅菌後きれいに仕分けしてたたまれたリネン類を保管しておく部屋と、さらにその奥に汚れたリネン類を洗浄する部屋がありました。
それは、ある晩のことでした。
リネン室で作業を終えた病院の担当者が、洗浄室のガスや水道の元栓がちゃんと閉められているかを確認するために、一人で洗浄室に入って行った時のことです。
その人はリネン室の担当主任で、名は宮脇という中年の男性でした。その日の仕事をすべて終了した洗浄室は湿気が多く、いやにじめじめとしていたそうです。
宮脇さんが室内の点検を終え、洗浄室のドアを閉めて帰ろうとしたときでした。
部屋の奥の方に、ぼんやりと誰かがたたずんでいるような影が見えた、と宮脇さんは言ってます。宮脇さんははっとして室内を振り返りました。
するとそこにいたのです。
その女は白衣を着ていました。女がまとっていた白衣は医師が着るものではなかったので、看護師か薬剤師かとそのとき宮脇さんは思ったそうです。
それは髪の長い若い女でした。
うつむいてはいましたが、でもその目は上目遣いにじっと宮脇さんを見つめていました。まるで死んだ魚のような目で……。
苦しんでいるかのごとくねじ曲げた口を中途半端に開け、そして顔を半分隠している黒く長い髪は、驚くことに絡みつく海藻の様にぐっしょりと濡れていたそうです。
その異形に、宮脇さんは思わずぞっとしたと、あとになって周囲の人に漏らしていました。
「何か、この部屋に御用ですか?」
 宮脇さんが尋ねると、女は何も答えずすっと後ろを向いて、滅菌窯のボイラーの奥に消えてゆきました。
その時の女の動きがとても妙だったと、宮脇さんは言います。
足も腕も全く動いていないのに、女はまるで動く歩道にでも乗っているかのように、すうっと向きを変えて元いた位置から移動し、そのままボイラーの後ろへ入って行ったというのです。
 宮脇さんは退出しかけたドアを閉め、恐る恐る女の消えたボイラーの方に近づいて行きました。洗浄室内に正体のわからぬ女を放っておいたまま、ドアに鍵をかけて帰るわけにはいかなかったのです。 
ところがそれから宮脇さんが、ボイラーの裏はもとより洗浄機やオートクレーブ、乾燥機の影など、洗浄室内のありとあらゆる機器や箇所を見て回っても、女の姿は見当たりませんでした。
入口が一つしかない洗浄室から、女はどこをどう通って出て行ったのか。宮脇さんには皆目わかりませんでした。
ただ奇妙なことに、女が最初に立っていたと思われるボイラーの前の床が水浸しになっており、そこには濡れた長い黒髪が一塊べっとりと張り付いていたというのです。

  二

次に怪しい女が現れたのは、病院の地下一階にある病理解剖室でした。
その日の病理解剖を終えた病理解剖学教室の瀬名重成講師は、同じ教室の主任教授から解剖室の滅菌洗浄を任されていました。解剖に立ち会った教授や医学部の大学院生などが全員解剖室から退出し、その時あとに残っていたのは瀬名講師一人でした。
解剖室は八十平米ほどの長方形の部屋で、入り口は開き戸の頑丈なドアが一枚きり。その他の出入り口はありません。
入口の前には解剖室と同じくらいの広さの前室があり、病理解剖を行う解剖医らはこの前室で解剖医に着替え、手指を洗浄して手袋、マスク、帽子を着用します。前室の入り口も、解剖室のドアの反対側の壁に設けられた開き戸一つだけで、その他の出入り口は一切ありません。
つまり、解剖室に入るには、次のルートしかありません。
まずたった一つの前室のドアから前室に入り、そのまままっすぐ進んでさらに前室と解剖室を隔てる唯一のドアを開けて、やっと解剖室の中に入れるのです。
解剖室には、前室との境の壁に一メートル四方の大きさの嵌め殺し窓があり、この窓を通して前室から解剖室の中の様子が見えるようになっています。一方、解剖室の戸外に面した方の壁には、窓は一切ありません。
さて、瀬名講師が前室のドアから中に入って行った時のことです。
前室と解剖室の明かりはともに消えており、中は真っ暗でした。瀬名講師が前室の入り口近くの壁に取り付けられたスイッチを入れると、前室の明かりがともりました。
その時ふと、前室と解剖室を隔てる壁に取り付けられた嵌め殺し窓から解剖室の中を見やった瀬名講師は、そこに白い人影を見たといいます。
解剖室の中は明かりが消えていて暗かったのですが、前室の明かりが窓を通して解剖室にも一部入り込み、部屋の真ん中に取り付けてある解剖台付近までをぼんやりと照らしていました。
例の女の影は、その解剖台のちょうど向こう側あたりに佇んでいるように見えたということです。瀬名講師は目を吸い寄せられるように窓に近寄り、さらによくその人影を見ようとしました。
それが白く見えたのは、その人物が着て居る白衣のせいでした。
それは若い女で、濡れた長い髪を左右から顔を隠すようにだらんと胸のあたりにまで垂らし、そして床から少し上の宙にまるで浮いているように、ゆらゆらと揺れながら立っていたといいます。
すると女はおもむろに顔を上げ、濡れた髪の間から大きく見開いた目を瀬名講師に向けたのです。その目は何か薄い膜がかかっているように濁っていましたが、異様に大きくて死んだ魚の目の様でした。
瀬名講師は思わず後ずさりましたが、解剖室の後片づけを任された使命感に奮い立たされ、前室から窓越しに女に声を掛けました。
「君、断りなく解剖室に入っちゃいけないよ」
瀬名講師の声が聞こえたのか、女は瀬名講師の顔をにらみつけると、そのまますうっと解剖台の脇から向こう側の壁の方へ遠ざかって行きました。その様子がまるで空間に浮いているようで女の体に実体がないような錯覚にとらわれたと、後になって瀬名講師は話していました。
解剖室の奥の暗がりに消えた女の姿を追うように、瀬名講師はすぐさま解剖室のドアを開けると中に入り、入り口横の壁に取り付けてある照明のスイッチを入れました。
その瞬間に解剖室内はぱっと明るくなりましたが、さてさっきの女はと室内を見渡すも、誰の姿も見当たりません。
(さっきの女は一体どこへ……)
解剖室の中には、中央に置かれた解剖台の他、解剖のための様々な道具を保管するステンレス製の棚、使い終わった器具を洗浄するためのステンレス製のシンク、滅菌用オートクレーブなどが整然と並んでいました。
しかしどこを探しても、女の姿などありません。 
解剖室には物陰に人が隠れるほどの隙間はないため、瀬名講師はまるでキツネにつままれたように呆然とその場に立ち尽くしていました。
ふと気が付くと、シンクに取り付けられた水道の蛇口から、ぽたりぽたりと水がしたたり落ちています。
そちらに近づいていくと、シンクの周りにバケツ一杯ほどの水が床に広がっていました。そしてその床にへばりつくように、数十本の濡れた長い髪の毛が……。
しかし、結局女の姿はどこにもありませんでした。

  三

その奇怪な女の姿なら私も見た、という病院関係者が何人か続きました。
ある者は病棟の浴室の着替え室で、またある者はトイレの中で、白衣姿の長い髪の女を見ていました。そして女の髪はいつも濡れており、やがてどこへともなく消えていったその女がいた場所には、バケツの水をぶちまけたような跡と一塊の長い髪の毛が残っていました。
病院内にこうした怪異が続く中で、女を目撃した外来担当の看護師が、こんなことを言い出しました。
「あの女の人、六階西病棟看護師の佐々木さんじゃないですか」
 そういえば、とそれに同調する病院関係者が相次ぎました。
その佐々木さんというのは、血液疾患の治療を専門とする病院の六階西病棟で、入院患者の治療を担当していた三十代前半くらいの看護師です。ところがこの看護師は、ひと月ほど前から急に病院に姿を見せなくなったというのです。
佐々木さんは、若いわりに看護師としての知識と技能が豊富で、化学療法専門の医師からもまた血液疾患の患者さんからも厚い信頼を受けていた看護師です。責任感が強い人なので、連絡もなく突然病院に来なくなるなんて、佐々木さんに限ってあり得ないと皆口をそろえていたそうです。
 病棟看護師長が佐々木さんの自宅にまで連絡を入れたのですが、スマホにも固定電話にも出なかったので、住居アパートまで様子を見に行ったそうです。しかし入り口ドアのチャイムを押しても、いくらドアをたたいても、中からは人が出てくる気配はありません。
こうして看護師長も、とうとう佐々木さんと連絡を取ることができませんでした。
佐々木さんは独り暮らしで、静岡の実家に母親がいたので、看護師長さんはそちらにも連絡をとってみたそうです。しかし親御さんの話では、最近佐々木さんからは実家の方にも連絡がなく、アパートの方に電話をしても出ないので親御さんは途方に暮れていたということです。
 そこで看護師長さんは、意を決して佐々木さんのアパートの管理人立会いの下、彼女の部屋に入ってみたそうです。
もしや部屋の中に佐々木さんが遺体となって倒れているのではと、看護師長さんと管理人は佐々木さんの名を呼びながら恐る恐る室内に入りました。
二人はキッチン、居間、寝室と進み、押し入れの中も見ました、トイレもバスルームも開けて見ました。しかしどの部屋も、もぬけの殻でした。佐々木さんがどこか遠くへ出かける支度をしていた形跡もなかったようです。
その後この管理人から、
「佐々木さんの行方が分からなくなっている」
という連絡を受けた佐々木さんの親御さんが警察に捜索願を出したのですが、佐々木さんの行方は現在も杳として知れぬということでした。
 その佐々木さんらしき人影が、幽霊のように病院のところどころに現れるようになったのはなぜか。そして佐々木さんに似た人影がいた場所は決まってびしょぬれになっていて、しかもそこには濡れた長い黒髪が何本か落ちているのです。これは一体どういうことなのか。
 これは佐々木さんらしき人影を見たという病院の検査技師の人が言い出したことですが、佐々木さんが現れるのは院内の水回りの近くで、そこに必ず水を供給する施設やそれに関連した機器があるというのです。
確かに佐々木さんが現れた所は、リネン室であり、病理解剖室であり、浴室やトイレであり、これらはすべて水回りに関係しているのです。
そのことに何の意味があるのかは皆分かりませんでしたが、検査技師さんの言うことは確かにその通りでした。そしてそれからというもの、病院のスタッフたちはそれとはなしに、水回りに関係した院内のいろいろな場所に近づくことを避けるようになっていったのです。
こういった怪異を病院側が好むはずはありません。
噂は病院長の耳にも入り、院長は佐々木さんの話や幽霊の話をすることをスタッフたちに禁じました。
それでも人の口に戸は立てられず。
病院内に幽霊が出るという噂はいつの間にか病棟の入院患者の間にも広まり、退院する者、転院を希望する者が相次ぎました。外来患者もその病院を避けるようになって、病院側が事態は経営にも影響を及ぼしかねないと危惧し始めた時、さらに深刻な状況が浮かび上がってきました。
院内の水回りで変なにおいがするというのです。腐敗臭というか死臭というか、それは何とも嫌な臭いでした。
異臭は病棟の各階の水回りに及び、やがて病室やナースセンターにいても感じるようになりました。病院側では、水回りのどこかに獣の死骸があるのではないか、あるいは水道水に異常があるのではないかとあちこちくまなく調べ、水質の検査まで行ったのですが、それらからは異常は全く見つけられませんでした。
それでも院内の水回りを中心とした異臭はますます強くなるばかりです。
病院のスタッフたちは、清掃請負会社の社員はもとより、医師、看護師、薬剤師、検査課の職員、事務職員など職種に関係なくみな駆り出されて、臭いの原因を究明する院内の草の根を分けた捜索が行われました。
すると屋上を点検していた清掃会社の派遣社員が、異臭が激しく恐らくはそこが発生元ではないかというある施設に行き着いたのです。
それは、非常時に備えて水を貯えておくためのプールでした。プールの深さは一メートル半くらいで、四畳半の部屋が一つ入るくらいの広さでした。プールの周りには、頑丈な壁と密閉された天井が張り巡らされており、これらが外からの小動物や虫などの侵入を防いでいました。
大学附属病院のように大きな病院になりますと、いざという時のインフラ関係の備えがあれこれと必要になってまいります。
水の確保もその一つでございまして、震災や大規模停電の時など水道が止まったり地下水をくみ上げるポンプが作動しなかったりといった非常時に備えるために、病棟の屋上にそのようなプールを備え付け、水を貯えておくわけです。
その水は飲料水としては使えませんが、非常時におけるリネン類や医療器具、機器等の洗浄あるいは風呂やトイレの水として役に立つはずでした。
さてそのプールの壁の一方にだけ、タンク内の清掃や水質検査などを施すための出入り口がありました。清掃会社の派遣社員がその扉を開けた途端、まさに腐乱死体を予感させる恐ろしい臭気があたりに立ち込めたのです。
口にハンカチを当て、吐き気を催しながら派遣社員が中に懐中電灯を当てると、水面には所々白骨化した白衣の女性の死体がうつぶせに浮いている姿が見えました。
後で警察がこの腐乱死体の身元を確認したところ、行方不明になっていた血液内科病棟看護師の佐々木さんであることが判明したのです。
死亡推定時期は、遺体の痛み方がひどいので確かなことは分からないとしても、亡くなってからおよそひと月ということでしたので、それは佐々木さんの行方が分からなくなったころとちょうど重なるのです。
ではなぜ佐々木さんがそんなところで亡くなっていたのか。警察は、事故、自殺、それに恐ろしいことですが殺人のいずれの可能性もあるとみているようで、しばらくは物々しい捜査が続きました。
しかし私の知るところでは、佐々木さんが周囲の人に自殺を仄めかせた様子は一切なく、また佐々木さんの持ち物やアパートの部屋からも、遺書のようなものは見つかっておりません。
次に事故の可能性ですが、病棟看護師が屋上のプールの中に入って行く状況は、容易には想像できません。仮に佐々木さんがプールの存在を知り、
「中はどうなっているのだろう」
などと好奇心から扉を開けて入り、そこで足を滑らせて水に落ち溺死したとしても、そのあと扉はしっかりと閉まっていたわけですからそれでは説明がつきません。ちなみに扉には鍵がかかっていませんでした。
そうなると、残る可能性は殺人ということになります。
恐ろしいことですが、佐々木さんは殺されたのでしょうか。そして自分を殺した犯人に対して恨みを果たそうと、幽霊になって病院内のいろいろな人たちにそのことを訴えようとしたのでしょうか。
ではなぜ佐々木さんは殺されたのでしょう。
病院関係者や患者さんを始めとした佐々木さんの知人たちは、皆口をそろえて佐々木さんがとてもいい人だったと証言しています。
医療スタッフとはとてもうまく関係を築いていたし、患者さんに対しては親身になって健康上の相談に乗ってあげたりして、それは評判の良い看護師でした。もちろん誰かに恨まれたり、また金銭関係のトラブルに巻き込まれたりしたことも一切なかったといいます。
遺体の司法解剖に当たった解剖医の話によれば、佐々木さんの死因を特定するのは難しいものの恐らく溺死であろうということでした。しかも、肺や胃の中に含まれている水の成分検査の結果、亡くなったのはそのプールの中だった可能性が高いというのです。
もちろん遺体は死後ひと月以上経っており腐敗が進んでいたことから、司法解剖の結果も多くを語れるものではありません。
しかし警察が屋上や屋上への出入り口などを綿密に捜査したことは言うまでもなく、その結果何者かが佐々木さんの遺体を屋上に運び入れてからプールの中に遺棄したという可能性は極めて低いということでした。
そこで再び大きな謎が思い起こされるのです。佐々木さんはなぜ、そしてどうやって亡くなったのかという謎が……

  四

霊華は、語り終えると静かに一度目を閉じた。
そして再びその瞼を開けた時、霊華の目には妖音のあまりにも冷たく蒼白い顔が、部屋の天井から降りる白い光の筋に射られて透き通っているように映った。
妖音は口元に薄笑いさえ浮かべ、椅子の背に体を持たせながら言った。
「とても興味深いお話だったわ」
 そのコメントに、霊華は表情を変えることなく応じた。
「そうでしょうか。私にはただ恐ろしい話としか言えません。私はその佐々木さんという白衣の女性の幽霊を見たわけではありませんが、その事件があってからは、大学附属病院で水回りのある場所に行くことも怖くて、薬剤部での仕事も嫌でたまらなくなりました」
「そう。それでこの信州に転勤してきたのね」
 霊華は静かにうなずくとうつむいた。
「その佐々木さんの事件は、その後どうなったのかしら。殺人事件だったとしたら、犯人は捕まったの?」
 しかし妖音のその質問に、霊華は無言で首を横に振る。その様子をちらと見やってから、続いて妖音は窓の方に視線を移した。
 するとその時突然閃光が走り、ほぼ間を置かずにドーンという地響きのような雷鳴が薬局全体に響き渡った。窓ガラスが小刻みに震えて、カタカタと音を立てた。
驚いた霊華は、下を向いたまま両手を耳に当てて身を伏せる。一方の妖音は、何事もなかったかのように涼しい顔で窓の外を見続けていた。
 ふいに窓を洗うような勢いで、雨が殴りつけてきた。
雨は、ざばっ、ざばっという周期的な音を立てて窓ガラスを叩いた。
「とうとう降ってきたわね」
 妖音は雷が怖くないのだろうか、と霊華は不思議に思った。
霊華は子供の頃から雷が嫌いだった。雷が鳴ると、押し入れの中に潜り込んで目を閉じ、雷が遠ざかるまでじっと耳をふさいでいたものだ。
 薬局内の電話が鳴った。
気づいた霊華はゆっくりと両手を耳から離し、目を開けた。
電話のコール音は鳴り続けている。
しかし妖音はそれに気づかないかのように、平然と窓の外を見ている。この病院の正規の薬剤師が目の前にいるのに、派遣薬剤師の自分が最初に電話に出ることもないだろう、といった様子だ。
 霊華は仕方なくゆっくりと椅子から立ち上がり、雷光を恐れながら、当直室から電話がある調剤室に入った。そうして、コール音が鳴り続ける電話の受話器を取った。
「もしもし、谷仲さん。そうよね。今日の当直は谷仲さんでしょ?」
 女性の声である。
霊華はすぐに、その声が薬局の先輩薬剤師に当たる圓魂緒のものであると察した。果たして、相手はそう名乗った。
「私よ、圓。ねえ、ちょっとあなたに聞きたいことがあるの」
「圓さん? 今どこからですか」
 圓の声は尋常ではなく上ずっており、また電話口からは圓の声に交じって激しい雨音が伝わってくる。
圓は霊華の問いに答えず自分の話を続けた。
「さっき病院から連絡が入ったのよ。総合診療科の木村漣先生が、病棟で倒れられたと……」
「え? 木村先生が」
「木村先生、今どうしているかわかる?」
「いいえ、私は何も知りませんでした」
「さっき電話して総合診療科につないでもらったのだけれど、病棟は誰も出ないのよ。私心配で心配で……。ねえ、今どういう具合か、あなた総合診療科の病棟に行って様子を見てきてくれない? 少ししたら、また電話するから」
「圓さん、今どこに?」
 繰り返し尋ねる。
「車の中よ。今そっちに向かっているところ。携帯で電話しているんだけど、なんか雷と大雨で電波の具合が悪くて」
 圓の電話はそこで突然切れた。
受話器を戻し、当直室に戻ってみると、妖音は相変わらず椅子に座ったまま窓に流れる滝のような雨をじっと見つめていた。
「緊急の電話?」
 妖音が、霊華を振り返ることなく訊いた。霊華も雷におびえるように身を竦め、窓の外に目をやりながら答える。
「ここの薬局薬剤師の先輩から。病院の総合診療科の木村先生という方が、病棟で倒れられたというの。私様子を見てこなくちゃ」
 すると妖音はようやく、窓から霊華に視線を移した。
「変ね。木村先生なら、さっきこの部屋に顔を出されたわよ」
「え? 木村先生が?」
「ええ。でもあなたが電話中だとわかると、何も言わずにそのまま出て行ったわ」
「本当? さっき確かに圓さんは電話で、『木村先生が病棟で倒れた』と言っていましたけれど」
「さあね。何かの間違いじゃないの」
「妖音さん。あなた、木村先生を知っているんですか」
 霊華が訊ねると、妖音は蒼白い顔の頬をなぜか幾分赤らめながら
「前にこの病院の当直をお手伝いした時にお会いしたわ。まだ若くて素敵な先生ね」
 妖音の意外な言葉に、霊華は目を見張る。
「ええ、若い看護師さんの間では評判の先生です。でも近じかご結婚されるそうです。この薬局の薬剤師であり、さっき電話をよこした私の先輩でもある圓魂緒さんと」
 ふと妖音の顔を見た霊華の心臓は、一瞬凍りついた。さっきの彼女の微笑みは表情から失せ、そこには残忍で冷酷な嫉妬の顔があった。
「知っているわ。でも木村先生はこの結婚にあまり乗り気ではないのよ」
「妖音さん。どうしてそんなことを……」
 だが霊華の問いが聞こえなかったのか、妖音は黙ってまた窓に流れ落ちる雨の方に目をやった。
 その時であった。
落雷を、霊華は全く予期していなかった。
ドーンというものすごい音と地響きが薬局のあたりを直撃し、ガラス窓がビシビシと鳴った。
「きゃあっ」
 咄嗟に霊華は叫んだが、それきり彼女の体からは現実の世界が遠のき、霊華はばったりと床に倒れこんだ。
「霊華さん、霊華さん……」
 耳元で妖音の呼ぶ声が聞こえたようであったが、霊華はそのまま意識を失っていった。

  五

 一年前の夏だった。
 谷仲霊華は、水野病院薬局の調剤室にて院内処方せんに基づく散剤の調剤に余念がなかった。霊華の隣りでは、その日同様に調剤業務に当たっている先輩薬剤師の圓魂緒の姿があった。
 霊華の手元にある処方せんは、生後一歳に満たない男の子に対して出されたもので、ジゴキシンという心不全の治療薬がメインの処方であった。この薬物は心臓の収縮力を高め、全身のうっ血状態を改善する薬で、心不全の症状を呈する患者に処方される。
 しかしながら、悪心、嘔吐などの副作用があり、さらには過量によっていわゆるジギタリス中毒を起こし、心毒性から死に至る危険性もはらんだ薬物である。
 生後一歳に満たない患児にジゴキシンを処方する場合、通常は錠剤ではなく散剤で調剤する。錠剤は小さな子供では飲みにくいし、散剤の方が賦形薬によって投与量を細かく設定できるからだ。なお賦形薬とは、主薬成分ではなく薬剤のかさを調節するためのトウモロコシでんぷんのような成分をいう。
霊華の働く水野病院の薬局では、ジゴキシンの散剤はあらかじめ千倍散と一万倍散が調製されていた。
倍散とは、主成分であるジゴキシンの粉末を賦形薬の粉末で希釈した薬剤のことをいう。千倍散は散剤一グラム当たり一ミリグラムのジゴキシンが、一万倍散はその十分の一の〇・一ミリグラムのジゴキシンが含まれている散剤である。ミリグラムは千分の一グラムである。
 これらを取り間違えると、患者に十倍量のジゴキシンを投与することになり、生命にかかわる。霊華は一万倍散の方を慎重に選んで処方せん通り調剤し、これを小児病棟の看護師に届けた。
 ところが霊華の調剤したジゴキシン散剤を服用した患児が、二日後に心不全で死亡したのである。その後、亡くなった患児の病理解剖が行われ、血中から過量のジゴキシンが検出された。
 病院の医療過誤調査班が、当該処方の調剤を行った霊華の重大な調剤ミスを指摘し、霊華は相当の処分を受けた。
それからというもの、霊華は薬局のスタッフからも世間からも「重大なミスを侵し患者を死なせた」薬剤師として冷たい目で見られながら、今日に至っていた。
しかし霊華には、自分が間違えていないという確信があった。自分が調剤に使ったジゴキシンの倍散は、確かに千倍散ではなく一万倍散だったのだ。
それなのになぜ、患者には十倍過量のジゴキシン散剤が渡ってしまったのか。薬局の先輩だった圓魂緒は、
「重大な過ちだったことは確かだけれど、やってしまったことは仕方ないでしょ。二度とこのようなことが起きないように心して、これからの仕事に励めばいいのよ」
と慰めてくれたが、霊華の心には響かなかった。
沼尾薬局長は、部下がとんでもないミスを犯したばかりに自分がどれほど謝罪し人に頭を下げたかを、霊華の前で延々と述べた。だがその一部たりとも、霊華の耳には入ってこなかった。
むろん患者さんとその家族への申し訳ない思いはある。それどころか、その沈痛な気持ちは毎日増すばかりである。そのために霊華はこれまで何回、自らの命を絶とうと思ったことか。
だが霊華には、ことの顛末にどうしても納得できないところがあった。

「霊華さん、霊華さん……」
 自分を呼ぶ声に、霊華はようやく目覚めた。
薬局棟の近くに落ちた雷で、どうやら意識を失っていたらしい。目の前に、青白い顔をした妖音の姿があった。
 妖音に抱き起され、椅子に座らされると、霊華は額に手をやった。頭が重い。意識はまだもうろうとしていた。
「妖音さん。ここは……」
「大丈夫? 当直室よ。落雷があって、あなたはその直後に倒れたのよ。覚えていない?」
 霊華はうつむいていた顔を上げ、窓の外を見た。
時々まだ稲光を見たが、光ってから雷音が届くまでの時間がだいぶ延びていた。雨はなお降り続いていたが、霊華が気を失う前の窓を洗うような激しさはなかった。
「そうでしたね。覚えています。でも私、雷が怖くて……」
「無理しなくていいわよ。薬局の方は私が見ているから、あなた少し奥で休んだら?」
「ありがとうございます。でも大丈夫」
 言って何気なく妖音の顔に視線をやっていた霊華は、
「おやっ?」
と思った。妖音の長い髪が濡れているのだ。椅子に掛けているその足元にも、ぽたりぽたりとしずくが落ちていた。
「妖音さん。髪が濡れてるみたい。風邪をひくから、早く乾かした方がいいですよ」
 言われて妖音は、自分の髪をちょっと手で梳いてから、
「さっき様子を見に外に出て濡れちゃったのよ。これくらい大丈夫よ」
そう説明すると、霊華の方に目をやった。
そこで二人はしばし無言で見つめ合った。その何気ないお互いのしぐさが、偶然沈黙を作る形となった。
(このひとの心の中には何もない)
その時の霊華には、妖音の存在がそんな風に感じられた。
そうして沈黙をやぶったのは霊華だった。唐突に彼女は言った。
「次のお話が聞きたいわ……」
「え……?」
 妖音が意外そうな表情で尋ね返すと、霊華は微笑んだ。
「次の話し手は、妖音さんですよね。あなたのお話を、もっと聞きたい」
 しばし怪訝な顔で霊華を見ていたが、妖音はおもむろに不敵な笑顔を返した。
「あなたも興が乗ってきたみたいね。いいわ。それじゃあ次は、もっと恐ろしい話をしましょう」




第三章 学校のプールの怪


  一

 これは東京の下町で起こった、なんとも気味の悪いいやな話です。
そこは古い家並みが続き、夜になると神社のイチョウやクヌギの樹が巨大な黒い影となって、ざわざわというまるで胸騒ぎそのもののような音を立てながら街全体を包み込んでしまいます。
街灯と街灯の間隔はやけに長く、歩いていると明かりはすぐに後ろへ遠ざかって足元が暗く見えなくなってしまいます。そうしてまたずいぶん歩いてから、ようやく次の街灯の光が足元を照らし始めるのです。感覚を頼りに真っ暗になった足元に注意しながら先へ進むと、暗闇に目が慣れたころになってやっと次の明かりに出会える、といった具合です。
特に、町立中学校の校庭近くを周回するようにのたうつ狭い道路は、近隣の家の明かりもほとんど届かず、不注意に歩いていると足元に突然水が流れる溝が現れるといった危険な場所もありました。
その道を、二十代後半くらいの年齢の会社員の女性が、おぼつかない足取りで歩を進めていました。
女性は名を上川京香といい、同じ会社のある男性と結婚の契りを交わしていました。京香は細面にすらっとした姿態で、黒髪を背まで伸ばし、会社でも評判の美人でした。
その晩は秋風が冷たく、早くアパートの部屋に帰ってストーブの火で暖まりたいくらいに彼女の体温は下がっていました。上川京香はコートの襟を立てながら、町立中学校の敷地を左手に見て、暗い夜道の家路を急ぎました。
気がせいている時は、家がますます遠のくような不安に駆られるものですが、この時の京香の心中もまさにそんなところでした。
すると突然、中学校の敷地の方から、バシャン、バシャン……と、水を叩くような音が聞こえてきました。
歩く足元からふと音のする方へ目を上げた京香は、左手にコンクリートの壁とその上に立つ金網の塀を見やりながら、そこで立ち止まりました。
道端の電柱に取り付けられた明かりが、ぼんやりとあたりを照らしています。
コンクリートの壁の向こうでは、バシャン、バシャンと相変わらず誰かが水の中でもがいているような音がしていました。
その道は京香の通勤路でしたので、彼女はそのコンクリートの壁の向こうに何があるのかを知っていました。そこには中学校の屋外プールがあったのです。
街灯の明かりを頼りに腕時計を見ると、午後十時を過ぎています。
「こんな時間にいったい誰だろう」
 ひとり呟くと、京香は水音がする方に歩み寄って耳をすませました。
すると、水音はドボン、ドボンというようにだんだん重く変化しており、今ではさっきよりもより深いところから発しているようでした。
 そして驚いたことに、その水音に交じって突然、若い女性が助けを求めるような声が聞こえて来たのです。
「助けて……助けて……」
 その声の後には、ゴボゴボッ……という、人がもがいて沈んでいくような音がしました。
「誰かがおぼれている」
 とっさに声に出して叫んだ京香は、中学校の裏門の方に駆け出しました。その時京香がいた場所は、中学校の正門よりも裏門の方が近かったからです。
彼女は必死に走ると、裏門から屋外プールの入口へと急ぎました。そして頭の中では絶えず、
(こんな時間にこの寒さの中で、なぜプールなんかに人がいるの)
 という疑問が渦巻いていたのです。
しかし一方で、
(中で溺れている人がいるのに放っておくわけにはいかない)
という正義感も胸の中に湧いていました。
 普通、誰も入ってない中学校の屋外プールの入り口には、鍵がかかっているはずです。京香は金網を乗り越えてでも助けに行かなくてはという思いで、まずは入口のドアを確かめるためにそちらに回り、ドアノブをひいてみました。
そうしたら、あにはからんやドアは難なく開きました。
考えてみれば、中で溺れている人はおそらくこのドアを抜けてプールに入ったのでしょうから、今ドアに鍵がかかっていなくても不思議ではないのです。
これ幸いと、京香はドアを開けて入り口から中に飛び込み、着替え室やシャワーのある通路を走り抜けてプールサイドに出ました。そしてそこに並んでいた水泳補助ボードを一つつかむと、まずはそれを水の中に放り投げるべく、水音がした方のプールサイドに駆け寄りました。
ところがそこで京香ははたと気が付いたのです。
プールには一杯の水が張られていましたが、今その水は音を立てて波打つどころか、水面は鏡のように静かで、揺れ一つありません。
京香はプールサイドを右往左往しながら、水の中の様子を必死で探りました。しかし水面は何事もなかったかのように微動だにせず、またプールの周囲もしんと静まり返っていました。
水の中は真っ暗で、道端の電柱に取り付けられた心もとない明りが、わずかに京香の足元に届いているばかりでした、
「どうしたのかしら。さっき聞いた水音と助けを呼ぶ女の人の声は、いったいどこから聞こえてきたのだろう」
 キツネにつままれたように不思議に思いながら、京香がプールサイドから立ち上がろうとした時でした。
水の中にその物が見えたのです。
 プールの底の方でうごめいている、漂う海藻のような何か。そしてやがてそれは、ぐっと水面に近づいてきました。
そして暗く透き通った水の中にはっきりと、京香の目に飛び込んできたのは、白い女の顔でした。
まるで魚のような周縁のえぐれた両目を突き出し、もがくように口を大きく開け、長い黒髪をゆらゆらとゆらしながら、女の恐ろしい顔はもう水面に届いていました。
と思ったのもつかの間、突然白い手が水中から外に突き出てくると、その手は京香の髪をわしづかみにし、恐ろしい力で京香の体をぐいと水の中に引っ張り込んだのです。
叫ぶ間もなく、ドボンという音とともに京香の体は水中に没しました。
京香はもがきました。
水の中は真っ暗で何も見えません。しかしさっきつかまれた髪の毛は、ますます強い力によって京香の頭を、体を、プールの底の方へぐいぐい引きずり込んでいきます。
得体の知れぬものに襲われ、そのままおぼれ死ぬという恐怖。水の中で声も出せぬまま、京香は必死に手足をばたつかせました。
すると幸運にもその足が水中の化け物の頭部をけり下ろしたようで、一瞬髪の毛をつかむそいつの手の力が緩みました。
それを機に京香は捕まれていた自分の髪の毛を何者かの手からひき戻し、両手で水をかいて水面に躍り出ると、プールの縁をつかみ寄せ必死の思いで水から這い上がりました。

  二

 ずぶ濡れのまま、京香は逃げました。
背後ではまだドボン、ドボンと重く水をかく音が聞こえていましたが、京香は後ろを振り返ることなくプールサイドを走り、シャワーのある通路を駆け抜けました。さらに脱衣所を通って入口のドアを出ると、ドアを思いきり閉めました。
京香はなおも走って十メートルほどプールから離れてから、そこでようやく後ろを振り返ってみました。
 何もいません。プールもその周辺も、何事もなかったかのようにしんと静まり返っています。
「今のは何……」
 息を切らしながら、京香は自問します。
夢などではなかった証拠に、今京香は頭から足の先までずぶ濡れでした。水中の女につかまれた髪の毛を触ってみると、そこから水がしたたり落ちました。
京香はもう一度、プールの方向を見回しました。
電柱に取り付けられた電灯が、ぼんやりとあたりを照らしていましたが、人影はありません。遠くでかすかに、電車の通る音がしました。
京香は急に恐怖を感じ、アパートの方角に向かって逃げるように駆け出しました。
誰かが後ろから追いかけてくるような、何かが背中にまとわりついているような、そんな感覚も振り払って、京香は夢中で走りました。
京香の部屋は、八室あるアパートの建物の一階、一番奥でした。隣の部屋の明かりは消えていました。
京香は手にした鍵でドアを開け、中に入るとバタンという音を立ててドアを閉めました。
部屋は六畳のキッチン、六畳の居間、四畳半の寝室があり、それにバス、トイレが付いていました。玄関からキッチンに上がると、フロアに水滴がぽたぽた落ちました。
「このままでは風邪をひく」
 そう思った京香は、早速風呂のオートスイッチを入れて風呂を沸かし始めると、着ているものをすべて脱ぎ、新しい下着に着替えてバスローブを羽織りました。そうして風呂が沸くのを待ちましたが、寒くて震えている自分に気付くと、ガスストーブのスイッチも入れました。
 ようやく体が温まってきたころ、京香は帰宅途中にあの屋外プールで遭遇した恐ろしい出来事を思い返していました。
(プールでは確かに誰かがおぼれていた。助けを求める声を聞いた私は、プールサイドまで行ってみたのだ。
でも誰かがおぼれている様子など、全くなかった。それなのに、突然水の底から出てきたあれは一体何だったの……)
京香は身を震わせながら、あの化け物がなぜプールの底にじっと潜んでいて、自分を水の中に引きずり込もうとしたのか、あれこれ考えました。
(いいえ。もしかしたらあれは化け物でもなんでもなくて、本当にプールの底で溺れかけていた人が、苦しまぎれに最後の力を振り絞って水から飛び出ようとして、たまたまそこにいた私の髪をつかんだのではないか)
 京香は、そんな風にさえ思ってみました。
(やはり誰かに応援を頼んで、もう一度あの人を助ける努力をしてみた方がよかったのではないだろうか)
しかしその場面をもう一度思い返してみると、あの女の人が自分に対してわらをもすがる思いで水の中から手を突き出したという考えは、どう善意に解釈しても無理があると思えてくるのです。
(あの手は確かに私の髪をつかんで、水中に引きずり込もうとしていた。恐ろしい力で、そして恐ろしい素早さで……)
しかもいったん京香を水中に引きずり込んだら、二度と自ら上がらせまいと、あの白い手にはそんな意図すら感じられたのです。 
 不意に女の声が室内に響き渡りました。
一瞬びくっとして身構える京香。
しかしその声は風呂が沸いたことを告げる自動音声でした。

  三

 一人住まいの京香は、入浴前には必ず玄関のドアの鍵が ―ドアノブのシリンダー錠とチェーン錠の両方が― きちんとかかっていることを確認してから服を脱ぎます。
その晩も、いつもと同様二つの錠を確かめ、キッチンの部屋の明かりをつけたまま浴室に入りました。
 脱衣所でバスローブと下着を脱ぎ、そこの照明もつけっぱなしにしておいて浴室の明かりを点灯すると、浴室に入って中から鍵を掛けました。
自分以外に誰もいない部屋のバスルームの開き戸に鍵をかけるなんて、全く無意味なことだと思いながら、なぜかその時にはそうするのが良いと京香は思ったのです。
 寒さで凍える体を湯舟につけ両足を伸ばすと、ようやく生きた心地がしてきました。しかし頭からは、さっきの恐ろしい体験がまだ去らずにいました。
 京香が一番心配していたことは、あのプールの底に、今でもあの女の人が海藻のような黒く長い髪を漂わせながら沈んでいるのではないか、という考えでした。
(もしそうだったら、自分は溺れかけていた人を見捨てて逃げてきてしまったのかもしれない。でもなぜあの女の人は、こんな寒い晩に中学校のプールの中なんかにいたのだろうか)
 そんな思いが彼女の胸中を錯綜していた時でした。
 突然、浴室の明かりが消えたのです……
曇りガラス戸を通して脱衣所の明かりが浴室にも届いていたはずなのですが、今はそちらも真っ暗です。
「停電?」
 何の予兆もなく消えた照明を恨むように、京香は天井を見上げました。
バスルームの照明は、再び灯る気配がありません。
でもその時バスルーム内は、真っ暗闇ではありませんでした。
バスルームには小さな窓があって、そこから外の明かりがうすぼんやりと入ってきていたのです。
その辺一帯が停電していたのなら、外の明かりも消えて真っ暗なはずです。ですから、明かりが消えたのは、京香の部屋だけなのです。
外からの明かりで、バスルーム内の様子がうすぼんやりと、物の位置がわかる程度に京香には見えました。
ゴボリ、ゴボリ……
バスタブ内で何か音がします。
「な、何?……」
ゴボリ、ゴボリ……
バスタブに伸ばした足の下あたりから、何かが盛り上がってきました。
京香は思わず両足を引っ込め、身を丸くして湯舟の中に目を凝らしました。すると
「ざばあああ……」
 と水音を立てながら、京香の目の前に突然髪をずぶ濡れにした白い女の顔が現れたのです。
薄暗がりの浴室の中にあって、なぜか大きく見開いた眼と赤い口がはっきり見えました。
あまりのことに声も出ず、とっさに立ち上がろうとした京香の首に、女の両手が伸びました。
その両手が、京香の首をしっかりと捕まえて離しません。叫び声を上げる間すらありませんでした。
恐ろしさと苦しさでもがく京香。
しかし女の手は凄まじい力で京香の首を絞め続けます。
やがて京香は、顔も頭も、全身湯の中に沈められていきました……

浴室で京香の溺死体が発見されたのは、それから数日後のことでした。
京香と連絡が取れなくなった会社の上司がアパートを訪ね、郵便ポストに新聞がたまっているなど様子がおかしかったため大家さんに連絡しました。やがて上司と大家さんの二人でアパートのドアの鍵を開け、チェーン錠も断ち切って中に入り、そこで初めて事件が明るみになったのです。
一方それと時をほぼ同じくして、中学校の屋外プールを点検していた学校の教諭が、プールのある異変に気付きました。
プールの水は澄んでいてきれいでしたが、プールサイドの水の中に降りるステップ周辺に、女のものと思われる黒く長い毛髪が多数絡みついていたのです。また髪の一部は、ステップのすぐそばの水面にゆらゆらと揺れて浮いていたということです。
驚いた教諭は、ステップ周辺やプールの水の中をよく目を凝らして見たそうですが、長い髪の毛以外には、特別目を引くものは何も見つけられませんでした。

  四

「なぜですか? なぜ京香さんは殺されたのですか」
 妖音の話が終わると、霊華はすかさず訊ねた。
妖音は下を向いたまましばらく黙っていたが、やがて霊華が質問していたことを思い出したかのように、おもむろに口を開いた。
「殺されたかどうかもわからないのよ。京香さんの死体を発見した会社の上司と大家さんが警察に連絡し、現場検証や検視が行われたのだけれど、死体に外傷はなく首を絞められた痕もなかったそうよ。加えて京香さんの部屋は、ドアも窓も厳重に鍵がかけられていて、仮に何者かが彼女を殺害したのだとしても、犯人がどうやって密室から逃走したのかという謎が残るわ。
彼女の遺体は、一応不審死として司法解剖も行われたのだけれど、死因は溺死だった。ちなみに遺体の肺の中にたまっていた水も、バスタブに溜まっていた水と考えて矛盾はなかったとのこと……」
「つまり、他の場所で溺死させられてから、遺体が京香さんの部屋のバスタブ内に放置されたとは考えられないと……」
「ええ」
「自殺や事故ではないのですか」
 なおも納得できずに霊華が訊くと、妖音は吸い込まれるような黒い瞳でじっと霊華を見つめた。
「この事件に対する科学的な解決を試みるのは結構よ。でもこのお話に出てくる京香という女性は、確かに見たのよ。プールの底や風呂の湯の中から現れた女の怨霊を」
 その言葉に霊華はしばし黙した。
そんなことが本当にあるのだろうか……
やや間をおいてから、霊華は意を決して訊いてみた。
「妖音さん。あなたこそ、どうしてそれを知っているの。京香さんがお風呂に入っているときに、その湯の中から女の怨霊が現れて京香さんの首を絞めたという話。
その時そこにいたのは京香さんだけだったのでしょう。あなたはその場所にいなかったわけだし、京香さんが怨霊に殺されたなどと、それこそ私を怖がらせるための作り話にしか過ぎないのでしょう?」
 霊華の視線は真っすぐ相手の表情をとらえていたが、妖音はその視線をかわすように下を向いた。その顔には薄笑いが浮かんでいた。
やがて妖音はもう一度面を上げて霊華を見ると、急に声を上げて笑い出した。
「そんなに怖い顔をして睨まないで。これはお互いの眠気を覚ますためのただの怪談話。もしこれが本当の話だったら、あなたの言う通り、京香さんが亡くなった以上この話の真相を語れる人はこの世にいないことになるわ」
 妖音はまだ笑っていたが、霊華は笑う気になどなれず、怪しい美しさを漂わせる妖音の白い顔をじっと睨み続けていた。
するとふと霊華は、さっきの圓魂緒からの電話のことを思い出した。
「総合診療科医師の木村漣がどんな様子か、また電話するからそれまでに確かめておいてほしい」
旨、圓は言っていた。
妖音の言うには、木村医師は少し前に薬局にやってきて、霊華が電話で話中だったことを知るとまた病棟へ戻って行ったとのことである。
してみると、木村が病院で突然倒れたという話は何かの間違いだったのかもしれない。ともあれ、
(圓から頼まれたことを確認するため総合診療科に電話を入れてみなくちゃ)
と霊華は思った。
当直室の壁時計を見ると、午前零時をちょうど回ったところだった。
妖音を当直室に待たせたまま、霊華は調剤室の電話を取った。
「ああ、谷仲さんか。こちらから連絡しようと思っていたんだけれど、先に電話をもらっちゃったみたいだね」
 電話口から、少し眠たそうな木村の声が聞こえてきた。
「木村先生。お休み中でしたか? すみません」
「ああ、いやいや。ちょっとうつらうつらしていたものだから。で、何か僕に用だった?」
「いえ……。ただ、少し前に先生が薬局の方に来られたとか」
「ああ、そのことか。いやなに、大したことじゃなかったんだが」
「おっしゃってください。今薬局は手が空いておりますので、何かお役に立つことでしたら……」
「ああ、いやそういうことではないんだ。実はね」
「はい?」
 そこでしばし言葉のない時間があった。その不自然さに気づいた霊華が、先に言葉を継ごうとしたとき、ようやく木村が口を開いた。
「一時間ほど前に、夜勤の交代で総合診療科の病棟に入って来た看護師の西之城さんがね」
「はい……」
「柳町通りの信号のあたりをふらふら歩いている君を見たというものだから」
「えっ……」
「だから僕は言ってやったんだよ。谷仲さんは確か今日は薬局の当直だから、午後十一時を回ったころに柳町なんかをほっつき歩いているはずはないとね」
 柳町通りから水野病院までは車で二十分以上はかかる。霊華は当直でずっと薬局にいたのだから、それは人違いだろう。
その旨を告げると、木村は電話口で笑いながら
「そうだろう。僕も西之城さんの見間違いだろうと思い、そう言ってやったんだよ。でも彼女は、あれは確かに当院の薬剤師の谷仲さんだったと言い張るんだ。西之城さんは、夜勤交代のために車を運転してこちらの病院に来る途中、柳町通りで確かに君とすれ違ったと言っているんだ」
「……」
「それで話は戻るが、君はそのころ薬局にいたわけだからそれをこの目で確かめに行こうと、薬局に行ってみたのさ」
「はい……」
「で、間違いなく君はそこにいた。電話中だったけどね」
 話はそれで終わった。
電話を切った後も、霊華は何か不思議な思いに駆られ、その場で立ち尽くしていた。
だがともかくも、木村は無事の様だった。
圓が電話で木村の様子を心配していたが、あれは圓の勘違いだったのだろう。今度彼女が電話をかけてきたら、そう言って安心させてあげよう。
でもなぜ彼女のために私がこんなことを?
胸中に少しばかりの不満が涌いてきたその時、当直室の方から声がした。
「霊華さん。電話は済んだの? 今度はあなたの番よ。さあ、もっと怖い話を聞かせて」
 霊華は訝しい気持ちを振り払い、妖音の声に導かれるようにして当直室に戻った。




第四章 水が怖い


  一

 その人黒田沙耶さんは、地方都市の私立大学に通う、ごく普通のお嬢さんでした。
地方から東京や大阪の大学に通う学生が多い中、黒田沙耶さんはその反対でした。つまり、彼女の出身は東京なのですが、通う大学は長野市内の文系の大学なのです。
たくさんの新しいファッションにあふれ若い人たちの興味が尽きない東京の街が、むしろ彼女の性には合わなかったというのが、彼女が進学先に信州の大学を選んだ理由の一つであることは確かです。
しかしそれ以上に沙耶さんが東京を離れたいと思ったのは、彼女が小学校時代に経験したある出来事に端を発していました。
黒田沙耶さんが子供のころ通っていた小学校は東京都文京区内にあり、そこは歴史ある名門のお嬢さん学校でした。木造の校舎は古く荘厳で、生徒たちはみな制服を着て学校の厳しい戒律のもとに勉強に励んでいました。
その小学校の校門を入った正面玄関前には、この学校の由緒正しさを象徴するような創始者の立派で威厳のある銅像と、その足元に広がる池を要する庭園がありました。
庭園の周りには丸く細かい砂利が敷きつめられていました。正門から学校の敷地に入るとこの砂利を踏んで池を回り、正面玄関に行き着くようになっていました。
子供たちが学ぶ二階建て校舎は、正面玄関から見て翼を広げた鶴の様に左右に延びており、生徒たちはみな学び舎の窓から創始者の銅像や池を眺めることができました。
それは、黒田沙耶さんがこの小学校の三年生で、季節は暖かな日差しが降り注ぐある初夏の日のことでした。
沙耶さんの席は正門から銅像や池に向かって右手にある校舎の二階の窓際で、そこからはちょっと顔を突き出すと池のあたりの様子が良く見えました。
沙耶さんは、勉強に飽きてくるとよく窓から銅像や池の周辺を眺めて、眠気を覚ましたものです。でもそんなところを先生に見つかったら大目玉を食うので、さぼるのは先生が黒板に熱心に何かを書いているわずかな時間に限っていました。
その日もそろそろ勉強に飽きてきて、先生が黒板に何か文章を書き始めたとき、沙耶さんはあくびを噛み殺しながら窓の外を見やりました。いつものように沙耶さんの目には、あの銅像と池、生け垣の周りの草花などが眩しく入ってきました。
池は六メートル四方くらいの大きさで、深さは五十センチメートル足らずでしたが、睡蓮の葉が池いっぱいに広がり、そこここに白やピンクの大きな花を咲かせて輝いていました。
ふと沙耶さんが良く目を凝らすと、池の真ん中あたりに大きな人形が浮いていました。おかっぱ頭のその人形は、赤い服に青いスカートをはいて、うつぶせになって睡蓮の葉に囲まれながら池を漂っていました。
しかしやがて、その人形の様子がどこかおかしいことに沙耶さんは気づきました。第一、そんなに大きな人形など沙耶さんは見たことがありません。何しろその人形の大きさは人間の女の子くらいはあったのですから。
「沙耶さん。またよそ見をしていたでしょう。ちゃんと先生の方を見てください」
 不意に教壇から声がしました。でも沙耶さんはその呼び声に振り向くこともなく、池の方をじっと見下ろし続けていました。
「沙耶さん。聞こえないんですか」
 クラスのみんなが窓際に座る沙耶さんの方を見ましたが、それでも沙耶さんは微動だにせず、あいかわらずじっと池を見つめています。
やがて沙耶さんは池の真ん中あたりを指さすと、大きな声で叫びました。
「先生。あそこにだれか浮いています」
 それから学校中が大騒ぎになりました。
用務員のおじさんが、池の端から長い鍬のようなものを伸ばし、池の真ん中あたりに浮いていた小さな女の子を手繰り寄せ、助け上げたのですが、女の子はすでに死んでいました。溺死でした。
死ぬ前にもがいたのか、目は瞑っていましたが眉間にしわを寄せて苦しそうな表情をしていました。
 そして何よりも驚いたことに、その女の子は沙耶さんのたった一人の妹だったのです。
 沙耶さんの家は学校の近くにありました。
沙耶さんの妹はまだ五歳でした。
その日は家で遊んでいたはずなのですが、どうしたことか一人で学校まで歩いてきて、そこで池の中にきれいな睡蓮の花を見つけたのでしょう。それを取ろうと思って池のふちから手を伸ばしたところ、小さな子供のことですからバランスを失って、そのままうつぶせに池の中に落ちたものと思われました。それが警察の見解でした。
でも沙耶さんはあの時、二階の校舎の窓からちょくちょく池の方を見ていたのですが、妹の姿など全く気が付きませんでした。もし気が付いていたら、もっと早く助けに行ってあげられたのに……

  二

 その事件があって以来、沙耶さんはショックと悲しみで池を見るのも嫌いになりました。そうして池だけでなく、妹を殺した水そのものまでもが、沙耶さんには怖くて怖くて仕方がなくなってしまったのです。
いったん水が嫌いになると、その兆候は日を追うごとにますますひどくなりました。海や湖や学校のプールはもとより、お風呂や水たまりの水を見ただけでも全身が震えてくるのです。
家ではお風呂に入れず、仕方なくシャワーを浴びました。それでも怖くて、シャワーをかけている間はずっと目をつむったままでした。トイレの水も怖くて、トイレは早く済ませました。
コップに注いだ水が飲めず、代わりに目を瞑ってお茶やジュースを飲みました。雨の日は外に出られず、家の中で過ごすようになりました。
友達は、そんな沙耶さんを気味悪がって、みんな彼女から離れていきました。沙耶さんは一人ぼっちになりました。
友達と一緒に遊びや旅行を楽しむ時には、どこへ行っても水が目につきます。それよりは、たとえ孤独でも水のない家の中にいる方がましでした。
それから何年も経たないうちに、沙耶さんの一家は文京区内のアパートからいずこへと引っ越して行きました。でも沙耶さんがいなくなっても、学校でそのことを気にする人は誰もいませんでした。
沙耶さん一家が引っ越して行ったところは長野県内でした。そこでひっそりと、次女が亡くなった心の傷を癒すように、沙耶さんの両親は生活の営みを続けました。
そうして沙耶さんも、何とか希望だった信州の大学に進学することができました。
沙耶さんは、両親のいる家から少し離れた長野市内のアパートを借りて一人住まいを始めました。
沙耶さんが入学した大学が長野市内にあったということも、両親が住む上田市内の家に両親と一緒に住むのではなく、長野市内で一人住まいを選んだ理由の一つです。
でも彼女が家を離れることになったもっと大きな理由は、はやり亡くなった妹に関わることでした。
小学生の頃に遭遇した妹の死がずっと頭から離れず、沙耶さんは両親と話をしている時にも妹のことが頭に浮かんできてしまいます。
沙耶さんにとって妹は小さな可愛い存在でしたから、家にいると何かと妹の話題に触れることになって、その都度悲しい思いをぶり返さなくてはなりません。
そのことを口に出して両親に言ったことはないのですが、そんな訳で面と向かって両親と話をするのも嫌になり、とうとう沙耶さんはアルバイトをしながら一人住まいをすることに決めたのです。両親は、沙耶さんと亡くなった次女の話をすることをわざと避けていたようですが、その気遣いが返って沙耶さんを苦しめていたのです。
両親も沙耶さんの気持ちを理解しようと努めました。そして水を怖がる沙耶さんのことを、両親は心配していました。
両親は、次女が不慮の事故で亡くなって、本当はその穴を沙耶さんに埋めてほしかったのでしょうが、結局は沙耶さんの気持ちを第一に考えて彼女の好きにさせてくれました。
沙耶さんが住み始めた長野市内のアパートは、市街地からやや外れた自然の豊かな場所に建っていました。でもそこは、夜になると周囲に明かりが少なくてちょっと寂しいところでした。
沙耶さんの部屋は、八室あるアパートの棟の一階で、左から数えて二番目の部屋でした。
アパート自体は築二十年と年季が入っていました。それでも、各室は六畳のダイニングキッチンと八畳の居間それに寝室の合計三室ある少し贅沢なアパートで、四人家族でも暮らせるほどの、沙耶さんには広すぎるくらいの佇まいでした。
ただ、居間兼寝室の南側の窓を開けると、庭の右手の方に小さな池が見えました。その池に気が付いて以来、沙耶さんは決して南側の窓を開けようとはしませんでした。もちろんそれは、妹の悲しい事件を沙耶さんに思い起こさせるとてもいやなアイテムに他ならなかったからです。
大学の授業は沙耶さんにとって興味あるもので、一緒に授業を聞く友達も一人二人できました。このように、これまでの学校生活の中で引きこもりの多かった沙耶さんにとって、そこは久しぶりに与えられた憩いの場だったのかもしれません。
そうして平穏な環境に落ち着いた沙耶さんは、最近では水が怖いという感情も少し和らいだのではないか、と自分で思い始めたくらいでした。
そんなある日のことでした。
季節は、そう、沙耶さんの嫌いな雨の多い梅雨でした。

  三

 町の郊外に立地するそのアパートは、喧騒からはおよそかけ離れた静かな住宅街の一角にあり、夜になるとあたりには物音ひとつしません。
沙耶さんは学生でしたから、考えようによってはその方が気が散ることなく勉強は進むし、夜寝る時も物音に悩まされることがなく良いのかもしれません。しかしあまりに静かすぎるのも、かえって落ち着かなくなるものです。
 その夜沙耶さんは、ふと何かの音に目を覚ましました。
就寝前まで降っていた雨は止んで、雨音さえもしない中、沙耶さんの耳にはザーザーと水が流れるような音が響いているのです。耳をすませると、水の音はますます大きくなってきます。
「水道の蛇口を閉め忘れたのかしら」
 沙耶さんは布団から出て、寝室のドアに歩み寄りました。
南側のカーテンを通して、外の明かりが室内に漏れ入っていました。そのぼんやりとした明かりに照らされ、部屋の照明をつけなくてもドアの位置は大体分かるのです。
 ザーザーと水が流れる音は、相変わらず比較的近くから聞こえています。
結局部屋の電気をともすこともなく沙耶さんはドアを開けると、そのままそっと居間を通って音のする洗面所の方に向かいました。
 そこで急に沙耶さんの胸に不安が湧き上がりました。
水が怖い沙耶さんは、水道の蛇口を閉め忘れて寝てしまうことなど考えられないからです。
「それではなぜあんなに勢いよく水が流れ出ているの」
 恐る恐る洗面所に入ると、壁の照明スイッチを入れました。そして洗面台の蛇口を見ると……
 水など出ていません。
蛇口からはぽたりとも水が落ちた形跡はありませんでした。
さっきまで耳の中に響いていたザーザーという水音も、気が付いてみればぴたりとやんでいます。
 不思議に思った沙耶さんは、シンクに手を当てて水の痕跡を探りました。しかしシンクの表面は乾いていて、もう何時間もそこに水が付いていなかったことを示していました。
(気のせい?)
 さっきの水音は、耳鳴りか幻聴だったのか……。
沙耶さんは自問してみましたが、どうにも納得がいきませんでした。寝室で目が覚めた時から洗面所に来るまでの間、確かに蛇口から激しく流れる水の音を沙耶さんは聞いていたのです。
 キツネにつままれたような思いで、沙耶さんはもう一度蛇口の栓がしっかりと閉まっていることを確認してから、寝室に戻りベッドに入りました。
それから朝までは何事も起きませんでしたが、沙耶さんはとうとうそれ以上眠れずに朝を迎えました。
ところが、沙耶さんの身の回りに怪異が起こり出したのは、まさにその不思議な出来事があってからなのです。
それから何日か経ったある深夜、沙耶さんがベッドの中でふと目を覚ますと、どこかで大量に水が流れる音がします。ゴーッ、ドドドド……と、かなり激しい音が、沙耶さんの耳に飛び込んできました。
沙耶さんは掛け布団を剥いで飛び起き、音の方に向き直りました。
よく聞くと、トイレの水を流す音の様です。
流れたと思ったら、また次の音がゴーッ、ドドドド……と続きます。それが何回も何回も続いているようでした。
(ここには私以外誰もいるはずがないのに、なぜトイレの水が……)
沙耶さんはたまらず寝室から出ると、洗面所の隣にあるトイレのドアに走り寄りました。すると確かに中からまた水を流す音が聞こえてきます。
トイレの明かりは消えていましたが、沙耶さんは思わず
「だれ? 誰かいるの?」
 と小さく叫んでいました。
中からの応答はなく、またゴーッ……と水を流す音が聞こえてきます。
沙耶さんは、さっとトイレのドアを引き開けました。
そして壁に取り付けてある照明のスイッチをぱっと入れました。
 中には誰もいませんでした。
便器の蓋は閉じられていましたが、中からはごうごうと水が流れていく音が聞こえました。
 沙耶さんは、さっと便器の蓋を開き、少し離れたところから中を覗きました。
 便器の中はきれいでした。少したまった水も、波紋を作ることなく静かにそこに佇んだままです。
(さっきまでごうごうと音を立てていた水は、いったいどうしたことだろう)
 不思議に思いながら、蓋を閉じようとした時でした。
便器の中の排水溝の奥から、ゆらゆらと黒い何かが浮いてきます。
沙耶さんは目を凝らしてそれをよく見ました。
 海藻のように排水溝の底から浮き上がってきたものは、長い髪の毛の束でした。だんだんと数を増やし、ついには排水溝にたまっていた水が黒くなるほどに、人の髪の毛と思われるものが浮き出てきます。
「きゃあ……」
 思わず小さく叫び声をあげた沙耶さんは、とっさに壁に取り付けた指示パネルに触れ、水を流しました。
それと同時に貯水槽から水が流れ落ち、排水溝の黒いものは渦を巻きながら消えていきました。
 そこで初めて恐怖を感じた沙耶さんは、寝室に駆け戻って頭から布団をかぶると、耳をふさいでずっと震えていました。

  四

 次に怪異が起こったのは、それから三日も経たない晩のことでした。
もともと水が嫌いだった沙耶さんは、ここにきて水が関わる不思議な出来事が続いたこともあって、ますます水の流れる音に恐怖を覚えるようになりました。部屋の水道の元栓をきっちり閉めて、どうしても必要な時以外アパートでは極力水を使わないようになりました。
ところがその晩、いつものように午後十時を過ぎたころベッドに入り、眠りに就こうとした沙耶さんを襲ったのは、再び水の音でした。
ザブン、ザブンと、誰かが水の中でもがいているような音が、はっきりと沙耶さんの耳に聞こえてきたのです。
その音は、夜の静寂を破ってだんだんと大きくなり、沙耶さんの寝室の中にまで迫ってくるようでした。
(部屋の水道の元栓は閉まっているのに、いったいどこから水の音がしているの)
 恐怖に駆られながらも、沙耶さんは布団の中から飛び起きると、水の音がする方向に耳をそばだてました。
 すると意外にもそのザブン、ザブンという音は、部屋の外から聞こえてくるのです。
「南側の庭の方だ」
 と、沙耶さんは見当をつけ、寝室の明かりを消したまま南の窓に歩み寄り、窓のカーテンの隙間から外を覗き見ました。
以前、庭に池があることを知って以来、沙耶さんは南側の窓に近づくことすらしなかったのですが、今は激しい水の音に引き付けられるように、体がそして目が、知らずと庭の池の方に向けられているのです。
その晩は月がなく、空はどんよりと雲に覆われていました。庭は薄暗く、目が慣れるまではそのあたりに何があるのかよく見えませんでした。
そこは小さな庭でした。池の周りは生け垣で囲われ、そのさらに向こう側は隣家との境に榊が隙間なく植えられていました。
今その庭には靄がかかり、月もないのにどこからか漏れ入った薄明かりが池の周囲をぼんやり映し出していました。
そしてそこに沙耶さんは見たのです。あのおぞましい化け物を。
池の真ん中に、何かが浮いていました。
大きな人形のようなその何かは、沙耶さんがこれまで押し殺していた子供のころのあの恐ろしい光景を、否が応でも思い起こさせたのです。
うつぶせに池に浮いていたそのものは妹の亡骸でした。学校の正門奥にあったあの蓮池の中で浮いていた、かわいそうな沙耶さんの妹。
ところが沙耶さんがそう思った時、その人形のような物は突然ザバと水音を立てて、池の中から大人の背丈ほどもある高さにまで立ち上がりました。
そしてしたたり落ちる水で池の水面を荒く波立たせながら、その長い髪に隠れた顔をゆっくりとこちらに向けたのです。
「きゃあぁぁ……」
 沙耶さんはその場に凍り付いたまま、小さく恐怖の悲鳴を上げました。
それはあのおかっぱ髪の妹ではなく、全く別の三十歳前くらいの女でした。
 ずぶ濡れの白装束に身を包み、両手をだらりと下げ、海藻のように絡みついた長い黒髪をゆらゆら揺らしながら、髪の分け目の奥からどんよりとした腐った魚のような目で沙耶さんをにらみました。
沙耶さんの記憶にあった出来事はそこまででした。
水の嫌いな沙耶さんが、水の中から現れたずぶ濡れの女の怨霊を見た途端、その神経は耐え切れず、沙耶さんは失神してその場にくずおれたのです。
翌日沙耶さんは、連絡がつかなくなったことを不審に思って訪ねてきた大学の後輩に、気を失って倒れているところを発見されました。
沙耶さんは無事でした。しかし、ここ何日かの間にアパートの部屋で何が起こったのかを、沙耶さんは決して誰にも語ることはありませんでした。

それから間もなく、沙耶さんはこのアパートを出て、両親のいる実家に戻りました。
沙耶さんは時々熱にうなされたように、妹の位牌の前でうずくまったままわけのわからない念仏のような言葉を口の中で発しながら、涙声になっていつまでもいつまでも何かを訴えていたということです。
沙耶さんはそれから半年後に病気で亡くなりました。
周囲では、沙耶さんの死因についてあれこれと噂が立っていました。しかし沙耶さんの死因については、両親が頑なに口を閉ざしていました。
でも心無い隣人は、陰でこんなことを言っていたそうです。
「あの娘は狂水病に侵されていたのだ」、と。

  五

「気の毒な娘ね。水の中から出てきた怨霊に取り殺されることなく助かったのに、結局病気で死ぬなんて」
 霊華の話が終わると、妖音は小さくため息をついた。
(怨霊に取り殺される)
 霊華は妖音の言葉を心の中で繰り返す。
(なんて嫌な言葉……)
「その怨霊は、なぜその池にいたのだろう。それともそれは、沙耶さんの妹の成長した姿だったのかしら」
 妖音の独り言のようなその疑問に、霊華は我に返る。
「沙耶さんの妹の成長した姿?」
 今度は言葉にして聞き返す。
するとしばしの沈黙ののち、妖音は静かに笑い出した。
「ふふふ……。そんなはずはないよね。幼子の幽霊が、時を経ると成長して成人となり、再び姉のもとに現れるなんて」
 霊華は笑わなかった。彼女がなぜこの恐ろしい話を知っていたのかというと、病気で亡くなった沙耶は、霊華の幼馴なじみだったからだ。
 といっても、二人はそれほど仲が良かったわけではない。もともと沙耶は友人を作るのが苦手だったから、小学校のころから彼女には友達といえるような存在はなかった。
 池の中の女の話は、沙耶も霊華も成人したのちに、二人がたまたま長野市内で再会して喫茶店に立ち寄った際に、霊華が沙耶から耳にしたものであった。
沙耶が恐水病に罹っていたかどうかはわからないが、彼女はその時から精神を病んでいたようだ。
そして、それから間もなくして彼女は死んだ。
あの時の沙耶は、常に周りの何かにおびえているようだった。特に水を見ると彼女は顔をゆがめてそこから視線を避けていた。喫茶店の給仕の女性に、テーブルから水を下げてもらうほどだった。
沙耶は本当に恐水病だったのだろうか。
そんな思いが胸に去来し、沙耶を救えなかったなんともやるせない思いに霊華が苦しみを覚えた時、遠くから救急車の音が聞こえてきた。
雷鳴はだいぶ遠ざかっていたが、外はまだ激しい雨が降り続いている。
霊華も妖音もサイレンの音に気付くと、当直室から窓の外を見やった。
救急車のサイレン音は、だんだんと病院に近づいてきて、正面玄関横の救急外来入口のあたりで止まった。
「急患ね」
 妖音がつぶやいた。
「薬局にも処方せんが回ってくるかもしれませんね」
 椅子に座ったまま姿勢を正した霊華が言った。妖音はうなずくと、なぜか口元に怪しい笑みを浮かべた。
「じゃあそれまで、次のお話をしましょうか。今度は私の番ね……





第五章 嵐の夜の戦慄


  一

 その女性を仮にAさんとしておきましょう。
仮名を使う理由は、本人の了承を得ないまま今それを私の口から明かすことができないからです。
 分かってくださってありがとう。
それでは、私からの最後のお話に入りましょう……

 その日の晩、Aさんは仕事を終えて家にいたのですが、突然仕事場から一本の電話をもらいました。
その電話の内容は、Aさんがどうしても今すぐ職場に戻らなくてはならない内容でした。その重大な事態を電話で知ったAさんは、取るものもとりあえず車で家を出ました。
 Aさんは両親と弟の四人暮らしでしたが、その時一緒に家にいたのは母親だけでした。Aさんの父親と弟は勤めからまだ帰っていませんでした。
Aさんは、
「急用ができたので、すぐ職場に戻らなければならなくなった。今夜は帰れるかどうか分からない」
 と言い残し、母親が止めるのも聞かず車のカギと財布の入ったバッグだけを持って、家を飛び出したのです。
 母親がAさんを止めようとしたのには訳がありました。
というのも、その夏の日は折からの雷雲がその地方に迫っており、家の周囲もすでに大嵐を予感させる不気味な稲光に見舞われていたからです。雨こそまだ降ってはいませんでしたが、予報にもあったように間もなく激しい雷雨がその地方を襲うことは目に見えていました。
 しかしAさんは、母親が再三止めるのも聞かず、半分放心したような状態で家を出て行ったといいます。
 その時、時刻はすでに午後九時を回っていました。
Aさんの家から職場までは、車でおよそ四十分の距離がありましたが、天候の急変に影響されたのか道には車の数が増えており、幹線道路に入ってからもAさんの車はなかなか思うように進みません。
Aさんは仕方なく、幹線道路から少々遠回りになることを覚悟で、空いている脇道を選びそちらに入って行きました。
車外にはたびたび閃光が走り、それにわずかに遅れて激しい雷鳴がとどろきます。雷雲の中心は迫っているようでした。
そうこうしているうちに、とうとう雨がばらばらと落ちてきて、やがて周囲は滝のような激しい降雨に見舞われたのです。
フロントガラスもリアウインドウも、滔々と流れ落ちる雨に視界が遮られてきました。ワイパーを全開にしても、雨はすぐその間隙を縫って叩きつけ、視野を消してしまいます。
脇道には、Aさんの車以外ほとんど他の車はありませんでした。
気が付くと、起伏のあるその道は土砂降りの雨で、ところどころ冠水していました。始めのうちは、ハンドルさばきで水たまりをよけながら進んでいたAさんの車も、だんだんとぬかるみにはまっていったのです。

  二

 その時Aさんの頭の中には、なぜかある過去の出来事が去来していました。
それは、今からどうしても行かなくてはならない仕事場で起こった、Aさんには忘れることのできないあるつらい出来事に関わっていました。

 発端は、一年ほど前のことでした。
Aさんは、仕事場の別の部署の男性を好きになったのです。
その男性は、年齢は三十台で高収入がありました。背が高くて体躯はすらっとしており、眉が濃くて鼻が高く、声はバリトンに響くという、およそ三拍子そろった好男子でした。
その男性ははじめAさんに対して何の関心も示さなかったようなのですが、Aさんの方からその人に猛アタックをかけ、とうとうその人が折れました。
 Aさんとて女性の中では背が高い方で、肌の色は白く細面で、長い黒髪がかぐわしい香りを放ついわゆる美人に属する容姿の持ち主でしたから、当該男性もAさんに折れる理由はあったのでしょうね。
 ところがその男性にはその時、付き合っていた女性がいました。だからその男性が、のっけからすぐにAさんの求愛に応じるはずはなかったのです。
Aさんの執念ともいえる接近がなかったら、その男性は付き合っていた女性と無事結婚していたことでしょう。
Aさんは、好きになった上司の男性と彼女との仲を裂こうと、あれこれと手を打ちました。その中には、卑怯な手段も含まれていたと言って過言ではありません。
その詳細をここですべて述べるつもりはありません。しかし、Aさんの父親が当該男性の職場の重役であったことが、男性の立場を動かしたことの一つの要因だったことは間違いありません。
Aさんの父親は、
「娘が君のことを気に入っているようだ。君も付き合っている人はいるようだが、一度娘ともデートくらいしてやってくれんかね」
 程度のことは言っていたに違いありません。
しかしたとえやんわりとした言い方であったにしても、職場の重役の言うことですから、男性もむげにはできなかったでしょう。
 ともあれ、そうしてAさんはターゲットの男性をものにしたのです。
 しかし男性の元彼女の存在が、Aさんにはどうしても目障りでなりませんでした。というのもその男性は、Aさんと婚約したのちにも元彼女とひそかに交際を続けていたらしいのです。
 そういった状況にとうとう堪忍袋の緒が切れたAさんは、ある晩男性の元彼女を強引に自分の車で連れ出しました。男性ときっぱり分かれてくれるよう、けりをつけるためです。
 意図的であったかどうかはわかりません。ですがAさんが話をつけるために選んだ場所は、埠頭でした。
そこは静かな喫茶店でもなく、自然に囲まれた山の中でもない。夜の埠頭はいかにも寂しく、三方は倉庫の巨大な壁に囲まれ、背面は黒い海でした。このようにそこは、相手から何かを言い寄られても逃れようのない場所でした。
 Aさんと男性の元彼女はそこで車を降りました。街の灯はそこまで届かずあたりは暗闇に支配されており、二人以外には人影も見あたりません。
そうして元彼女に男性と完全に縁を切るよう迫ったAさんと、もともとは自分と男性との恋愛関係の間柄に無理やり割り込んだのはAさんだと言い返す彼女との間で、激しい口論となりました。
口論は、ついにはつかみ合いの押し問答になり、とうとうAさんははずみで彼女を埠頭から海に突き落としてしまったのです。
「私は泳げないのよ、助けてちょうだい」
 と海中でもがく彼女を埠頭から見下ろしながら、Aさんは急に恐ろしくなって溺れる彼女をそのまま捨ておくと、車の運転席に駆け込んでエンジンをかけました。そして車を急発進させると、逃げるように埠頭から走り去ったのです。
 ハンドルを握るAさんの瞼からは、海藻のように長い髪を水中に漂わせながら右手をこちらに伸ばして必死に助けを求める彼女の恐ろしい形相が、焼き付いて離れませんでした。
彼女は青白い顔の真ん中に赤い口を張り裂けんばかりに大きく開け、魚眼のような飛び出た目でAさんをにらみ、
「助けて、助けて」
 と叫び続けていました。その声も、ザブン、ザブンと水の中でもがく音も、Aさんの頭から離れなくなりました。
しかしAさんは、決して埠頭に引き返すことはありませんでした。
「大変なことをしてしまった。怖い。でもあの女が死んでくれたら……」
 Aさんは必死にアクセルを踏み込み、ハンドルを切りました。

 彼女が溺死体として埠頭に近い海に浮いているところを埠頭の倉庫で働く人たちに発見されたのは、翌朝のことでした。
 警察は、彼女の死を事故、自殺、そして殺人の各方面から捜査しました。
しかし彼女が遺書を残しておらず、また現場からは殺人の証拠も発見できなかったことから、結局警察は彼女が誤って埠頭から海に転落しそのままおぼれ死んだという結論によって、この事件を収束させたのです。
 
  三

 思い出したくもないそんな恐ろしい自分の過去が、なぜかこんな時になって雷雨に閉じ込められた車の中で震えるAさんの胸の中に、耐えがたい腐臭のような嫌悪感をもって湧き上がってきたのです。
雨は弱まるどころか益々激しくなってきました。
Aさんの運転する赤い軽自動車は、タイヤの半分まで水につかりながら、ざぶざぶという音を立てて冠水した道路を何とか進んでいました。
ヘッドライトが映し出す前方の路面は、まるで川のように濁流が渦巻いています。なぜかさっきまでおぼろげながらに見えていた町の灯は、雨と闇に紛れて今はほとんど見えなくなっていました。
Aさんの車はまるで真夜中のあらしの海をのたくる難破船のように、流れ来る水にあらがえずしばらくそのあたりに彷徨っていました。 
 ところがふと気が付くと、多量の水が車体の前方からフロントガラスをざぶざぶ洗っています。あふれる水に隠れて見えなかったのですが、道が下り坂になっているようで、その下にたまった大量の水の中に、車が前方から沈み込んで行っているのです。
 慌てたAさんは、懸命にブレーキを踏みましたが、全く反応がないまま車は前方からみるみる水中に没して行きます。
そうして間もなく、エンジンが切れました。
こうなってはエンジンもブレーキも、水浸しになって全く役には立ちません。Aさんの車はもはや、水に漂うただの金属の箱にすぎませんでした。
 Aさんは恐怖でパニック状態になり、慌てて運転席のドアを開こうとしました。
しかし車のドアはまるで強力な接着剤で固定されたようにびくともしません。
「助けて、誰か来て」
 Aさんは必死でドアウインドウを叩きながら、張り裂けんばかりの声で助けを呼びました。
しかし外には雷鳴がとどろき、雨が激しく車を叩く音が絶えません。また周囲には人の姿も車の影すらも見当たりません。
これではAさんが閉じ込められた車の中でいくら叫んでも、誰かに聞きつけられる可能性はほぼゼロでした。
車は八割がた水中に没し、かろうじてゆらゆらと浮き漂っている状態です。ドアとリアウインドウはぴたりと閉じられたままで、中の惨状が外に届くはずもありません。
そうこうしているうちにも、車中には濁った水が浸入してきていました。Aさんの体は腰まで水につかり、座席シートは前後部とも背もたれの部分を残してすでに水没していました。
「助けて、誰かここから出して……」
 するとその時でした。
後部座席で、ザバッと何かが水の中から這い出てくるような音がしました。
 驚いたAさんが必死の形相でそちらを振り返ると、誰も乗っていないはずの運転席真後ろの座席あたりから、人間の形をした黒いものがずぶ濡れになって水中から盛り上がって出て来るではありませんか。
 その黒いものの頭の部分には丸く大きな二つの目があって、その濁った光がこちらを見ています。
その物の顔と思われる部分は、ほとんど濡れた長い黒髪に覆われていました。
しかしやがて顔にかかる髪を振り払い、改めてその物が自分の顔を露わにした時、Aさんの恐怖は頂点に達したのです。
それは、埠頭近くの海で溺死したはずの、あの女の顔だったのです。
左右の肩に広がったその女の黒髪の間から、突然二本の白い手が浮き上がり、それらがAさんの首に向かって突き出されました。
「ぎゃあ……」
 悲鳴を上げようとした瞬間、化け物の両手はしっかりとAさんの細い首をとらえました。そしてものすごい力で、運転席にいたAさんを後部座席に引きずり込んだのです。
 脱出しようとシートベルトを外していたのがいけませんでした。
Aさんの体はまるで人形のように軽々と宙を飛び、そのまま頭からあっという間に、後部座席に満たされた濁り水の中に沈められていきました。
もがくAさんの細い右手だけが、水中から突き出て二、三回空をつかみました。が、やがてそれはむなしく、ゴボゴボ……という音を立てながら、再び濁り水の中に没していきました。

  四

 妖音は話すのをやめ、霊華の様子を見やった。
霊華は視線を落として震えているようだ。その瞳はぎらつき、顔面は血流が止まったかのように蒼白かった。
そうしてしばしの沈黙ののち、ようやく霊華が口を開いた。
「埠頭近くの海で溺死したはずの女の人は、Aさんに対して恨み骨髄に達していたのですね」
 か細い声で霊華が発したその質問にも、妖音は黙ったままでその視線はじっと霊華の表情をとらえていた。
妖音から返答がないので、霊華は質問の矛先を変えた。
「でも、海で死んだはずの彼女の霊が、一体どうやってAさんの車の中に入って来られたのでしょう」
 霊華は、閉口したままの妖音にゆっくりと目を移した。するとようやく、妖音がそれに応えた。
「水よ」
「え?」
 尋ね返すと、なぜか妖音は口元にうっすらと笑みを見せた。
「水が女性の霊を運んだのよ」
「水が……?」
 なおも聞き返す霊華。だが妖音は、今度は答えなかった。答える代わりに彼女は、その視線を窓の方へと流した。
雨はもうだいぶ小降りになっている。
ガラスを伝って落ちてくる雨粒の速度が遅くなっている。稲光も、もうだいぶ遠のいたようだ。
「ところでさっきの救急車は何だったのかしら」
 そこで唐突に、妖音が思い出したような口調で話題を変えた。
「さあ……」
 霊華が何気なく返すと、妖音は急に眉間にしわを寄せ厳しい表情になった。
「薬局にも、何か要請があるかも」
 妖音のその言葉は当たった。
 しばらくしてから、調剤室の電話が鳴った。コール音のパターンが、外からではなく院内からの電話であることを示していた。
霊華が急いで調剤室に駆け込み受話器を取ると、救命救急センター看護師の峰村の声が聞こえてきた。
「もしもし……」
「はい、薬局です」
 霊華が応えると、峰村は早速要件を告げる。
「急患です。若い女性です。睡眠薬を多量に飲んでいて、リストカットでだいぶ出血もしているようです。フルマゼニルの処方を電子処方せんで送りますので、至急調剤お願いします」
 峰村はそれだけ言うと、霊華の返事も聞かずに電話を切った。
「自殺未遂ね」
 当直室に戻ると、妖音が言った。
(どうして分かったの) 
 霊華は心の中でつぶやいたが、言葉には出さず妖音を睨んだだけだった。
 間もなく院内回線を通じて、救命救急センターから電子メールが送られてきた。さっき峰村が電話で告げた、フルマゼニルの処方せんであった。
早速霊華がその調剤に取り掛かろうとすると、間髪を入れずに妖音が立ち上がって霊華の所作を封じた。
「私にやらせて」
 返事を待たず、妖音はプリントアウトされたその処方せんを霊華から奪い取るように手にすると、調剤室へ消えた。
(あの態度は何? やっぱりどこか変だわ、あの人……)
 霊華の胸はざわついた。

  五

 妖音の調剤手さばきは驚くほど速かった。
「さあ、これを救急救命センターまで持って行ってあげなさい」
 妖音に促され霊華はうなずくと、フルマゼニルの薬剤をプラスチック製の小さなかごに入れ、それをもって薬局を出ようとした。
するとちょうどそこへ、さっき院内回線で電子処方せんを送ってきた救命救急センター看護師の峰村が、薬局に入って来た。
 峰村は急いでいる様子であった。
「さっきの処方せんの調剤はもうできましたか。急を要するので取りに来ました。薬剤師さん、さっきの処方せんの……」
 大きな声で繰り返し呼びかけながら薬局に入って来た峰村は、そこで薬局から出て行こうとする霊華と、正面でばったり出会った。
 二人はしばしお互いを見合っていたが、そこでにわかに峰村の表情が変わって行った。両目は大きく見開かれ、開いた口を両手で隠すように押さえ、髪は逆立ち筋肉は震えている。そのあまりの変わりように、霊華も目を見張った。
「あ、あなたは……あなたは……」
 それだけ言ったかと思うと、峰村は小さな悲鳴を上げ、踵を返すとよろめき逃げるように薬局から走り出た。
「きゃあああ……」
 廊下の奥へと消えていく峰村の悲鳴を聞きながら、霊華はその場に呆然と立ち尽くしていた……

「何をしているの」
 後ろで咎めるような声がした。
「廊下で誰かの悲鳴がしたようだったけど……」
妖音は、突っ立ったままの霊華を睨んだ。
だが放心状態の霊華を見てらちが明かないと思ったのか、彼女からフルマゼニル剤の入ったかごをひったくるように取り上げ、何か言おうとした。
 だが、妖音は結局そのまま何も言わず、峰村看護師の後を追うように急いで薬局を出て行った。

 時計の針は午前二時を回っていた。
薬局の内部はほとんど明かりが消え、非常口の方向を示す指示板だけが妙に明るい緑色のロゴを映し出していた。
 一方救命救急センターでは、その日当直の木村漣医師が必死の形相で、救急車で運び込まれた若い女性の急患の治療に当たっていた。
「峰村君はまだ薬局から戻らないのか」
 木村は、傍らで甲斐がいしく動く若崎看護師に、怒気をはらむ口調で訊いた。
「まだの様ですね」
 若崎は、自分事のように申し訳なさそうに返答した。するとちょうどそこへ、薬局から女性の薬剤師が薬剤を運んできた。
「フルマゼニルの注射薬です」
 女性薬剤師は救命救急センターの薄暗い入り口から顔だけのぞかせてから、ドアの横のカウンターに薬剤の入ったかごを置いた。
「やっと来たか」
 木村医師が振り返った時には薬剤師の姿はすでになく、そこには薬剤が入った平らな箱型のプラスチック製かごだけが残されていた。
若崎看護師が急いでそれを取りに行く。若崎はかごの中から薬剤を取り出して木村医師に手渡した。
 救命救急センターの簡易ベッドの上に寝かされた若い女性患者は、意識がなく眠り続けていた。その手には点滴管が刺さり、ベッド脇には血圧、呼吸数、心電図などを常時知らせるモニターの電子画像が忙しく動いていた。
 木村医師は、すぐさま患者の点滴液の中にフルマゼニル注射薬を投入した。
「この人は多量のバルビツール酸系睡眠薬を飲んでいたようだ。胃洗浄をしてバルビツール酸拮抗薬のフルマゼニルを投与したので、後は運を天に任せるのみだ」
 木村が誰彼にともなくつぶやくと、若崎が涙声になって返答した。
「まだお若いのに、どうしてこんなことに……。何とか助かるといいのですが」
 その言葉に、木村は振り返って若崎の顔を見た。
「君もこの人を知っているんだね」
 木村が訪ねると、若崎はうつむいていた顔を上げ、そして震える声で言った。
「もちろんです。この方は私の病棟にも、時々薬剤を運んでくれましたから。この患者さんは、当院の薬局薬剤師の谷仲霊華さんですよね」




終 章


  一

 木村先生と若崎看護師の懸命の治療・介護によって、こうして私、谷仲霊華は一命をとりとめました。
しかしそれを私が望んでいたわけではありません。
というより、私は死ぬために、アパートの自室でバルビツール酸系睡眠薬であるペントバルビタールを五十錠ほど飲みました。それから、水を一杯に張った浴槽の中に左腕を沈めると、安全剃刀を使って水中でリストカットしたのです。
間もなく意識はもうろうとし、浴槽の水が真っ赤に変わっていくのをおぼろげながらに見やりながら、私はその水の中に幻を見ました。
否、それは幻でもなんでもなく現実のあの人の姿だったのかもしれません。
そう。それは妖音さんです。
妖音さんは赤く染まった浴槽の水の中で、長い黒髪をゆらゆらさせながら大きな魚のようにえぐれた両目を見開き、私を見ていました。
どこからともなく現れたその妖音さんの幽霊を、私はおぼろげながらの意識の中にぼんやりと眺めていました。
妖音さんに会ったのはその時が初めてでしたが、その幽霊はなぜか幼い時からの友達のような親近感を覚える存在に映ったのです。
そうして、水の中に漂う妖音さんの怪しい姿に見とれながら、やがて私は意識を失いました。
そのあと私の体にいったい何が起こったのか、私はあまりよく認識していません。ですが、それからふと気が付いてみると、私は夜の街を彷徨っていました。
私の足は動いていないのに、私は地面のすぐ上をすべるように移動することができました。音のない世界の中で、私と行き交う人々は私の体をすり抜けるようにして歩き去って行きます。
見ると、自分の手や体が透けています。浴室でリストカットをしたはずなのに、左手首からの出血は見られません。
私の体からは重力がなくなり、私はふわふわと空中をさまよっているみたいでした。私は今、私の魂だけが自分の体から抜け出て、街をお散歩しているのかもしれない。そんな風に思いました。
その晩、病院の夜勤の交代で入る予定の看護師の西之城さんが、車の運転席から柳町通りの信号のあたりをふらふら歩いている私を見ていました。西之城さんの目には、私の姿が見えたのでしょうか。
西之城さんは、ゆっくりと車を運転しながら横目でじっと私を見やっていたのですが、なぜかその時私はあまり見られてはいけないと思い、路地裏に隠れるように消えたのです。
でもその時水野病院の看護師である西之城さんの姿を見た私は、急に薬剤師としての自分の使命を思い起こしたのです。
「薬局に戻らなくては」
 私の生霊は、地面すれすれのところをすべるように飛んで、あっという間に水野病院にたどり着きました。
病院の入り口あたりで沼尾薬局長に会ったのですが、なぜか沼尾さんは私の気配に気づきませんでした。きっと、私の生霊の存在を強く感じてくれる人とそうでない人がいるのでしょうね。
 その点、妖音さんは私という生霊の姿をはっきりと認めてくれました。
もっとも彼女は死霊だったのですから、そんな不思議な力があったのも納得のいくことだったのかも知れません。
私の自殺を病院に連絡したのは妖音さんでした。
その晩、救命救急センターに詰めていた峰村看護師が電話を取った時、妖音さんは電話口でこう言ったそうです。
「私は杉崎妖音というものですが、水野病院の薬局の薬剤師である谷仲霊華さんが、自宅のアパートで自殺を図りました。谷仲霊華さんはまだ息がありますが、一刻を争います。すぐに救急車を出して、谷仲さんのアパートに駆けつけてください」
 峰村看護師が、通報者である妖音さんの住所や連絡先などを問うたそうですが、妖音さんは何も答えず電話を切ったということです。
妖音さんの幽霊は、その電話ののちすぐに水野病院の薬局を訪れたのです。そこへ私が―私の生霊が― 夜勤に就くため、薬局に入ったというわけです。その時妖音さんは、そのことについて私には何も言いませんでしたけれど。
 私と妖音さんは、夜勤の間仕事が手持無沙汰になる時間を使って、交代で自分たちの知っている怪談を語り合いました。まるで百物語でも始めるかのように……。
妖音さんの話はどれもとても恐ろしいものでしたが、その三つの話には共通しているところがありました。
霧に沈む沼に潜む怨霊の話、夜の学校のプールに現れる溺れかかった女の話、そして嵐の夜車を走らせた女性が水たまりの深みにはまり後部座先に現れた女の怨霊に溺死させられる話。
一方私が妖音さんに話してあげた物語も、病院の水回りに起こる怪異や、幼い妹を溺死で失った女性が水を怖がる話で、どちらも水に係る怪談話でした。
そして後になってから、私は気づいたのです。
妖音さんの話と私の話に出てくる幽霊には、共通点が見られると。
そう。その怨霊は、どれもみな濡れた長い黒髪を持ち魚のような大きな目をして、自分と同じような容姿をした別の若い女性を水の中に引きずり込んで溺死させる、ある恨みを抱いた女の怨霊だったのです。
今では私は、それが妖音さんその人であると信じて疑いません。
妖音さんの怨霊は、その恨みの激しさに、長い髪の若い女性を見ると見境なく水の中に引きずり込んで溺死させようとしていました。
妖音さんは木村医師の元彼女で、Aさんからひどい仕打ちを受けました。
Aさんは木村医師に無理矢理自分との婚約を承知させ、木村先生の元彼女であった妖音さんから木村医師を奪ったばかりでなく、妖音さんを港の埠頭から海に突き落として溺死させたのです。
だから妖音さんは、怒り狂う怨霊となって、Aさんへの復讐を果たそうとした。そう、もうお分かりですよね。
Aさんとは、水野病院薬局薬剤師の圓魂緒さんのことです。

  二

ところが妖音さんの怨霊の怒りはそれは激しいものでしたから、先ほども述べましたように圓魂緒さんのような容姿を持つ女性を見ると、妖音さんにはどの人もみな圓さんに見えて水の中に引きずり込もうとしたのです。
妖音さんは、水があるところならどこにでも姿を現すことができました。私が浴室で自殺しようとしたとき妖音さんが私の前に現れたのもそのためです。
でもその時妖音さんは、私が髪の長い女であることから一度は私を水の中に引きずり込んで溺死させようとしたものの、多分私に同情の気持ちを起こしたのではないでしょうか。なぜって、私も妖音さんと同じように、圓魂緒さんに薬局でひどい目に遭った女の一人なのですから。
 圓さんは、木村先生が妖音さんばかりでなく私にも想いを寄せていると勘違いして、私に横恋慕しました。そうして圓さんは、私にジゴキシン散剤の調剤過誤の濡れ衣を着せて薬局から私を追い出そうとしたのです。
そうとは知らない私は、自分の過失の大きさに慄き、調剤過誤で死なせてしまった患児への申し訳なさから、アパートの自室で自殺を図ったのです。
 私が重大な調剤過誤をしてしまったあの日、薬局で圓さんは強心薬であるジゴキシンの二種類の散剤をこっそり入れ替えて、私に間違いを犯させたのです。
あの日循環器内科の病棟に出ていた圓さんは、院内からジゴキシンの処方を指示する処方せんが回ってくることを知っていました。そしてその調剤を私にさせるよう仕組んだのです。
 圓さんは、あらかじめジゴキシンの千倍散と一万倍散のラベルを入れ替えておきました。本来は一万倍散の方を使って調剤すべきところ、こうして私は千倍散の方でジゴキシンの調剤をしてしまったのです。でもラベルがそうなっていたのですから、取り違えるのは当たり前だったのです。
 私が調剤し終わって、それを持って循環器内科の病棟に薬剤を持って行っている間に、圓さんはジゴキシンの二種類の散剤のラベルをまた元の通りに戻しておいたのです。こうして私が調剤したジゴキシンを服用した患児は亡くなってしまいました。
 はじめ私は我を疑いました。
でも結局は自分のせいで患者さんが亡くなったのだと信じ込まされ、とうとう私は自殺まで実行したのです。
しかしそれを救ってくれたのが妖音さんでした。私にとって妖音さんは、命の恩人だったのです。
 木村先生にも、私は感謝しなくてはなりません。
自殺を図った私を何とかして助けようと、木村先生は精魂尽き果てるがごとく全力で私の治療に当たって下さったそうです。
 まるで三途の川を渡っていく恋人をこちらに連れ戻そうとするがごとく、それはそれは篤い治療だったと、そばで見ていた看護師の若崎さんが熱く語っていました。
死の淵から這い上がり、その様子をベッドの上で聞かされていた私自身も、その話には頬を赤く染めてしまうくらいでした。
 妖音さん。あなたはそのことを知って、今度は私に対して嫉妬心を燃やし始めたのね。
でも、そうして異様な形で育ってきたあなたの愛は、決して実ることはないのです。それはあなたには気の毒なことだけれど、仕方のないことなのです。
私は木村先生と同じこの世の人間として生まれ変わったのに、あなたは相変わらずあの世の人なのですから。

  三

 薬局で妖音さんと過ごしたあの怪しい晩の翌朝、病院の薬局は大騒ぎになっていました。何しろ、薬局当直だったはずの私が自殺未遂で病棟に入院し、その薬局には薬剤師はおろか病院の人は誰もいなかったのですから。
 翌朝から薬局業務を私と交代するはずだった薬局長の沼尾さんが薬局に行ってみると ―沼尾さんはいつも朝一番に薬局に出勤するんです― 私の姿が見えず、沼尾さんは私の所在を探すべく院内に電話をかけまくったそうです。そうしてやっと沼尾さんは、私が入院していたことを知りました。
 しかし沼尾さんを驚かせたのはそのことばかりではありませんでした。いいえ、むしろ彼の本当の驚愕は別にあったのです。
沼尾さんは薬局内の様子がいつもと違うことに気づきました。
床や調剤台や机の上などあちこちに水がこぼれたような跡があったのです。それは、誰かが薬局中を水浸しにしようといたずらをしたのではないか、と思うくらいでした。
もしかしたら昨夜の雷雨で天井から水漏れがしたのかといぶかってはみても、天井は全く濡れていないのです。
そうして薬局内を総点検するために、沼尾さんが当直室の奥にあるシャワー室に入ろうとしたときでした。
シャワー室床のカーテンの隙間から、靴を履いたままの女性の足が二本出ていたのです。驚いた沼尾さんは、ためらいながらもカーテンを開きました。するとそこに、ひとりの女性が倒れていたのです。
女性は服を着たままでしたが、全身びしょぬれで、その長い黒髪はもつれた海藻のように水を吸って女性の顔にまとわりついていました。
さらに驚くべきことに、沼尾さんがその女性の顔をよく見ると、それは沼尾さんがよく知っている女性でした。
そう、それは薬局の薬剤師 圓 魂緒さんだったのです。
倒れている圓さんのわきにかがみこみ、沼尾さんは必死に圓さんの名を呼んでその肩を揺すったそうです。しかしその時圓さんは、すでに冷たくなっていました。
そしてなぜか圓さんは、溺死していたのです。
後になってその話を沼尾さんから聞いたとき、私は恐ろしさのあまり体中が震え、口は固まって何も言葉が出ませんでした。沼尾さんは、警察に連絡した後、私に対して何か心当たりはないか執拗に問うてきました。
それから警察は死体を司法解剖し、また薬局内の現場検証をくまなく行ったそうです。しかしなぜ圓さんの溺死体が薬局のシャワー室に転がっていたのか、そしてその死体はいつからシャワー室にあったのか、結局は誰にもわかりませんでした。
警察は、沼尾さんのことをまるで犯罪者扱いし、数時間にわたって彼から事情聴取を行ったそうです。でも結局圓さんの死亡推定時間における沼尾さんのアリバイが成立して、沼尾さんの疑いは晴れました。
私も警察から、随分しつこく事情を聴かれました。
警察ははじめ私を疑っていたのかもしれません。でも圓さんの死亡推定時間が、私が自殺を図って昏睡状態となり、その後水野病院に搬送された時間帯とほぼ重複していたため、私のアリバイも確認されて容疑は晴れたようです。
しかし私は誰が圓さんを殺したのかを知っています。
その正体は……
そう。それは妖音さんの怨霊です。
木村先生が病院で倒れたとうその電話を入れて雷雨の中に圓さんを引っ張り出し、川のようになった溝に沈んだ車の中で圓さんを溺死させたのは妖音さんです。
でもそんなことを警察に言っても、私が睡眠薬を多量に服用して神経がおかしくなったとしか警察は思わないに違いありません。
私は口を閉ざしました。それと同時に、何とか妖音さんの魂を鎮め、妖音さんに安らかに眠ってもらおうと思い立ちました。

こうして私は、両手に花束を抱え妖音さんが圓さんに突き落とされて溺れ死んだ、あの埠頭に行ってみたのです。
 それは寒く、太陽が傾きかけた初春の日のことでした。
あたりには人影もなく、ただ埠頭の岸壁に打ち付ける波と吹き付ける冷たい風の音だけが、私の耳を支配していました。
 足元に波立つ黒い海をじっと見降ろしながら、私は鮮やかな色とりどりの花束をそこへ投げ入れました。
 するとその時でした。
 足元の波打ち際に近い水の中が妙に泡立ちはじめ、ゆらゆらと揺らめく形の定まらない物体が、にわかに水中から浮き上がってきました。
「何?」と思う間もなく、おぞましいものがザバと音を立てて水面から飛び出て、いきなり水上に伸びあがってきたのです。
「妖音さん!」
 顔にべっとり張り付いた長い黒髪、魚のように大きく見開かれた両目、そしてぱっくりと開けた赤い口……
でもそれは一瞬のこと。
 その妖体は、あっという間に私の足首を捕まえると、そのままものすごい力で私を海の中へ引きずり込んでいきました。
 真っ黒い海の、底へ、底へと……

(了)

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