時間だ

睦良 信彦

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時間だ

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 その夜、空はにわかにかき曇り、不意に大粒の雨がパラパラと音を立てて落下してきたかと思うと、あっという間に激しい雷雨となった。

 街灯の少ない長い一本道を、傘をさした男が一人、ゆっくりと歩いて来る。

 襲いかかる土砂降りの雨が、傘をたたきあるいは路面に跳ね返って、男の襟や足元を濡らす。時折闇を切り開く閃光にしばし間合いを置いて、地震と見紛うような音響が炸裂する。

 しかし男の所作には少しの動揺もない。水たまりを避けながらも男は進行方向を真直ぐ見据え、同じ歩調で一本道を進んで行く。

 まだ若い。二十歳前後か。

 スーツにきちんとネクタイを締め、髪は油を使ってきれいに七・三に分けている。鋭い眉に精悍さが宿る。

 腕時計をちらと見て時刻を確認したが、男はなおもしっかりとした歩調で歩き続けた。

     2

 百メートルほど先に公園がある。雨に視界を遮られてはいたが、男はその公園の小さな屋根付きベンチの脇に、一つの白い人影があることに気付いた。

 辺りは普段から人の姿もまばらで、その時間帯には他に車も通行人も見当たらなかった。

 二十メートルほどまでの距離に近づくと、男にはその人影が若い女であることを認識できた。

 こちらに背を向け、びしょ濡れのからだから水を払っている。傘は持っていないようだ。

 思いがけぬ大雨に遭い、どうすることもできずこの心もとない避難所に逃げ込んだのであろう。

 それでも今雨は、容赦なくベンチの周囲をたたきつけていた。

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 突然雷光が広がった。その瞬間、女の白い横顔が男の目に映った。

 美しい。濃い眉、見開かれた瞳、程よく隆起した鼻、幼くも熟れた果実を思わせる唇。  

 男はもう、すぐ女の後ろまで来ていた。

 再びの雷鳴が耳をつんざく。

 声を掛けようか迷ったあげく、地響きの鳴り止むのを待ってから男はようやく言葉を口にした。

「どうしましたか……」

 しかし女はそれに気付かず、向こうを向いたまま濡れた髪を両手で梳くのに余念がない。なおも雨は周囲に激しく吹き付ける。

 男は、今度は女の横顔が見える位置にまで近寄り、さっきよりやや大きな声で繰り返した。

「どうしましたか?傘はないのですか」

 女は瞬間身体を震わせ、男を凝視した。

 表情は強張り、はだけた胸をかばう両腕は凍りついている。

 見ると、ぐっしょり濡れた白いブラウスと薄い生地の紺の長めのスカートが、均整のとれた女の姿態をぴったりと表出し、怯える目がかえって女としての危険な妖しさを醸し出していた。

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「……突然降られました……。あいにくと雨具の持ち合わせがなくて……」

 女は、つとめて平静を保っている様子で応えた。瞬きひとつない眼光から、恐怖にも近い感情が窺える。

 しかし女の硬さとは裏腹に、落ち着いた男の表情には、うっすらと笑みさえあった。

 やがて男は優しく言った。

「あなたはもしや、僕がここで理性を失うのではないかと、内心心配されているのではないですか?

 ……しかしそれはあなたの思い過ごしです。

 さ、どうぞこの傘をお持ちください。それから、そんなに濡れていては風邪をひく。この上着を着て下さい。」

 そう言うと、男は女に持っていた傘を差し出し、そしてスーツの上着を脱ぎ始めた。

「でもそれではあなたが……」

 意外な申し出に女が戸惑っていると、男は開いたままの傘を女の手に持たせ、そして上着を背中から女の両肩に羽織らせてやった。

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「……あ、でもやっぱり……」

 なおもそう躊躇している女を制すると、男は女から一歩退いて言った。

「もう僕には必要ありません」

「え、なぜですか?」

 しかし男はそれには応えず、肩口にはじける雨滴に目をしばたたかせながら、静かにほほ笑んだ。

「あなたにここで偶然出会えたことを、本当に良かったと思っています」

 男は女にそう告げると、腕時計を見た。

 そして男は名残り惜しそうにもう一度女の目を見つめると、やおら踵を返し、来た道をこれまでと同じ進行方向に走り出した。

 雨に煙る男の後ろ姿に一瞬昼のような光明がふりそそぎ、それをひときわ大きな雷鳴が追う。

 男はみるみるスピードを上げ、一本道が突き当たる坂の上で止まった。

 そして靴を揃えて脱ぐと、パッと向こうに飛び込んだ。

 その瞬間、あたりを鋭い女の悲鳴がつんざき、傘がばさりと落ちた。

 列車は轟々という音を立てて瞬く間に女の視界を通り過ぎたが、そこにはまだ湯気の出ている肉片がころがっていた。


(了)  

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